IWY. 22 ジョスカン・デ・プレ

フランスのルネサンスの作曲家・声楽家
ジョスカン・デ・プレJosquin Des Prez(1440/45-1521)

フランス、ルネサンスのフランコ・フランドル楽派。当時の最も代表的な作曲家、「音楽の父」とも呼ばれている。

1440-45年頃、現サン=カンタン近郊ボールヴォワール出身。初期の生涯については、資料によって記述が食い違っており、あまりよく分かっていない。彼は1450年から1455年の間に、フランス北部のブルゴーニュ、あるいはエノー(現在のベルギー)のいずれかで生まれたとされている。後世、彼は「フランコ・フランドル楽派」の作曲家と見なされているが、生前の彼は繰り返し自らをフランス人であると公言していた。
1460年頃当時の音楽的拠点であったサン=カンタン大聖堂の聖歌隊員として音楽教育が始まったと考えられる。
その後パリで、彼はオケゲムの弟子となり、やがて友人となった。オケゲムは、彼の音楽的アイデンティティの形成に最も大きな影響を与えた人物である。

1521年8月27日現コンデ=シュル=レスコー市で歿

1. 経歴

1453-72年ミラノ大聖堂聖歌隊員
1466年頃に父親が亡くなった後は叔父(ジル・ルブロワット、別名デプレ)に引き取られて育てられ、彼の姓である「ルブロワット」はこの叔父に由来している。
1473年ミラノ公の宮廷礼拝堂歌手。
1477年には、エクス=アン=プロヴァンスで教会の歌手を務めていた。
1480年からガスパール・ファン・ヴェールベッケの指揮のもと、ミラノのスフォルツァ家の宮廷歌手を務め、1484年から1494年までは少し中断を挟みながらローマ教皇聖歌隊の一員となった(最初はインジェⅧ世のもと、次に教皇アレクサンドルⅥ世のもとで)。時期は不明だが、モデナ、パリ、フェラーラに短期間滞在し、そこで合唱団を指揮した。
1486年ローマ教皇庁聖歌隊員
1498年には再びミラノに滞在していたが、1499年のフランスによる侵攻を受けてパリへ赴き、そこでフランス王ルイⅫ世の宮廷作曲家となった。
1500年代の極めて早い時期にハンガリーの宮廷にいたとする説もあり、もしそれが事実であれば、その時期はウワディスワフⅡ世の治世下にあたることになりる。
1500年フランスのルイXII世に仕えた。のち フェラッラ公の宮廷礼拝堂楽長職に就いた。
1503年にイタリアへ戻った彼は、フェラーラ公エルコレⅠ世に仕えた。同地では、サヴォナローラに触発されて作曲され、彼のモテットの中で最も頻繁に演奏される「ミゼレーレ」や、高度な技巧を要するモテット「Virgo Salutiferi」、そして「ミサ・エルコレ・ドゥクス・フェッラリアエ」といった重要な作品を書き上げた。
・翌年、ペストの流行により公爵の宮廷は都市からの退避を余儀なくされ、ジョスカン自身もフランスへ戻った(これが永続的な帰国となった)。
1504年5月3日にコンデ=シュル=レスコーのノートルダム教会司祭、聖堂参事会首席司祭préposti állását(註:)に就任し、1521年亡くなるまでその地にとどまった。
註:provost’s positionとは、聖堂参事会会長・首席司祭)の職・役職を意味する言葉である。聖堂参事会(聖職者の評議会)を取り仕切り、聖堂の領地や財産の管理、礼拝の維持、人事などを統括する最高責任者(代表者)であった。また、単なる宗教的な職務にとどまらず、地域における強い影響力と富、そして高い社会的地位を伴う要職であった。
1513年、ヴィンチェンツォ・ガリレイという極めて信頼に足る目撃者が、ジョスカン・デ・プレのローマ訪問について次のように記している。『教皇レオ10世は、複数の旋律を同時に歌うことを特徴とする新しい歌唱様式を大いに気に入り、教皇就任の初年度にはフランスやフランドルから対位法に長けた歌手たちをこぞってローマに招き寄せ、彼らに教皇から多額の報酬が与えられた。』
・宗教改革の父マルティン・ルターもまた、ジョスカンの才能に魅了されていた。彼は次のように記している。『彼は音の巨匠である。音は彼の意志に従うが、他の巨匠たちは音の意志に従わざるを得ないのだ。』
・ジョスカンは同時代の人々からすでに「音楽の王子」と呼ばれており、多くの統治者や教会員を音楽で魅了した。
・イタリアの影響下でこれらの特質は洗練され、より優美で流麗、かつ繊細で構成の明快なポリフォニー様式が発展した。彼はこの様式を通じて、16世紀ルネサンス音楽のあらゆる分野における巨匠となった。ジョスカンこそは、新しいミサ、新しいモテット、そして新しいシャンソンを真に創り出した人物であった。
・言葉の意味に合わせて音楽的な響きを調整する「declamation言葉の抑揚や朗読的な表現」を重視したことで、より自由な感情表現が可能となった。同時代の他の作曲家たちが音楽の知的な構成を重視する一方で、ジョスカンは歌詞に基づいて音楽的な意味を捉えた。
・作曲家としての活動だけでなく、教育者としての活動によるものでもあります。ジャン・ムートンJean Mouton、ジャン・リシャフォールJean Richafort、ニコラ・ゴンベールNicolas Gombertなど、多くの才能ある作曲家が彼の弟子として名を連ねている。

作品:ミサ曲集、モテット、シャンソン集などを作曲した

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube「アヴェ・マリアAve Maria」

⬇ youtube「Déploration sur la mort d’Ockeghemオケゲムの死を悼む哀歌」

⬇ youtube「Gloria(Missa L’homme armé)」

⬇ youtube「Bicinium」

⬇ youtube「Gaude virgo」

⬇ youtube「Salve regina a 4(4声のためのサルヴェ・レジーナ)」