下總皖一


「写真提供:加須市」

Historische Chronologie
生没年・出身地・歿地・墓地
通称 下總皖一
Simo-fusa,Kan-ichi 
本名:下總覺三
Simo-osa,Kakuzou
本人は「しもおさ かくぞう」が正式な読みと語っている

1898年3月31日埼玉県北埼玉郡原道村生まれ
1962年7月8日肝臓がんなどの病気で他界する
埋葬地:東京都東村山市萩山町1-16-1 東京都小平霊園27-2-18

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1.職業


作曲家
教育者・東京藝術大学教授

2.称号


加須市名誉市民(旧大利根町名誉町民

3.はじめに

<家族>
父:下總吉之丞~教育者・栗橋尋常高等小学校訓導兼校長
1870年5月25日北埼玉郡砂原村に生まれる
1891年4月埼玉県尋常師範学校卒業し、北葛飾郡高等小学島中学校訓導に任命された
1892年9月同校廃校。同年栗橋尋常高等小学校訓導となる
1897年4月児玉郡本庄高等小学校訓導となる
1906年1月南埼玉郡武里尋常高等小学校訓導兼校長となる。同年3月武里農業補習学校長も兼ねた
1907年栗橋尋常高等小学校訓導兼校長として着任
1911年三箇年精勤により埼玉県教育会から表彰される
1912年3月三箇年精勤により北葛飾郡教育会から表彰される
同年6月、栗橋尋常高等小学校訓導兼校長在任中、下総吉之丞ほか北葛飾郡教育委員諸氏等複数人により「栗橋町郷土誌」を執筆編さんした
1913年10月、誠実勤勉成績顕著により埼玉県知事から表彰される
1914年北葛飾郡教育会北支部副会長を務める
1915年11月栗橋町立商業補習学校訓導兼校長も兼ねた
1920年2月多年教育事業に尽くした功績で勲八等瑞宝章を授与される
1923年三十数年におよぶ教員生活から退職。多年同校に勤務し保護者、町民の信望は厚く、児童青少年みな心服して教化の実は校内外に及んだといわれている
※1932~33年頃歿
引用※1.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)よりコラム⑾「下総皖一(覚三)と下総吉之丞」』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、289頁
参考※久喜市教育委員会編集発行、『静村郷土誌』全、「栗橋町郷土誌」解説(埼玉県行政文書№大一三七〇)、4~5頁
参考※2.:『教育令』、1881年(明治14年)9月現在―教育令改正(明治13年12月)師範学校教則大綱(14年8月)/府県立の師範学校は、小学中等科卒業17歳または15歳で入学できた
母:ふさ
兄:好昌
姉:かね
弟:徳三郎
妻:伸枝(旧姓:飯尾千代子)
養子:忠敬
養女:とし子
孫:佐代子
孫:希代子

<プロフィール>Profil
下總覺三(皖一) / しもおさ・かくぞう(かんいち)1898年埼玉県北埼玉郡原道村大字砂原75番地(現・大利根町)に出生
1910年原道村尋常小学校卒業
1912年北葛飾郡栗橋高等小学校卒業
1917年埼玉県師範学校本科(現埼玉大学)卒業
1920年3月東京音楽学校甲種師範科(現東京藝術大学)首席卒業。同年4月新潟県、長岡女子師範学校教師として奉職した。以降、教育者として音楽教育に生涯を捧げながら作曲と音楽理論書の著作に取り組んだ
1932年文部省在外研究員としてベルリン高等音楽学校‐ホッホシューレ(ベルリン音楽大学)に留学
1934年9月帰国後、東京音楽学校講師拝命、同年12月助教授に任命された
1940年音楽教科書編纂委員
1942年同校教授就任
1956年同校、音楽学部長に就任
1959年学部長辞任後、亡くなるまで同校の教授を務めた
1962年7月8日歿。「正四位」に叙される
門下に團伊玖磨、芥川也寸志、石桁眞禮生等がいる
純音楽作品のほか小学唱歌や童謡などの作品を残した。作品に《蛍-1932年》《たなばたさま-1940年》《花火-1941年》《野菊-1942年》《かくれんぼ》《母の歌》ほか1000曲以上の作品が残された。それらは校歌を含め今なを広く歌われ続けている。多くの理論書:「作曲法」「作曲法入門」「対位法」「楽典」「和声学」「楽式論並びに楽曲解剖」「合唱編曲法」などの名著がある
参考※3.:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1/高等小学校(1907年(明治40年)3月21日 – 小学校令の一部改正により、澤柳政太郎文部次官の下、修業年限が6年に延長。高等小学校の旧1・2年を尋常小学校5・6年とし、高等小学校の旧3・4年を高等小学校の新1・2年とした。尋常科を 6年、高等科を 2年となった)、最終アクセス2020年9月15日
参考※4.:https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318083.htm/師範学校規程(抄)(明治四十年四月十七日文部省令第十二号)-(予備科1年・本科2年)、最終アクセス2020年9月15日
参考※5.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、289頁

4.下総皖一 / 歴史年譜

Simo-osa,Kakuzou / Historische Chronologie(1898~1962)

1898年3月31日、埼玉県北埼玉郡原道村大字砂原75(旧大利根町、現・加須市砂原)に父:吉之丞、母:ふさの二男として生まれる
父は教師、尋常小学校・高等小学校の校長を務め30数年の教員生活をおくった。母は農業のかたわら祖母とウドンの製造販売をしていた

1904年6才、4月、「原道村尋常小学校」入学

1908年10才、3月原道村尋常小学校四学年を卒業。小学校令の一部改正により尋常小学校の年限は六年制となり五年に進級

1910年12才、3月「原道村尋常小学校」卒業
4月、北葛飾郡「栗橋高等小学校」に入学。覺三が入学した当時、父は栗橋高等小学校の校長をしていた。家から学校まで利根川に沿った道で約一里半(約6㎞)あった。夏は七時半始まりのため、あさ五時前に起床した。兄や姉も栗橋高等小学校に通った道だった

1911年11才、当時、教室のベビーオルガンに触れることを生徒は許されていなかった『 町にお祭がある時、よく、私は祖母と二人で学校の小使いさんにおよばれして、小使室へ泊めて貰った。オルガンは昼の間は教員室に置いてあって一切いじらせられないが、小使室へ泊った夜は誰にも遠慮もなくぶーぶー鳴らす事が出来た。
何という嬉しさ。がらんとした校舎に響きわたるベビーオルガンの音を、私はいつまでも楽しんだのである。勿論すらすらなど鳴ってくれないけれど、耳と片手の指でさぐりさぐり鳴らすのである 』

