柏木博子


写真提供:柏木博子

氏名・生誕地

柏木博子

(旧姓:宮崎博子)
KASHIWAGI, Hiroko

1940年4月10日福岡県福岡市に生まれる
ベルリン在住
Be’wohnen in Berlin

1.職業

オペラ歌手、声楽家(リリック・コロラトゥーロ・メゾ)
Koloratur Mezzosopran

2.楽歴

楽歴
1966年3月東京藝術大学声楽科卒業
1969年同大学院修了
1970年11月~1972年9月Studio der Deutschen Oper am Rhein, Dūsseldorf-Duisburgドイツラインオペラ研究所研究生に採用される
正式名:Studio der Deutschen Oper am Rhein, Dūsseldorf-Duisburg
師事:酒井伊吹子、戸田敏子、畑中更予、中山悌一
ドイツ師事:フランチェスカ・マルティエンセン・ローマン、エッバー・ミュンツッィング、マルガレーテ・ヘルマン、フリーデル・ベッカー=ブリル、ニーナ・スターノ、エリーザベート・シュヴァルツコップ
専属契約:ラインオペラ座、ダルムシュタット国立劇場、ビーレフェルト市立劇場
客演契約:ベルリン・ドイツオペラ、ドレスデン・ゼンパーオーパー、リューベック市立劇場、ハーゲン市立劇場、フランクフルト市立劇場、フライブルク市立劇場、シュトゥットガルト国立劇場、ミュンヘン国立劇場、ブラウンシュヴァイク国立劇場、ハノーファー州立劇場、ウエルシュ・ナショナルオペラ、オイティーン・サマーフェスティバルほか
教え子
大沢可
関係団体・受(章)賞歴
エージェンシー:Agentur Schulz
二期会(1995年まで)
カジモト・イープラス

3.家族

父方祖父:宮崎弘隣(1868~1912年)軍医。1931年陸軍軍医総監特命。勲二等瑞宝章受章
父方祖母:
母方祖父:水野武、熊本県戸坂の大庄屋(長者番付に記載された)
父:宮崎一郎(1907~1999年)医学博士、九州大学医学部卒業、鹿児島大学教授を経て九州大学医学部教授、医学部長を務めた後、名誉教授。勲二等瑞宝章ほか受章
母:武子
姉:晴子
妹:照子
夫:柏木茂生 医学博士、内科医師、慈恵会医科大学研修生修了後渡独。ドイツで博士号を取得、現在ベルリンのインターナショナル・クリニック、MEOCLINIC内で内科診療を続けている。ベルリン在住
長女:柏木真紀 医学博士、産婦人科医師、ベルリン・フンボルト大学医学部卒業。現在チューリッヒの「女性のための健康センター」院長

4.プロフィール

幼少時代と音楽との出会い

幼少時代、丁度終戦前は連日、空襲警報が鳴り、終戦の年は5才、世の中が混沌とし音楽どころではなかったという。
父親がその頃、鹿児島大学医学部教授をしており一家そろって鹿児島に住んでいた。
家には古い、昔の足踏みオルガンが置いてあった。それが弾けるのは父親だけった。その頃父は忙しくて弾くどころではなく廊下の隅にひっそり置いてあった。
博子は幼少時代から、大変に変わった子だったと認めている。何かにみとれていて(柏木博子によると、かすかな記憶では、電線に並んでいるスズメたちの様子が面白くて眺めていたようで、いつまでもポカンと口をあけて突っ立っているものだから、犬がそばにきて片足をあげてオシッコをひっかけていった。ドブの中にいる赤い糸ミミズが面白いと、幼稚園の帰りに一人でドブに入り込んでいつまでも遊んでいた。
兵隊が大好きで、ザックザックと隊を組んで道を行進してくると「兵隊さんバンザーィ」といって、その中の一人に手をつないでもらって、どこまでもついていってしまい、後から母が探すのに苦労したようだ。
母は“博子の知能が足りない”と本気で心配して、近所の博子をとても可愛がってくれていた、おばに相談して叱られたこともあったという。
世の中が多少落着いてきて、始めての知能検査を受けたら、結果は“天才”と出たという。
何かに夢中になると、他のことは一切目にも耳にも入らなくなるというのは今も多少その傾向があるという。昔はそれがもっとひどくて、一旦何かを始めると、声をかけようが、なにしようが全然反応しなくなって困ったと、母親がしょっちゅう聞かされていたという。
その後は、福岡女学院高等学校卒業、日本女子大学英米文学科卒業、東京藝術大学声楽科卒業・同大学院修了。

ドイツ時代~はじめに

1969年大学院修了と同時に渡独。
1970年ラインオペラでドイツ初舞台を踏み、以来20年以上にわたり、ラインオペラを中心に、ミュンヘン国立劇場、ベルリン・ドイツオペラ、ドレスデン・ゼンパーオーパーなど、数々のドイツ国内の歌劇場と専属ならびに客演契約を続ける。またウェルシュ・ナショナルオペラとの客演契約でイギリス各地で公演した。
主なレパートリーはロジーナ、チェネレントア、ケルビーノ、ドラベッラ、ツェルリーナなど、ロッシーニとモーツァルトの作品が多い。
東京日生劇場のモーツァルト四大オペラ公演、NHKのニューイヤーコンサートにも客演。
オペラ界を退いた後、ドイツ国内、日本または中国などでコンサートを中心に活躍。
特にドイツにおいての日本歌曲の紹介に力を注いできた
柏木のドイツ行きは、オペラ歌手になるためではなく、夫のボン大学勤務のためで一緒に渡独した。
運命の出会いというのは、声楽の先生にレッスンを受け始めてからだ。
やがてライン・オペラのストゥディオ研究生になり、ドイツオペラ界入りのスタートとなる。
初めは役をもらうと自分と相手役の歌詞を辞書片手に訳すことから始め、意味を完全に把握し、演出家や周囲の言葉を理解するなどの努力を積み重ねたと言う。
言葉の壁というコンプレックスと闘いながら必死について行った時期が続いたようだ。
専属歌手として20数年間在籍したラインオペラでは、1シーズンの公演回数はバレエも含め約450回あった。それだけに膨大な人員を抱えるドイツで一番多くの人数がいたオペラ座であった。
その中で柏木は主役の座を守り続けた。これは簡単なことではない。
身長160センチを少し超える柏木は、日本では普通よりやや上の身長だが、ドイツではどこの劇場でも一番小さかったと言う。
リリック・コロラトゥーラメゾの柏木は、若い娘やお小姓の役が多く、そうしたなかロジーナ役、チェネレントラ役、ツェルリーナ役、ケルビーノ役等を歌い続け、《セビリアの理髪師》ロジーナ役は200回上歌っている。そのレパートリーは30以上に及んだ。ここにドイツに来た時の一節がある。
『「~ドイツリートに歌われている風景を、実際に自分の目で見て、肌で感じていらっしゃい。ただ<緑>といっても、日本の緑とドイツの緑は違うんだよ」というのが恩師、中山悌一先生からの餞別の言葉だった。春たけなわの時期にたどりついたドイツの新緑は、先生のお言葉通り、日本とはまったく違った色だった。明るい太陽の光を浴びてきらきら輝く、黄色みをおびた新緑のなか、思い思いのメロディーを歌い奏でるアムゼルやさまざまな鳥の声、広々と拡がる麦畑、あたりを一面に黄色に染める菜の花畑、そして色とりどりの名の知らぬ野草が乱れ咲くどこまでも続く緑の野原。これらすべては私がこれまでドイツリートを歌いながら想像していた風景とは、色といい、スケールといい、全く違う。これこそが、シューマンの歌曲集《詩人の恋》の出だし”der wundershōe Monat Mi(美わしの月、五月)なのだと、胸がときめいた』(註:『』内参考文献より要約)

