1958年渡仏~N響事件まで(1958-1963)

1958年渡仏/ブザンソン指揮者コンクールからN響事件まで

1958年(昭和33年)23歳 渡欧準備
・桐朋学園オーケストラがブリュッセルの万博博覧会青少年音楽コンクール参加する話が持ち上がったが、これは資金不足で断念する羽目になった。
その時、小澤は堅い決意をした。
・私費留学、オーケストラの参加がだめなら、せめて自分一人だけでもヨーロッパに行こうと。その頃から単身渡欧することを計画していた。多少の金さえ持っていれば、あとはスクーターでも宣伝しながら行けば、自分一人ぐらいの資金は捻出できるのではないかと思うようになった。
・「フランス政府給費留学生」の試験を受けた。小澤と桐朋オーケストラのフルートで小澤の弟分の加藤怒彦が最終審査に残った。結局、語学ができて優秀な加藤が受かりパリ国立音楽院に留学が決まった。小澤が不合格となった。
・桐朋恒例の北軽井沢での夏合宿の後、小澤は軽井沢駅待合室で成城の同級生水野ルミ子にばったり会った。『征爾、何落ち込んだ顔してるの』という。小澤は外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明した。ルミ子は『うちの父に話してみる?』という。ルミ子の父は水野成夫氏で文化放送やフジテレビの社長だった。その足でルミ子の別荘へ行き、水野に会う。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めてだった。小澤の話を聞いて『本気なんだな?』と小澤に念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先で重役の友田信氏が資金を用意してくれたが、確か50万円だった。
桐朋の同期江戸京子の父で三井不動産社長江戸英雄氏にも随分と助けられた。小澤の父が川崎で歯医者を始め家を建てたから桐朋に通うのが大変だった。江戸はそれを知り、下落合の自宅に征爾を寝泊りできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。
桐朋の音楽科は江戸や生江義男先生たちと協力して設立したのだった。その江戸氏が話をつけて、日興証券会長の遠山元一氏からも資金を援助してもらえた。
↓ 小澤征爾物語-8-1958-1959
渡欧準備‐ブザンソン指揮者コンクール優勝

1959年(昭和34年)24歳 
・正月、成城時代の合唱の仲間と信州野沢へスキーに行き四日目に崖から墜落して腰を打ってしまった。その晩から高い熱を出し大変な目にあったがわが家に着くころにはなおっていた。
・家に帰ると前から方々に頼んであったヨーロッパ行きのチャンスが来ていた。江戸氏の手配でフランス行きの貨物船に安く載せてくれるという話だった。小澤はフランスではスクーターで移動することを思いつき、江戸氏の家によく出入りしていた後の彫刻家藤江隆氏と毎日新聞記者木村氏と手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はなかった。結局、父の満洲時代の同志で富士重工業の松尾清秀氏がラビットジュニアスクーター125㏄新型スクーターを用意してくれた。
・小澤は富士重工の工場でスクーターの分解法や修理法を習った。
<神戸から貨物船淡路山丸でフランスへ出立>
・出航は1959年2月1日に決まった。スクーターは横浜で貨物船に預け、神戸から乗船することにした。
・出発の前日、家族で水入らずの送別会をやってくれ、父は大まじめな顔で「水杯だ」と言い、二人で酒を飲み交わした。
・出発の夜、東京駅に大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんな、成城のラクビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。その時、夜のホームの向こうから斉藤秀雄先生がトボトボ歩いてきて、コートのポケットから『これ、使えよ』と分厚い封筒を出してきた。あとで確かめたら1000ドルちかく入っていた。征爾には何より来てくれたことが有難く感じた。俊夫兄と三等寝台にに乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
・2月1日三井船舶の貨物船「淡路丸」の甲板にスクーターを縛りつけ、ギターとともに神戸港から乗船し出港、マルセーユに向かった。見送りは明石にいる友人とその母、仙台から来た兄貴の三人だった。ヨーロッパに着くまで約二ヶ月、六十三日かかる気の長い旅の出発であった。
旅程:マニラ-シンガポール-ボンペイ- ポートスーダン-アレキサンドリア-メッシ-マルセイユ
神戸を発って四日目フィリピン諸島の港を回った。
<小澤がマニラから投函した船旅の手紙>
・『~略~一日の生活をザッと書く。六時に起床し体操。出港後ひまなときに教えてもらったコンパスを使って船の位置を確かめる。八時食事、トースト、ハムエッグ、コーヒー、果物。10時ごろからフランス語やスクーターの勉強。昼食はフルコースの洋食だ、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、パン、コーヒー、ミルク、アイスクリーム、果物、これだけは必ず出る。昼食後はサロンでお喋り、それから昼寝。三時ごろからマラソン、縄跳び、ゴルフだ。夕方はたいてい機関室か通信室かブリッジで専門的「船学」の個人教授を受ける。五時夕食、今度は日本食だ初めのうちはメシ、メシ、メシで困ったが、だいぶ慣れてきた。夜はレコードを聴いたり、甲板の上を散歩したり、お喋りしたりする。ヴァイオリンやコーラスを教えることもある。寝る前には必ず風呂に入り、九時と十時の間にはベッドに入る。ボーイは何でも好きな物を食わしてくれるしビールもただだ。マニラに着いたとき寒暖計を見たら三十八度あるのに驚いた。暑いはずだ。夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなってくる。この辺は激戦地だったそうだ。』
・シンガポールに三日停泊。
<ボンベイからの手紙>
・2月28日インドのボンベイに入港。
『ボンベイに入港したよ。みんな元気?。今夜演奏会がある。会場のTAJホテルに行き、「ヤァー」といって、いつものように正面入口から堂々とロハ入場した。向こうは少しもいぶかしそうな顔をしなかったぜ。街を行くのはタクシーに乗るのが定石らしいが、ボクはわざと電車とバスで街をひと回りした。その方がその国の生活ぶりがわかっておもしろい、値段も七円ぐらいでまことに安い。』。
・3月10日アフリカのポートスーダンに寄港した。
『ぼくは街をゆっくり散歩し、そのたびに英語はうまくなるし、物知りにもなる』。スエズでは上陸できなかった。
・3月12日アレキサンドリア。手紙を書き投函。
『みんな元気?おやじさんは相変わらず忙しいでしょう?。~略~船の風呂は海水に湯気(多分蒸気)を吹きこんで沸かすのだが、五分くらいで沸く。毎日海水をとりかえるから、ボクは太平洋、インド洋、紅海、地中海の風呂に入ったわけだ。~略~スクーターの勉強も進んだが、英語のほうもなかなか捨てたものではない。フランス語は単語カードを作った。ボクの部屋は皆の溜まり場になっている。夜になるとアミダクジを引き、ビールを飲む。もっともボクはビールも菓子も、つまみも、ブドー酒もクリーニング代もただだ。ただでないのは手紙代くらいだよ。マルセイユで日本円をフランに換えてもらえるように、船長が特別に手配してくれた。以下略。』
・3月15日イタリアの南端、シシリー島のメッシへ。