この頃には覚三少年が音楽、オルガンという鍵盤楽器に興味を示していたことは周囲には知られていたようだ。
『高等小学校二年の時に級長をしており転任先生に送辞を書いて校庭に並んだ生徒の前で読んだ』という
参考※6.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、288~289頁

1912年14才、3月,北葛飾郡教育会総会が行われ「模範児童」の表彰があり覺三が受賞した。同月「栗橋高等小学校」を卒業
4月、浦和町鯛ヶ窪(現さいたま市役所所在地)の「埼玉県師範学校予備科」に入学(修行年限一年)。寄宿舎に入りそこからの通学となった

1913年15才、4月「埼玉県師範学校本科一部」一年に進級
師範学校の生徒になったが、オルガンはいじらせられなかった。ちょっといじって上級生から手ひどく叱られた。やむなく冬休み、夏休みに小学校へ行ってベビーオルガンを鳴らしてはひそかに喜んだ。やがて、一年生が終わり、二年生を過ぎて、三年生になった時、漸く楽器使用が許された。』
引用※7.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、288~289頁

1917年19才、3月、「埼玉県師範学校本科一部」を卒業
4月、東京市下谷区上野公園地、「東京音楽学校甲種師範科」(校長:村上直次郎)に入学
参考※8.:甲種師範科は中等教員養成目的で設置され募集30~40名の3年制(後に4年制)で、入学者を数倍の倍率で選抜していた。音楽学校時代は浅草のおじの家から徒歩で通学した
参考※9.:1917年頃(大正時代)の東京音楽学校の入学資格は、本科が予科卒業生、予科と甲種師範科が旧制中学・高等女学校4学年修了程度、乙種師範科(小学校唱歌教員養成目的)が高等小学校2学年修了程度であった

1919年21才、雑誌『敬明』創刊号に「下總白桃」というペンネームで詩《初夏の町》を投稿

1920年22才、3月25日「東京音楽学校甲種師範科」(現・東京芸術大学)を首席で卒業(本科声楽部2名、本科器楽部11名、甲種師範科27名、乙種師範科1名の41名)。記念奨学賞を受賞。作曲を信時潔に師事。
4月新潟県「長岡女子師範学校」教師として赴任し寄宿舎生活をおくる。あだ名「丸ちゃん」と付く

1921年23才、1月東京音楽学校時代に声楽を学んでいた飯尾千代子と結婚
9月、「秋田県立秋田高等女学校」・「秋田県師範学校付属小学校」教師。この地に新居を構えた

1922年24才、4月「岩手県師範学校」教師。ピアノトリオを結成し活発な演奏活動を行なう

1924年26才、9月、「栃木県師範学校」教師。千代子夫人が病気がちのため伸枝と改名
下總も覺三改め、皖一と改名。本格的に作曲に取り組む。毎週日曜日になると作曲の指導を受けるため、住んでいた宇都宮から東京国分寺にいる「信時潔」に自作品を持って通い始めた。個人レッスンは2年間続いた

1927年29才、服務義務年限を終え退職し4月、上京。牛込喜久井町に住む
私立「成城小学校」(翌年11月まで)に勤務

1928年30才、4月、「東京女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大学)講師、私立「帝国音楽学校」講師(4~12月まで)、東京「府立第九中学校」に勤務

1929年32才、 2月「武蔵野音楽学校」講師となる
「新曲と聴音練習」著す

1931年33才、4月私立「日本中学校」に勤務

1932年34才、文部省在外研究員としてドイツ留学が決まる。父は重病だったが3月21日「鹿島丸」に乗船し日本を発ち仏・マルセイユから汽車でドイツに向かった。作曲法研究のためドイツ国に着いた。そして入学試験に合格し「ベルリン高等音楽学校‐ホッホシューレ作曲科」に入学
下總皖一が留学した当時のドイ国内は、前年からの金融危機は収まらず、不況はさらに悪化していた。登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達してピークを迎え産業総失業者割合は40%を超えていた。5月にはブリューニング内閣が失脚し、フランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。そして翌年1月にはヒトラー内閣が成立することになる。ナチスによる第三帝国統制下に進みゆくこの大変な時代に、下總はベルリンで音楽を学び始めることになる
作曲家「パウル・ヒンデミット」教授に師事して和声法や対位法の授業を受けはじめる
この頃を回想して下總皖一は『9月末の「ホッホシューレ」の入学試験の日、筆記試験中にどうかした拍子に視線が合うとニコニコと眼と口元だけで笑顔を見せる試験官がいたので、初めて会った人のようでないという印象でした。ことによったらあれが憧れのヒンデミット教授ではないか、と想像していました。やはり本人だったのです。二日目に実技試験があり自作の曲をピアノで弾き、声楽曲の伴奏を弾いた。「ゲオルク・シューネマン校長」の「もう十分」という言葉で希望どおりにパウル・ヒンデミット教授の教室に入ることができた』と書き残している。『父:吉之丞は大手術をして良くなったから安心するようにという手紙が留学先に届いた。』父、訃報の電報はこの年の秋ごろか翌年春頃の間かも知れない
要約※10. :中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、32~33、36頁
↓ 歌:《蛍》 新訂尋常小学唱歌(三学年)詩:井上 赳

