小澤征爾物語シリーズ‐9‐1960年

小澤征爾物語‐シリーズ‐9‐1960年 シュルル・ミュンシュの指導を受ける

1960年(昭和35年) 25歳 

7月バークシャー音楽センターでボストン交響楽団夏季訓練アカデミーの指揮テストに合格しシュルル・ミュンシュの指導を受ける。
10月カラヤンの弟子を選ぶ「国際指揮者コンクール」合格。
秋、ベルリン公演中のバーンスタインを訪ねニューヨーク・フィルの副指揮者オーディショを受ける。

・1月10日スキーからパリに戻る
・1月26日家に手紙を書く。
・ベルリンへ行く。
・カラヤンのレッスンがテレビで放映されていた。田中路子女史がその放送を見に来て、征爾の背広を見て、音楽家は舞台に出る限り皆の目に触れるのだからと流行りの背広を着た方がいいと言って、デパートへ連れて行き背広をプレゼントしてくれた。
宿舎に帰ると日本から小包が届いていた。
・パリでルービンシュテインらのマネージャーをやっている人とも二月初旬に会う約束があった。
・レッスンは、ブザンソン国際指揮者コンクールの審査員長を務めパリの長・老指揮者ウジェーヌ・ビゴー(Eugène Bigot)がオーケストラを使って週一回無料で教えてくれた。またアール先生の友人のレオン・バルザンというアメリカ人にも教えてもらっていた。
・ブラジル館からフランス人の家庭に下宿することにした。
2月16日家に手紙を書く。
・10月パリ放送局主催でシャンゼリゼ劇場でリサイタルをやることが決まった。
3月29日家に手紙を書く。
・急にロンドンに来た。
・パリの教習所に行き、日本での運転免許証を持たなかったが、教習所の教師にオレは日本の免許証を持っているから、なんとか簡単にフランスの免許証がもらえるようにとりはからってくれと、頼んでみた。パリでの教習はどんなものでも道路上でやる。四回くらいで試験を受けさせてもらった。受験の通知はハガキで来る。パリの指定の道に行くと男女がたむろしている。それが試験日なのだ。試験は五分ほどで終わり、あっけなくパス。その日に免許証をくれた。
・征爾にとって初のヨーロッパでの仕事がきた。 フランス西南部の都市、トゥールーズのオーケストラ(現在のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団。当時は市立)との放送録音であった。征爾はトゥールーズで連続放送演奏会をやることになっていた。スペイン国境に近いところだ。江戸京子の新車を借りて、東京から神戸間くらいの距離を、自動車のハンドルをたいして握ったことがないのに運転して行った。その日は谷間の村境のホテルに宿泊。明日中に目的地に着き、明後日は朝からオーケストラの練習。
4月
・トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団との録音のためパリを発ち、真夜中にトゥールーズに着きパリの放送局から連絡されていたホテルに着いた。
翌朝は9時からフランス国内での指揮者としての仕事が始まった。そこでは二週間近く指揮をした。その間、オケの楽員さんが変わりばんこに征爾を夕食に誘ってくれたり、夕方、近くのピレネー山脈の麓までドライブに誘ってくれた。
4月19,21,25日 放送用収録
ベートーヴェン《交響曲第一番》
ベートーヴェン《エグモント》序曲
モーツァルト《交響曲第41番》「ジュピター」
モーツァルト《ディヴェルティメント》
モーツァルト《魔笛》序曲
ブラームス《ハンガリー舞曲集》
シューベルト《交響曲第7番》「未完成」
カバレフスキー組曲《道化師》
小澤征爾 トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団
・全部の演奏、録音を済ませその場でお金をもらう。8万円である。
征爾はそこから旅に出、カルカソンヌへ行き、さらにピレネー山に登り、スキーをやった。わざわざパリからスキー靴を放送局に内緒で持ってきていた。
・ウィーンに来い、と田中路子女史が放送関係の人や劇場主を紹介してくれるという。それからベルリンにも行かねばならない。
パリに戻り、ベルリンの田中路子女史のところに、来シーズンのベルリンでの仕事の打ち合わせにいった。オランダへ行き日本フィルハーモニーが呼ぶという、パウル・クレッキーというハンガリー人の有名な指揮者に会い、いろいろ音楽的な忠告などを受けた。
7月約束通りボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンからタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。
・『僕は初めて国際線の飛行機に乗ってアメリカ大陸へ渡った。パリからボストンまで飛行機で約9時間。窓からアメリカ大陸が見えた時は「また新しい生活が始まるのだ」と思って、ちょっと感動した。税関を通って外へ出ると、思いがけず出迎えがあった。パリで知り合った数学者の広中平祐さんだ。その晩はボストンの部屋に泊めてくれ、二人で思い出話に花を咲かせた。』
翌朝早く、長距離バスでタングルウッドに向かった。延々と草原が続く道を3時間ほど走って目的地に着いた。
タングルウッド村に着いたと音楽祭事務所に電話をしたら迎えに来てくれた。
バークシャー山脈の中にあって、大きな森に包まれたところだ。ここで6週間にわたって音楽祭が開かれ、征爾は過ごすことになる。
征爾は名前こそ知っていたタングルウッドのボストン交響楽団夏季訓練アカデミーであるバークシャー音楽センターに到着した。
まず指揮の試験を受ける。合格したらミュンシュのレッスンが受けられる。
7月3日~8日の間、征爾は30人近い応募者と第一次試験に臨んだ。
オーボエ、ホルン、トロンボーン、クラリネットの四重奏曲の書き取り、これは難なくパスした。
7月4日次にモーツァルト《魔笛》を指揮した。
征爾は、バークシャー・ミュージック・センターの指揮試験に合格した。
征爾はボストン交響楽団音楽監督シュルル・ミュンシュおよび指揮講師エレアザール・デ・カルヴァーリョの指導を受けることになった。