<フランス マルセイユに着、パリへ>
・3月23日マルセイユに上陸 三か月間は旅行者扱いで日本の免許証が使えた。

・3月26日スクーターでパリを目指す。まずマルセイユからからヴァランスへ向かった。
『途中の道は「フランスの庭」というだけあり美しい。古い農家の後ろにはアルプスが見え、空が高くまで澄んでいる。ヴァランスのユースホステルは一泊七十円から百円くらい、飯は普通食なら八十円くらいだが、ちょっとおごって百五十円から二百円くらい。もっともレストランに行けば五百円から六百円はかかる。ホステルでみんなにピアノを聞かせたら大いに喜ばれた。希望曲がほとんどアメリカのジャズなのは意外だった』。
・4月8日パリ着。途中はほとんど野宿だったが、その日はホテルに泊まった。旅の疲れと寒さでひどい風邪を引いていた。ちょうど音楽評論家の吉田秀和先生が来ていたから、小澤はホテルを訪ねて薬をもらった。座薬を渡されたが使ったことがない、飲み込んでしまったが一向に治らなかった。パリには、以前日本で斎藤秀雄先生にチェロを習っていたローラン史朗の一家がいた。母が日本人で、家へ行くと日本の飯を出してくれる。小澤の座薬事件を面白がって会う人ごとにばらされた。そこによく来ていたのが国立高等音楽院に留学中のピアノの江戸京子とヴァイオリンの前田郁子だった。
画家の堂本尚郎を紹介したのは江戸京子。すぐに仲良くなって仲間の集まりにたびたび招いてくれた。中には彫刻家のイサム・ノグチもいた。小澤は心細い異国の地で仲間ができるのはありがたいものだと知った。
小澤が落ち着いたのは大学都市のイギリス館。切り詰めれば1年はいられる。大学都市の食堂を利用すれば安く済んだ。小瓶に入った安いワインばかり飲んだ。斉藤先生がレオン・パルザンという指揮者への紹介状を送ってくれ、そこでレッスンを受ける以外は音楽会へ通った。
・6月のある日、江戸京子が『指揮者のコンクールがブザンソンであるわよ』と教えてくれた。「棒ふりコンクール」、小澤のヨーロッパへ来た目的は棒ふりの修行であった。『そりゃ一発やってみたいけど、どんなふうになっているのかな』『私の通っているパリ国立音楽院の玄関に、たしかコンクールのポスターが貼ってあったわ』江戸京子に連れられパリ国立音楽院に小澤は行った。
おぼつかないフランス語では小澤には分らない。ポスターの内容を江戸京子に通訳してもらうと小澤にも資格があった。
半年も指揮していなかった小澤は、指揮をしたくてたまらなかった。わずかな申込金でコンクールを受けることができる。
フランスのナマのオーケストラを一回でも指揮することができれば、それだけでも十分意義があると征爾は考えた。そう思って応募することに決めた。
締め切りはまさにその日。しかも外国人は大使館の証明がいると。日本大使館では門前払いで、知人の世話で米国大使館の証明をもらった。
ところが手続きの不備でブザンソン国際指揮者コンクール締切日に間に合わなかった。
このままあきらめる気もしなかった。小澤は最後の綱とばかり日本大使館に駆け込んだが、思わしくない。
まだ諦めることはできず、小澤が友人から聞いていたアメリカ大使館の音楽部のことを思い出しコンコルド広場の近くにあるアメリカ大使館を訪れた。
そこには昔ニューヨークの弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンを弾いていたというマダム・ド・カッサ女史が座っていた。
小澤は今までの事情を説明した。そして『日本へ帰る前に一つの経験としてブザンソンのコンクールを受けたいのだが、今からなんとか便宜をはかってもらえないだろうか』と頼み込んだ。
・するとカッサ女史は『あなたはいい指揮者か?』と聞く。小澤はデカい声で『自分はいい指揮者になるだろう』と答えた。
カッサ女史はゲラゲラ笑いだし、すぐに長距離電話でブザンソン国際音楽事務所を呼び出して、『遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやってほしい』と頼んでくれた。
向こうの返事は『今すぐは決められないから二週間ほど待ってくれ』だった。
カッサ女史は『コンクールを受けると決まった時に慌てるといけないから、その間にスコアを買って読んでおいた方がよい』と親切に言ってくれた。
・このころ小澤は少し栄養失調気味になっていた。長い旅行とパリでの安メシ屋がよいが原因だ。何をやっても体がフラフラする。血が上がったり下がったりした。エレベーターが一番苦手になっていた。
・コンクールの日に一番良いコンディションに持っていかなければならないのに弱ったなと思うようになっていた。
そんな時,見るに見かねた堂本印象氏の甥の堂本尚郎画伯が風光明媚な南仏のニースへ招待してくれた。征爾は喜んで飛びつき体力作りがてらスコアを抱えて行った。体力作りに夢中なあまり、直射日光を浴びすぎ、日射病になるという不覚を取ってしまった。それからはもっぱら半病人のようにニースの山の上で過ごしていた。
・パリのアメリカ大使館から速達が来てコンクール受験の資格を取れることが正式に決まったと言ってきた。
小澤はすぐにパリへ戻った。
そのころ小澤は大学都市のイギリス館に住んでいた。そこでオーストラリアから来たピアニストのロジャーと江戸京子が何度も何度も連弾してくれ、それを頼りに実際に指揮するようなつもりで手を振った。これが一番いい勉強になった。
・『僕は日本を発つまで斉藤先生のもとで勉強した。斉藤先生の指揮のメトードは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、僕は思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類した。たとえば物を叩く運動からくる「叩き」。手を滑らかに動かす「平均運動」。鳥の首がピクピク動くみたいに動かす「直接運動」。というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を力を入れるかというようなことを教えてくれた。その指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自分の力を自分でコントロールすることができるということを教わった。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルルミンシュも言っていたし、カラヤンもベルリンで僕に教えてくれたときに言っていた。自分のことを言うようでおかしいが、ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、あるむずかしい曲で合わなくなったり、アンサンブルがわるくなったりしているときに、ぼくのもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斉藤先生のメトードによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、Seijiの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、ぼくとしては、指揮するばあいに非常に有利な立場に立つことができるのだ。指揮の試験を受ける人たちに伝えておきたい。何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちには通じるのだ。ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、一番貴重なものはこれである。』
↓ Saito Conducting Method英語訳
Seiji Ozawa speaks『I studied under Mr. Saito until I left Japan.Saito Sensei’s method of conducting is absolutely perfect when it comes to basic training, and I believe that there is nothing of its kind anywhere else in the world.Specifically, Mr. Saito classified the movements of the conducting hand into several types.For example, “tapping” comes from the movement of hitting something.“Average movement” that moves the hand smoothly.“Direct movement” that makes the neck of a bird twitch.Classify as follows.
He taught me about when to relax and when to apply force in all of these aspects. This conducting technique is truly invaluable, and in a word, I learned that I can control my own strength at any time while conducting.
In other words, it means that it is possible to relax your body at any time.
Something similar, though in different words, was said by Charles Munch and also by Herbert von Karajan, when he taught me in Berlin.
It may sound strange to talk about myself, but I am confident that no matter what orchestra I go to, when the orcheistra is not in sync with a difficult piece or the ensemble is not playing well, I can always use my techniques to get the ensemble in order.
That is because of Mr. Saito’s method. From the orchestra’s point of view, this is reflected in the answer that Seiji’s baton is very clear, so I can be in a very advantageous position when conducting.
I would like to tell those who are taking the conducting exam. Above all, make your body flexible, sensitive, and energetic.
Also, approach the score with the intention of becoming an athlete rather than a musician. This creates the conducting action, and this is conveyed to the orchestra members more accurately than words. Of all the experiences I have gained by going abroad and conducting orchestras in various countries, this is the most valuable one. 』

