IWY. 54 ジローラモ・フレスコバルディ

イタリア、バロックの作曲家・鍵盤楽器のヴィルトゥオーゾの名手
ジローラモ・フレスコバルディGirolamo Frescobaldi(1583-1643)

ルネサンス後期からバロック初期にかけての鍵盤音楽における最も重要な作曲家の一人。フレスコバルディの出版された作品集には、17世紀において最も影響力の大きかった音楽の数々が含まれている。彼の作品は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーJohann Jakob Froberger、ヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach、ヘンリー・パーセルHenry Purcellといった主要な作曲家たちに影響を与えた。典礼用オルガン曲集として名高い「Fiori musicali」(1635年)に収められた楽曲は、19世紀に至るまで、厳格対位法の模範として用いられた。師のルッツァスキの鍵盤楽曲は今日では比較的知られておらず同時代の記録によれば、彼は才能ある作曲家であると同時に演奏家でもあり、ニコラ・ヴィチェンティーノのアルキチェンバロ(註)を演奏し、そのための曲を作曲できた数少ない人物の一人であった。
註:archicembaloアルキチェンバロは、16世紀イタリアの音楽理論家ニコラ・ヴィチェンティーノが考案した、1オクターヴを細かく分割した特殊なチェンバロ型鍵盤楽器であり、微分音を含む複雑な音律を実験するための楽器。
・同時代の記録によれば、フレスコバルディは「イタリアの主要都市を巡った」神童であり、演奏家として急速に名声を高めるとともに、有力な貴族から庇護を受けるようになった。この時期にフェラーラを訪れた作曲家には、クラウディオ・モンテヴェルディ、ジョン・ダウランド、オルランド・ディ・ラッスス、クラウディオ・メルーロ、カルロ・ジェズアルドといった数多くの重要な巨匠たちが名を連ねている。
・フレスコバルディは20代の初めに故郷のフェラーラを離れ、ローマへ向かった。彼がローマにいたことを示す記録は1604年にまで遡るが、その滞在が確実に裏付けられるのは1607年になってからである。

1583年9月フェラーラ公国で生まれた。
父フィリッポFilippoは財産のある人物で、彼と異母兄弟のチェーザレCesareがオルガン奏者になったことから、おそらくオルガン奏者だったと思われる。フェラーラのフレスコバルディ家が同名のフィレンツェの貴族家と関係があったという証拠はない。神童であるフレスコバルディは、マドリガルの著名な作曲家であり、アルフォンソⅡ世デステ公の宮廷のオルガン奏者であったルッツァスコ・ルッツァスキLuzzasco Luzzaschi in Ferraraに師事した。フレスコバルディはアスカニオ・マイオーネAscanio Mayone、ジョヴァンニ・マリア・トラバーチGiovanni Maria Trabaci、クラウディオ・メルーロClaudio Meruloなど多くの作曲家から影響を受けた。