1933年35才、この年の1月、下總皖一の留学していたドイツ国内は、選挙の投票でナチ党が51%を獲得。政権獲得後の2月1日にヒトラーは国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」として第一次四カ年計画の開始を発表し、失業者の削減と自動車産業の拡大を訴えた
5月にはすべての労働組合は解散され、ロベルト・ライが率いるドイツ労働戦線に一本化された。これにより労使関係調整はナチ党の手中に落ちた
ナチスが権力を握るとプロイセンのすべての州立劇場とベルリン第一の歌劇場である州立歌劇場は内務相ヘルマン・ゲーリングの管理下に入った。そして、ベルリン・フィルを含む、市立劇場、プロイセン以外のすべての劇場、およびマスメディアは宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの支配下に入った
7月には強制カルテル法が施行され、新規企業設立の禁止、同業企業によるカルテル設立の強制と、国家による監視と規制が行われる体制が始まった。間もなく人種政策が発効されユダヤ人その他の好ましからざる人々がドイツを離れたりした。ユダヤ系芸術家の粛清が始まり、ドイツ文学界だけで1938年までに推定2,500名の作家を失った。演劇界では、演出家、劇作家、俳優「好ましからざる」という烙印を、もっと悪い場合は「ユダヤ人」という烙印を押されて仕事を奪い取られた。強制的に辞職されたり追放されるようになった
オペラ界だけを見ても、ほんの数ヶ月前までスター扱いされていた歌手が突然追放させられた。ローゼ・アドラー、ジッタ・アルバー(ソプラノ歌手)、イレーネ・アイジンガー、メリッタ・ハイム、フリッツ・ヨーケル、ザビーネ・カルター、ロッテ・レオンハルト、フリッツィ・マサリー、デリア・ラインハルト、ロッテ・シェーネ、ヴェラ・シュヴァルツ、エマヌエル・リスト、ベノ・ツァイグラー、ヨーゼフ・シュミット、リヒャルト・タウバー(テノール歌手)などはその一部にすぎない
ユダヤ人や半分ユダヤ人の血の混じる人と結婚していた芸術家も危険にさらされていた
音楽界ではアーノルド・シェーンベルク(作曲家)、アルバン・ベルク(作曲家)、クルト・ヴァイル(作曲家)、カール・エーベルト(演出家)、フリッツ・ブッシュ(指揮者)、アルトゥア・シュナーベル(ヴァイオリニスト)、アルフレート・アインシュタイン(音楽学者)、ブルーノ・ワルター(指揮者)、オットー・クレンペラー(指揮者)、エーリヒ・クライバー(指揮者)その他何百もの人々ドイツを離れた
リヒャルト・シュトラウス(作曲家)、カール・オルフ(作曲家)、ユルゲン・フェーリング(演出家)等はナチスからの依頼を快く引き受けた。ナチスは、ドイツ人の魂と心を手に入れようとして、いち早くドイツ文化における過去の偉大な人物をすべて自分たちに都合のよいように取り上げて、これを役立たせた。ベートーヴェンの音楽がナチス指導層によるラジオ演説の導入部となり、ヒトラーによるバイロイトのリヒャルト・ワーグナーの聖地訪問が例年の公式行事となった。パウル・ヒンデミットの音楽作品は「退廃」という理由でヒトラーに嫌われていたから、下總はこうした事実を見聞きして知っていただろう
ヒンデミット教授は『日本にはヨーロッパの油絵と違った墨絵というものがある。あれはきっと作曲のヒントになると思うんだが・・・』と語ったという。この言葉に近い物言いは、その後の日本人音楽学生が留学先でしばしば言われるようになる
要約※:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、242~255頁、306~307頁
要約※11. :中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、52頁

1934年36才、ベルリン高等音楽学校-ホッホシューレ教授で作曲家パウル・ヒンデミットはドイツの画家マティスの生涯に基づいてオペラ《画家マティス》を作曲していた
『パウル・ヒンデミット(~略~)は1920年代を通じてその厳しい表現主義的な作品のためにナチス政権内ではかなり評判が悪かった。フルトヴェングラーはヒンデミットの新作オペラ《画家マティス》を新シーズンためにベルリン州立歌劇場のプログラムに組み入れた。フルトヴェングラーはヒトラーがヒンデミットの音楽を嫌っていたことに気づかず、また気にもしなかった。特にナチス党は、理想に合わない作品には常に(退廃)という言葉を使った。これはナチスが最悪の芸術に浴びせかける罵倒用語だった。ヒンデミットのナチスの新聞記者への不適切なコメントや妻がユダヤ人であることなどでヒトラーに気に入られ損なったことなどによって、ナチスのブラックリストでも特別な監視下に据えられる結果となっていた』
『ナチス理論を唱えるアルフレート・ローゼンベルクはヒンデミットがドイツ音楽を汚したとして厳しく非難した。こういう背景のもと、ゲーリングは早速、ベルリン州立歌劇場における上演をフルトヴェングラーがプログラムに取り上げていたにも関わらず、オペラ《画家マティス》をはずした。(~略~)フルトヴェングラーは激しく抗議したが、ヘルマン・ゲーリングはこのオペラの許可をできるのはヒトラーだけであると説明する』世にいう「ヒンデミット事件」である
フルトヴェングラーは、3月11日、12日ベルリン・フィル定期演奏会でヒンデミットの管弦楽版組曲《画家マチス》を指揮した
ヒンデミットの教え子である下總皖一等は指揮者ヴィルヘルクム・フルトヴェンクラー指揮によるパウル・ヒンデミット作曲の作品を直に聴きに演奏会場に行っただろうと思われる
6月11日パウル・ヒンデミット教授の教室の作品発表会で、下総は自作《クラリネットとピアノのための小曲》を発表
パウル・ヒンデミットはアーリア人(注)であったが、ナチスによる圧力のため、翌年トルコに渡り創立したばかりの「アンカラ音楽学校」の名誉教授を1937年まで務めた。1939年アメリカに移住し、1946年米国市民権を取得した。 1940~53年には「エール大学」音楽部長となり,1951~58年「チューリヒ大学」とエール大学を隔年交互に講義し,晩年はスイスに住んだ
9月3日、下総は滞独2年半の留学生活を終えて神戸港に帰着。母校「東京音楽学校」講師となった
12月、助教授となる。あだ名「ガッチャン」と付く
要約※12. :サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、306~307頁
(注)ヒトラーは人種的純度という信念で支配民族アーリア人の優位性を広めた。ヒトラーにとって理想的な「アーリア人」とは金髪で目は青く背が高いことであった

1935年37才、作曲:《三味線協奏曲》。著書:「和声学」
山田常三(音楽家)氏によれば『下總先生は大変温厚な方で、大声を出したり、怒鳴ったりは決してしなかった。そんな先生がいつも学生に向かって言う言葉が「高く飛ぶ鳥は地に伏すこと長し」細かいことにコセコセするな、じっくりと地に足をつけてしっかりやれと学生たちを常に励ましていた』と語っている
山田常三(音楽家)氏は1935年頃、下總の担任するクラスの学生だった
引用※13. :中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、55頁

1936年38才、作曲:《パッサカリアと舞曲》

1937年39才、Nコン-NHK第8回《日本の秋》作曲、詩:風巻景次郎。宮城道雄との合作による《壱越調箏協奏曲》作曲

1938年40才、作曲:《箏独奏のためのソナタ》、著書:「作曲法」

1940年42才、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員に任命される
文部省からの依頼を受け、唱歌《たなばたさま》作曲
↓ 歌:文部省唱歌《たなばたさま》詩:権藤はなよ/林柳波