5.柏木博子 歴史年譜

1940年 0才
3月10日父:宮崎一郎と母:宮崎武子(旧姓:水野武子)の第二番目の子として福岡市で生まれる。上に姉:晴子。
1942年 2才
父親が鹿児島大学医学部教授に就任したため一家で鹿児島市へ移り住む。
1943年 3才
妹:照子が生まれる。
1944年 4才
幼稚園入園。
1945年 5才
熊本の母の実家へ姉:晴子と共に疎開。
終戦を母の実家のある熊本の戸坂という所で迎えた。
終戦後、熊本県八代市の父の実家へ移る。
戦後、母のこの実家は、農地改革で、母屋とその周囲わずかばかりを残して、すべて、国に召し上げられた。
1946年 6才
1947年 7才
熊本県矢代市立太陽小学校へ入学。
1949年9才
父が九州大学医学部の教授に就任したため、家族全員で福岡市に居を構える。
福岡市立箱崎小学校へ転校。
1952年 12才
福岡女学院中等部入学。
1955年 15才
同高等部入学。
コーラス部に所属する。
1958年 18才
日本女子大学英米文学科入学。
在学中は明桂寮で寮生活を過ごす。
日本女子大の『桜楓学園』の案内の中に“声楽レッスン”というのを見つけ声楽の個人レッスンを受けてみたいと声楽家/酒井先生の門をたたき、イタリア古典歌曲から始めて、すこしずつ簡単なアリアなども歌えるようになる
女子大4年の時、師の酒井先生から、卒業したらどうするつもりかと聞かれ「芸大に行く気はない?」ときかれた。
酒井先生はきっぱりと、「貴女なら受かります」。しばらく考えてから、意をかためた。ただし、歌以外は、基礎がなく、酒井先生の勧めで、芸大の戸田敏子の所に通い、ピアノのレッスン、聴音のレッスンに行き、そして、コールユーブンゲンの練習、楽理の勉強に励んだ。
芸大の試験は5次まであり、1次が自由曲、2次がコールユーブンゲンと1年前に発表になったイタリア、またはドイツ歌曲10曲の中から、当日指定された曲、(イタリアかドイツかは選べました)3次がピアノと理論、4次が学科3科目、5次が面接となって,その都度篩いおとされるようになっていた。
柏木は自由曲を、グルック「オルフェオ」のアリア“Che faro, senza Euridice (ああ、われ、エウリディーチェを失いぬ)”、課題曲はイタリア歌曲を選んだ。
コールユーブンゲンの練習は寮の食堂にあるピアノを使って練習した。
学科は3科目ということで、国語、英語、日本史を選択。
1962年 22才
日本女子大学卒業
東京藝術大学声楽科入学
<東京芸術大学の頃>
昔、上野公園に散歩に行ったりすると、楽器を抱えたり、楽譜を手にしたりした芸大の学生をよく見かけていた柏木は、自分には手の届かない遠い世界に住む人達のように思い、羨望と憧れのまなざしで眺めていたという。
7月に芸大受験を決心してから、夏休みも実家に帰らず、酒井先生が言うがままに、あちらこちらとレッスンに駈けずりまわった。その間、この状態で女子大を卒業できるだろうか、卒業論文をどうやって書き終えようかと不安に苛まされながらの日々でもあったようだ。
そんな状態を10ヶ月近く続け、何とか無事、女子大を卒業。
芸大入学が決まった途端、はりつめていた神経が一度にゆるんだという。芸大の授業が始まり、誰もが、自分の及びもつかない素晴らしい声をしているような気がして、私は間違ったのかと、すっかり欝状態になったという。
折角通い始めた芸大を、3週間休み、郷里の福岡に帰った。
両親のもとで、何もせずにぼんやりと過ごしている内に、元気が出てきて、東京に戻る。
それからは探し求めていた自分の進む道だとはっきり自覚した。
すでに、一つ大学を終えて来たから、きっと他の人より年上になるだろうなと思っていたが、入ってみると、結構年上がいて、男女あわせて30人に満たない声楽科の学生のなかで、年齢的にはちょうど中間ぐらいであったようだ。
柏木は、戸田敏子のクラスに入り、戸田のレッスンの素晴らしさもさることながら、選曲にもずばぬけた才能があり、試験の度に、「そうねえ、何がよいかしらねえ」とじっと顔をみつめて、一人一人の長所を存分に発揮できるような曲を選んでくれたようだ。卒業試験では、柏木がドイツに来て十八番になった「チェネレントラ」のアリアを選んでくれ、戸田に先見の目があったように感じたという。
それに戸田クラスの生徒たちは先生から「お願いだから、人の足をひっぱるようなことだけはしないでちょうだいね」といつも言われてたという。
しかし、中山悌一からは、一度、「戸田さんとこの生徒は、皆おっとりしすぎていて困る。『お先にどうぞ』じゃ、この世界渡っていけんぞ!」と云われたことがあったという。以来、柏木は人の足をひっぱらないように、悪口を言わないようにだけは、心がけてはおり、歌うことに関しては、特にここドイツでは「お先にどうぞ」とは決していわないで、「お先に失礼!」というようにしていたという。
二期会研修生となる
1966年 26才
東京藝術大学声楽科卒業
同大学院ソロ科入学し、中山悌一に師事
大学4年の時、戸田と中山悌一が半年間生徒を交換があり、ドイツ歌曲の大御所の中山に預けられて、ドイツ歌曲の歌い方を徹底して教わる。
中山のレッスンでは、その日にレッスンして頂く曲は、自分であらかじめ、一つ一つ辞書をひいてきちんと訳して、それを読みあげてから、音楽的なことを教わるようになっていた。大変厳しいレッスンで、ドイツ語の発音からそのニュアンス、そして曲想に至るまできっちり分析して教えた。
大学院の卒業論文はマーラーの「子供の不思議な角笛」を選んだ。
大学院時代に、その頃有名だったドイツのリード歌手、ゲルハルド・ヒッシュ氏が、芸大で公開レッスンをされた時に選ばれて、シューマンの「女の愛と生涯」全曲をレッスンしてもらう。
当時、芸大では毎年大学院のオペラ科主催のオペラ公演があっていて、オペラ科だけでは人数が足りないので、ソロ科も借り出されて出演していた。その年の出し物は、モーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」で、ある日、その頃オペラ科の主任の柴田睦から呼ばれて、「ドンナ・エルヴィラはソプラノの役だけど、君 にぴったりの役柄のような気がするし、君はメゾでも高い声もでるみたいだから、やってくれないか」と頼まれた。
