
イギリス、ルネサンスの作曲家
ジョン・ブルJohn Bull(1562-1628)
イングランド、ルネサンスの作曲家オルガン奏者・ヴァージナル(註:)奏者・オルガン製作者。彼はヴァージナル楽派を代表する名高い鍵盤楽器奏者であり、その作品の多くもこの楽器のために書かれたものである。
註:virginal はチェンバロの一種の小型鍵盤楽器。
1562年ウェールズのヘレフォード教区内の小さな町オールドラドナーで生まれた。
1573年、彼はヘレフォード大聖堂の聖歌隊に加わった。1574年王室礼拝堂少年聖歌隊員になって、ジョン・ブライスマンJohn Blithemanやウィリアム・ハニスWilliam Hunnisに師事した。この期間、彼は歌唱に加え、オルガン演奏も学んだ。
1577年から1578年にかけてマーチャント・テイラーズ・カンパニー(商人組合)に名を連ねた。
1628年3月15日ベルギーのアントウェルペンで歿
1. 経歴
。
1582年にブルがヘレフォード大聖堂のオルガニストに初めて任命され、続いて同聖堂の聖歌隊長も務めた。。
1586年1586年にオックスフォード大学から学位を授与され、同年、王室礼拝堂のメンバー(Gentleman)に任命されました
1591年ジョン・ブライスマンの死去に伴い王室礼拝堂オルガニストに任命された。
1592年にはオックスフォード大学から博士号を取得した
・一説によれば、ブルの出生地は定かではない。1952年に発表された論文の中で、サーストン・ダートThurston Dartはブルの家系がサマセットに由来すると推測し、同地が作曲家の出生地である可能性を示唆した。彼がサマセット州ペグリッチのブル家と血縁関係にあったという説を最初に唱えたのは17世紀の古物収集家アンソニー・ウッドAnthony Woodであったが、1959年、ダートはブルがおそらくロンドンの金細工師の息子であったと記している。その後、ダートは「ジョン・ブルの生涯年譜Calendar of the Life of John Bull」の第2版において、第三の可能性としてヘレフォードHerefordを挙げた。
・スージ・ジーンズSusi Jeansによる近年の研究は、ブルがヘレフォード教区内のラドナーシャーにあるオールド・ラドナー教区で生まれたことを示唆してい。ただし、出生記録は未発見である。1582年にブルがヘレフォード大聖堂のオルガニストに任命されたことは、同教区が彼の出生地であるという説を裏付けるものと言える。当時、ロンドンで研鑽を積んだオルガニストが地元の大聖堂に戻ることは一般的だったからである。
1596年には、彼を高く評価していたエリザベス女王の推薦により、グレシャム・カレッジGresham Collegeの初代音楽教授に就任した。
・エリザベス女王がブルを諜報任務に就かせていたことを示す証拠がいくつか存在する。
1601年から1602年にかけての彼による18ヶ月間の大陸への旅は、表向きは健康上の理由とされていたが、その目的は十分に解明されていない。また、当時スペイン領ネーデルラントの一部であったブリュッセルへの訪問を除き、現地での彼の足取りは謎に包まれたままである。
エリザベス女王の死後、彼はジェームズ王に仕えるようになり、熟練した作曲家、鍵盤楽器奏者、そして即興演奏家としての名声を確立した。
・しかし、鍵盤楽器の演奏家や作曲家としての卓越した才能に加え、ブルはトラブルを起こすことにも長けていた。1597年にグレシャム・カレッジに任命された際、彼には、委員会の規定を遵守すること、グレシャム・ハウスに居住すること、そしてロンドン市長、市参事会員、ロンドン主教、さらにはマーサーズ・カンパニー(羅紗商組合)の長および監督官の臨席のもと、6月の第2週に就任講義を行うことが義務付けられていた。
・割り当てられた部屋がトーマス・グレシャムの継子ウィリアム・リードに占有されたままであるため彼は、石工を雇って壁を壊させ、強引にその部屋に立ち入った。この行為が、星室庁におけるブルに対する訴訟へと発展することになった。
・この事件の結果は不明である。10年後、彼はエリザベス・ウォルターElizabeth Walterとの間に婚前婚で子供をもうけたため、1607年12月20日にグレシャム・カレッジの職を辞任せざるを得なくなり、最大の収入源と住居を失った。職を失った2日後に結婚許可証の申請を行ったものの、彼は二度とカレッジに戻らなかった。
