小澤征爾物語 シリーズ‐12‐ 1963年

小澤征爾物語 シリーズ-12‐1963年演奏会記録

1963年(昭和38年)28歳

【楽歴】

小澤征爾物語 シリーズ-2 トピックス

【活動記録】
・1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>で日本フィルを指揮
開催発起人には、浅利慶太・石原慎太郎・一柳慧・井上靖・大江健三郎・武満徹・團伊玖磨・中島健蔵・黛敏郎・三島由紀夫等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。
征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
1月16日の朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を掲載し注目を集めた
1月17日に音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
さらに「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」と語っている。
次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。征爾は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している。
・渡米
・4月サンフランシスコ交響楽団ジョセフ・クリ
ップス の代役指揮を果たし成功を収めた
・7月コロンビア・アーティスト・マネジメント
とマネジメント契約
・7月7日アメリカのTV番組「What’s My Line?」出演した。4人のパネリストがゲストの職業や有名人の場合は名前を当てる人気のゲーム番組「What’s My Line?」で、小澤征爾がボードの前に立った。通常、パネリストは有名人の名前を当てる際は目隠しをする。しかし、征爾のパネリストは目隠しをしていなかった。その時点ではまだ、征爾は比較的無名だと考えられていたようだ。
アメリカの最も著名な舞台のいくつかで指揮をし、カラヤンやバーンスタインのような巨匠に師事していたにもかかわらず、この認識の欠如は起った。征爾は25歳の若さで、現在のタングルウッド音楽センターで優秀な学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞し、その1年後の1961年にカーネギーホールでアメリカでの指揮者としてデビューした。
パネリストには、ピーター、ポール&マリーやウディ・アレン等が並んで質問を英語でし、征爾は通訳なしで受け答えをしなければならず、時々詰まったときは司会者がアドバイスをした
・7月9-10日ニューヨーク・フィルとの初の単独公演を指揮
・7月16,18日〈ラヴィニア音楽祭〉に急遽出演し、シカゴ交響楽団を指揮
シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭指揮者ジョルジュ・プレートルの急遽代役を依頼され、2公演の指揮で成功を収めた
急病のジョルジュ・プレートルの代役として、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭で直前に2公演の指揮出演を依頼され成功を収めた。2か月後には翌1964年の同音楽祭の音楽監督に任命された。これを機に1970年以降はラヴィニア音楽祭を中心に、オーケストラ・ホールも含めてシカゴ交響楽団に複数回客演した。
・半年ほどたった7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽会長のアール・ラドキンがいた。
ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。
「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルジャークの「新世界より」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
ラヴィニアで何とか無事2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。
「君にこの音楽祭をあげよう」。そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。ともあれ僕は翌1964年6月から、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任することになった。』
この演奏会を聴いたシカゴ・トリビューンのトーマス・ウィリス は、小澤について『指揮棒と音楽のアイデアを手にすると、すぐに指揮者を操る。彼の指揮テクニックは、透明な身振りと人間的なコミュニケーションで楽譜をオーケストラの膝の上に置き、受け入れさせるという点で、師であるヘルベルト・フォン・カラヤンを彷彿とさせる』と評した。
わずか1か月後、1959年以来音楽監督を務めてきたワルター・ヘンドルの後任として、小澤が1964年シーズンからラヴィニア音楽祭の初代音楽監督兼常任指揮者となることが発表された。1964年6月16日の音楽監督としての初コンサートで、小澤はオーケストラを指揮してベートーヴェンの「 エグモント 序曲」、ジョン・ブラウニングとの共演によるバーバーのピアノ協奏曲、ベルリオーズの 幻想交響曲を指揮する。
・8月16日〈ボストン交響楽団客演指揮デビュー〉
・7月9日ニューヨーク・フィル初の指揮単独公演
・8月29‐9月22日日<ニューヨーク・フィル米国内ツアー>帯同しニューヨーク・フィルを指揮

・帰国
・翌年6月からボストン交響楽団ラヴィニア音楽
祭音楽監督に任命される
・10月東京・日生劇場こけら落としのベルリン
ドイツ・オペラの《フィデリオ》公演でカール
・ベームの副指揮者を務めた
・11月ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団を指揮

【演奏会記録】
1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>
ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》
シューベルト《交響曲第7番》「未完成」
チャイコフスキー《交響曲第5番》
アンコール曲は2曲
①ドビュッシー《月の光》
➁ベルリオーズ《ラコッツィ行進曲》
小澤征爾 日本フィル
日比谷公会堂