・小澤はブザンソンに着いたが、連日連夜の勉強の後なのでかなり疲れていた。所持金も欠乏し始めていた。学生向きの安宿に入った。
ブザンソンはスイスとの国境の近くで静かな美しい街だった。
その夜は各国から集まった若い指揮者の歓迎パーティーがあった。みな自信がありそうに見えた。誰もがおれこそ一等賞だという自信にあふれているような顔をしている。若い指揮者の採用試験のようなものはいくつかあるが、正式な指揮のコンクールは世界でここだけ、各国の政府が数名の応募者を派遣しているのだ。
その中にはオペラ座の指揮者や、ロンドン・フィルのアシスタント指揮者などの優秀な者も混じっていた。
<第一次予選>
・9月7日第一次予選、48名が応募した。
一人ずつ会場のカジノ劇場に呼び出されてテストを受けた。
曲目はメンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、小澤はそれを自分の好みの練習でオーケストラを仕込む。小澤の場合、言葉が通じない。だが音楽用語は世界共通「アレグロ」「フォルテ」大声で連発しながら、わずか八分でメンバーに指示を与えたり、大胆に棒を振って、誰にもわかるように派手な手振り、身振りを見せ、思い切って、度胸を固めたのが思いがけずうまくいった。終わってお客ばかりでなくオーケストラの連中からも一斉に「ブラボー!」という喝采が上がった。 
第一次予選パス。17人の中に入った。
嬉しく帰る途中にある花屋に入り一抱えの花を買って帰ると部屋に美しく飾った。
<第二次予選>
・9月9日第二次予選。課題曲はサン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》とフォーレ《タンドレス》。サン=サーンスの曲はその場で初めてのソリストに、初めてオーケストラ伴奏をつけるという伴奏テクニックのテスト。
フォーレは六十人編成の各パートの譜に赤インクで間違った譜が書き込まれてある。
ヴァイオリンが違っていたり、ホルンとトロンボーンの音が入れ替えてあるという具合に都合十二ヶ所の誤りを、五分で発見して、完全なオーケストラに仕上げるという課題。小澤はスコアを見つめ、神経をとがらして集中して聴きながらオーケストラをじっと見つめ棒を振った。瞬く間に五分間は過ぎ、小澤は十二の誤りを全部指摘することができた。これは聴音の小林福子先生のもとで特訓を受けたお陰だった。終わった後、審査員席からどよめきが起こり、ぐんと自信がついた。この分なら受かるぞと小澤は思った。
真夜中に発表があり、二次通過、合格だ ! バンザイ!。もう六人まで減っていた。
この調子だとコンクールに優勝するかもしれない。そうなればいろんな人からインタビューを受けるかもしれない。フランス語の下手な小澤には不安であった。
小澤は急ぎパリにいる江戸京子と前田郁子(ヴァイオリニスト)に電話して来てもらえることになった。
彼女たちは翌日すぐに来てくれた。会場の客の中に彼女らがいると思うとどんなにか力づけられた。
<本選へ六人出場>
・9月10日本選はブザンソンのグラン・テアトル。
課題曲はドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》とヨハン・シュトラウス《春の声》、ウジェーネ・ビゴーがこの日のために作曲した新曲、変拍子の難しい曲で、これを五分で見てすぐ指揮をしなければならない。出場者六人はボーイスカウトに付き添われて、防音装置で完全に遮断された部屋の中に入る。
そこで課題曲のスコアを初めて渡された。初見である。それも五分後に指揮する。
小澤は六人のクジで一番最初に指揮台に上がった。さすがに緊張の極みだったが、小澤のポケットには斎藤秀雄に教わった大事なものがいっぴ詰まっている。不思議と落ち着いた気分で指揮台に上がった。指揮棒をとると少しも臆せずすらすらと思う存分にやれた。
小澤が後で知ったことだが、小澤が演奏している間に、作曲者のビゴーが「ブラボー」と叫んだという。
全部のテストが終わり、一時間後に発表がある。その間、お客さんもオーケストラの人もみな結果を待っている。
発表の時間が来て、一位を呼び出す声が聞こえた。
<ムッシュー・セイジ・オザワ!一位入賞>
発表の時間が来て、一等を呼び出す声が聞こえた。
「ムッシュー・セイジ・オザワ ! 一位入賞」するとお客さんやオーケストラの人々が「ブラボー、ブラボー、ブラボー ! ! 」と歓声を上げ、すごい拍手が起こった。
小澤は一位入賞した。確かに僕なんだと、小澤は何度か自分に向かって言い聞かせた。
そうでもしなければ信じられないような気持であった。小澤はいつの間にかステージの中央に押し出されていた。賞金と腕時計とフランス語で書かれた免状をもらった。
江戸京子と前田郁子もすぐステージに上がって来てくれペラペラフランス語で通訳をしてくれた。征爾はカメラでパチパチやられ新聞記者のインタビュー攻めにあった。
・よかった !! 、これでもう少しヨーロッパに残れると喜びを噛みしめた。それが、賞をもらった時に最初にわいてきた喜びだった。
・優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者ロリーン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばにやにやしながらピアノを弾き始めた。本選の《牧神の午後への前奏曲》でオーケストラがうまくできなかったところを、わざとそのままにして征爾に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・プーランジェのサロンであった時も輪の中心にいた。征爾は縮こまってコーヒーを飲むばかりであった。《牧神》を弾かれた時もホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえなと思った。
・コンクールが終わって三日ほど水の澄んだブザンソンのホテルの前の川でボーっと魚釣りをして楽しんだ。コンクール入選の知らせは家と斉藤先生に知らせた。
・コンクールはブザンソン音楽祭の一環でほかにもいろいろな音楽会が開かれていた。審査員だったシャルル・ミンシュが指揮する音楽会があると聞いて、小澤は出かけて行った。
<ミンシュのベルリオーズ幻想交響曲>
・その時小澤が聴いたベルリオーズの《幻想交響曲》をどう言い表せばいいか彼は、わからなかった。そんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒をもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。 
<アメリカの放送局特派員とクレイジーホース> 
・最後のパーティーの時、小澤は思い切って "ミンシュ先生“ と声をかけた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。江戸京子に通訳してもらって伝えた。"弟子にしてください"返事は冷たかった。"私は弟子をとらない。大体、そんな時間はない“ 小澤はがっくりきたが、“もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい“ と付け加えられた。
ミンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン交響楽団が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるということらしい。
<タングルウッド音楽祭参加を目指す>
・小澤らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員ヘイスケネンが聞いていた。ボストン交響楽団のかっての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの婦人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。それをたよりに小澤はパリへ戻った。
・パリに戻ってから、コンクール第一位の新聞記事を読んだパリのコルビュジエが設計したブラジル館の館長が、小澤に無条件で下宿させてくれた。普通は四十人に一人という難関な贅沢な建物、部屋に風呂までついていた。またフランス滞在手帳もすぐに交付してくれた。小澤のように学校も入らず、金の出所もあいまいな者には絶対ありえないことだった。その上パリの音楽会の招待券も送ってくれるので、どの指揮者のも聴くことが出来た。
