IWY. 36 ジョヴァンニ・パレストリーナ

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イタリア、ルネサンスの作曲家
ジョヴァンニ・パレストリーナGiovanni pierluigi da Palestrina(1525-1594)

パレストリーナは、北欧風のポリフォニー様式の影響下で音楽家として成長した。この様式がイタリアで優位を占めるに至ったのは、主にギヨーム・デュファイとジョスカン・デ・プレという二人の有力なネーデルラント出身の作曲家によるものであり、彼らはそのキャリアの大部分をイタリアで過ごした。彼はオルランド・ディ・ラッソやトマス・ルイス・デ・ビクトリアと並び、ローマ楽派を代表する人物であり、16世紀後半のヨーロッパにおける最も重要な作曲家と見なされている。後世に最も大きな影響を及ぼしたのは、彼の個々の作品そのものというよりは、むしろいわゆる「パレストリーナ様式」の対位法(とりわけヨハン・ヨーゼフ・フックスによって体系化されたもの)であった。

1525年2月2日か2月3日頃ローマ近郊パレストリーナ生れた。
ナポリ出身の両親サントSantoとパルマ・ピエルルイジPalma Pierluigiの間に生まれた。
10歳の時、1536年1月16日に母親を亡くした。
記録によれば、彼は1537年に初めてローマを訪れ、ローマ教区の教皇聖堂の一つであるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の聖歌隊員として名を連ねた。この聖歌隊での活動を通じて、彼は文学や音楽を学ぶ機会を得ることとなった。
1540年にローマへ移り、そこでユグノーのクロード・グディメルClaude Goudimelの門下で学んだ。また、ロバン・マラペールRobin Mallapertやフィルマン・ルベルFirmin Lebelにも師事した。彼はキャリアの大半をこの都市で過ごした。

1594年2月2日ローマで歿

1. 経歴


1544-1551年まで、故郷の都市の主要教会である聖アガピト大聖堂のオルガニストを務めた。
1551年教皇ユリウスⅢ世JuliusⅢはパレストリーナをサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊楽長に任命した。
1554年パレストリーナは、自身初の出版作品であるミサ曲集をユリウスⅢ世に献呈した。
1555年システィーナ礼拝堂歌手、教皇パウルスⅣ世Paulは、教皇庁聖歌隊の歌手を全員聖職者とすることを命じた。しかしパウルスⅣ世PaulⅣの教皇在位下では聖職者でない者がその職を続けることができず、パレストリーナは若くして結婚し4人の子供をもうけていたため、信徒(聖職者でない者)のままでは聖歌隊にとどまることができなかった。パレストリーナは同職を退くこととなった。
1555-1560年から次の10年間、パレストリーナはローマの他の礼拝堂や教会、特にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂やサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(1561-1566年)など、ユリウス礼拝堂と同様の役職聖歌隊楽長を務めた。
1570年代は彼にとって個人的に困難な時期であった。
彼は、1572年、1575年、1580年にそれぞれ発生したペストの流行により、兄弟、二人の息子、そして妻のルクレツィア・ゴーリを相次いで失った。この時彼は司祭になることも考えていたようだが、代わりに今度は裕福な未亡人ヴァージニア・ドルモリVirginia Dormoliと再婚した。これにより最終的に彼は経済的に自立することができ(合唱指揮者としてはあまり給料が支払われなかった)、亡くなるまで多作に作曲することができた。
1571年に彼はユリウス礼拝堂楽長に復帰し、1594年に死去するまでサン・ピエトロ大聖堂に留まった。
1594年2月2日、ローマで胸膜炎により死去した。当時の慣例通り、パレストリーナは死去したその日のうちに埋葬された。遺体は質素な棺に納められ、そこには「Ioannes Petrus Aloysius Praenestinus Musicæ Princeps(ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ、音楽の大家)」と刻まれた鉛の銘板が添えられていた。
・葬儀では、3つの合唱隊による5声の「リベラ・メ・ドミネLibera me Domine(主よ、我を救い給え)」が歌われた。パレストリーナの葬儀はサン・ピエトロ大聖堂で執り行われ、遺体は大聖堂の床下に埋葬された。彼の墓所は後に新たな建築工事によって覆われてしまい、その位置を特定しようとする試みも成功していない。

作品:
105曲のミサ曲、68曲の奉献唱、少なくとも140曲のマドリガーレ、300曲以上のモテットなど、数多くの作品を残した。さらに、少なくとも72曲の賛歌(hymns)、35曲のマニフィカト、11曲の連祷( litanies)、そして4-5組の哀歌(lamentations)も含まれている。パレストリーナの「Magnificat Tertii Toni」(1591年)に見られる「グロリア」の旋律は、今日、復活祭の賛歌「Victory(The Strife Is O’er)」の曲として広く用いられている。
「Stabat Mater悲しめる聖母は立てり」、「Ave Mariaアヴェ マリア」、「O Magnum Mysteriumおお、大いなる神秘よ」、「マルチェルス教皇のミサ」、「Vergine bella美しき聖母」、「Missa Papae Marcelli教皇マルチェルスに捧げられたミサ曲」、「Vestiva i colli丘や野原が春の新しい栄光で」等々

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube 「Stabat Mater悲しめる聖母は立てり」

⬇ youtube 「Ave Mariaアヴェ マリア」

⬇ youtube 「First Book of Madrigalsモンテヴェルディの第1マドリガル集」

⬇ youtube 「O Magnum Mysteriumおお、大いなる神秘よ」
キリストの降誕と、家畜小屋でその神秘を見守る動物たちの驚きを歌う典礼文

⬇ youtube 「The Tallis Scholars」

⬇ youtube 「Motet in 5 parts5声モテット集・第4巻」

⬇ youtube 「Vergine bella美しき聖母」

⬇ youtube 「Missa Papae Marcelli教皇マルチェルスに捧げられたミサ曲」

⬇ youtube 「Vestiva i colli丘や野原が春の新しい栄光で」

生年代:1525年

没年代:1594年

日本の元号:大永5年

時代:室町時代