IWY. 31 トマス・タリス

イギリス、ルネサンスの作曲家・オルガニスト
トマス・タリスThomas Tallis(1505-1585)

1505年頃イングランドのケント州かレスターシャー州生れた。
タリスの誕生、家族、あるいは幼少期に関する記録は存在しないため、彼の初期の人生や出自についてはほとんど何もわかっていない。彼は、後に自身が勤務することになるドーヴァーの「St. Mary the Virgin and St. Martin of the New Work in Dover」ベネディクト会小修道院で、おそらく聖歌隊員を務めていたと思われるが、そこで教育を受けたかどうかを知ることは不可能である。カンタベリー大聖堂で歌っていた可能性もある。タリスが、後に成人として加わることになるのと同じ聖歌隊組織である王室礼拝堂において、少年聖歌隊員(child of the chapel)として歌っていたという説がある。

1. 年代子
・タリスの経歴に関する記録は1531年以前には存在せず、その年にケント州のベネディクト会修道院ドーヴァー修道院の会計記録に彼の名前が記載されている。彼はそこでオルガニストとして雇用され、オルガンを弾きながら聖歌の指揮を執る役割を担っていた。彼は6人の少年歌手の指導も担当していたという。修道院は1535年に解散したが、タリスの退去に関する記録は残っていない。
・タリスの所在はその後数ヶ月間不明だったが、記録によると彼はロンドンのビリングスゲート地区にあるイングランド国教会の教区教会「St Mary-at-Hillセント・メアリー・アット・ヒル」で教会のオルガン奏者を経て1536年から1538年にかけて4回の半年ごとの支払いを受け、最後の支払いは1538年3月25日までの1年間の歌手またはオルガン奏者としての奉仕に対するものと指定されていた。
1538年末頃、タリスはエセックスEssexにある大きなアウグスティヌスAugustinian修道院、ウォルサムWaltham修道院移りオルガニストとなったタリスは上級の構成員となった。修道院長と知り合った後、ロンドンの自宅はセント・メアリー・アット・ヒルの近くにあった。
1540年3月に修道院が解散された際、タリスは同所での勤務期間が短かったため年金を受け取ることはできなかったが、その代わりに40シリングの一時金が支給された。
1540年の夏までに、タリスは以前は修道院であったが最近世俗化されたカンタベリー大聖堂に移り、そこで新たに拡張された少年10人と男性12人の合唱団の歌手リストの先頭に彼の名前が名を連ねている。彼はそこに2年間とどまった。
1543年タリスは王室礼拝堂に勤務し始めた。後、作曲家、オルガニストとして歴代国王に仕えた。彼は聖歌隊の少年たちに鍵盤楽器や作曲を指導する役割を担っていた可能性がある。
タリスは、チャペル・ロイヤルの少年聖歌隊長であったリチャード・バウアーの遺言の執行を監督した。タリスは、ヘンリーⅧ世、エドワードⅥ6世、メアリⅠ世、エリザベスⅠ世の宮廷で作曲家、教師、演奏家として仕えた。
1552年頃、タリスは結婚した。相手は王室礼拝堂の聖歌隊員(gentleman)の未亡人ジョウンJoanであり、これが彼にとって最初の結婚であったと思われる。王室聖歌隊の他の多くのメンバーと同様、タリス夫妻はグリニッジに住んでいたが、彼がそこに持ち家を持っていたかどうかは定かではない。おそらく家を借りて住んでいたものと見られ、その場所は伝承によればストックウェル・ストリートであったとされる。
タリスにミサ曲と聖務日課のためのいくつかの楽曲の作曲を依頼したメアリーⅠ世女王は、彼にケント州の荘園の賃貸権を与え、それによって彼は十分な年収を得ることができた。
彼は1558年12月13日の女王の葬儀と、翌月のエリザベスⅠ世の戴冠式に参列した。
1570年以降に初めて礼拝堂のオルガニストに任命されたが、生涯を通じてオルガニストとして雇用されていたと思われる。
彼がセント・メアリー・アット・ヒルにいた頃、宮廷と何らかの関わりを持っていた可能性があった。実際、1577年にはタリス自身が、「陛下および陛下の王室の先祖に40年にわたって奉仕してきた」と述べている。
1575年、エリザベス女王はタリスとバードに対し、多声音楽に関する21年間の独占権と、「パートに分かれた楽曲(set songe or songes in parts)」を印刷・出版する特許を付与した。タリスとバードは、英語、ラテン語、フランス語、イタリア語など、あらゆる言語の音楽を印刷する独占的権利を与えられ、音楽印刷に用いられる紙についても独占的に使用する権利を有した。
1575年の出版以降、タリスは積極的な作曲活動を停止したと考えられている。
タリスは晩年をグリニッジで過ごし、おそらくプラセンティア宮殿(王宮)の近くに住んでいたと考えられている。伝承によれば、彼はストックウェル・ストリートStockwell Streetに居住していた。
1585年6月にはエリザベスⅠ世の宮廷の一員として記録されており、同年8月には遺言書を作成した。
彼は11月20日か23日にグリニッジの自宅で亡くなった。日付が異なるのは、記録簿と王室礼拝堂の記録によるものである。
彼はグリニッジのセント・アルフェッジ教会内陣に埋葬された。妻の死後(ただしエリザベスの死の前)にそこに設置された真鍮製の記念銘板は、現在では失われている。彼の遺骨は、1710年代に教会が建て替えられた際、作業員によって廃棄された可能性がある。
タリスの墓碑銘およびジョウン・タリスの遺言によれば、二人の結婚生活において子供はもうけられなかった。
・タリスの墓碑銘が刻まれた真鍮製の銘板には以下のように刻まれていた。
『ここに眠るは、音楽の道において長きにわたり第一人者として名を馳せた、気高き人物。
その名はトマス・タリス。誠実かつ徳高い生涯を送った人である。
彼は長きにわたり、大いなる称賛と共に礼拝堂に仕え、
四人の君主の治世(稀に見ることであろうが)に奉仕した。
すなわち、ヘンリー王とエドワード王子の時代、
メアリー女王、そして我らが女王エリザベスである。
彼は結婚していたが子には恵まれず、
ジョーンという名の貞淑な妻と共に、
愛に満ちた三十三年の歳月を過ごした。
今や彼女は、ここに埋葬された彼に寄り添っている。
その生もまた、その死も同様に、
冷ややかに、かつ静かであった(ああ、幸いなる人よ!)
彼は幾度となく神に慈悲を請い願った、
ゆえに彼はこの世を去る――死がなすままに任せて。』
・タリスは数多くの作曲家を指導した。その中には、後にリンカーン大聖堂で活動したウィリアム・バード、ブリストル大聖堂のオルガニストであり王室礼拝堂の聖歌隊員(ジェントルマン)でもあったエルウェイ・ベヴィン、そしてエリザベス女王の寵臣であったサー・フェルディナンド・ヘイボーン(別名リチャードソン)などが含まれた。