・9月末にベルリン音楽祭を聴きに行った。当時、日本人の音楽留学生の世話をよくしてくれていた田中路子をたずねた。田中路子はかつて、小澤の師・斎藤秀雄と恋愛をしたこともあったソプラノ歌だった。戦後、ドイツの人気俳優だった、ビクトル・デ・コーバと再婚して、ベルリン郊外のお城のような豪邸に住んでいた。彼女は1945年、ベルリンが陥落する前、自邸を解放して、多くの人びとをナチスの迫害からのがした。そのころ、ナチス党員でありながら、アドルフ・ヒトラーの逆鱗にふれたヘルベルト・フォン・カラヤンを救ってあげたのも田中であった。その関係で、戦後ヨーロッパ楽壇の「帝王」と呼ばれたカラヤンも田中には一目おいていた。彼女は、のちにソニーの社長・会長をつとめた、かつてのバリトン歌手・大賀典雄をはじめ、多くの日本人音楽家をカラヤンに引き合わせた。
・9月26日征爾は家に手紙を書いた。
ベルリン音楽祭に来たこと、前日朝着いたこと、すぐ東ベルリンに入り、国立歌劇場を観たりした。夜はロシア・バレエ《ガヤーヌ》を観たこと聴いたこと、ニ三日中にベルリン・フィルのマネージャーに会うこと、などを書き送った。
・10月シェーンベルクの歌劇《モーゼとアローン》をヘルマン・シェルヘン指揮のベルリン初演を観た。
・10月12日パリに戻る。
・10月16日夜、ドイツのドナウエッシンゲンに行く。17日-18日現代音楽祭があり非公式な招待があり聴きに行った。
パリから十二時間もかかった。
現代音楽祭はヨーロッパ一ということもあり世界各国から著名音楽家が集まって来た。
日本人ではパリから戸田邦雄(45歳、外務省パリ日本大使館参事官・作曲家、声楽家で当時藝大声楽講師戸田敏子(後の教授・名誉教授)の実兄)、篠原真(29歳作曲家)、日本から現代音楽の評論と詩作で活躍した秋山邦晴(29歳音楽批評家)等が来ていた。
ベルリンで、作曲家の石井眞木や秋山邦晴と親交をあたためた。
・10月20日パリに戻る。家に手紙を書いた。
『今年いっぱいはパリにいて、来年はベルリン放送局が月給を出すというのでそれをもらい、合間に演奏会をやるつもり』。
ビゴーから、週一度のレッスンを受けた。オーケストラを使ってのレッスンは、本場のフランス音楽を学ぶよい機会となった。 またこの地で、イサム・ノグチや堂本尚郎などの美術家や、数学者の広中平祐とも親しくなった。
・10月放送局ラジオ・フランス主催で征爾のお披露目演奏会と記者会意見が開かれた。毎日新聞パリ支局長の角田明、画家の堂本尚郎が来てくれた。堂本に紹介されたのが有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナンダンだった。
小澤が安い酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか、“これからはうちの店で好きなだけ飲め" という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。小澤が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。アランとはその後30年以上付合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、小澤がパリで指揮する時は必ず聴きに来てくれた。コンクールの後はそうやって酒を飲んだり、審査員長だった指揮者ウジェーネ・ビゴーのもとで指揮のレッスンを受けたりした。コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ、人生で一番、不安な時期だった。
・11月はじめにフランス語の進級試験があった。
<ホームシックと体調崩しノルマンディーの修道院で静養>
・『その年の暮れホームシックにかかった。畳の匂いや日本語が無性に懐かしく、両親のことや、成城、桐朋の学友、先生のことが思い出された。本場ののブドウ酒を飲んでもうまく感じられない。体調を崩し、それである日医者に行った。”パリの毒気にあてられたらしい。さっそくパリから逃げるんだなぁ” 僕は"金がねえ” というと、修道院の紹介状を書いてくれた。ただで飯を食わして泊めてくれる。僕はノルマンディーの一番イギリスに近い出っ張った半島の修道院へパリから汽車とバスに六時間かけ小さな村に着いた。そこからさらに三十分歩いて南フランスのノルマンディのノートルダム・デュ・ベック修道院に着いた。部屋は半地下室のような陽の当たらない、全部が石でできている火の気のない部屋だった。修道院には老若四十人ほどが自給自炊していた。消灯は九時、朝は四時半起床。オルガンが鳴り坊さんたちの重量感あるコーラスが始まる。グレゴリオ聖歌だ。僕もその仲間に入り、四線譜の曲を歌って、帰る頃には坊さんたちと唱和できるようになった。昼間はほとんどの時間が労働で薪を山から馬で下ろしたり、豚のエサ運びなど一生懸命にやった。体を動かしていないと、寒さで凍え死んでしまいそうなのだった。十二時半の昼飯はスープ、豚肉、ウドン、パン、リンゴ酒。このリンゴ酒を飲むと百回ぐらいゲップが出た。夕飯は六時半。スープに卵焼一つにジャガイモ、チーズといった簡単なもの。ここでの静養という生活は小澤にとり毎食出るチーズの匂いとグレゴリオ聖歌、メシのまずかったこと、これだけはいつまでも忘れられない。』
・『家に近況報告の手紙を書いた・送って欲しい物を書いている。”1.風呂敷数枚、こっちで世話になった先生にあげる。2.白い木綿のワイシャツサイズ14インチ二枚。3.靴下ニ三足。4.アルミゲル錠(胃の薬、ボンがよくよく知っている)。5.ドイツ語の文法の本(易しいのがいい、仙台の兄貴に聞いてくれ)。6.漱石の(こころ、明暗)。7.ラビットジュニア用プラグ(点火栓、上の兄貴なら知っている)。8.色紙と和紙(これは誕生日やその他のカードとして小さく切って使うが大きいままでいい)。9.こけし人形(小さくて安いやつでいいから、十カラ二十)。10.その他食料(焼海苔、海苔の佃煮、昆布の佃煮、醤油の缶詰、昆布茶、梅干し、ウニ、味噌、しらたき、削り節、海苔のついた煎餅、わさび粉、七色唐辛子、その他缶詰なら何でも歓迎。なお湿気をうけやすい物はなるべく缶入りか瓶入りかにすること。11.飯櫃、友達を呼ぶときに見せる。12.箸数膳安くていい。12.茶碗と湯呑。こっちに来てめっきり料理の腕が上達した。洗濯もうまくなった。13.靴は十文七分、黒の皮、ズックでは困る。』
・修道院から帰るとパリの街ではクリスマス用の品物が売っていた。
・12月チロルにスキーに行った。臨時に学生の団体に加えてもらった。仲間はこの年ロン・ティボー・コンクールで三位となったヴァイオリンの石井志都子、ピアノ江戸京子、ヴァイオリン加藤さんという女性三人と男一人、駅のプラットフォームに四十人が集まり団長を決めた。パリを出発し翌朝インスブルックに着いた。バスに乗りムッタース村の古風なホテルに着いた。小澤らはここでクリスマス、大晦日、正月を迎えた。
・ⅭⅮ 1959年小澤征爾 ブザンソン国際指揮者コンクール本選の実況録音盤
国立視聴覚研究所(INA)およびラジオ・フランスからの提供音源をもとにマエストロ小澤征爾の貴重なドキュメントを初CD化。
1959年2月スクーターとギターとともに貨物船で渡仏した小澤。同年パリ滞在中に出場した第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで見事第1位を受賞した。そのときの実況録音が商品化。本選の演目であるドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』、ヨーゼフ・シュトラウスの『天体の音楽』、そしてウジェーヌ・ビゴーが同コンクールために書いた新作をすべて収録しております。また、ラジオ放送のアナウンスおよび演奏後の受賞セレモニー(小澤征爾のみ)も収録
『第9回ブザンソン国際指揮者コンクール本選より』
1. アナウンス
2. ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
3. ヨーゼフ・シュトラウス:天体の音楽 Op.235
4. ウジェーヌ・ビゴー:ブザンソンのための未発表管弦楽作品(新作の課題曲)
5. 受賞セレモニー(プレゼンター:ビゴー)
ブザンソン管弦楽団
小澤征爾(指揮)
録音時期:1959年9月10日
録音場所:ブザンソン、グラン・テアトル
録音方式:モノラル(ライヴ)
Recorded by R.T.F