戸田は、こんなに音域の高い、難しい役を引き受けたらノドを壊す可能性があると心配したようだが、中山は、「その時は自分に出来ないと思ったことでも、やりおおせると、その次には、それが80パーセントになって、さらにまた20パーセントの可能性が広がってくるもんだ。僕はやることをすすめるね」と言う。その頃オペラ科の客員教授のイタリア人のニコラ・ルッチが、厳しくて、特に日本人学生にとっては、レチタティーヴォ(チェンバロの伴奏で歌うメロディーのついた台詞)をうまく歌うのは至難の技で、大変な勢いでしごかれた。その時、ドンナ・アンナを歌ったのは林康子、ツェルリーナは島田祐子であった。
日本にいる頃、戸田敏子は色々こまかく気を使って心配してくれる母親的存在、そして中山悌一は厳しいけれど、ことあるごとに適切な助言で導いてくれる父親的存在でった。
芸大の大学院と並行して、二期会の研究生にもなった。戸田から、一度「アンタはパーッとしてて、おばあさん先生達から嫌われがちだから気をつけなさいよ」とご注意を受けたことがあった。
1968年
慈恵医科大学研修生の柏木茂生と結婚。
NHK学校放送の音楽の時間に定期的に出演するようになる。
9月3日<日本フィル第164回東京定期演奏会>ヴェートーヴェン《合唱幻想曲》に出演 指揮:小澤征爾   東京文化会館
出演:佐野順子(S.)、大川隆子(S.)、宮崎博子(A.)、唐津東流(T.)、山形忠顕(T.)、木村俊光(Bs.)、合唱:都民合唱団、三友合唱団、演奏:日本フィルハーモニー交響楽団。
1969年 
東京藝術大学大学院修了(修士論文はG.マーラーの「子どもの不思議な角笛)。
二期会会員となる。
5月、夫:柏木茂生がダイツ・ボン大学の心療内科に入局が許されたため、一緒に横浜港から出航、ソ連経由で渡独。
ボンのエンデニッヒに落ち着く。
ドイツに行くことが決まった段階で、フランチェスカ・マルティエンセン・ローマンという、発声法の本も出している有名な歌手を多く育てた方が、デュッセルドルフ市で、音大の教授をしていることを知った。その先生につくために音大の入学試験を受け、合格したが次の学期で退職することになっていた。学生証を持っていれば、交通機関は無料、コンサートやオペラも格安で入れた。そんなことよりよい先生につく方が大事だと思いローマン先生からの個人レッスンを受けることに決め、せっかく受かった音大を諦めた。
ローマン先生について間もなくローマン先生が養老院に入ることになった。そして永らく先生の助手を務めていたデュッセルドルフ在住のエッバ・ミュンツイング先生にあずけられることになる。
『ミュンツイング先生に週一のレッスンを受け始めて半年近くが経ったある日、ラインオペラ座のストゥーディオを受けてみる気はないかと聞かれた。
後で知ったがラインオペラ・ストゥ-ディオはラインオペラ座に所属するオペラ歌手養成機関だった。毎年オーディションでソプラノ、メゾまたはアルト、テノール、バリトンまたはバスの計四人が採用される。
じつはその時、妊娠二ヶ月だった。先生に打ち明けると、受かるかどうか分からないのだから、そんなの関係ないと言われ、オペラ座に申込みの手紙を出してくれた。
オペラ座からはすぐに返事が来て「ひとまず、事前にあなたの声を聴きたい」と呼び出され、ストゥーディオの総責任者でラインオペラの第一指揮者でもあったシャープ氏の前で歌わされた。モーツァルトの《皇帝ティートの慈悲》からセストのアリアを歌った。オペラ劇場内の音楽稽古室で歌ったのだが、「いやあ、あの時はびっくりしたよ。小柄な日本人だと思ったのに、それが部屋中響きわたる声で歌い出したのだから」とシャープからのちのち何度も聞かされた。
オーディションの日、ボンからミュンツィング先生の所に行って発声練習をみてもらい、先生お得意のブイヨンスープをごちそうになってから、「toi,toi,toi!(トイ・トイ・トイ)」と励ましの言葉をいただいてオペラ座に出かけた。
指定された控室に入ると大勢の男女が深刻な顔でいた。名前を呼ばれ同じセストのアリアを歌った。
このアリアは、一曲の中に、リリックな部分とドラマティックな部分との双方があって、しかも最後は、低音から高音にいたるまでの早いパッセージでしめくくるもので、自分の持っているテクニックをすべて披露することができる。
歌い終わり「ダンケシェーン」の一言で引き下がり、しばらくすると何かドイツ語で歌えと言う。
モーツァルトの《コジ・ファン・トゥッテ》からドラベラのアリアをドイツ語訳で歌うと、「後から劇場支配人との面接があるから待っていてくれ」と伝えらる。
総支配人との面接で妊娠のことを打ち明け、「それでは出産後どれくらいで歌い始められると思うか」と聞く。二ヶ月と答える。「オペラのシーズンは本来9月から始まるけれど、十一月から始めるようにしましょう」とこともなげに言い、契約終了した。
劇場入りしてから六時間が経っていた。
帰りにミュンツィング先生の所に報告に行ったところ、先生はビックリするほどやつれた顔でドアを開けられたが、受かりましたと言うや「Was?」と叫ばれ「よかった、よかった、あんまり遅いから、私はあなたが落ちて傷心を抱えたままボンに戻ったのではないかと心配していた」と痛いほど抱きしめられた。
そのやつれ方は、心配のあまりだったのだ』(註:『』内参考文献より要約)
9月娘:真紀(長女)生まれる。
11月オペラ研究所開始。
柏木は、デュッセルドルフ市-デュイスブルク市両市の劇場協会であるドイツラインオペラ・ストゥーディオの研究生(1969-1971)としての採用が決まり、二年間のコレペティとの音楽稽古、演技指導のほか、舞台芸術フェンシングなどを勉強することになる。
11月ストゥディオ研修生となり、『一番初めに歌ったのはモーツァルトの《後宮からの逃走》第一幕で歌われるコーラスの中のごく短いソロ四重唱で、ストゥーディオ一年生四人で歌い、ヒルデガルト・ベーレンスがソプラノを受け持った
間もなく以前ストゥ-ディオに居た人が歌っていた《魔笛》の童子を引き継ぐ』(註:『』内参考文献より要約)
参考資料:(註:『』内参考文献より要約)
1970年