作品:
タリスは常にヨーロッパの新しいアイデアを取り入れ、音楽のスタイルを変化させていた。時には複数の声部がそれぞれ異なる役割を担い(ポリフォニー)、時にはすべての声部が一緒に歌いました(ホモフォニー)。彼は英語で作曲することもあれば、ラテン語で作曲することもあった。彼は両方の言語で有名な作品を残している。彼の最も有名な作品のうち「Tallis’s Canon」、「Spem In Allium」と「If Ye Love Me」で 、これらは今日でも定期的に演奏されている。1910年、作曲家ヴォーン・ウィリアムズは、タリスのメロディーを基にした非常に有名な作品「 トーマス・タリスの主題による幻想曲」を作曲した。
彼の作品は主に声楽曲であり、イギリスの合唱音楽のアンソロジーにおいて重要な位置を占めている。タリスはイギリスで最も偉大な作曲家の一人とみなされており、イギリス音楽における彼の独創的な声が高く評価されている。
「Tallis’s Canon」「カンツィオネス・サクレ」、「エレミア哀歌」、マドリガル「ああ、なんたることか」などがある

2. その他
ロンドンにThomas Tallis School(Kidbrooke Park Road, London)
トーマス・タリス・スクール(ロンドン南東部、ロイヤル・バラ・オブ・グリニッジ内)が設立されている。

3. 初演

4. 関連動画
「God Grant with Grace(タリス・カノン)」

「If Ye Love Meもしあなたがたがわたしを愛するなら」

「Spem in alium希望」

「Mass for four voices4声のミサ曲」

「Remember Not O Lord God心に留めないでください」

「Gaude gloriosa私たちは栄光に満ちている」

「O Lord in Thee is all my trust. Gaudium主よ、私はあなたを全面的に信頼しています」

「Songs of Lament哀歌」

「The Essential Tallis Scholars」

ヴォーン・ウィリアムズ曲「トマス・タリスの主題による幻想曲」
指揮:ピーター・ウンジャン/トロント交響楽団