さらに音楽祭の間、毎週木曜日に青少年オーケストラを指揮することが決まった。
・『宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエール。おどけてて、才能があるところが山本直純さんみたいだった。びっくりしたのがマーラーの交響曲のスコアを勉強していたこと。マーラーなんてほとんど演奏されていない頃だ。僕は名前こそ知っていたけれど、聴いたことはなく、スコアを見るのも初めてだった。
音楽祭には僕以外に日本人がもう一人いると聞きつけて探しにいった。顔を見ると桐朋のヴィオラの河野俊達先生に似ている。恐る恐る話しかけたら「小澤じゃないか」。本人だった。1年半ぶりの再会に胸がいっぱいになった。』
これがボストン交響楽団との長い付き合いの始まりとなった。
『ミュンシュの教えで強く印象に残っているのが、僕がドビュッシーの「海」を指揮した時のことだ。教えるといっても黙って部屋をうろうろするばかり。
仕方ないから後にくっついていくと、しきりにフランス語で「スープル(柔軟にsouple)、スープル(柔軟にsouple)」と言っている。つまり指揮するのに力を入れてはいけない、しっかり音楽を感じていれば手は自然に動くということだ。あの頃の僕はノン・スープルで固い指揮だったんだろう。
僕の音楽会には有名な批評家のハロルド・ショーンバーグも来て、ニューヨーク・タイムズでべた褒めしてくれたらしい。後で知って感激した。』
7月ボストン、フェンウェイ・パーク(レッドソックスの本拠地)で初めて野球観戦をした。
7月14日 タングルウッド指揮デビュー
モーツァルト《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》
ジェシー・レヴァイン(ヴィオラ)
小澤征爾 タングルウッド音楽センター管弦楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
・この演奏会の評判がよく、ボストンでの放送やメキシコ市での演奏会が急に決まった。5回振ることになった。
7月17日
ニコラス・カッパビアンカ《サッポーの詩による歌》
小澤征爾 タングルウッド音楽センター管弦楽団
タングルウッド – 室内楽ホール レノックス
7月21日
ドビュッシー《海:3つの交響的スケッチ》
小澤征爾 タングルウッド音楽センター管弦楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
7月28日
ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第一番
小澤征爾 タングルウッド音楽センター管弦楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
〈クーセヴィッキー指揮大賞受賞決定内定〉
8月9日音楽祭の最後に若い指揮者に与えられるクーセヴィッキー大賞を受賞した。征爾は5年振りとなる最も優秀な若手指揮者に贈られるクーセヴィッキー指揮大賞受賞第八号の決定内定を受けたのだった。推薦者はミュンシュ、クーセヴィツキー未亡人、アーロン・コープランド等であった。
・ニューヨークタイムズの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグは『この指揮者の名前を人々は記憶しておくべきだ』と評した。
・いろんな人にパーティーや夕食に招待されたが、征爾が嬉しかったのは伊藤ヨシ子、桐朋学園の志賀、河野俊達、二宮等が一堂に会して祝ってくれたことだ。
・誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルハーモニックのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。』
8月13日
チャイコフスキー《交響曲第五番》 4楽章
小澤征爾 タングルウッド音楽センター管弦楽団
タングルウッド – シェッド レノックス
8月に学生の頃からミュンシュに憧れていた小澤は、タングルウッドでミュンシュ指揮の「第九」のコーラスにいれてもらって歌った。
・誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルハーモニックのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。
・『クーセヴィツキー夫人やショーンバーグにはバーンスタインを勧められ、それでニューヨークへ行くことを決めた。大賞の賞金で99ドルの「超」中古車を買い、河野先生を乗せて、まずニュー・ヘイブンへ行った。日本フィルハーモニー交響楽団の元コンサートマスター、ブロータス・アールさんに会ってから、ニューヨークへ向かった。
・桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にし桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にした。
何日かいて、ニューヨーク・フィルを訪ねた。
バーンスタインの秘書ヘレン・コーツが出てきて、バーンスタインはヨーロッパへ旅行中だという。秋にはベルリンにいるから訪ねるよう言った。
9月『僕はアメリカを後にしてパリへ戻った。』
・「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開くそうよ」。『アメリカからパリに戻ってきた僕にそう教えてくれたのはベルリン在住の歌手、田中路子さんだ。田中さんは斎藤秀雄先生と昔から親しく、何かと僕の面倒を見てくれていた。ご主人で俳優のヴィクター・デ・コーバさんは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、ご夫妻は「ヘルベルト」とファーストネームで呼んでいた。