『半年後、フンパーティングの《ヘンゼルとグレーテル》の中の眠りの精を歌ったが、客席から見ると、舞台の後ろに暗い森が広がっているだけにしか見えないのだが、そこに立っていると、舞台も客席も全部はっきり見渡せるのだから、そこで生まれて初めてたった一人で歌う怖さを感じる。しかしストゥディオ生が舞台に立つ時は、毎回、音楽上はラインオペラ第一指揮者のシャープ氏が、演技面ではオペラディレクターのラインハルト氏が全責任を負ってバックアップし、見守ってくれて、本当に心強かった』(註:『』内参考文献より要約)
1971年
柏木がドイツで初めて初日(プルミエ)の舞台に立ったのは、ストゥ-ディオ二年目に入ってすぐの時で、有名なフランス人演出家ジャン=ピエール・ポネルの演出でロッシーニ《アルジェのイタリア女》の奴隷女ズルマの役であった。
この時のキャストは、パオロ・モンタルソロ、ウーゴ・ベネッリ、が客演で呼ばれて来ていた。指揮はアルベルト・エレーデ。柏木のソロで歌う部分は少ししかなかったが、初めから終わりまでアラブ衣装をつけてちょろちょろ動いたから結構目立ち、劇場支配人の目にとまり翌日早速部屋に呼ばれて専属契約をもらえることになった。一年ちょっとの時で、大きな写真入りで新聞に報道され、インタビューを受ける。
翌月は《ドン・カルロ》で第二幕の第二場でマンドリンを弾きながらエポリ姫と二重唱を歌う。
『その頃はミュンツィング先生がリタイアして田舎に引き込もり、誰かよい先生はいないかと探していた時で、オペラ座の仲間の一人が、ケルン在住の彼女の先生を紹介してくれ、私はその先生に足繁く通って、この小さな役をくり返し、くり返し、それこそ一音一音、完璧に作り上げていただいた。本来ならテバルドという名の小姓として登場するこの役は、ラインオペラのオペラディレクター、ラインハルト氏の演出では、歌わずに演技だけをする黙役の女官役も同時に兼ねていて、モンデーカ伯爵夫人という役名になっていた。王妃エリザベッタがドン・カルロと逢引する機会を与えたといって、国王から追放を命じられる伯爵夫人の役である』(註:『』内参考文献より要約)
1972年
ミュンツィングから客演の機会を増やすためにエージェンシーのオーディションを受けることを勧められ、ミュンヘンのシュルツ・エージェンシーに行く。
すぐにダルムシュタット国立劇場専属のオーディションを受けるように言われる。「まずは小さい劇場から始めて、主役のレパートリーをふやすべきだ」と言われ、オーディションでモーツァルト《フィガロの結婚》のケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」を歌った。
翌日エージェンシーから電話で「ダルムシュタットがあなたを専属として取りたいと言って来たから、ラインオペラの劇場支配人とうまく話をつけて、専属契約を解消してもらうように」といわれる。
円満に契約解消され次のシーズンからダルムシュタットに移ることになった。
定期的にレッスンを受けるのが困難になり、オペラ座の友人の紹介でかってソプラノ歌手だった先生についた。
9月客演でイギリスのカーディフにあるウェルシュ・ナショナルオペラで《セビリアの理髪師》ロジーナを英語で歌う。ロジーナはすでに十八番になっていたので、どの新聞でも絶賛され、苦労した英語の発音までも誉めてもらった。翌年の春にもカーディフで公園することになった《セビリアの理髪師》で再びロジーナを歌った
9月ラインオペラのソリストとして専属(Festvertrag)契約(1972–1973)を結ぶ
『専属になった最初のシーズンは、カヴァッリ作曲《オルミンド》のネリッロという小姓役で初日(プルミエ)のキャストに選ばれ、演出はラインハルトで、正式の稽古が終わった後も私を一人残して、文字通り手取り足取りで演技をつけてくれた。彼が要求する、目で、表情で演技するというのが日本人の私にはなかなかできなくて、「まだダメだ、まだダメだ」とくり返し、くり返し練習させられた。バロックオペラなのでそれぞれの役にアリアがあって、私にも二つあった。「女というものは実に危険なものだ・・・・」と生意気に歌うもの。これを舞台端に腰掛けて観客に向かって語りかける演出になっていたから、主役でもない私の写真が新聞の批評欄に大きく出た。もう一つのアリアも「この町はなんというところなんだ・・・」とホモに扮した人から舞台中追い回されながら歌うもの。おどけた役だったが、デュッセルドルフの月刊の催しもの案内の雑誌に私の舞台写真が載った』(註:『』内参考文献より要約)
エッセン劇場と《魔笛》第三童子役の出演 (Stückvertrag) 契約を交わす。
ジャン=ピエール・ポネル演出のロッシーニ《アルジェのイタリア女》奴隷女ズルマ役で初日(プルミエ)の舞台に立つ。キャストはパオロ・モンタルソロ、ウーゴ・ベネッリ、タイトルロールはユリア・ハマリのオペラデビュー。翌月《ドン・カルロ》「小姓テバルド役」、専属契約になった最初のシーズンはカヴァッリ《オルミンド》の「ネリッロ役」で初日のキャスト。
1973年
3月シュルツ・エージェンシーからリューベックの市立劇場でロッシーニ《セビリアの理髪師》のロジーナを歌える人を探しているから手配を済ませたのでオーディションを受けるように電話が入り汽車を乗り継いで出かける。歌った後、責任者から実は90%決まっている人がいると聞かされ駄目だろうと家に戻る。
翌日エージェンシーから電話で「あなたに決まった」と言われ、リューベック市立劇場と《セビリアの理髪師》ロジーナ役14回の出演(Stückvertrag)契約(1973-1974)を交わす。
『ラインオペラからその間の有給休暇をもい、初めての主役中の主役、舞台で自分を精一杯出し切れるその快感は素晴らしく、これこそ私が長い間夢見ていたことだったのだと実感した』(註:『』内参考文献より要約)
5月26日リューベック市立劇場の《セビリアの理髪師》ロジーナ役で客演。
ダルムシュタット州立劇場との専属(Festvertrag)契約(1973–1974)を交わす。
写真下【1973年5月27日付け批評、リューベック客演初日】
『《セビリアの理髪師》のロジーナは、日本人の柏木博子が歌っています。柏木さんは日本で生まれ、教育を受け勉強を終えてドイツに行きました。これまでライン・オペラ、ダルムショタットに所属(編者訳)』(KHY003)