1960年(昭和35年)25歳 
・1月10日スキーからパリに戻る
・1月26日家に手紙を書く。
・その後、急用ができベルリンへ行く。カラヤンのレッスンがテレビで放映されていた。田中路子女史がその放送を見に来て、小澤の背広を見て、音楽家は舞台に出る限り皆の目に触れるのだからと流行りの背広を着た方がいいと言って、デパートへ連れて行き背広をプレゼントしてくれた。
宿舎に帰ると日本から小包が届いていた。
・パリでルービンシュテインらのマネージャーをやっている人とも二月初旬に会う約束があった。
・指揮のレッスンは引き続き、ブザンソン国際指揮者コンクールの審査長だったパリの長老指揮者ウジェーヌ・ビゴーがオーケストラを使って週一回無料で教えてくれた。またアール先生の友人のレオン・バルザンというアメリカ人にも教えてもらっていた。
・ブラジル館からフランス人の家庭に下宿することにした。
・2月16日家に手紙を書く。
10月にパリ放送局主催でシャンゼリゼ劇場でリサイタルをやることが決まった。
・3月29日家に手紙を書く。
急にロンドンに来た。
・パリの教習所に行き、日本での運転免許証を持たなかったが、教習所の教師にオレは日本の免許証を持っているから、なんとか簡単にフランスの免許証がもらえるようにとりはからってくれと、頼んでみた。パリでの教習はどんなものでも道路上でやる。四回くらいで試験を受けさせてもらった。受験の通知はハガキで来る。パリの指定の道に行くと男女がたむろしている。それが試験日なのだ。試験は五分ほどで終わり、あっけなくパス。その日に免許証をくれた。
・小澤のヨーロッパにおける初仕事は、フランス西南部の都市、トゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団(当時は市立)との放送録音であった。そこで連続放送演奏会をやることになっていた。スペインの国境に近いところだ。
4月江戸京子の新車を借りて、パリを発ち、東京から神戸間くらいの距離を、自動車のハンドルをたいして握ったことがないのに運転して行った。その日は谷間の村境のホテルに宿泊。明日中に目的地に着き、明後日は朝からオーケストラの練習。
・真夜中にトゥールーズに着きパリの放送局から連絡されていたホテルに着いた。翌朝は9時からフランス国内での指揮者としての仕事が始まった。そこでは二週間近く指揮をした。その間、オケの楽員さんが変わりばんこに小澤を夕食に誘ってくれたり、夕方、近くのピレネー山脈の麓までドライブに誘ってくれた。
・4月19日、21日、25日と3日間の収録でベートーヴェンの《交響曲第一番》、《エグモント》序曲、モーツァルト《交響曲第41番》「ジュピター」、《ディヴェルティメント》、オペラ《魔笛》序曲、ブラームス《ハンガリー舞曲集》、シューベルト《交響曲未完成》、カバレフスキーの組曲《道化師》などを放送用収録でトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を指揮して録音。全部の演奏、録音を済ませその場でお金をもらう。八万円である。
小澤はそこから旅に出、カルカソンヌへ行き、さらにピレネー山に登り、スキーをやった。わざわざパリからスキー靴を放送局に内緒で持ってきていた。
・ウィーンに来い、と田中路子女史が放送関係の人や劇場主を紹介してくれるという。それからベルリンにも行かねばならない。
パリに戻り、ベルリンの田中路子女史のところに、来シーズンのベルリンでの仕事の打ち合わせにいった。オランダへ行き日本フィルハーモニーが呼ぶという、パウル・クレッキーというハンガリー人の有名な指揮者に会い、いろいろ音楽的な忠告などを受けた。
・7月ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンから約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。
・7月2日『僕は初めて国際線の飛行機に乗ってアメリカ大陸へ渡った。パリからボストンまで飛行機で約九時間。窓からアメリカ大陸が見えた時は「また新しい生活が始まるのだ」と思って、ちょっと感動した。ボストン飛行場の税関を通って外に出ると思いがけず出迎えがあった。パリで知り合った数学者の広中平祐さんだ。その晩はボストンの家に泊めてくれ、二人で思い出話に花を咲かせた。翌朝早く、長距離バスでタングルウッドへ向かった。延々と草原が続く道を三時間ほど走って目的地に着いた。ここでボストン交響楽団が音楽祭を開催している。バークシャー山脈の中にあって、大きな森に包まれたところだ。ここで征爾は六週間過ごす。タングルウッド村に着いたと音楽祭事務所に電話をしたら迎えに来てくれた。』。
小澤は名前こそ知っていたタングルウッドにあるボストン交響楽団の夏季訓練アカデミーであるバークシャー音楽センター(現タングルウッド音楽センター)に到着した。
まず指揮の試験を受ける。合格したらミュンシュのレッスンが受けられる。
・7月3日~8日の間、小澤は30人近い応募者と第一次試験に臨んだ。
7月3日ミンシュのレッスンを受けるにはまず、コンクールを受け合格しなければならない。オーボエ、ホルン、トロンボーン、クラリネットの四重奏曲の書き取り、これは難なくパスした。
・7月4日次にモーツァルト《魔笛》を指揮し、指揮試験に合格した。
小澤はボストン交響楽団音楽監督シャルル・ミンシュおよび指揮講師エレアザール・デ・カルヴァーリョの指導を受けることが決まった。
『宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエール。おどけてて、才能があるところが山本直純さんみたいだった。びっくりしたのが彼がマーラーの交響曲のスコアを勉強していたこと。マーラーがほとんど演奏されていない頃だ。僕は名前こそ知っていたけれど聴いたことはなく、スコアを見るのも初めてだった。
音楽祭には僕以外に日本人がもう一人いると聞き探しに行った。顔を見ると桐朋のヴィオラの河野俊達先生に似ている。恐る恐る話しかけたら「小澤じゃないか」。本人だった。一年半ぶりの再会に胸がいっぱいとなった。』
・『ミュンシュの教えで強く印象に残っているのが、僕がドビュッシーの《海》を指揮した時のことだ。教えるといっても黙って部屋をうろうろするばかり。仕方ないから後にくっついていくと、しきりにフランス語で「スープル(souple)柔軟に」、「スープル(souple)柔軟に」と言ってる。つまり指揮するのに力を入れてはいけない、しっかり音楽を感じていれば手は自然に動くということだ。あの頃の僕はノン・スープルで固い指揮だったんだろう。僕の音楽会には有名な批評家のハロルド・ショーンバーグも来て、ニューヨーク・タイムズでべた褒めしてくれたらしい。後で知って感激した。』
・これがボストン交響楽団との長い付き合いの始まりとなる。バークシャー音楽祭の指揮コンテストの各種試験を3日~8日済ませ、第1位を獲得した。
毎週木曜日の定期コンサートの指揮を5週間行うことになった。
・7月ボストン、フェンウェイ・パーク(レッドソックスの本拠地)で初めて野球観戦
・7月14日小澤のタングルウッド指揮デビューの演奏会があった。
モーツァルト《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》
ジェシー・レヴィーン(ヴィオラ)
小澤征爾 タングルウッド音楽センター管弦楽団
タングルウッド- シェッド・レノックス
この演奏会の評判がよく、ボストンでの放送やメキシコ市での演奏会が急に決まった。五回やることになった。
・7月17日タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
ニコラス・カッパビアンカ《サッフォーの詩の歌》
タングルウッド – 室内楽ホール、レノックス
・7月21日タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
ドビュッシー《海》
タングルウッド- シェッド・レノックス
・7月28日タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
ベートーヴェン《レオノーレ序曲》
タングルウッド- シェッド・レノックス
・8月9日その夏の終わりに五年振りとなる最も優秀な若手指揮者に贈られるクーセヴィッキー指揮大賞受賞第八号の決定内定を受けた。推薦者はミュンシュ、クーセヴィツキー未亡人、アーロン・コープランド等であった。
・ニューヨークタイムズの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグに「この指揮者の名前を人々は記憶しておくべきだ」と評した。
いろんな人にパーティーや夕食に招待されたが、小澤が嬉しかったのは伊藤ヨシ子、桐朋学園の志賀、河野俊達、二宮等が一堂に会して祝ってくれたことだ。
『誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。』
・『クーセヴィツキー夫人やショーンバーグにはバーンスタインを勧められ、それでニューヨークへ行くことを決めた。』
・8月13日タングルウッド音楽センター管弦楽団を指揮
チャイコフスキー《交響曲第5番》第4楽章
タングルウッド- シェッド・レノックス
・8月に学生の頃からミュンシュに憧れていた小澤は、タングルウッドでミュンシュ指揮の第九のコーラスにいれてもらって歌った。
・『大賞の賞金で99ドルの超中古車を買い、河野先生を乗せて、まずニュー・ヘイブンへ行った。日本フィルハーモニー交響楽団の元コンサートマスターのブロータス・アールさんに会ってから、ニューヨークへ向かった。』
・『桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にし桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にした。
何日かいて、ニューヨーク・フィルを訪ねた。バーンスタインの秘書ヘレン・コーツが出てきて、バーンスタインはヨーロッパへ旅行中だという。秋にはベルリンにいるから訪ねるよう言った。』
・9月『僕はアメリカを後にしてパリへ戻った。』
・「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開くそうよ」。『アメリカからパリに戻ってきた僕にそう教えてくれたのはベルリン在住の歌手、田中路子さんだ。田中さんは斎藤秀雄先生と昔から親しく、何かと僕の面倒を見てくれていた。ご主人で俳優のヴィクター・デ・コーバさんは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、ご夫妻は「ヘルベルト」とファーストネームで呼んでいた。
10月小澤は、ベルリンの市立音楽院(旧シュテルン音楽院/現ベルリン芸術大学)で開催される「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者コンテスト」の弟子を選ぶための選考会に参加した。50人ほどの中から小澤、ウルリヒ・エックハルトなど4人が選らばれて、カラヤンの弟子となる。
・『カラヤンが1954年に初めて日本に来てNHK交響楽団を指揮した時、僕は近所のそば屋まで行って、窓越しにテレビでその様子を見ている。コンクールに通れば、あのカラヤンのレッスンを受けられるのだ。ところが試験会場で課題曲を間違えていることに気付いた。僕の番は明日だ。慌てて田中さんのお宅にこもり、徹夜で勉強した。』
・9月ベルリンで行われたカラヤン主催「指揮者コンテスト」で、50人ほどの中から小澤は第一位となり、ウルリヒ・エックハルトなど4人が選らばれて、カラヤンの弟子となった。定期的(10月・12月・1月・4月の全部で16日間)にカラヤンから指導を受けることになる。
・ベルリンでレッスンが始まったのは10月。後に西ドイツの首相になるヴィリー・ブラント市長が援助していて、プロのオーケストラを使うぜいたくなものだった。
カラヤン先生は技術について細かいことは言わない。その代わり大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性だ。時間の流れの中でいかに音楽の方向を定め、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。それを先生はシベリウス《交響曲第5番》のフィナーレを使って僕に教え込んだのだった。
・『その頃、パリには成城の同級生の水野チコが住んでいた。結婚した白洲春正さんが映画会社、東和のパリ支店の駐在員になったからだ。夕食に招かれたある日、アパートへ行くときれいな日本女性が出てきた。「いいなぁ、あんなお手伝いを雇えて」。思わずチコに言ったら、バカでも見るような目で返された。「女優の若林映子さんよ」、その時同席したのが批評家の小林秀雄さんだ。僕の名前を聞いて「君のお父さんを知っているよ」と言う。戦時中、北京の家を訪ねたことがあるそうだ。おやじは中国の人から贈られた壺を応接間に飾っていた。それをにせものだと気付いた小林さんがたたき割り、おやじが「贈ってくれた人の気持ちを飾っているんだ」と怒って、つかみ合いのけんかになったという。懐かしそうに話してくれた。』
・『国際コンクールに優勝したのだから、仕事が山のようにおしよせて来る、と思った』と小澤は語った。ところが、現実は違った。小澤の言葉によると『風のないヨットみたい』になってしまったのであった。小澤の期待が大きかっただけに、落ちこみ、なやみは深かったようだ。
・『毎日新聞パリ支局長の角田明さんの紹介で作家の井上靖さんに会ったのも同じ時期。井上さんはローマ五輪の取材の帰りで、僕がパリ案内のような役目を引き受けた。当時の僕はいくつかコンクールに受かっていたけれど、仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、もうヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで食事しながら、井上さんにそう言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。「文学者の場合、小説は翻訳が必要で外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」僕は、はっとした。なるほどその通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた。』
・ベルリンではヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務めるようになり、カラヤンとの親交はこの時から生涯続くことになった。
・10月『カラヤン先生のレッスンに通っている頃、ニューヨーク・フィルハーモニックを率いるレナード・バーンスタインに会いに行った。秋にはベルリンで音楽会を開くと聞いていたからだ。本番の後、バーンスタインは僕を「リフィフィ」というバーへ連れて行った。ストリップをやっている妖しげな店で、そこでニューヨーク・フィルの副指揮者になるための面接らしきものを受けた。審査委員の楽員たちも一緒だ。ところが僕は英語ができないから何言っているかよく分からない。それでも冬には副指揮者採用を知らせる手紙が届いた。期間は1961年4月から1962年9月。だがまだカラヤン先生のレッスンが残っている。迷った僕は手紙を持って先生のところへ相談に行った。「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい」。あたたく送り出してくれた』
・12月14日フランス国立フィルハーモニー管弦楽団を指揮して収録
モーツァルト《交響曲第28番》
J・シュトラウス二世《こうもり》序曲
『』は 小澤征爾「私の履歴書」より要約
↓パリ、放送用初録音CD