1607年にエリザベス・ウォルターと結婚し、彼女との間に娘をもうけた。
・「パルテニアParthenia」に7曲の鍵盤楽曲を発表した直後の1613年10月、ブルは極めて急いで密かにイングランドを離れ、二度と戻ることはなかった。ブルが逃亡したのは、カンタベリー大主教ジョージ・アボット、そしてジェームズ王自身の怒りを買ったためであり、今回の嫌疑は姦通であった。カンタベリー大主教は前年、彼について次のように評していた。『この男は誠実さよりも音楽の才に長けており、オルガンやヴァージナルを奏でる腕前と同じくらい、処女を汚すことでも悪名を馳せている』。大主教はトランブルTrumbullに対し、ある一件について次のように語った。『ブルは妻と同じベッドで寝ていたが、高いベッドの下に押し込める低い引き出し式ベッド(トラックル・ベッド)には二人の女中が寝ていた。ある夏の朝、ブルは女中の一人に妻の隣で寝るよう命じ、自分はもう一人の女中と共に下の引き出し式ベッドで寝たのである。さらにブルは、会衆の面前で教会の聖職者に暴行を働いたこともあった。』。
1615年、彼はアントワープ大聖堂の副オルガニストに、1617年には首席オルガニストに任命された。フランドル滞在中、彼はアントワープ市長宛てのものを含め数通の書簡を書き、その中で、イングランドを離れた理由は宗教的迫害から逃れるためだったと主張している。彼がカトリック教徒であったという証拠はないものの、彼はある程度曖昧な表現で次のように記している。
・ブルはフランドルに留まり、そこでは特に問題を起こすこともなかったようだ。彼は一時ブリュッセルの宮廷に雇われていたが、ジェームズ王の不興を買った旨がトランブルから伝えられると解雇された。もっとも、その後も1618年までは宮廷から金銭の支給を受けていた。
・トランプルが大公に苦情を申し立てたにもかかわらず、彼がイギリスへ引き渡されることはなかったため、彼の言い分は信じられたものと思われる。アントワープ滞在中、彼は当時最も影響力のあった鍵盤楽器の作曲家、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクと出会った可能性が高い。
1620年代、彼はオルガニスト、オルガン製作者、そしてコンサルタントとしての活動を続けた。
彼はアントワープで亡くなり、1628年3月15日に大聖堂に隣接する墓地に埋葬された。
作品:
彼は数多くの鍵盤楽曲を残しており、その一部は「Fitzwilliam Virginal Book」に収められている。作品群の中でも特に異色なものの一つに、120曲の「カノン」を収めた曲集がある。これは対位法的な技巧を驚くほど見事に発揮した作品で、これら120曲のカノンのうち116曲は、ミゼレーレMiserereの旋律に基づいている。
「カノン集」「イン・ノミネIn nomine12曲」「ミゼレーレMiserere3曲」「サルヴェ・レジナSalve Regina2曲」「世の救い主Salvator Mund2曲」「ファンタジアFantasia4曲」「Ut, re, mi, fa, sol, la4曲」「Fantasy on Ut re me fa sol la (2曲)」「Pavane and Galliard ‘Sinfonie’」「(Trumpet Pavan」「Prelude and fantasia on sol ut」「Les buffons-cemb」「Dr.Bull’s greefe」「Why ask you?3曲」「Almighty God」「Den luselijken mey, Christus plaisant」ほか
2. その他
3. 初演
4. 関連動画
⬇ youtube 「Chromatic Pavan」
⬇ youtube 「Chromatic Galliard」
⬇ youtube 「God save the Kinge神よ、王を救い給え」
⬇ youtube 「Star Anthem」
⬇ youtube 「Fantasia for Organ」
⬇ youtube 「 Fitzwilliam Virginal Bookよりパヴァーヌ」
⬇ youtube 「 Fantasia in D」
⬇ youtube 「In Nomine」