8月21日ダルムシュタット国立劇場と専属契約した柏木の紹介が報道される。
9月23日ダルムシュタット国立劇場ロジーナ役でダルムシュタットデビュー。その後移ったビーレフェルト市立劇場専属時代にもリジーナを歌い、ギーセン市立劇場での客演契約、さらにフランクフルト市立劇場、オイティーン・サマーフェスティバルでも三年連続歌わせてもらった。
写真下【9月24日ドイツの日刊紙ダルムシュタット エコー記事】
『・・・柏木廣子のロジーナにも、その美しい、そして彼女の煌めくようなきれいな色彩の明るさと、音楽の解釈に魅了されました。(編者訳)』(KHY006)
DARMSTǍDTER ECHO

一時は、オペラ雑誌に「いまドイツでもっとも売れているロジーナ歌手」と書かれたくらい、あちこちの劇場でロジーナばかり歌っていた。
ドイツ語で百二十回を超え、ウエルシュ・ナショナルオペラとの客演契約でイギリス各地でも英語で十回あまり歌った。ラインオペラと再契約してからすぐ、イタリア語で、ボネル演出《セビリアの理髪師》のロジーナを歌わせてもらい、それ以来ラインオペラをやめるまで十年以上にわたって繰り返し歌い続け、シュトゥットガルト国立劇場にも何回か客演で呼ばれ総計すると二百回はロジーナを歌ったことになる。
1974年
春、ハーゲン市立劇場の《チェネレントラ(ドイツ語ではアッシェンプッテル)》ドイツ語上演のオーディションに合格した。
ハーゲン市立劇場と《チェネレントラ》タイトルロールの出演(Stückvertrag)契約を交わす専属歌手の中に、チェネレントラを歌えるコロラトゥーラ・メゾソプラノがいなかったのでこの役を射止めたようだ。
この時に素晴らしい指揮者に巡り合った。立稽古の合間にしょっちゅう一音一音細かくレッスンしてくれた。「そんな退屈な歌い方をしてはだめだ、コロラトゥーラというのはただきれいに歌うだけのものではないんだよ。こういうふうにめりはりと速度を変化させて歌って見てごらん」と一フレーズごとに、ピアノを弾いて手本を示し教え込んでくれた。テクニックとは、あくまで基礎であって、本当に(音楽する)というのはどういうことなのかを、私は、その時、彼を通して初めて知ったのだ。
9月客演でイギリスのカーディフにあるウェールズ国立オペラとイングランドツアーで《セビリアの理髪師》ロジーナ役6回の出演契約を交わす。
ロジーナは英語で歌った。ロジーナはすでに十八番になっていたので、どの新聞でも絶賛され、苦労した英語の発音までも誉めてもらった。翌年の春にもカーディフで公園することになった《セビリアの理髪師》で再びロジーナを歌った
オイティン音楽祭(オペラ音楽祭)で《セビリアの理髪師》ロジーナ役5回の出演(Stückvertrag)契約を交わす
1975年
ダルムシュタット国立劇場からビーレフェルト市立劇場と専属(Festvertrag)契約(1975–1978)を交わす。
《ドン・ジョヴァンニ》でシーズンが開いたら、続いてすぐ《ヘンゼルとグレーテル》の初日で、午前中、《ヘンゼルとグレーテル》の舞台稽古、夜は《ドン・ジョヴァンニ》の本番ということもよくあった。その上、この時期、他の都市での客演も次々に入って、自分の劇場がフリーの日は、どこか別の所で本番のみならずそのための立ち稽古も入ったりしていた。
ビーレフェルト劇場でよいテクニックをしているソプラノに頼み彼女の先生ベッカー=ブリルを紹介してもらう。
この先生にめぐりあってから、呼吸法の一からもう一度、徹底的にテクニックの勉強をやり直し、亡くなるまで、常に声のコントロールをしてもらいに通った。息は”吸うもの”ではなく、胸郭を拡げて横隔膜を下げることによって”入れるもの”だということ、声は共鳴腔に響かせて、やわらかくて温かい声を出すようにと、そのためのテクニックを細かくいろいろ教 えてくれた。
三年間の間に、《セビリアの理髪師》ロジーナ、《アルジェのイタリア女》イザベッラ、《フィガロの結婚》ケルビーノ、《コジ・フォン・トゥッテ》ドラベッラ、《オルフェオとエウリディーチェ》オルフェオ、《ヘンゼルとグレーテル》ヘンゼル、《利口な女狐の物語》タイトルロールと七つの役を歌った。それに《ドン・ジョヴァンニ》ツェルリーナ、《微笑みの国》中国娘ミー、《カーチャ・カバノヴァー》ヴァルヴァラも歌った。ここでは何を歌っても褒められ大事にされて、<観客のアイドル>といわれたほどの、ちょっとしたスターだった。
ウェールズで最大の都市カーディフを拠点とするウェールズ国立オペラとロジーナ役2回の出演(Stückvertrag)契約を交わす。
フランクフルト市立劇場のガラ公演に《セビリアの理髪師》ロジーナ役、《カーチャ・カヴァノヴァー》ヴァルヴァラ役、《ドン・カルロ》2回出演の客演(Gastvertrag) 契約(1975–1976)を交わす。小姓のテバルト役、エリザベッタは一回目がモンセラート・カバリエ、二回目がミレッラ・フレーニだった。
この公演の柏木が演じたテバルド役についてオペラ雑誌に載ったこの日の批評に【テバルドの声がとても目立っていて、この歌手をこんな小さな役でしか聴けないのは残念だった】。
フランクフルト歌劇場と《ラインの黄金》ウェルガンデ役で出演(Stückvertrag)契約(1975–1976)を交わす。
オイティン音楽祭に《セビリアの理髪師》ロジーナ役で5回の出演(Stückvertrag)契約(1975–1976)を交わす。
1977年
写真下【10月4日ギーセン市立劇場《セビリアの理髪師》ロジーナ(KSY029)】
『まさに理想的なキャストの一人がビーレフェルト市立劇場の柏木博子です。小柄な日本人は最近、他のどの同僚よりも頻繁にロジーナを歌っていますが、常に固定化されたものを感じさせない。彼女の歌はゥ宇久四位ソプラノの声と女性らしい優雅さを兼ね備えている(参考:三丁目俊一郎訳から)』


1978年 
ライン・ドイツ・オペラと専属(Festvertrag)契約(1978-1992)を交わす。
劇場支配人のグリシャス・バーフスから声をかけてもらい再びラインオペラ座に戻っていたある日、ブラウンシュヴァイク国立劇場から《利口な女狐の物語》の女狐役での客演申し込みがあり、あの大好きな役をまた歌えると飛び上がって喜んだ。
ラインオペラの公演日との調整もうまくいって歌い演じることができた。
グルック《オルフェオとエウリディーチェ》の<愛の女神>を歌った直後、スウェーデンのシルヴィア王妃がこの作品をご高覧になり、「王妃があの<愛の女神>を歌ったのはどなたですか、ときみのことをお名指しで褒めておられたからと、耳にいれておいてあげようと思ってね」とバーフス氏に呼ばれて言われた。
1979年
ハノーファー、ニーダーザクセン州立劇場と《アルジェのイタリア女》のタイトルロールとして11回の出演。(Stückvertrag)契約を交わす。
1980年
NHKの<ニューイヤー・コンサート>で《セビリアの理髪師》ロジーナのアリアを歌う。
3月14日ブラウンシュヴァイク州立劇場とヤナーチェク《利口な女狐の物語》のタイトルロールとして12回の出演(Stückvertrag)契約を交わす。
【ヤナーチェク《利口な女狐》主役としてデュッセルドルフ・オペラ劇場所属のヒロコ・カシワギを中心に物語は展開され、この女狐の役はまるでこのソプラノ歌手のためにつくられたかのようであった。この魅力的な芸術家はしなやかな動きで、女狐のずる賢さと同時にまた雌狐との間に芽生える恋心も全く理想的に表現した。音楽的にも彼女は素晴らしかった。彼女は高音域でも低音域でも同じように効果的に、きれいに使い分ける明瞭な表現力豊かな声で、この難しい役の高度な要請に充分に応えることができた。「なお、動物の世界の多様な絡み合いを一生懸命に形成する役割を明らかに生き生きと演じた。全ての出演者の一致団結した演技が印象的であった。」(ブラウンシュヴァイク州立劇場、タイトルロール。翻訳:三丁目俊一郎)】
1982年
エリーザベト・シュヴァルツコップの「ドイツリート講習会」のオーディションを受け、フランクフルトのアルテオーパーの公開レッスンでシューマン《女の愛と生涯》を通してみていただくことにした。最初に「あの方を見かけてから」を歌った。歌い終わると、先生は何も言われず、じっと私の顔を見つめておられた後「どうしてあなたはこの曲をそんなに嬉しそうな顔で歌うのですか」と聞かれた。この曲は、『あの方を見かけて以来、私は盲目になったよう、どこを見ても、寝ても覚めても、私にはあの方のお姿のみしか目の前に浮かばない』という歌詞で始まる。それを私は初恋の喜びに満ちた若い女性の幸せな気持ちを歌いあげていると解釈して歌ったのだ。しかし先生は「この時の彼女の気持ちは、そんな表面的なものではなく、どこか不安の混じった、もっともっと心の奥の奥から湧き上がってくる、複雑な心の揺れ動きであって、そんなに嬉しそうに歌うものではないはずです」とずばりおっしゃられた。そうだった。ドイツリートはオペラとは違って、オリジナルの詩を深く分析、解釈して、一つ一つの言葉の持つ複雑なニュアンスを歌い出していくものなのだ。ただ表面的に一つの感情を歌い上げるものではないのだ。私はかなづちで頭をがんと殴られたような気がした。一週間にわたるこの講習会の最終日、先生の個人レッスンの許可とスイスにあるご自宅の住所、電話番号まで教えてくれた。以後二年近くオペラの本番の合間をぬっては、チューリッヒ郊外のあるフミコンという村のお宅に伺い、リートだけでなく自分の歌うオペラのレパートリーなども含めてみていただいた
1983年
7月<柏木博子リサイタル>  Mack Sawayer(ピアノ)  福銀ホール、青山タワーホール
11月オペラ《フィガロの結婚》ケルビーノ役で出演、日生劇場
1984年
6月13日シュトゥットガルト小劇場で予定していた主役のドリシ・ゾッフェルが病気のため出演をキャンセル。急遽、簡単な打ち合わせを兼ねた一回だけのリハーサルの後、《チェネレントラ》主役のプレミエに客演
写真下【1984年6月12日《チェネレントラ》客演、シュトゥットガルトの新聞掲載 <美しい日本人女性がtyenを救う>のタイトルの報道】

