IWY. 151 フランチェスコ・コルテッチャ

イタリアのルネサンス期の作曲家・オルガン奏者・教師:コルテッチャ
フランチェスコ・コルテッチャFrancesco Corteccia(1502-1571年)

ルネサンス期のイタリアで彼はマドリガーレの初期の作曲家として最もよく知られた人物の一人であり、低地諸国出身の作曲家が主流を占めていた時代において重要なイタリア人作曲家であっただけでなく、コジモⅠ世・デ・メディチの統治下、数十年にわたりフィレンツェで最も傑出した音楽家として活躍した。

1502年7月27日フィレンツェで生まれた。
1515年までに聖歌隊員となり、大聖堂付属学校に在籍しており、この頃、おそらくバルトロメオ・デッリ・オルガーニBartolomeo degli Organiにオルガンを、ベルナルド・ピサーノBernardo Pisanoに作曲を学んだと思われる。

1571年6月7日

1. 経歴


1527年10月22日には洗礼堂の聖職者に就任した。
1531年にはメディチ家の教会であるサン・ロレンツォ教会の聖職者兼オルガニストとして、間接的にメディチ家に仕えるようになった。
1535年から1539年までサン・ロレンツォ教会のオルガニストを務めた。
1539年6月に行われたコジモ公とエレオノーラ・ディ・トレドの結婚式のために作曲した7曲のマドリガーレがある。この一連の作品については、その詳細な記述が今日まで伝わっている。アントニオ・ランディの劇「イル・コンモードIl commodo」のために書かれたこれらのマドリガーレは、歌手たちがニンフ、羊飼い、人魚、海のニンフ、そして海獣に扮して歌うという演出で行われた(3人の海のニンフはフルートを、海獣たちはリュートを演奏した)。この上演全体は精緻に構成されており、歌手たちの伴奏には、チェンバロ、オルガンの(nightingale stop on the organ)、バス・ヴィオール、コルネット、クルムホルン、フルート、ヴァイオリン、ヴィオローネ、そしてトロンボーン四重奏が多彩に用いられた。フィナーレでは、女性やサテュロスに扮した20名ものbacchantesバッコスの巫女たちが(その多くは酔った様子で)舞台に登場し、笛、テイバー、ヴァイオリン、ハープ、コルネット、クルムホルン、タンバリンを演奏しながら歌った。そして最後は、4本のトロンボーンを伴った「夜」の擬人化された人物が登場し、歌うことで幕が閉じられた。また、これらのマドリガーレのうち4曲(交互に配置されたもの)が、note nere(黒い音符)を用いた急速な様式による最初期の作品であったという点も特筆すべきことである。
1540年から亡くなるまで、彼はフィレンツェ公コジモⅠ世・デ・メディチ家の宮廷楽長を長きにわたって務める間、彼はフィレンツェにおいて次第にその地位と名声を高めていった。礼拝堂においては、司祭、定員外参事会員、そして参事会員と順次昇任したほか、侍従や文書保管係といった補助的な役職も兼務した。
1560年代に入ると、メディチ家宮廷における豪華な音楽作品の作曲という役割はアレッサンドロ・ストリッジョAlessandro Striggioに引き継がれたが、彼は楽長としての地位には留まった。
彼は初期のマドリガル作曲家の中でも最もよく知られた人物の一人であり、低地諸国の作曲家が支配的だった時代に重要なイタリア人作曲家であっただけでなく、コジモⅠ世・デ・メディチの治世中の数十年間、フィレンツェで最も著名な音楽家でもあった。
幕間音楽「気楽な男」作曲、フィレンツェで上演。幕間音楽は、劇の主題に関連したマドリガルのグループで構成されることが多く、舞台上演され、歌われ、劇作品の一部であることから、オペラの前身の一つと見なされている。
1571年、メディチ宮廷の音楽が衰退期に入った頃にフィレンツェで死去した。