1643年3月1日ローマで歿。フィレンツェのサンティ・アポストリ教会に埋葬

3.経歴

1607年1月から5月にかけて、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会のオルガニストを務め、「ジローラモ・オルガニスト」として記録されている。彼はまた、ロードス大司教グイド・ベンティヴォーリオに仕え、同大司教がフランドル宮廷への教皇大使に任命された際の旅に同行した。これはフレスコバルディにとって、イタリア国外への唯一の旅であった。
のち聖ペトロ教会の終身オルガニストに就任
・当時のブリュッセル宮廷は音楽的にヨーロッパ屈指の重要な拠点の一つであったが、ペーテル・コルネPeeter Cornetやピーター・フィリップスPeter Philipsがフレスコバルディに影響を与えたことを示す証拠はない。フレスコバルディが1608年に出版した最初の作品集「マドリガーレ集」の序文によれば、彼はアントウェルペンも訪れており、そこで彼の音楽に感銘を受けた現地の音楽家たちから、作品の一部でも出版するよう強く勧められたという。
1608年7月21日国外滞在中niん、ローマの聖ピエトロ大聖堂のオルガニストに選出されエルコレ・パスクィーニErcole Pasquiniの後任となった。彼は1628年まで、そして再び1634年から亡くなるまで、アカペラ・ジュリア(音楽団体)の権力の中心であるサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストに任命された。
しかしフレスコバルディは夏の間フランドル地方に留まり、10月29日までローマに戻らなかった。
10月31日ローマの聖ピエトロ大聖堂のオルガニスト職務に就き、断続的ではあったものの、亡くなるまでその地位にあった。
・フレスコバルディは1610年から1613年にかけて、ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿に仕え始め、1621年2月に同枢機卿が死去した後もしばらくの間、その奉仕を続けた。
1613年2月18日、彼はオルソラ・トラヴァリーニOrsola Travaglini(Orsola del Pino)と結婚した。二人には5人の子供がいた。フランチェスコ(1612年5月29日生まれの非嫡出子)、マッダレーナ(1613年7月22日生まれの非嫡出子)、ドメニコ(1614年11月8日生まれ、詩人・美術品収集家)、ステファノ(1616/17年)、そしてカテリーナ(1619年9月)である。
1614年10月、フレスコバルディはマントヴァ公フェルディナンドⅠ世・ゴンザーガの代理人から誘いを受けた。提示された条件が非常に魅力的だったため、彼は公に仕えることを承諾した。しかし、マントヴァに到着した際の扱いはあまりに冷淡なものであり、フレスコバルディは1615年4月までにローマへ戻ることとなった。
・彼はその後も作品の出版を続け、1615年には「トッカータ集 第1巻」の2つの版と、リチェルカーレおよびカンツォーナを収めた曲集が刊行した。フレスコバルディは、聖堂Basilicaやアルドブランディーニ家での職務に加え、弟子の指導にあたったり、折に触れて他の教会で活動したりもしていた。
1615年から1628年にかけては、フレスコバルディにとって最も創作活動が盛んな時期であった。
1628年11月22日、聖ピエトロ大聖堂はフレスコバルディにローマを離れる許可を与えた。彼はフィレンツェへ移り1634年まで、メディチ家出身のトスカーナ大公に仕えることとなった。同地での滞在中、彼は最高額の報酬を得る音楽家として活躍し、1年間はフィレンツェ洗礼堂のオルガニストも務めた。
・彼は1634年までその都市に滞在した。その後、1634年4月にローマへ戻った彼は、有力なバルベリーニ家、すなわち教皇ウルバヌスⅧ世に仕えることとなったが、これは当時の音楽家にとって最高の名誉とも言える地位であった。
・彼は聖ピエトロ大聖堂での仕事を続けつつ、フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿にも雇われていた。この枢機卿は、著名なリュート奏者ヨハンネス・ヒエロニムス・カプスベルガーを雇用していたことでも知られている。フレスコバルディは1635年に自身の最も重要な作品集の一つである「Fiori musicali」を出版し、1637年には過去の作品集の再版も行った。
・フレスコバルディは10日間の闘病の末、1643年3月1日に死去した。彼はサンティ・アポストリ教会に埋葬されたが、その墓は18世紀後半の教会改築の際に失われてしまった。現在、同教会には彼の名を記し、イタリア音楽の父の一人として彼を称える墓碑が設けられている。

作品:
「トッカータ集第1巻」の改訂版(1615–16年)、リチェルカーレricercarsとカンツォーナcanzonas(1615年)、カプリッチョcappricios(1624年)、「トッカータ集第2巻(1627年)、そして1〜4の楽器と通奏低音のためのカンツォーナ集continuo(1628年)、2冊のアリアarias集(1630年)、アリアarias集(1630年)、Fiori musicali(1635年)
オルガン曲「音楽の花束」、「トッカータ集」などオルガンやチェンバロのための作品を多く残す

5.その他

作品は後の作曲家に多大な影響を与えたと言われている。

6.初演

7.関連動画

⬇ youtube音楽の花束「Bergamasca(Fiori Musicali)」

⬇ youtube「 Canzona La Capriola」

⬇ youtube「Messa degli Apostoli, Toccata per l’Elevazione」
音楽の花束 「使徒のミサ-聖体奉挙のためのトッカータ」

⬇ youtube「Messa della Domenica日曜日のミサ」

⬇ youtube「Messa degli Apostoli, Toccata per l’Elevazione聖体奉挙のためのトッカータ」

⬇ youtube「Se l’Aura Spiraそよ風吹けば」

⬇ youtube「Toccata Terza, libro primoトッカータ第3番(第1巻)」