写真下【1984年6月12日《チェネレントラ》客演、シュトゥットガルトの新聞掲載
『一日もしないうちにデュッセルドルフの柏木博子がシュトゥットガルトのクライン・ハウスに飛び込んだ。ミュンヘンとデュッセルドルフでこの役を歌っている。彼女の勇気は十分にに報われた。デル・モナコが細部に亘って優美に磨き上げ仕上げた演出に、違和感もなく溶け込むことは大変素晴らしいことである。彼女は心地よく柔らかなメゾソプラノを持ち、繊細で豊かな色彩の役割に敏感に対処した。繊細で感動的なチェネレントラは、プリンスのハートを射止めハッピエンドで終わる。寛大にも継父と腹違いの姉妹を許すことができる愛らしくいじらしかった(参考:三丁目俊一郎訳から)』】

【シュトゥットガルト小劇場(クライネス・ハウス)での初日は、たった一日の間に飛び込んだデュッセルドルフのヒロコ・カシワギが歌った。彼女はデュッセルドルフでこの役を歌っていて、それにミュンヘンでも歌っている。彼女の勇気は充分に報われた。ジャンカルロ・デル・モナコが細部に亘ってこんなに優美に磨き上げて仕上げた演出に、違和感もなく溶け込むことは大変素晴らしい業績である。彼女は心地よくソフトなメゾソプラノで、この難しいコロラテュアが多用されるパートを感情をこめて克服した。最後の当然なハッピーエンドでプリンスのハートを射止め、その上さらに寛大にも継父と腹違いの姉妹を許すことができる、愛らしくいじらしいシンデレラだった。翻訳:三丁目俊一郎)】

【当初予定されていたドリス・ゾッフェルが、病気のため出演をキャンセルせざるを得なかったため、このパートをバイエルン州立歌劇場(ミュンヘン)でも既に歌ったことがあるライン・ドイツ・オペラ劇場所属のヒロコ・カシワギが急遽、簡単な打ち合わせを兼ねた一回だけのリハーサルの後、この役に起用された。彼女は全く知らない、よその劇場の演出に完全に(不自然さを感じさせずに)溶け込んだ。それに加えて彼女は、ロッシーニによって最後に作曲されたコロラテュア・メゾソプラノのパートを、光り輝くしなやかな表現力豊かな声で歌い上げた。翻訳:三丁目俊一郎)】
【デュッセルドルフから来たヒロコ・カシワギは、磨き上げられたコンセプトに飛び込む勇気が充分にあった。主役を引き受けた彼女は、ハイレベルの声と共に多くの魅力を披露し、「代役」という感じは決してしなかった。観客は彼女に対して、当夜の公演の救い主としてよりむしろ、それ以上に感謝しなければならなかった。翻訳:三丁目俊一郎)】
【主役にデュッセルドルフのヒロコ・カシワギが、病気のドリス・ゾッフェルの代役として急遽起用された。ヒロコ・カシワギのメゾは音色の暗いメゾではなく、本来この役により相応しい声である。彼女は2オクターブを超えるパッセージを難なくこなし、彼女のコロラテュアを花火のように打ち上げた。それに彼女は大変チャーミングであった。翻訳:三丁目俊一郎)】
7月<柏木博子リサイタル>  Christian de Bruyn(ピアノ)  福銀ホール、イイノホール
写真下【1984年7月5日<イイノホール・帰国リサイタル> 7月11日毎日新聞夕刊・音楽批評掲載
左上、『彼女の声質は若々しい張があって潤いに満ち、(略)各声部とも概してむらなく滑らかに整えられて自然である。この恵まれた素材と高度の技術が、ヨーロッパにける彼女の現在の地位を保証しているのであろうことは直ちに察せられた。しかし、それ以上に好ましかったのは、歌詞の内容を十分把握し、曲想の変化に密着しながら、細かい起伏を巧みに形作って行く神経の行き届いた知的な歌い方。誇張を避け極端を嫌い、つとめて客観的視野に立って恣意的な崩れを現わさぬ点、いかにも現代の若い歌手との思いを禁じ得なかった(略)特に」ロッシーニ。ボートレースに出場した恋人の動きに一喜一憂する娘の心理が三曲の組曲の中で見事に展開され、これは稀に聴く名演奏であった。同じ作曲者の歌劇《セビリアの理髪師》ロジーナ役で、彼女が圧倒的な評価を得ている理由もさてこそとうなずける。(音楽評論家 中村洪介)』】
左【7月2日<帰国リサイタル>福銀ホール。7月7日毎日西日本新聞夕刊・音楽批評
『昨年は、オペラ・アリアなどに圧倒的な歌唱を聴かせたが、ロマン派歌曲を中心とした今回のステージでも、その非凡な表現力を遺憾なく発揮。傑出したメゾ・ソプラノとしての評価を、あらためて不動なものにした。それにしても、声量、声域ともに、その日本人離れしたスケールには驚かされる。中音域での艶やかな美声は当然としても、ソプラノにも比肩しうる高音域のはりと透明感は、彼女にとって大きな武器といえるだろう。それはどんな強声部でも、なお余力を失わない安定した歌唱を可能にしている。(略)彼女の本領ともいうべきオペラの舞台に、地元で接し得ないのは残念なことである。当分は再度、再々度の里帰りリサイタルの実現を期して待ちたい】
右【1984年7月5日東京・イイノホール 朝日新聞文化欄批評
『最近、ドイツ・リートを上手に歌う日本人歌手が多くなったが、まだどことなく借りものの幹事がつきまとい、感心させられても、心から楽しめるリートを聴かせてくれる人は意外と少ないのである。そうしたなかで、メゾ・ソプラノの柏木博子のリサイタルは楽しめるものだった。(略)何よりその劇場的な声のひろがりの豊かさと、ty-ミングなかたりくちの確かさが、彼女の歌の説得性を強めているが、ヴォルから、グリークから、R・シュトラウスから、彼女が何を歌い出したいかがハッキリ伝わって来る快さが何よりもの美質であろう。そこには一点のあいまいさもなく、、また習った通りの歌のコピーでもなく、まさに柏木博子そのひとの歌が、一曲一曲息づいている。(略)彼女はオペラでもロッシーニ歌いとして、ベレガンサのレパートリーと共通したところがあるが、そのテクニックの精緻さと正確さも特筆しておくべきだろう。(略)アンコールのツェルリーナの「薬屋の歌」のうまさに舌を捲いた。(畑中良輔・音楽評論家)』】