1941年43才、9月品川区上大崎に転居
《たなばたさま》、3月発行の『うたのほん下』国民学校初等科第二学年用に掲載された
作曲:《筝独奏のための舞曲》《花火》
↓ 《花火》詩:井上赳  歌:タンポポ児童合唱団

1942年44才、3月東京音楽学校教授に就任する
作曲:《母の歌》、この歌は国民学校五年生の教科書に掲載された。文部省唱歌《野菊》を作曲
↓ 文部省唱歌《野菊》詩:石森延男  歌:NHK東京放送児童合唱団

1943年45才、※12月22日、<東京交声楽団演奏会>に出席、朝倉(のち中山)靖子、下總皖一、木下保、信時潔、千葉(のち川崎)靜子、佐々木成子、多田光子、山口和子、平田黎子、奥田智重子、柴田睦陸、鷲崎良三、青木博子、戸田敏子、藤井典明、前田幸市郎、村尾護郎、酒井弘、栗本正、秋元清一(のち雅一朗)、畑中良輔、高木清。  日本青年館
作曲:箏・三味線・尺八合奏協《秋の虫》

1944年46才、4月、雑誌「音楽文化」4月号に投稿、『新音楽教科書の内容 ” 外国依存の脱却 ” (師範学校)」出版年月日:1944年04月、巻号:2巻4号、ページ:03~04
著書:「日本音階の話」

1945年47才、5月25日の東京大空襲で家もピアノも楽譜など一切を焼失する

1947年雑誌『 美の探求』創刊号に下総は寄稿し『我々はいろいろな方法で民謡の音楽的な方面の調査研究などをしなければならない。従来文学面からの民謡研究は相当に注意深く行われていっと思う。・・・がいこくでは民謡が随分学校教材などに取り上げられているものが多い。また作曲家たちは民謡を基礎として、合奏曲、変奏曲、はては室内楽曲、交響曲にまで発展させている。音楽的なにおいを増して高貴な作品にまでつくりあげている例が非常に多い。わが国でもどんどんそんな仕事をしたらいいと思う。・・・日本の民謡は洋風の演奏技巧や洋楽器では気分の合わないところも相当多いと思うが・・・』と記述している
引用※14.::中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、53頁

1948年50才、著書:「樂典」

1950年52才、下總皖一《混声合唱曲集》10巻の出版始まる

1951年53才、著書:「音楽理論」「対位法」

1955年57才、11月、文部省教科調査委員に任命される。

1956年58才、4月7日ドイツからウィーン交響楽団とともに指揮者として恩師パウル・ヒンデミットが来日。同月11日演奏会後に新橋駅近くの松喜で教え子の坂本良隆等と会う
9月24日東京藝術大学は加藤茂之学部長の改選となり、候補は下総のほか二名が立候補し選挙の結果選出された。10月東京藝術大学音楽学部・学部長(旧:学校長にあたる)に就任した。七十数年の音楽学校の歴史において初の音楽学部出身者が就任したことになる

1957年59才、学部長になった翌年、音楽之友社発行の雑誌「音楽の友」4月号に下總は『~曲が自然に湧き出るといっても、作曲というものはそれだけではだめです。多分に人為的な構成の部分があって、➀和声的な立体的構成~、➁時間的楽式的構成~・・・夢のない人は芸術家を志す資格はない。しかし、ただ形だけのあこがれであってはならない。長年にわたる修行、苦行、これが作曲家への道である』と記述している
要約※15. :中島睦雄著、もっと知りたい埼玉のひと『下總皖一《野菊》《たなばたさま》などの作曲家)』、さきたま出版会、2018年、55頁

1958年60才、1月、東京国立文化財研究所芸能部長就任。11月、文部省視学委員となる。

1959年61才、6月1日東京藝術大学音楽学部長を辞任。教授として逝去まで同大学に在籍。 この間、埼玉大学講師を務めた

1962年64才、7月8日肝臓がんなどの病気で他界
7月8日「正四位」に叙される
皖一の死後、恩師の作曲家:『信時潔は「下総君は模範的な勉強家であった。パウル・ヒンデミットの手法をわが国に伝える唯一人の指導者であったのに、業なかばにして倒れ、誠にに残念』と語った

1987年「下總皖一音楽賞」を生誕90年を記念して「埼玉会館友の会」が制定した。平成7年に県に移管。平成10年からは童謡に特化して実施。平成24年、この原点に返って、童謡中心の音楽賞から本来の業績に沿った音楽賞にしました。主にクラシック分野のプロで、県にゆかりの音楽家を毎年表彰している

2000年5月野菊歌碑設置 野菊公園(埼玉県加須市旗井1450-1 野菊公園及び設置年は不明だが山口県熊毛郡田布施町下田布施3394-1 ふるさと詩情公園に「野菊」の歌碑はある)

5.主な作品


<純音楽作品>
三味線協奏曲 (1935)
三弦協奏曲 (1938); 中能島欣一原曲の編曲
琴協奏曲 (1939); 宮城道雄原曲の編曲
オーケストラのためのバリエーション
管弦楽のための行進曲「かちどき」
吹奏楽のための行進曲
箏独奏のためのソナタ (1941)
箏独奏のための数え歌変奏曲
二面の十七絃箏のための「たなばたさま」
フルート、箏、セロのための三重奏曲
アコーディオンと箏のための組曲
クラリネットと箏のための組曲
クラリネットとピアノのための三つの小品
クラリネット四重奏のための逝く春
二つのフルートのための小組曲
フルートとピアノのための小曲
フルート、クラリネット、ファゴットのための小舞曲
ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための主題と変奏
パッサカリアと舞曲 (1936)
ピアノ小曲集第二番メルヘンに寄す
交声曲「聖徳太子奉讃歌」

<童謡・文部省唱歌>
「野菊」 作詞 石森延男
「花火」 作詞 井上赳
「スキー」 作詞林柳波(作詞 時雨音羽/作曲 平井康三郎の「スキー」とは別曲)
「ほたる」 作詞 井上赳
「長い道」 作詞 林柳波
「母の歌」 作詞 野上弥生子
「かくれんぼ」 作詞 林柳波
「五十音の唄」 作詞 北原白秋
「たなばたさま」 作詞 権藤花代・編詞林柳波
「国歌掲揚の歌」 作詞者不詳
「ゆうやけこやけ」 作詞 文部省唱歌
「もぐらのおじさん」 作詞 奥野庄太郎
「小雪ふる夜の子ギツネ」 作詞 奥野庄太郎
「電車ごっこ」 作詞 井上赳