9月征爾は、ベルリンの市立音楽院(旧シュテルン音楽院/現ベルリン芸術大学)で開催されるヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を選ぶ「国際指揮者コンテスト」の選考会に参加した。50人ほどの中から征爾、ウルリヒ・エックハルトなど四人が選らばれて、カラヤンの弟子となった。
・『カラヤンが1954年に初めて日本に来てNHK交響楽団を指揮した時、僕は近所のそば屋まで行って、窓越しにテレビでその様子を見ている。コンクールに通れば、あのカラヤンのレッスンを受けられるのだ。ところが試験会場で課題曲を間違えていることに気付いた。僕の番は明日だ。慌てて田中さんのお宅にこもり、徹夜で勉強した。50人ほど受けて四人くらい通過した中に、なんとか入ることができた。』
・ベルリンでレッスンが始まったのは10月(定期的10月・12月・1月・4月の全部で16日間にカラヤンから指導を受けることになる。)、後に西ドイツの首相になるヴィリー・ブラント市長が援助していて、プロのオーケストラを使うぜいたくなものだった。
・『カラヤン先生は技術について細かいことは言わない。その代わり大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性だ。時間の流れの中でいかに音楽の方向を定め、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。それを先生はシベリウス《交響曲第5番》のフィナーレを使って僕に教え込んだのだった。』
・『その頃、パリには成城の同級生の水野チコが住んでいた。結婚した白洲春正さんが映画会社、東和のパリ支店の駐在員になったからだ。夕食に招かれたある日、アパートへ行くときれいな日本女性が出てきた。「いいなぁ、あんなお手伝いを雇えて」。思わずチコに言ったら、ばかでも見るような目で返された。「女優の若林映子さんよ」。その時同席したのが批評家の小林秀雄さんだ。僕の名前を聞いて「君のお父さんを知っているよ」と言う。戦時中、北京の家を訪ねたことがあるそうだ。おやじは中国の人から贈られた壺を応接間に飾っていた。それをにせものだと気付いた小林さんがたたき割り、おやじが「贈ってくれた人の気持ちを飾っているんだ」と怒って、つかみ合いのけんかになったという。懐かしそうに話してくれた。
・国際コンクールに優勝したのだから、仕事が山のようにおしよせて来る、と思ったと征爾は言う。ところが、現実は違った。征爾の言葉によると、「風のないときのヨットみたい」になってしまったのである。 征爾は期待が大きかっただけに、落ちこみ、なやみは深かった。
・毎日新聞パリ支局長の角田明さんの紹介で作家の井上靖さんに会ったのはそのころであった。井上さんはローマ五輪の取材の帰りで、僕がパリ案内のような役目を引き受けパリの街へ案内した。当時の僕はいくつかコンクールに受かっていたけれど、仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、もうヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで食事しながら、僕が井上さんにそう言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。「文学者の場合、小説は翻訳が必要で外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」征爾はハッとした。なるほどその通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた。』
・ベルリンではヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務めるようになり、カラヤンとの親交はこの時から生涯続くことになった。
10月「ベルリンでニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者オーディションを受ける」
『カラヤン先生のレッスンに通っている頃、べリリンに来ていたニューヨーク・フィルハーモニックを率いるレナード・バーンスタインに会いに行った。秋にはベルリンで音楽会を開くと聞いていたからだ。本番の後、バーンスタインは僕を「リフィフィ」というバーへ連れて行ってくれた。ストリップをやっている妖しげな店で、そこでニューヨーク・フィルの副指揮者になるためのオーディションらしきものを受けた。審査委員の楽員たちも一緒だ。ところが僕は英語ができないから何言っているかよく分からない。それでも冬には副指揮者採用を知らせる手紙が届いた。期間は1961年4月から1962年9月までの1年半。』
『だがまだカラヤン先生のレッスンが残っている。迷った僕は手紙を持って先生のところへ相談に行った。「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい」。あたたく送り出してくれた』
12月14日
モーツァルト《交響曲第28番》
J・シュトラウス二世《こうもり》序曲
フランス国立フィルハーモニー管弦楽団を指揮して収録

『』は 小澤征爾「私の履歴書」より要約