作品:
メディチ家の宮廷はヨーロッパ屈指の豪華さを誇るものであった。同家が自らの地位と威信を強く意識していたことは、彼らが制作を促し、注文し、あるいは購入した芸術作品の数々からも明らかである。コルテッチャは生涯の大部分をメディチ家に捧げ、同家の最も壮麗な催し物の数々を創り上げる一翼を担った。その後、アレッサンドロ・ストリッジョをはじめとするメディチ家に仕えた作曲家たちもその路線を継承し、同時代全体を通じても最大級かつ最も豪華絢爛な多声音楽作品を数多く生み出した。
・コルテッチャは、その音楽作品の大部分をキャリアの比較的早い時期に書き上げており、創作活動の最盛期は1540年代初頭であった。彼の作品には宗教曲と世俗曲の双方があるが、歌劇誕生以前の作曲家としては異例なことに、その多くが舞台上演を目的としたものであった。また、マドリガーレ作曲家の第一世代の中でも特異な点として、彼自身の作品のみを収録した曲集が出版されていたことが挙げられる。それは1544年にヴェネツィアで出版された「4声のためのマドリガーレ集第1巻」である。彼のマドリガーレの中には、当時の一般的な声楽曲とは異なり、楽器伴奏が具体的に指定されているものがあるが、これはそれらが演劇的な催しのために作曲されたことによるものであった。
・コルテッチャの宗教音楽作品には、「エレミヤの哀歌」(現存せず)のほか、賛歌や多数のモテットが含まれる。これらの作品の多くはキャリアの初期に作曲されたが、実際にヴェネツィアで出版されたのは1570年から1571年にかけてのことであった。これはおそらく、それ以前のフィレンツェには十分な出版能力がなかったためと考えられる。コルテッチャはモテット集の献呈に際して書いた手紙の中で、それらの作品に30年もの歳月をかけて取り組み、推敲を重ねてきたことを述べている。彼が加えた修正の多くは、トリエント公会議における典礼改革に沿ったものであった。これらの賛歌の編曲は、主に交唱形式responsoryをとっている。すなわち、ある節はplainchant単旋律で、次の節はpolyphony多声音楽で歌われ、このパターンが繰り返されるという構成であった。コルテッチャはポリフォニー部分のtexture(音の織り成す質感)に変化を持たせており、厳格な模倣から自由な対位法までを使い分け、時にはhomophonicな間奏を挟むことで、楽曲に多様性を与えている。
・コジモ・デ・メディチの宮廷作曲家であったコルテッチャは、結婚式をはじめとする宮廷での豪華な娯楽や催しのために、しばしば「インテルメディオ」を含む音楽を作曲するよう求められました。intermedii(祝典用の芝居の幕間に上演された音楽劇)は、演劇の幕間に上演される歌を伴う出し物のことであり、国家的な行事の際には特に壮大な規模で上演された。これらは多くの場合、劇の主題に関連したmadrigals(
世俗歌曲)の連なりで構成されていた。舞台装置を伴い、歌唱によって演じられ、劇的演出の一部を成すというその性質から、homophonicは歌劇の先駆けの一つと見なされている。
・コルテッチャのヴィラネッラの一つである「Madonnʼio tʼhaggi amatʼet amo assai」には、「Ecce bonum licet」という新たな歌詞が付けられた。この歌詞は、歌い手や聴き手に対し、より宗教的な生活を送るよう促す内容であった。この版は、17世紀のアイスランドにあるスカルホルトのラテン語学校で使用されていた。アイスランドの写本「Rask 98」(別名「Melódía」)には、コルテッチャの楽曲のバス・パートがアイスランド語の歌詞「Vera mátt góður」と共に収められている。この歌詞は、1576年のドイツ語版におけるラテン語の歌詞「Ecce bonum licet」を翻訳したものである。

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube 「ヨハネス受難曲」

「ヨハネス受難曲」

「エレオノーラ・ディ・トレドとの結婚式のため」

「二声合唱曲」

「6/7 La notte, Bronzino6月7日夜、ブロンズィーノ」

「Tenebrae factae sunt」a 4voci」
無伴奏合唱曲を指し、受難・聖金曜日用の典礼音楽

「Marco Baldini」

「n 8-voices composition8声の楽曲」

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