<校歌等>
北海道湧別町立上湧別小学校校歌
北海道帯広市立緑ヶ丘小学校校歌
北海道千歳市立末広小学校校歌
北海道余市町立大川小学校校歌
札幌市立手稲中央小学校校歌
福島県会津美里町立旭小学校校歌
福島県会津坂下町立坂下小学校校歌
埼玉県熊谷市立熊谷東小学校校歌
埼玉県川口市立鳩ヶ谷小学校校歌
埼玉県川島町立中山小学校校歌
埼玉県久喜市立栗橋南小学校校歌
埼玉県吉川市立三輪野江小学校校歌
埼玉県深谷市立藤沢小学校校歌
埼玉県上福岡市立第二小学校校歌
埼玉県越谷市立越ヶ谷小学校校歌
埼玉県秩父市立花の木小学校校歌(作詞:下山懋)
埼玉県小鹿野町立小鹿野小学校校歌(作詞:逸見宮吉)
埼玉県熊谷市立太田小学校校歌(作詞:下山つとむ)
埼玉県栗橋町立栗橋東第一小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立三橋小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立植水小学校校歌(作詞:下山つとむ)
さいたま市立大戸小学校校歌(作詞:下山つとむ)
さいたま市立大宮東小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立柏崎小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立片柳小学校校歌(作詞:下山つとむ)
さいたま市立上落合小学校校歌(作詞:下山つとむ)
さいたま市立河合小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立常盤小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立仲本小学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立日進小学校校歌(作詞:下山つとむ)
さいたま市立和土小学校校歌(作詞:下山つとむ)
さいたま市立指扇小学校校歌(作詞:岡田 正平)
千葉県八千代市八千代台小学校校歌
東京都荒川区立第六瑞光小学校校歌
東京都江戸川区立西小岩小学校校歌(作詞:野村旻)
東京都調布市立富士見台小学校校歌
新潟県十日町市立貝野小学校校歌
山梨大学教育人間科学部附属小学校校歌
長野県岡谷市小井川小学校校歌
長野県須坂市小山小学校校歌
静岡県富士市立吉原小学校校歌(作詞:土井晩翠)
三重県松阪市立松江小学校校歌(作詞:荒木子風)[1]
岡山県高梁市立高梁小学校校歌(作詞:米川正夫)[2]
香川大学教育学部附属高松小学校校歌(作詞:石森延男)
中学校
北海道浦臼町立浦臼中学校校歌
北海道余市町立西中学校校歌
札幌市立啓明中学校校歌
福島県会津美里町立新鶴中学校校歌
福島県喜多方市立山都中学校校歌
栃木県佐野市立葛生中学校校歌
栃木県下都賀郡野木町立野木中学校校歌
栃木県宇都宮市立星が丘中学校校歌(作詞:勝承夫)
宇都宮大学共同教育学部附属中学校校歌(作詞:三日月朗)
埼玉県さいたま市立岩槻中学校校歌(作詞:下山懋)
埼玉県さいたま市立与野東中学校校歌(作詞:下山つとむ)
埼玉県川越市立初雁中学校校歌
埼玉県久喜市立久喜中学校校歌
埼玉県越谷市立南中学校校歌
埼玉県加須市立北中学校校歌
春日部市立春日部中学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立桜木中学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立白幡中学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立原山中学校校歌(作詞:下山懋)
さいたま市立三橋中学校校歌(作詞:下山懋)
幸手市立幸手中学校校歌(作詞:下山懋)
杉戸町立杉戸中学校校歌(作詞:下山つとむ)
和光市立大和中学校校歌(作詞:下山懋)
蕨市立第一中学校校歌(作詞:下山つとむ)
嵐山町立七郷中学校校歌(作詞:安藤専一、監修:下山懋)
東京都葛飾区立綾瀬中学校校歌
東京都八王子市立第一中学校校歌
東京都小平市立小平第一中学校校歌
川崎市立西中原中学校校歌
川崎市立中原中学校校歌
新潟県三条市立第二中学校校歌
新潟県柏崎市立第三中学校校歌
新潟県佐渡市立小木中学校校歌
愛知県蒲郡市立蒲郡中学校校歌
三重県松阪市立殿町中学校校歌
大津市立堅田中学校校歌(作詞:勝承夫)
大阪市立生野中学校校歌(作詞:石森延男)
・和歌山大学教育学部附属中学校(作詞:高井みたび)
山口市立湯田中学校校歌(作詞:藤 晃太郎)
佐賀大学文化教育学部附属中学校校歌
(高等学校)
北海道興部高等学校校歌
北海道釧路商業高等学校校歌
北海道大樹高等学校校歌
北海道名寄高等学校校歌
岩手県立高田高等学校校歌
福島県立会津第二高等学校校歌
栃木県立日光高等学校校歌
栃木県立佐野高等学校校歌
群馬県立前橋女子高等学校校歌
埼玉県立浦和西高等学校校歌
埼玉県立蕨高等学校校歌
埼玉県立川口工業高等学校校歌
埼玉県立岩槻商業高等学校校歌(作詞:下山つとむ)
埼玉県大宮女子高等学校校歌(作詞:下山懋)
東京都立赤羽商業高等学校校歌
東京都立板橋高等学校校歌
東京都立北多摩高等学校校歌
東京都立志村高等学校校歌
横浜市立桜丘高等学校校歌 (高等女学校時代の旧校歌)
神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校校歌
金沢大学附属高等学校校歌
石川県立金沢二水高等学校校歌
石川県立羽咋高等学校校歌
福井県立藤島高等学校校歌
長野県長野商業高等学校校歌
愛知県立成章高等学校校歌 (作詞:石森延男)
愛知県立横須賀高等学校校歌
愛知工業大学名電高等学校校歌
大同高等学校 (現・大同大学大同高等学校)校歌
名古屋市立菊里高等学校校歌
和歌山県立伊都高等学校校歌
大阪府立泉陽高等学校校歌
兵庫県立西宮高等学校校歌
兵庫県立北条高等学校校歌
広島県立賀茂高等学校校歌
鳥取県立境高等学校校歌
島根県立大社高等学校校歌
徳島県立板野高等学校校歌
高知県立城山高等学校校歌
長崎県立佐世保南高等学校校歌
大分県立大分舞鶴高等学校校歌
宮崎県立本庄高等学校校歌
鹿児島県立川内高等学校校歌
(大学)
東京水産大学校歌
京都大学学歌
愛媛大学学歌
<主要著書>
新曲と聴音練習 (1929)
和声学 (1935)
作曲法 (1938)
樂典 (1948)
音楽理論 (1951)
対位法 (1951)