1985年
1月NHKニューイヤーコンサートに出演
1986年
ドイツ国籍を取得
7月<柏木博子リサイタル>福銀ホール、中央会館 橋芝祐子(ピアノ)
ラインオペラ座総支配人バーフス氏がリタイアし、変わってホッレス氏が就任した。劇場内のコンセプトは全部変わるわけでラインオペラの今後がまったく見当がつかない。ユダヤ人のバーフス氏と、純粋なドイツ劇場を目指すホッレス氏は、バーフス氏が築き上げたラインオペラを根本から変革することは知られていた。特に東洋人に対して偏見を持っていると言われていて、その点においてユダヤ人のバーフス氏とは対称的だった。
新総支配人が雇った若いメゾが二人入ってきて歌手柏木の立場は段々と微妙になる
バーフス氏はリタイヤ後、デュッセルドルフの自宅に住み続けていたが、リタイヤされた途端に、今度は新しい総支配人のご機嫌を損ねないよう、潮をひくように誰も近寄らなくなり、子もいず、病身だった奥様が亡くなってから、自らの手で自分の生涯の幕を閉じた
その後、柏木の気持ちがだんだんとラインオペラから遠のき解約を申し入れて、ラインオペラに別れを告げる時が来た
渡独して、ラインオペラ(専属)、ダルムシュタット国立劇場(専属)、ビーレフェルト市立劇場(専属)、以下客演、リューベック市立劇場、ハーゲン市立劇場、フランクフルト市立劇場、フライブルク市立劇場、シュトゥットガルト国立劇場、ミュンヘン国立劇場、ブラウンシュヴァイク国立劇場、ハノーファー州立劇場、ウエルシュ・ナショナルオペラ、オイティーン・サマーフェスティバル等々オペラで、二十年間近く親しく立ち続けたその舞台に区切りをつける
月ごとの給料がなくなって、年金が入るまで待たなければならないのは痛手ではあった
以後、コンサートやリサイタルに集中するようになる
1987年
1月NHKニューイヤーコンサートに出演
9月<柏木博子リサイタル>  Jonathan Alder(ピアノ)福銀ホール、都市センターホール
11月21-23日<ニッセイ・オペラ・シリーズ>モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》ドラベラ役で客演、演出:鈴木敬介、指揮:秋山和慶、 日生劇場
出演:豊田喜代美、柏木博子、大島幾雄、小林一男、蒲原史子、演奏:東京交響楽団、合唱:二期会合唱団
1988年
<柏木博子リサイタル>ロッシーニ《チェネレントラ》から「チェネレントラのアリア」ほか、デュッセルドルフ・オペラ座
1990年
<柏木博子リサイタル>ロッシーニ《湖上の美女》から」「エレナとマルコルムの二重唱」「エレナのアリア」ほか、 デュッセルドルフ・オペラ座
8月1日<柏木博子リサイタル>  Mack Sawayer(ピアノ) 北九州市若松市民会館、門前町民会館、横浜イギリス会館、北九州市立美術館
1991年
<ユニセフ・ガラ・コンサート/UNICEF>に出演
4月<中国公演>中国文化庁の招待で北京、杭州、大連でコンサートに出演
10月<柏木博子リサイタル> Jonathan Alder(ピアノ)  文化会館小ホール
1992年
6月28日<九州交響楽団第13回定期演奏会>に出演 北九州市小倉区九州厚生年金会館(現北九州ソレイユホール)
歌劇《セビリアの理髪師》序曲
オペラアリア
歌劇」《フィガロの結婚》からケルビーノのアリア 
歌劇《ドン・ジョヴァンニ》からツェルリーナのアリア
歌劇《セビリアの理髪師》からロジーナのアリアほか
メンデルスゾーン《交響曲第3番》スコットランド
独唱:柏木博子、指揮:ニール・ヴァロン(ゲルゼンキルヒェン歌劇場音楽総監督)、演奏:九州交響楽団
<柏木博子リサイタル> Neil Varon(ピアノ) 福銀ホール、北九州市立美術館、小倉ニュータガワ・ディナーショー、若松市民会館、日本女子大桜楓会館、佐世保コミュニティセンター、年金センターホール、福銀ホール Mack Sawayer(ピアノ) 
1993年
7月<柏木博子リサイタル> Andreas Juffinger(ピアノ)  浜離宮ホール、福銀ホール 
1994年
9月23日 <柏木博子 ユニセフチャリティーコンサート>佐賀市文化会館
<柏木博子リサイタル> Andreas Juffinger(ピアノ) 長崎ソロプチミスト・ディナーショー、佐賀市文化会館、佐世保市民会館、都市センターホール、福銀ホール
1995年
11月<柏木博子リサイタル>  Andreas Juffinger(ピアノ)  紀尾井ホール、福銀ホール
1996年
11月<柏木博子リサイタル>  Stefan Irmer(ピアノ)  紀尾井ホール、福銀ホール
1998年
4月<柏木博子リサイタル>  シュテファン・イルマー(Pf.)  紀尾井ホール、福銀ホール 
1999年
10月<柏木博子リサイタル>  シュテファン・イルマー(Pf.)  紀尾井ホール 
2001年
4月<柏木博子リサイタル>  シュテファン・イルマー(Pf.)  紀尾井ホール 
2002年
<柏木博子リサイタル>ヴッパータール イマヌエル教会
2010年
5月14日柏木博子<出版記念コンサート>  富所小織(ピアノ)  王子ホール 
シューベルト歌曲
1. 《春のおもい》 2. 《ます》 3. 《笑いと涙》 他
ブラームス歌曲
1. 《甲斐なきセレナード》 2. 《おお、帰り道さえわかれば》 3. 《おまえの青い瞳よ》 他
日本歌曲
1. 《お六娘》 2. 《お菓子と娘》 3. 《たんぽぽ》 4. 《落葉松》
オペラアリア
1. オペラ《アルジェのイタリア女》より“むごい運命よ” 2. オペラ《ウェルテル》より“おさえられた涙は胸にあふれ” 3. オペラ《カルメン》より“ハバネラ”
東京と郷里の福岡で二年おきぐらいにリサイタルを開催