↓ 小澤征爾物語-9-1960年 シャルル・ミンシュの指導を受ける
1960年ミンシュの指導を受ける

1961年(昭和36年)26歳
・2月20日「日独修交100年記念」する演奏会で「石井眞木」と「入野義郎」の「現代曲」と、モーツァルト「交響曲」を指揮したのがベルリン・フィルとの出会いとなった。
・3月半ばごろ小澤ははニューヨークへ向かった。
・4月バーンスタイン音楽監督の下でニューヨーク・フィル副指揮者就任。
・バーンスタインとの親交はこの時から生涯続くことになる。
『副指揮者はリハーサルに立ち会い、指揮者に何かあれば代役をこなすこともある。僕以外に二人いた。給料は週給100ドル。小切手でもらうのだが、どう換金するのか見当がつかない。困っていたらニューヨーク・フィルのティンパニ、ソウル・グッドマンが僕をカーネギーホール裏の酒屋へ連れて行った。「ここのおやじなら大丈夫だ」と言うので、僕はそこで毎週現金に換えてもらった。
音楽家のユニオンの費用を差し引くと、手元に残るのは90ドルあるかないか。生活するのがやっとでいつも腹をすかせていた。この頃よく酒を飲ませてくれたのが彫刻家のイサム・ノグチと流政之だ。
ニューヨーク・フィルは4月に日本公演を控えていた。小澤も一緒に行くことになっている。
・4月13,14,16日(ニューヨーク・フィル定期演奏会)    
バーンスタインの演奏会に特別出演して黛敏郎《饗宴》初演指揮しカーネギー・ホール デビュー
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・4月24日ニューヨーク・フィル日本公演に同行し、神戸港を出発して2年3カ月ぶりの帰国だった。
『僕は日本航空の特別機で羽田空港に着いた。約二年ぶりの日本だ。ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。
おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。』
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5月5日<1961 東京世界音楽祭>   
黛敏郎《饗宴》
ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してデビュー
東京文化会館
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・『この日、僕はできたばかりの東京文化会館で黛敏郎さん作曲の《饗宴》を指揮した。行きの飛行機でレニー(レナード)に「おまえがやるんだぞ」と言われていた。全く感激のデビューだったが、残念だったことがある。客席にいたはずの斎藤先生は終演後、僕を訪ねないで帰ってしまったのだ。
話したいことはいっぱいあった。ヨーロッパにいる間も折々に手紙を出していたけれど、僕が勝手に外国へ飛び出したことが尾を引いていた。先生はドイツで音楽を勉強した人だから、僕にはドイツのオーケストラを指揮してほしかったのかもしれない。何となくまだぎくしゃくしていた。』
・バーンスタインが川崎にある小澤家を訪問した。
・6月22日日本フィル第34回東京定期演奏会を指揮
チャイコフスキー《交響曲第5番》ほか
日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して  
日比谷公会堂  
・7月杉並公会堂における放送録音が、小澤にとってNHK交響楽団との初顔合わせとなった。
ストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》ほか
夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。
・9月8日《黒人霊歌集》全18曲、東京混声合唱団、ビクター・アンサンブル、原信夫とシャープ&フラッツを指揮して録音
・夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。
・10月14日ニューヨーク・フィル・ヤング・ピープルズ・コンサートをカーネギーホールでドビュッシー《サクソフォンと管弦楽のための狂詩曲》などニューヨーク・フィルハーモニックを指揮   
『僕は日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して、夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。翌62年1月には江戸京子ちゃんと結婚する。
給料が150ドルに上がった。いつもの酒屋に小切手を持って行ったら、おやじが「おっ、上がったな」とニヤリとした。』
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↓ 小澤征爾物語シリーズ‐10‐1961年演奏会記録
1961年ニューヨーク・フィル副指揮者就任