6.その他

<下總皖一先生之像> 道の駅童謡のふる里おおとね(埼玉県加須市)
<下総皖一先生を称える碑> 北浦和公園(埼玉県立近代美術館北隣り)(埼玉県さいたま市浦和区)
<楽譜《野菊》歌碑> 平成12年3月「下総皖一を偲ぶ会」建立
<30周年記念「奏でる」ブロンズ像>2018年2月5日、「下總皖一を偲ぶ会」除幕式

7.教え子たち


芥川也寸志
『中学校の三年生のときにお袋に連れられて新宿の「高野」の二階のレストランで、その先生に初めて会いました。「音楽をやりたいけれども、よろしくお願いします」と、そのときに、さらに連れていかれたのが橋本国彦さん。橋本さんに「ピアノを弾けるか?」ときかれ「いや、何にもできません。ヴァイオリンは自己流で少し弾くだけです」「それはいかん、ピアノを習え。こわい先生じゃないとだめだ」ということになった。そして井口基成先生を教えてくれたんです。それで井口先生からバイエルから教わったんです。井口先生にバイエルを教わった人は、まずいないだろうと思うんですね。~省略~中学校の四年から音楽学校に入りたかったんですよ。四年修了でうけるべく学校は休んだ。~省略~とにかくピアノばかり弾いていたんです。それであまりやり過ぎて肋膜炎になってだめになっちゃたんです。だから昭和十六年十二月八日、太平洋戦争勃発のニュースは肋膜炎の病床で聞いたのです。こうして中学四年生で受験するのをあきらめて、もう一年井口先生と橋本先生について勉強して、五年を卒業して音楽学校を受験した。そして五十何人中最下位で入学したんです。~省略~井口先生は副科はとらないんです。ぼくは作曲科ですから、それでピアノは永井進先生。作曲は先生が大勢いたんです。ヘルムート・ヘルマンというドイツの人、細川碧、橋本国彦、この人には作品を書いて持っていく。それに下総皖一。この四人に習った』
引用※16. :出版刊行委員会編/秋山邦晴・團伊玖磨・黛敏郎ほか、『芥川也寸志(その芸術と行動)』、発行:東京新聞出版局、刊行:1990年、42~44頁

團伊玖磨
『東京音楽学校の入試は僕にとって楽なものだった。~省略~作曲科は七人の同輩のうち、戦死二人、病死二人、現在生き残っている同級生の作曲科の卒業生は東京芸大から国立音大に移って作曲を講じている島岡譲と、子供の音楽と合唱曲を専心作曲している大中恩と僕の三人だけである。~省略~上野での生活は厳しく真剣そのものだった。作曲科は主任教授が橋本国彦、教授を下総皖一、細川碧、名誉教授で信時潔先生がいた。僕は受験前からの縁で下總教授を専任教官として和声学、対位法を学んだ。下総先生は専任であったためもあってか、恐ろしい程の厳格な教育を僕に課し、今考えても、気の遠くなる程の量の和声、対位法、実作の宿題を与えるのだった。それは殆ど不可能と言える程の量だった。しかし、口惜しいので、徹夜を続けては全部の解答を書いて持って行った。作曲の授業は一人対一人の授業である。先生はその多量の解答の中で、一個所でも誤ちや書き違えがあれば、五線紙を破く事も稀では無かった。破いた上でその屑を二階の教室の窓から捨てて、拾って来いと言う事さえあった。一人対一人の授業なのに、二つ以上の誤りがあれば、僕を壁際に立たせ、十分も十五分も睨み付ける事もあった。ところが、他の学生の話を聞くと、下總先生は優しくて、怒る事も無いし、叱る事も無いと言うのである。それを聞いて、どうして先生が僕にばかり辛く当たるのか思い悩んだ。ずっと経って、卒業してから、或る時、下総先生に僕は訊ねた。
「先生は随分沢山の宿題を出しましたね」
先生の答えは意外だった
「全部解答を書いてくると思って宿題を出した覚えは無いよ。馬鹿正直に全部書いて来たのは後にも先にも君だけだった。君は馬鹿正直すぎたんだ。ほめられた事じゃ無い」 
「ほかの学生には先生は優しかったんですってね」
「うん、君はね、口惜しがらせれば口惜しがらせる程勉強する奴だったんだ。僕はそれを見抜いていた。そして、本物を作ろうと思ったんだ」
僕はその時になって、下總先生の本当のありがたさを知った
先生は文部省唱歌の「ほたるの宿」や「運転手は君だ、車掌はぼくだ」の作曲者だった事でも判るように、作曲家としてよりも、むしろ教育者だった
入学前、初めて下総先生の門を叩いた時に、僕は、今からでも音楽学校の受験に間に合いますかと質問した。愚門である。先生は実に教育者として美事な答えを言われた。
「一つの話をしよう。或る旅人が長野の善光寺にお詣りに行った。長野の町中で、もうすぐかなと思って、そこに居た町の人に、善光寺はもうすぐですね、あと何分ぐらいですかと尋ねた。その人は知らないね、と言った。知っている筈なのに、何と不親切な人だと憤慨して歩き出したら、あ、その速さなら五分で着く、と言ったというんだ。判るかね」。要するに、君の勉強の進捗工合を見なければ、何とも言えないと言う事だった。これは教育者として、当たり前だけれども良い答えである
引用※17. :團伊玖磨著、『團伊玖磨自伝(青空の 音を 聞いた)』、発行:日本経済新聞社、刊行:2002年、37~39頁

石桁 眞禮生
作曲家・東京藝術大学教授・音楽学部長、作品:オペレッタ「河童譚」、オペレッタ「狐々譚」、オペラ「卆塔婆小町」、オペラ「ポエティク・喪服」、歌曲ほか多数、門下に木下牧子、小林研一郎、浅香満、飯沼信義、岩下哲也、末吉保雄、菅野浩和、田鎖大志郎、長谷川勉 (作曲家)、福田恵子、藤原嘉文、堀悦子、平井京子、芥川真澄(江川真澄)、高嶋みどり、丸田昭三、小橋稔、長原一郎、三瀬和朗、森崎貴敏

