IWY. 52 ミヒャエル・プレトリウス

ドイツ、ルネサンスの作曲家・オルガニスト・音楽理論家
ミヒャエル・プレトリウスMichael Praetorius(1571-1621)

彼は同時代において最も多才な作曲家の一人であり、特にプロテスタントの賛美歌に基づく音楽形式の発展において重要な役割を果たした。

1571年9月28日日アイゼナハ近郊クロイツブルク・アンデア・ヴェラで、ルター派牧師の末息子として生まれた(出生名はミヒャエル・シュルツェ)。トルガウやツェルプストで学校教育を受けた後、フランクフルト・アン・デア・オーダー大学で神学と哲学を学んだ。
彼は複数の言語を流暢に操った。音楽教育を受けた後、1587年からはフランクフルトのマリエン教会でオルガニストを務めた。

1621年2月15日ヴォルフェンビュッテルで歿

1. 経歴


1592年または1593年からはヴォルフェンビュッテルの宮廷に仕え、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ・ユリウスHenry Juliusに雇用された。同公の宮廷楽団において、当初はオルガニストとして、後には(1604年から)宮廷楽長兼オルガニストとして務めた。
・彼の最初の作品は1602年から1603年頃に出版した。それらは、主にフローニンゲン宮廷における音楽への配慮を反映したものであった。この曲集に収められたモテットは、ドイツで初めてイタリアの新しい演奏様式を取り入れたものであり、その結果、彼は優れた作曲家としての地位を確立した。
1613年に公爵が死去しフリードリヒ・ウルリヒが後を継いだ際、プレトリウスはヴォルフェンビュッテルでの職にとどまったが、同時にドレスデンのザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクⅠ世の宮廷でも、「Kapellmeister von Haus aus」(非居住の楽長)として活動を始めた。そこで彼は祝祭音楽の制作を担うとともに、ヴェネツィア楽派の多重合唱作品をはじめとする最新のイタリア音楽に触れることとなった。
・彼がその後に発展させたコラール・コンチェルトchorale concertoの形式、とりわけ多重合唱(ポリコーラル)形式のものは、ジョヴァンニ・ガブリエリらヴェネツィア派の音楽に精通していたことに直接由来するものであった。こうした催しのためにプレトリウスが手がけた独唱、多重合唱、そして器楽のための作品群は、彼の芸術的創造性が頂点に達していた時期を象徴するものである。
・1614年にナウムブルクで開催された皇太子会議((Fürstentag)でのプレトリウスの音楽演出に関するゴットフリート・シュタッフェルの詳細な目撃証言と、1617年夏のドレスデン訪問中にプレトリウスの音楽が皇帝マティアスや他の諸侯に与えた印象を記した「Matthias Hoë von Hoënegg」のエピグラムepigramは、当時のプレトリウスの名声をうかがわせるものである。また、プレトリウスは1615年から1619年にかけて、ドレスデンでハインリヒ・シュッツと共に活動し、助言を行ったりもした。
・ヴォルフェンビュッテルWolfenbütteにおけるプレトリウスの任期は、1620年の三位一体主日(Trinity Sunday)の時点ですでに更新されなくなっていたようである。おそらくその頃には、彼はすでにヴォルフェンビュッテルで病の床に就いていたと思われる。
1621年2月15日、49歳で同地にて死去した。その遺骸は2月23日、マリア教会(マリエンキルヒェ)のオルガン下にある地下墓所に埋葬された。

作品:
全9巻からなる「Musae Sioniae」(1605–10年)や1611年に出版された典礼音楽「(masses, hymns, magnificats」の曲集は、ドイツ・プロテスタントのコラール様式に則っていた。これらにおいて彼は、正統派ルター派の人々の求めに応じ、公爵の不在時に公国を統治していたイギリス女王エリザベート公妃の方針に従っていた。教会礼拝用のラテン語による楽曲を網羅した曲集「Liturgodiae Sioniae」も出版している。[300曲以上の器楽舞曲を収録した「Terpsichore」は、今日最も広く知られている。

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube「Dances from Terpsichore」

⬇ youtube「Puer natus in Bethlehem」

⬇ youtube「Michael Praetorius」