・1月渡米
・コロンビア・アーティスト・マネジメントとマネジメント契約。
『N響とのトラブルの後、ニューヨークに戻った僕は契約したばかりのマネージャー、ロナルド・ウィルフォードにきっぱり言った。「オレ、もう日本になんか帰らないよ」

4月24,25,26日
サンフランシスコ交響楽団で開催されるコンサートシリーズで、ジョセフ・クリップスの代役を務め成功を収めた

7月7日ゲーム番組「What’s My Line?」に出演

7月9日
ニューヨーク・フィルとの初の単独公演
バーンスタイン《キャンディード》序曲
サン=サーンス《ピアノ協奏曲第ニ番》
アンドレ・ワッツ(ピアノ)
ベルリオーズ《幻想交響曲》
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
ルイソーン・スタジアム、マンハッタン、ニューヨーク
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7月10日<ニューヨーク・フィル公演>
ボロディン《交響曲第ニ番》
プロコフィエフ《ロメオとジュリエット》(抜粋1-5)
チャイコフスキー《交響曲第四番》
小澤征爾 ニューヨーク・フィルハーモニック

7月16日〈ラヴィニア音楽祭〉
ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第三番
グリーグ《ピアノ協奏曲》
バイロン・ジャニス(ピアノ)
ドヴォルザーク《交響曲第9番》「新世界より」
小澤征爾 シカゴ交響楽団を指揮

7月18日〈ラヴィニア音楽祭〉
ロッシーニ《セビリアの理髪師》序曲
チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》
クリスティアン・フェラス(ヴァイオリン)
ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》
武満徹《弦楽のためのレクイエム》米国初演
プロコフィエフ《ロメオとジ​​ュリエット》より
小澤征爾 シカゴ交響楽団を指揮
・急遽のラヴィニア音楽祭デビュー出演となったが演奏会は成功を収めた。
8月16日〈ボストン交響楽団客演指揮デビュー〉
ビゼー《交響曲ハ長調》
ヒンデミット《画家マティス》
ムソルグスキー《展覧会の絵》
タングルウッド
1965年、1966年、1967年の夏季シーズンに再出演

8月29日<ニューヨーク・フィル公演(ツアー)>
リスト《ピアノ協奏曲第一番》等を指揮
ハリウッド・ボウル、ハリウッド
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8月29日日<ニューヨーク・フィル公演>
リスト《ピアノ協奏曲第一番》
アンドレ・ワッツ(ピアノ)
小澤征爾 ニューヨーク・フィル
(ツアー) ハリウッド・ボウル、ハリウッド
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9月5日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
オーディトリアム・アリーナ、デンバー
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9月6日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
テンプル オブ ミュージック、ミルウォーキー
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9月8日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
リスト《ピアノ協奏曲 第一番》を指揮
オペラハウス、シカゴ
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9月8日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲等を指揮
オペラハウス、シカゴ
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9月12日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮
フリーメーソン オーディトリアム、デトロイト
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9月15日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮
シビック・アリーナ、ピッツバーグ
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9月16日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
シューマン《交響曲第三番》を指揮
アカデミー・オブ・ミュージック、フィラデルフィア
1963 Sep 16 / Tour / Bernstein Schuman / Symphony No. 3 Ozawa, Seiji
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9月19日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ドビュッシー:管弦楽のための映像より《イベリア》
チャイコフスキー:幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》を指揮
ラジャ・シアター、レディング、ペンシルベニア州
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9月20日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
ストラヴィンスキー《火の鳥》組曲を指揮
シビック センター、ボルチモア、メリーランド州
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9月22日<ニューヨーク・フィル国内ツアー>
リスト《ピアノ協奏曲 第一番》変ホ長調を指揮
コンスティテューション・ホール、ワシントン DC
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・帰国

10月東京・日生劇場のこけら落としのベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》公演でカール・ベームの副指揮者を務めた。

11月18日  
武満徹《弦楽のためのレクイエム》
ビゼー《交響曲第一番》ハ長調
ブラームス《交響曲第ニ番》ニ長調
小澤征爾 ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団
日生劇場 

『』小澤征爾 「私の履歴書」より要約

↓What’s My Lline? – Seiji Ozawa (July 7, 1963, tv show)
パネリスト/ピーター、ポール&マリー、ウディ・アレン