金井喜久子
作曲家、作品:交響詩曲《琉球の思い出》、管弦楽曲《琉球舞踊組曲第1番》、交響的序曲《宇留間の詩》、交響詩曲《梯梧の花咲く琉球》
管弦楽曲《琉球狂詩曲第1番》、《交響曲第2番》ト長調、管弦楽曲《琉球舞踊組曲第2番》、管弦楽曲《うるまの歌》、琉球秘話《今帰仁城物語》
バレエ音楽《宮古島縁起》、バレエ音楽《琉球秘話》、歌曲《ひめゆりの塔》詩:仲宗根政善、歌曲《摩文仁の丘に》詩:犬塚堯、
歌曲《摩文仁の石》詩:大倉芳郎、歌曲《花の便りを》詩:犬塚堯、歌曲《南の島》詩:金井喜久子

兼田敏
作曲家・岐阜大学教授・愛知県立芸術大学教授・岐阜大学大学院教授・日本管打・吹奏楽学会顧問、作品:吹奏楽楽曲多数

土肥泰
作曲家・指揮者・ピアニスト・埼玉大学名誉教授、「下總音楽賞」受賞、作品:歌曲《乖離》-アルト独唱と室内楽のための-、
歌曲《宮澤章二による三つの詩》、歌曲、五月の歌》、歌曲《バラード》、合唱曲《こはるびより》 詩:宮澤章二、歌曲《野火》 詩:原三佳、歌曲《願い》

松本民之助
作曲家、東京藝術大学名誉教授、作品:松本民之助歌曲集Ⅰ~Ⅶ、歌曲集《水辺の祈り》Ⅰ~Ⅲ 、歌曲集《日本の郷愁》、、歌曲《春日狂想》、
歌曲《わたりどり》、合唱曲《河童と蛙》、語りぶし《オデアシコ》《子もりじぞう》《あほろくの川だいこ》《寒い母》

須田くにお
合唱指揮者、作曲家

山岸磨夫
作曲家、作陽音楽大学音楽学部長教授(作曲・理論)

池本武
作曲家・音楽理論家・武蔵野音楽大学教授、著書:「和声楽」1巻・2巻 、作品:歌曲《風の作った歌》1・2・3 詩:立原道造

8.関連動画

《クラリネットとピアノのための三つの小品》 第3曲  
杉浦菜々子(pf.) / 末次真美(cl.)

《数え歌変奏曲》 箏曲
 中能島欣一/下總皖一 作曲 

《辛夷の花(コブシ)》 富原薫:詩
間庭小枝(S) 伴奏・原田康子(Pf.)

《たなばたさま》混声四部 林柳波/権藤はなよ:詩
飯田正紀:編曲 / 磯貝智弘:指揮 / ハーバー混声合唱団 / ピアノ伴奏:吉井恵 神戸朝日ホール 2017年6月4日

《母の歌》
昭和31年全国唱歌ラジオコンクール(現・NHK全国音楽コンクール)中国地方代表校
広島大学附属三原小学校 昭和31年
指揮:佐藤文子 / ピアノ:繁村昌彦

《野菊》石森延男:詩 文部省唱歌 1942年国民学校3年
鮫島有美子

《野菊》石森延男:詩

《たなばたさま》 柳波/権藤はなよ:詩
2015MUSICADE七夕コンサート
2015年7月4日,徳島県,鳴門市ドイツ館

《たなばたさま》 柳波/権藤はなよ:詩
歌:田端典子

《たなばたさま》 柳波/権藤はなよ:詩
Pf.細川夏子

《たなばたさま》
原小っ子合唱団

《かくれんぼ》 林柳波:詩
Hide and Seek

《花火》井上赳:詩
歌:歌うWebデザイナー「ひまわり」

《花火》井上赳:詩 文部省唱歌
間庭小枝(S.) / 新井知里(Pf.)

《はなび》井上赳:詩
合唱 みみちゃんレコード・児童合唱団 のお友だち

《蛍》井上赳:詩
歌:歌うWebデザイナー「ひまわり」

《蛍》井上赳:詩

《蛍》井上赳:詩

9.下總皖一音楽賞・受賞記録

1987年・・・調査中
2005年彩の国 下總皖一童謡音楽賞-吉元恵子(秋田県旧鷹巣町出身)、ソプラノ歌手
   ・・・調査中
2008年彩の国下總皖一童謡音楽個人賞-谷禮子()、合唱指導者
   ・・・調査中
2012年下總皖一音楽賞-北原幸男()、指揮者
2012年下總皖一音楽賞-特別賞-持木弘-()、声楽家
2013年下總皖一音楽文化発信部門-坂本朱()、メゾ・ソプラノ
2013年下總皖一音楽文化貢献部門-秋山紀夫()、吹奏楽指導者・指揮者
2014年下總皖一音楽文化発信部門-佐藤美枝子()、ソプラノ歌手
2014年下總皖一音楽文化貢献部門-松居直美()、パイプオルガン奏者
2015年下總皖一音楽文化発信部門-栗山文昭()、合唱指揮者
2015年下總皖一音楽文化貢献部門-國土潤一()、合唱指揮者、声楽家、音楽評論家
2016年下總皖一音楽文化発信部門-安齋省吾()、雅楽奏者
2016年下總皖一音楽文化貢献部門-和田タカ子()、音楽プロデューサー
2017年下總皖一音楽文化発信部門-相曽賢一朗()、ヴァイオリニスト
2017年下總皖一音楽文化貢献部門-高橋美智子()、マリンバ奏者、武蔵野音楽大学特任教授
2018年下總皖一音楽文化発信部門-北川曉子(富士見市在住)、ピアニスト
2018年下總皖一音楽文化貢献部門-井上久美子()、ハープ奏者・武蔵野音楽大学特任教授
2019年下總皖一音楽文化発信部門-森谷真理()、ソプラノ歌手
2019年下總皖一音楽文化貢献部門-松本美和子()、ソプラノ歌手、武蔵野音楽大学特任教授
2020年下總皖一音楽文化発信部門-()、
2020年下總皖一音楽文化貢献部門-()、