1962年(昭和37年)27歳
1月5日日比谷三井ビルディングで媒酌、井上靖夫妻でピアニストの江戸京子と結婚。
1月10日サンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。サンフランシスコ交響楽団の指揮が北米初のプロ指揮者の仕事になった。
2月17日ニューヨーク・フィル・ヤング・ピープルズ・コンサートでドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
RPI フィールド ハウス、トロイ、ニューヨーク
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4月7日ニューヨーク・フィル・ヤング・ピープルズ・コンサートでモーツァルト《フィガロの結婚》序曲、ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
カーネギー ホール、マンハッタン、ニューヨーク
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5月3日4,5,6日アイヴス《夕暮れのセントラルパーク》ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
ニューヨーク州マンハッタン、カーネギーホール
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1961年から62年のシーズン、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者小澤征爾(25歳)でフィルハーモニックとニューヨーク・デビューを果たした後、ニューヨーク・タイムズ紙は「彼の指揮のもと、音楽は見事に生き生きとしたものになった」と評した。
・5月ニューヨーク・フィルとのアシスタント指揮者の契約が終わった。
・『小澤は、アシスタント指揮者を務めたレナード・バーンスタインに次いで、他のどの指揮者よりも見ていて魅力的だった。(しかし、彼は神秘的に無気力なヘルベルト・フォン・カラヤンにも師事していた。)指揮台の上では、小澤自身がバレエ団のようで、しなやかな体と、自ら踊る長い髪で、楽譜を優雅に演じていた。それは、音楽に対する彼のアプローチと同じくらい洗練されていた。
しかし、指揮台に立つ彼の態度は演技ではなかった。彼のオーケストラは理解とバランス、そして完全な自信を持って演奏した。細かく段階分けされた色彩は明瞭さと細部をもたらした。聴衆の中には、彼が顔のない存在であるかのように、音楽に与えた影響を定義する方法を見つけようとする者もいる。反対のことを感じている者もいる。作曲家のジョン・ウィリアムズは、小澤がボストン交響楽団を指揮した時、「その音楽の中に私が気づいていなかった奥深いテクスチャーが聞こえた」と語った。
小澤の独特なアプローチは、彼の膨大なディスコグラフィー全体を通じて、チャールズ・アイヴズの交響曲第4番やアルノルド・シェーンベルクのグレの歌など、最も大規模で密度の高いスコアで実を結びました。また、エクトル・ベルリオーズやモーリス・ラヴェルなど、フランスの作曲家の作品でも、彼は最高の演奏を披露しました。以下は、小澤の録音された最高の演奏の一部です。
小澤のリズム、ダイナミクス、色彩、バランスの徹底した実現は、明らかな強みだった。彼の洗練さとディテールは、勝利、神秘、悲しみを表現することもできるが、苦味は得意ではなかった。言い換えれば、小澤は若々しい魅力を捨てることができなかったということであり、その魅力こそが、ガブリエル・フォーレのこのシングルディスクコレクションを小澤の必聴盤にしているのだ。遊び心のある曲からうっとりする曲まで、繊細さと感情が完璧だ。オーケストラは輝き、ソプラノのロレイン・ハントも輝き、その結果、音楽はさらに輝いている。』
・『僕をN響の指揮者に起用したのはNHKのプロデューサー、細野達也さんだったと思う。N響の放送録音の仕事を一緒にしたこともあった。細野さんが推薦しなければ、バーンスタインの副指揮者をしただけの僕をN響の幹部が指名するはずがない。
契約は1962年6月から半年間。7月にはメシアン作曲の《トゥランガリラ交響曲》を日本初演した。メシアン自身も立ち会って練習はみっちりした。初演は成功したと言っていいだろう。』
・サンフランシスコ交響楽団定期演奏会でハチャトリアンの代役でベルリオーズ《幻想交響曲》を指揮して好評を博した。
・6月からのNHK交響楽団指揮のため日本へ向かう。
・小澤は6月20日から10月22日までの23の演奏会のすべてと、11、12月の定期公演および《第九》を指揮する予定で、半年間「客演指揮者」としてNHK交響楽団と契約していた。
この初演にはメシアン自身も立ち会ってみっちり練習し、初演は成功を収めた
6月20,21,22日東京文化会館でNHK交響楽団第432回定期演奏会を指揮
7月4日
メシアン《トゥーランガリラ交響曲》
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
本荘玲子(オンド・マルトノ)
小澤征爾 NHK交響楽団
この初演にはメシアン自身も立ち会ってみっちり練習し、初演は成功を収めた
7月21日N響サマーコンサートを指揮
8月3,4,5,8日室蘭、札幌、旭川、札幌
7月24日
メシアン《トゥランガリーラ交響曲》
ピアノ)イヴォンヌ・ロリオ オンド・マルトノ)本荘玲子
小澤征爾指揮 NHK交響楽団
東京文化会館大ホール 録音

9月12日 都市センターホール
黛敏郎 交響詩《輪廻(さむさーら)》
NHK室内合奏団を指揮
9月20,21,23日NHK交響楽団第433回定期演奏会を指揮
10月N響と東南アジアへ二週間の演奏旅行に出発。
10月2,3,5,6,8,12,13,15日N響と東南アジアへ二週間の演奏旅行に出発。
香港2公演、シンガポール2公演、クアラルンプール、マニラ2公演、沖縄でN響を指揮
フィリピンでベートーヴェン《ピアノ協奏曲第一番》を現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、征爾はうっかりバトンをあげてしまった。オーケストラが楽器を構えたがカデンツァはまだ続いている。征爾のミスだった。終演後征爾は先輩の楽員から”おまえやめてくれよ、みっともないから"とクソミソに言われ”申し訳ありません”と平謝りするしかなかった。この時のことを征爾は言う『僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。』
10月22日 明治学院85周年記念コンサート
NHK交響楽団を共立講堂で指揮
10月30日<日本フィル第51回東京定期演奏会>を指揮   東京文化会館
プロコフィエフ《交響曲第五番 変ロ長調》 op.100
モーツァルト《ピアノ協奏曲第二十番 ニ短調》 K.466
ラヴェル《ラ・ヴァルス》
江戸京子(Pf.)
・『ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。「N響の幹部がしゃぶしゃぶ屋で話し合っているようだ」。細野さんからそう聞いて、嫌な予感がした。』
11月14,15,16日
<NHK交響楽団第434回定期演奏会>
ベートヴェン《交響曲第八番》
ドボルジャーク《チェロ協奏曲》
ラヴェル《ダフニスとクロエ》組曲第ニ番
ガスパール・カサド(チェロ)
小澤征爾 NHK交響楽団
N響第434回定期公演が新聞批評に酷評される
11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明する。それは新聞に報じられ、征爾はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
事態を収拾するため、征爾をN響指揮者に推薦してくれたNHKの細野プロデューサーが『病気になったことにして、12月の定期演奏会をキャンセルすればいい』と言ってくれた。征爾は嘘をつくのもおかしな話だと考え、今後の演奏会の保証をしてもらうための覚書をNHK会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。
12月4日N響定期公演に向けリハーサルを開始するが、楽員のボイコットで練習不能に。
結局、同11日から三日間にわたり東京・上野の東京文化会館で行う予定だった定期演奏会は中止になった。小澤は楽団員が来るはずのない会場に一人、足を運んだ。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。N響の指揮者として契約をしていた征爾の矜持だった。この騒動で征爾は精神的に滅茶苦茶にされ、泣き、悔しかった。
12月18日にNHK交響楽団を契約不履行と名誉棄損で訴えるまで発展
12月20日N饗第435回定期公演は中止と発表された。
・小澤は契約通り上野の東京文化会館の会場に向かった。やがて開演時刻となり指揮台に立ったが、そこには楽員も聴衆もいない。
12月21日新聞は社会面に「天才は独りぽっち」とか「指揮台にポツン」と報道した。
小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響は征爾に内容証明郵便を送り付けた。世間では「NHK事件」という。
内幸町旧NHKホールステージ

