
ベルギーのルネサンス、フランコ・フラマン楽派の作曲家・歌手
ヨハネス-オケゲムJohannes Ockeghem(1410-1497)
フランコ・フラマン楽派初期の指導的重要な作曲家。オケゲムはギヨーム・デュファイとジョスカン・デ・プレの間の時代におけるヨーロッパの主要な作曲家であり、同時代の作曲家アントワーヌ・ビュノワと共に、15世紀後半を代表する作曲家の一人であった。彼は初期フランコ・フラマン楽派の重要な推進者でもあった。オケゲムは同時代の著名な作曲家たちと親交があり、そのキャリアの大半をシャルⅪ世、ルイ11世、シャルルⅧ世の治下にあるフランス王室への奉仕に捧げた。
1410年頃ブルゴーニュ領ネーデルラント(現在のベルギー)のワロン地方の都市サン=ギスランで生まれたと考えられている。
生年は不明であり、1410年頃から1430年頃まで諸説が提示されている。早い時期の説は、年長の作曲家であるバンショワが1423年にモンスからリールへ移る前に、エノーで彼と面識があった可能性に基づいている。その場合、当時のオケゲムは15歳未満であったことになる。
こうした推測は、1460年のバンショワの死に際してオケゲムが作曲した哀歌の中で、同時代のバンショワのシャンソンに言及していることに由来する。この哀歌において、オケゲムは先達である作曲家の様式を模倣することで彼に敬意を表しただけでなく、その生涯に関する有益な情報も明らかにした。
オケゲムの名前の綴りは、1885年までに残存していた彼のサインとされるものに由来しており、トゥールの歴史家ウジェーヌ・ジローデEugène Giraudetによって複製されたものであるが、その文書はその後失われている。 15世紀の資料では、「Okeghem」という綴りが主流である。他の綴りとしては、Ogkegum、Okchem、Hocquegam、Ockegham などがある。
1497年2月6日フランスのアンドル=エ=ロワール県トゥールで歿
エラスムスErasmus、ギヨーム・クレタンGuillaume Crétin、ジャン・モリネJean Molinet、ジョスカンJosquinなど、数多くの詩人や音楽家が彼の死を悼んだ。
1. 経歴
・彼の初期の経歴については詳細が不明である。この時代の多くの作曲家と同様、彼も聖歌隊員として音楽の道を歩み始めたが、どこで教育を受けたのかは定かではない。有力な説として、サン=ギスラン近郊の町モンスが挙げられており、同地には優れた音楽教育を行う聖歌隊を擁する教会が少なくとも2つ存在していた。
・オケゲムに関する最初の実際の記録は、アントウェルペンのオンゼ・リーヴェ・フラウウェOnze-Lieve-Vrouwe cathedral大聖堂のもので、1443年6月に「左手聖歌隊員」(「左手」は作曲された音楽を、「右手」はグレゴリオ聖歌を歌った)として雇われたと記されている。彼は恐らく、同じく同年に雇われたヨハネス・プロワJohannes Pulloisの指揮の下で歌っていたと思われる。この教会は由緒ある施設であり、オケゲムがここでイギリスの作曲様式に親しんだ可能性が高く、その様式は15世紀後半に大陸の音楽慣習に影響を与えたと指摘する者もいる。
1443年アントウェルペンのノートルダム寺院に奉職。
1446年から1448年の間、オケゲムは現在のフランス中部にあるムーランのブルボン公シャルルⅠ世の宮廷に仕えた。この奉仕の間、彼は宮廷記録に登場する最初の歌唱付き聖職者(singing chaplains)の中で初めて、宮廷の記録にその名が登場することとなった。
1454年「宮廷礼拝堂首席司祭」の称号を受けた。シャルルⅦ世とルイⅪ世の両方のフランス宮廷に仕えたほか、ノートルダム・ド・パリとサン・ブノワでも職務に就いていました.
1459年トゥールの聖マルタン修道院財務係となる。
1463~1470年にパリのノートルダム大聖堂参事会員、シャルルⅧ世の外交使節も勤めた。
1470年には国王の外交使節の一員としてスペインへ赴いたことが知られている。この外交任務は複雑なもので、フランスに対抗するイングランド・ブルゴーニュ同盟へのスペインの参加を阻止することと、カスティーリャ女王イザベラ1世とギエンヌ公シャルル((ルイ11世の弟)との縁談をまとめることの双方を試みるものであった。
1483年のルイ11世の死後、オケゲムの足取りについては確かなことはあまり分かっていないが、彼がブルッヘやトゥールを訪れたことは判明しており、トゥールで遺言を残していることから、おそらく同地で亡くなったものと考えられる。
1497年2月6日フランスのアンドル=エ=ロワール県トゥールで歿した。
オケゲムの死に際して数多くの哀歌が作られたことは、彼が同時代の人々からいかに敬意を抱かれていたかを示している。それらの詩に曲が付けられた作品の中でも特に有名なものの一つが、ジョスカン・デ・プレによる「森のニンフたちNymphes des bois」である。こうした詩の作者にはモリネやデジデリウス・エラスムスなどが名を連ねており、ヨハネス・ルピもまた別の曲を書いている。
1497年2月6日フランスのアンドル=エ=ロワール県トゥールで歿
エラスムスErasmus、ギヨーム・クレタンGuillaume Crétin、ジャン・モリネJean Molinet、ジョスカンJosquinなど、数多くの詩人や音楽家が彼の死を悼んだ。
主な作品
現存する約14曲のミサ曲(レクイエムを含む)、単独のクレド(クレド・シネ・ノミネCredo sine nomine)、20曲のシャンソン、10曲未満のモテットなどは、彼の全作品のごく一部に過ぎないとされている。彼の代表作には、カノン技法を用いた「ミサ・プロラティオヌムMissa prolationum」、あらゆる旋法で歌うことのできる「ミサ・クイウスヴィス・トニMissa cuiusvis toni」、シャンソン作品「フォルス・スールマンFors seulement」、そして現存する最古の多声音楽によるレクイエムRequiemなどが挙げられます。
2. その他
3.初演
4.関連動画
⬇ youtube「Missa cuiusvis toniミサ・クイウスヴィス・トニ」
⬇ youtube「Missa prolationumミサ・プロラティオヌム」
⬇ youtube Credo「Missa sine nomine名前のないミサ」
⬇ youtube「Fors seulement l’actenteただ、待つことだけを残す」
⬇ youtube「Requiem ― Introitusレクイエム―入祭唱」
⬇ youtube「Requiem Missa & Mi-miレクイエム・ミサとミ・ミ」