10.下總皖一を偲ぶ会・記録

1987年<下總皖一を偲ぶ会>発足
7月第1回<下總皖一を偲ぶコンサート>
講演「下總皖一を語る」鎌田弘子、マリンバ演奏 / 笹谷久美子
歌:持木弘 / 持木文子 / 原道小学校 / 東小学校 / ヴォーチェビアンカ

1989年5月第2回<下總皖一を偲ぶコンサート> 文化体育館
真理ヨシコ / 田中星 / ・大場照子 / さわやかコーラス / ・ヴォーチェビアンカ / 原道小学校

1990年12月第3回<下總皖一を偲ぶコンサート> 原道小学校体育館
ピアノ演奏:小原孝 / 大野伸二
歌:さわやかコーラス / ヴォーチェビアンカ / コールグランツ

1991年11月第4回<下總皖一を偲ぶ音楽会> 福祉会館
ミュージカルアカデミイ / さわやかコーラス
大利根中学校吹奏楽部

1993年10月第5回<下總皖一を偲ぶ音楽会>
五郎部俊朗(T.)

1994年6月<下總皖一を偲ぶ講演とミニコンサート> 福祉会館
日本の童謡・埼玉の童謡 こわせたまみ
緑の風コンサート マリンバ:篠塚裕美子
12月第7回<下總皖一を偲ぶコンサート>
マリンバ:笹谷久美子

1995年6月第8回<下總皖一を偲ぶ音楽会>緑の風コンサート 文化体育館
歌:藤森照子と仲間たち

1996年5月第9回<下總皖一を偲ぶ音楽会>ミニコンサート 文化体育館
ハーモニカ:竹内克好、歌:吉武まつ子

1997年6月第10回<下總皖一を偲ぶ音楽会>七夕チャリティーコンサート
歌:高橋薫子

1998年6月第11回<下總皖一を偲ぶ講演会> 福祉会館
「下總皖一時代の童謡・唱歌について」 こわせたまみ
8月下總皖一の墓参をする 生誕100周年 東京小平霊園

1999年5月第12回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
緑のそよ風コンサート器楽アンサンブル、森美奈とその仲間たち

2000年5月第13回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
歌:吉武まつ子、アコーディオン:渡辺美和子

2001年6月第14回<下總皖一を偲ぶ音楽会>
歌:松倉とし子(S.) 

2002年6月第15回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
糸と竹のひびき 筝:鎌田雅仙

2003年5月第16回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
歌:原田とみ子(S.)  

2004年5月第17回<下總皖一を偲ぶ音楽会>
五郎部俊郎(T.)コンサート  アスタホール

2005年5月第18回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
ピアノとフルートの名曲コンサート 
ピアノ:小松勉/ フルート:波戸埼操

2006年6月第19回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
川口京子コンサート

2007年7月第20回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
吉武まつ子と愉快な仲間たち

2008年11月第21回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
河野めぐみ / 安達さおり(メゾ・ソプラノ)

2009年11月第22回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
ボニージャックスコンサート

2010年11月第23回「下總皖一を偲ぶ音楽会」 アスタホール
チターとマリンバのしらべ
チター:内藤寿子 / マリンバ:篠塚裕美子

参考文献:『下總皖一』、中島睦雄著、出版:さきたま出版会、刊行:2018年 / サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、306~307頁 / 出版刊行委員会編/秋山邦晴・團伊玖磨・黛敏郎ほか、『芥川也寸志(その芸術と行動)』、発行:東京新聞出版局、刊行:1990年、42~44頁 / 團伊玖磨著、『團伊玖磨自伝(青空の 音を 聞いた)』、発行:日本経済新聞社、刊行:2002年、37~39頁 / 久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)』⑾コラム下総皖(覚三)一と下総吉之丞、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、242~255頁、288~289頁 / 「https://www.city.kazo.lg.jp/sports/kazonoijin/simosakanichi/20718.html/日本の近代音楽の基礎を作った/下總皖一の紹介」、埼玉県加須市教育委員会 生涯学習部 生涯学習課、最終アクセス2020年9月15日 / 「https://www.city.kazo.lg.jp/sports/kazonoijin/simosakanichi/20717.html/作曲家/下總皖一」、埼玉県加須市教育委員会 生涯学習部 生涯学習課、最終アクセス2020年9月15日 / 「http://www.kazo-dmuseum.jp/05story/ijin/shimoosa.htm/日本の近代音楽の基礎を築いた音楽家・下總 皖一<しもおさ かんいち>」埼玉県加須市教育委員会 生涯学習部 生涯学習課、最終アクセス2020年9月15日 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E7%9A%96%E4%B8%80/ 下総皖一、最終アクセス2020年9月15日 / https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN07450463/下總皖一作品撰集 - CiNii 図書,、最終アクセス2020年9月15日 / https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318188.htm/ 学校系統図:文部科学省 学制百年史 資料編 >学校系統図より第5図、最終アクセス2020年9月15日 / https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/025377755.html/久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)-第四節-教育の普及と文化の発展97頁-教育令の布告(97頁)-尋常・高等小学校の設置(98頁)、最終アクセス2020年9月15日 / https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=mcafeess1&p=%E6%98%8E%E6%B2%BB40%E5%B9%B4%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%A6%8F%E5%AE%9A/師範学校規程(明治40年文部省令第12号)、最終アクセス2020年9月15日 / http://saitama-myouji.my.coocan.jp/2-6si.html/埼玉苗字辞典 / 『クラシック作曲家辞典』、中河原理著、東京堂出版、平成四年七月初版発行 / https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%881895-1963%EF%BC%89_000000000019813/biography/ヒンデミット、最終アクセス2020年9月15日 / https://www.german-ex.com/blog/item/6008.html/ パウル・ヒンデミットの交響的舞曲第3番、最終アクセス2020年9月15日 / https://www.suikyo.jp/pdfdata/program-54.pdf#search='1927%E5%B9%B4%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88'/ヒンデミット、最終アクセス2020年9月15日 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E9%81%93%E6%9D%91/原道村、最終アクセス2020年9月15日 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1/師範学校(修了までの年限は高等小学校卒業後4年(後に5年)、最終アクセス2020年9月15日 / 『教育令』、1881年(明治14年)9月現在―教育令改正(明治13年12月)師範学校教則大綱(14年8月https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E4%BB%A4、最終アクセス2020年9月27日 / https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/nazi-racism、ナチスの人種差別主義 | The Holocaust Encyclopedia、最終アクセス2020年10月11日 /