6.柏木博子演奏会記録

柏木博子 演奏会記録

7.レパートリーREPERTOIRE

リハーサル等でいつでも再生、実行、または提示できるパフォーマンス
1. F. Cavalliカヴァッリ
„Ormindo“ Nerillo (DOR 1973)
歌劇《オルミンド》 ネリージョ役(ライン・ドイツオペラ 1973)
2. Händelヘンデル
„Julius Caesar“ Sesto (DOR)
《ジュリアスシーザー》 セスト役(ライン・ドイツオペラ)
3. Gluckグルック
„Orfeo ed Euridice“ Orfeo (Bielefeld)
《オルフェオとエウリディーチェ》オルフェオ役(ビーレフェルト)
„Orfeo ed Euridice“ Amor (DOR)
《オルフェオとエウリディーチェ》アモール役(ライン・ドイツオペラ)
4. Mozartモーツァルト
„Figaro´s Hochzeit“ Cherubino (Bielefeld, DOR. 日生劇場)
《フィガロの結婚》 ケルビーノ役(ビーレフェルト、ライン・ドイツオペラ、日生劇場)
„Cosí fan tutte“ Dorabella (Bielefeld, ライン・ドイツオペラ、日生劇場)
《コジ・ファン・トゥッテ》 ドラベッラ役(ビーレフェルト、DOR、日生劇場)
„Don Giovanni“ Zerlina (Bielefeld, Stuttgart, Berlin DOB, DOR)
《ドン・ジョヴァンニ》 ツェルリーナ役(ビーレフェルト、シュトゥットガルト、ベルリン・ドイツ・オペラ、 ライン・ドイツオペラ)
„Zauberflöte“ III. Knabe (DOR, Essen in 1971)
《魔笛》 第三童子役(ライン・ドイツオペラ、1971年エッセン)
„Zauberflöte“ II. Dame
《魔笛》 第二侍女役
5. Rossiniロッシーニ
„Il Barbiere in Siviglia“ Rosina (Lübeck, Darmstadt, Bielefeld,
Frankfurt, Gießen, Stuttgart, Karlsruhe, Eutiner Sommerspiele, DOR, Welsh National Opera)
《セビリアの理髪師》 ロジーナ役(リューベック、ダルムシュタット、ビーレフェルト、フランクフルト、ギーセン、シュトゥットガルト、カールスルーエ、オイティン夏季オリンピック、ライン・ドイツオペラ、ウェールズ国立オペラ)
„La Donna del Lago“ Elena (DOR)
《湖上の美人》 エレナ役(DOR)
„L´Italiena in Algeri“ Zulma (DOR 1973)
《アルジェのイタリア女》 ズルマ役(ライン・ドイツオペラ 1973)
„L´Italiena in Algeri“ Isabella (Bielefeld, Hannover, Kassel)
《アルジェのイタリア女》 イザベッラ役(ビーレフェルト、ハノーバー、カッセル)
„Il Turco in Italia“ Zaida (DOR)
《イタリアのトルコ人》 ザイーダ役(ライン・ドイツオペラ)
„Cenerentola“ Cenerentola (Hagen, München, Dresden,Stuttgart, DOR)
《チェネレントラ》 チェネレントラ役(ハーゲン、ミュンヘン、ドレスデン、シュトゥットガルト、ライン・ドイツオペラ)
6. Janacekヤナーチェク
„Schlaue Füchslein“ Füchslein (Bielefeld, Braunschweig)
《利口な女狐の物語》 女狐役(ビーレフェルトブラウンシュヴァイク
“Smart Foxes”          Little Foxes (Bielefeld, Braunschweig)
《利口な女狐の物語》 子供の頃の女狐役(ビーレフェルト、ブラウンシュヴァイク)
„Katja Kabanowa“ Barbara (Bielefeld, Trier, Frankfurt, DOR)
《カーチャ・カバノヴァー》   ヴァルヴァラ役(ビーレフェルト、トリーア、フランクフルト、ライン・ドイツオペラ)
7. Humperdinckフンパーディンク
„Hänsel u, Gretel“ Sandmädchen (DOR 1972)
《ヘンゼルとグレーテル》 眠りの精役(ライン・ドイツオペラ 1972)
„Hänsel u, Gretel“ Hänsel (DOR, Aachen, Essen)
《ヘンゼルとグレーテル》 ヘンゼル役(ライン・ドイツオペラ、アーヘン、エッセン)
8. Ravelラヴェル
„L´Enfant et Sortiléges“ Eichhornchen u. Katze (DOR)
《子供と魔法》           リスと猫役(ライン・ドイツオペラ)
„L´Enfant et Sortiléges“   Das Kind (DOR)
《子供と魔法》           子供役(ライン・ドイツオペラ)
9. Wagnerワーグナー
„Rheingold“ Wellgunde (Frankfurt, Hamburg, Köln, DOR)
《ラインの黄金》         ウェルグンデ役(フランクフルト、ハンブルク、ケルン、ライン・ドイツオペラ)
10. Offenbachオッフェンバック
„Hoffmann´s Erzählung“ Niklaus (DOR)
《ホフマンの物語》 ニクラウス役(ライン・ドイツオペラ)
11. Bizetビゼー
„Carmen“ Mercedes (DOR)
《カルメン》 メルセデス役(ライン・ドイツオペラ)
12. Macagniマスカーニ
„Cavalleria“ Lola (DOR)
《カヴァレリア》 ローラ役(ライン・ドイツオペラ)
13. Verdiヴェルディ
„Traviata“ Flora (Köln, DOR)
《椿姫》 フローラ役(ケルン、ライン・ドイツオペラ)
14. Gounodグノー
„Margarete“    Siebel (DOR)
《ファースト》           ジーベル役 (ライン・ドイツオペラ)
15. Weberウェーバー
„Oberon“ Fatime (DOR)
《オベロン》 ファーティメ役(ライン・ドイツオペラ)
16. Massenetマスネ
„Manon“ Javotta (DOR)
《マノン》 ジャボット役(ライン・ドイツオペラ)
17. Mussorgskyムソルグスキー
„Boris Godounov“ Fijodor (DOR)
《ボリス・ゴドゥノフ》 フョドール役(ライン・ドイツオペラ)

8.柏木博子、ドイツにおける契約の種類について語る

1. 契約名称と意味
Festvertrag>:専属契約
何年か毎に(その時々の劇場支配人の意向による)更新されるが、この契約がある限りは、まったく本番がなかった月でも給料は出る。(たとえ毎日うたっても同じ額)健康保険、失業保険も全部支払ってもらえるので、生活の保障は100%されている。いわば地方公務員みたいなもの。
但しいつ契約がのびなくなるかは分かないので、常にベストのコンディションを保つ努力をし続けなければならない。失敗したり、声をダメにしたら、契約更新のときに終わりになる。
Stückvertrag>:ある一つの劇場と、一つの決まった役での契約で、あらかじめ立ち稽古の期間と本番の日取りとギャラが明記された契約書を交わす。そのための日取りは専属契約をしている劇場との話し合いが必要となり、有給休暇をとることになる。日本語で何と訳すべきかは大変難しいところ。
Gastvertrag>:いわゆる客演契約で、ある劇場と契約していくつかの役を歌わせてもらったり、あるいは短期間前にどこかの劇場からの要請で、ある役を歌う時の契約。専属契約(Festvertrag)の範囲内で時間的に許されればこの二つの契約も合わせてすることができる

9.その他

1. 柏木博子が主催する震災孤児を支援するNPO”KIBOU”
2. 柏木博子著、『私のオペラ人生』<ドイツオペラ界のまんなかで>朝日出版社発行、2010年初版
3. 1969年ドイツの音楽大学受験に際しての東京藝術大学音楽学部長 中山悌一 推薦状には下記の内容
【柏木博子さんは私の受持った大学院学生の中で最優秀の中の一人です。特に本年二月の修士演奏は最近の中で抜群の出来だと思われます。又修士論文はマーラーの「子供の不思議な角笛」の研究でしたが、これも大変な力作であり、声楽界に寄与したものは大きいと言えます。教師のわれわれもはじめて知った様な部分も多く、本学に止め置くべき作品です。依って審査員全員文句なく「優」を与えました。彼女は声楽家の能力を一応すべてそなえていますが、特に作品に対する解釈能力に秀で、一般の声楽家に比べて知性が優れているのが特徴です。そして尚十分に情感を持ち、程よく智情のバランスがとれて居る珍しいタイプであります。人柄は穏健で明朗ですが、研究対象に取組む時の情熱と徹底ぶりは抜群です。私は日本人の留学生として自信を以ってドイツへ送り出せる人間であると思います。1969年3月中山悌一  宛て 学部長先生】

10.新聞および雑誌評

柏木博子 新聞および雑誌評

参考文献:要約:参考資料/柏木博子著、『私のオペラ人生』<ドイツオペラ界のまんなかで>朝日出版社発行、2010年初版 引用:ご本人様提供による資料/柏木博子手記「幼少時代と音楽との出会い」「「終戦」「小学校時代」「我が青春、ミッションスクール時代とコーラス」「沈丁花の香(日本女子大の4年間)」「藝大受験」「東京藝術大学の頃」より 柏木博子様著作権了解によるその他参考資料:「新聞雑誌本文より転載」、「柏木博子出演歌劇における新聞雑誌等批評の三丁目俊一郎氏翻訳転載」、「中山悌一手書き、学部長先生宛の推薦状」 history-of-music.com/クラシック音楽家歴史年譜