・小澤は日本と"決別"する形で再び海を渡った。その後、米国を軸に海外に活躍の場を求め、その名声を高めていった。N響と「雪解け」したのは三十二年の歳月を経た1995年1月吉田秀和氏たちの仲介でN響と和解が成立した。東京・赤坂のサントリーホールでの演奏会となった。
・その事件後、「小澤征爾の音楽を聴く会」の発起人に井上靖、三島由紀夫、大江健三郎、黛敏郎、團伊玖磨、武満徹、石原慎太郎、一柳慧、中島健三、浅利慶太等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
・N響とのトラブル後、ニューヨークに戻った征爾は、マネージャーのロナルド・ウィルホードにきっぱり『オレ、もう日本になんか帰らないよ』といった。
のちに小澤は何かのインタビューで『僕は、あのことがあったので、日本にいられなくなり、外国に行き、良かったのだけれど』と、事件を振り返って、現在の結果に結びついたのだと、強く語った。
・N響と「雪解け」したのは三十二年の歳月を経た1995年1月である。吉田秀和氏たちの仲介でN響と和解が成立した。東京・赤坂のサントリーホールでの演奏会となった。
<下、ヤング・ピープルズ・コンサート: Young Performers No. 3 小澤征爾/レナード・バーンスタイン/ニューヨーク・フィルハーモニック>
4月14日CBS テレビ ネットワーク放送


小澤征爾物語シリーズ‐1962年演奏会記録
1962年演奏会記録

1963年(昭和38年)28歳
・1月15日<小澤征爾の音楽を聴く会>で日本フィルを指揮
開催発起人には、山本健吉・中島健蔵・谷川俊太郎・浅利慶太・石原慎太郎・井上靖・大江健三郎・三島由紀夫・武満徹・團伊玖磨・黛敏郎・一柳慧等、音楽に関係のない人たちも大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きで世話になった水野成夫が作ったオーケストラだった。
征爾は言う『苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない』
1月16日の朝日新聞朝刊は三島由紀夫の「熱狂にこたえる道ー小澤征爾の音楽を聴いて」を寄稿し注目を集めた。
『最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆が、こんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。正に江戸っ子の判官びいきが、成人の日の日比谷公会堂に結集した感がある。~略~、日本的なしがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている。』
1月17日に音楽評論家/吉田秀和や黛敏郎等の仲介により、NHK副理事長の阿部真之助と小澤が会談し、NHKと和解成立したが、のちに小澤は胸中を『精神的には滅茶苦茶にやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、ぼくは一生忘れない』と述べている
さらに「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」と語っている。
次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。征爾は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している。
・日本フィル首席指揮者就任。
・渡米
・4月サンフランシスコ交響楽団ジョセフ・クリップス の代役指揮を果たし成功を収めた
・7月コロンビア・アーティスト・マネジメントとマネジメント契約
・7月7日アメリカのTV番組「What’s My Line?」出演した。4人のパネリストがゲストの職業や有名人の場合は名前を当てる人気のゲーム番組「What’s My Line?」で、小澤征爾がボードの前に立った。通常、パネリストは有名人の名前を当てる際は目隠しをする。しかし、征爾のパネリストは目隠しをしていなかった。その時点ではまだ、征爾は比較的無名だと考えられていたようだ。
アメリカの最も著名な舞台のいくつかで指揮をし、カラヤンやバーンスタインのような巨匠に師事していたにもかかわらず、この認識の欠如は起った。征爾は25歳の若さで、現在のタングルウッド音楽センターで優秀な学生指揮者に与えられるクーセヴィツキー賞を受賞し、その1年後の1961年にカーネギーホールでアメリカでの指揮者としてデビューした。
パネリストには、ピーター、ポール&マリーやウディ・アレン等が並んで質問を英語でし、征爾は通訳なしで受け答えをしなければならず、時々詰まったときは司会者がアドバイスをした
↓ What’s My Line? – Seiji Ozawa (1963, TV Show)>

・7月9-10日ニューヨーク・フィルの公演を指揮
・7月16,18日〈ラヴィニア音楽祭〉に急遽出演し、シカゴ交響楽団を指揮
シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭指揮者ジョルジュ・プレートルの急遽代役を依頼され、2公演の指揮で成功を収めた
急病のジョルジュ・プレートルの代役として、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽祭で直前に2公演の指揮出演を依頼され成功を収めた。2か月後には翌1964年の同音楽祭の音楽監督に任命された。これを機に1970年以降はラヴィニア音楽祭を中心に、オーケストラ・ホールも含めてシカゴ交響楽団に複数回客演した。
・半年ほどたった7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴ交響楽団ラヴィニア音楽会長のアール・ラドキンがいた。
ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。
「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルジャークの「新世界より」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
ラヴィニアで何とか無事2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。
「君にこの音楽祭をあげよう」そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。ともあれ僕は翌1964年6月から、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任することになった。』
この演奏会を聴いたシカゴ・トリビューンのトーマス・ウィリス は、小澤について『指揮棒と音楽のアイデアを手にすると、すぐに指揮者を操る。彼の指揮テクニックは、透明な身振りと人間的なコミュニケーションで楽譜をオーケストラの膝の上に置き、受け入れさせるという点で、師であるヘルベルト・フォン・カラヤンを彷彿とさせる』と評した。
わずか1か月後、1959年以来音楽監督を務めてきたワルター・ヘンドルの後任として、小澤が1964年シーズンからラヴィニア音楽祭の初代音楽監督兼常任指揮者となることが発表された。1964年6月16日の音楽監督としての初コンサートで、小澤はオーケストラを指揮してベートーヴェンの「 エグモント 序曲」、ジョン・ブラウニングとの共演によるバーバーのピアノ協奏曲、ベルリオーズの 幻想交響曲を指揮する。
・8月16日ボストン交響楽団客演指揮デビュー
・8月29‐9月22日<ニューヨーク・フィル米国内ツアー>に帯同しニューヨーク・フィルを指揮
29日(A・B)ハリウッド、9月5日デンバー、6日ミルウォーキー、8日(A・B)シカゴ、12日デトロイト、15日ピッツバーグ、16日フィラデルフィア、19日ペンシルベニア(レディング)、20日ボルチモア、22日ワシントン
・帰国
・翌年6月からボストン交響楽団ラヴィニア音楽祭音楽監督に任命される
・10月音楽部門のアドバイザーをやっている東京・日生劇場こけら落としに際して帰国。
・10月20日日生劇場でのベルリンドイツ・オペラ公演、ベートーヴェン:歌劇《フィデリオ》でカール・ベームの副指揮者を務めた
・11月10日日生劇場でベルリン・ドイツオペラ管弦楽団を指揮

お座征爾物語 シリーズ12-1963年演奏会記録
1963年演奏会記録