IWY. 38 ジャケス・デ・ヴェルト

ベルギー出身のルネサンスの作曲家
ジャケス-デ-ヴェルトGiaches de Wert(1535-1596)

イタリアで活躍したフランコ・フレミッシュ楽派の作曲家であり、ルネサンス後期の人物。当時、進歩的な音楽の中心地であったフェラーラと密接な関わりを持ち、ルネサンス後期のマドリガーレ様式の発展を主導した一人であった。彼は16世紀後半のマドリガーレ作曲家の中で最も影響力のある人物の一人であり、特にクラウディオ・モンテヴェルディに多大な影響を与えたほか、その晩年の作品は初期バロック音楽の発展の礎となった。

1535年フランドル出身であること(ヘント近郊、あるいはフランデレン地域アントウェルペンに近いヴェールトの出身とされる)
フランデレン地域アントウェルペンのヴェールト生
彼の初期の経歴についてはほとんど知られていない。少年時代に南イタリアのナポリ近郊にあるアヴェッリーノへ渡り、チプリアーノ・デ・ラッソに入門した。パドゥッラ侯爵夫人マリア・ディ・カルドナの礼拝堂で聖歌隊員となった。侯爵夫人マリアは、神聖ローマ皇帝カールⅤ世の指揮下にあった軍事指揮官、マッサロンバルダ侯爵フランチェスコ・デステの妻であった。フランチェスコは、悪名高いルクレツィア・ボルジアと、その夫アルフォンソⅠ世・デステとの間に生まれた息子でった。彼は軍事遠征でフランスやその周辺地域に赴くことが多く、そうした遠征の折に、音楽の才能ある若者たちをイタリアへ連れ帰っていた。デステ家とのこうした関わりは、ヴェルトの生涯の大部分にわたって続くことになる。

1596年5月6日マントヴァで歿

1. 経歴


1550年より前のいずれかの時期に、彼はゴンザーガ家との関わりを持ち始めた。おそらく1550年頃、彼はゴンザーガ家の一支流に仕える音楽家として、現在のレッジョ・エミリア県にある町ノヴェッラーラへ移り住んだものと考えられる(かつてローマに滞在していた可能性も指摘されていたが、その説は確証を得ていない)。16世紀半ばのノヴェッラーラは、同地を治めるゴンザーガ家の一支流の下で、重要な音楽の拠点となっていた。アルフォンソⅠ世は自身の城に劇場を建設し、若いフランドル出身の楽長を責任者として据えて、演劇や劇的な催しを上演していた。
ゴンザーガ家とエステ家は親密な関係にあり、ヴェルトは1550年代初頭に、16世紀後半の音楽活動の拠点であったマントヴァとフェラーラを少なくとも一度は訪れていた。その際、彼は著名なマドリガーレ作曲家チプリアーノ・デ・ローレCipriano de Roreと出会い、ローレはヴェルトの初期の音楽様式に最も大きな影響を与えた人物となった。
・ノヴェッラーラ滞在中、ヴェルトはルクレツィア・ゴンザーガLucrezia Gonzagaと結婚し、少なくとも6人の子供をもうけた。
1560年代初頭まで彼はノヴェッラーラに留まったが、その後、ミラノにあるゴンザーガ家の主要な礼拝堂の楽長の職に就いた。しかし、そこでの滞在は長くは続かなかった。
1560年代はヴェルトにとって実り多い時期であり、この間に5声のマドリガーレ集の第1巻から第4巻までを、さらに4声のマドリガーレ集の第1巻を出版した。
1565年にはマントヴァへ移り、サンタ・バーバラ礼拝堂の楽長(1565-1592年まで)に就任した。
ヴェルトの妻ルクレツィアが、サンタ・バーバラで夫のライバルでもあったマントヴァの作曲家アゴスティーノ・ボンヴィチーノAgostino Bonvicinoと不倫関係に陥ったのは、マントヴァでのことであった。
1566年のアウクスブルクを訪れた。そこでヴェルトが見せた即興対位法の驚異的な才能が、神聖ローマ皇帝マクシミリアンⅡ世に仕えるプラハの宮廷への招聘につながった。翌年には、ファルネーゼ家の本拠地であるパルマからも誘いがあったが、彼はこれを断った。
1570年代から1580年代にかけて、彼はフェラーラのデステ家宮廷と親密な関係を築いていった。
1570年にこの不倫が発覚すると、彼女はマントヴァを追放され、ヴェルトは現地に留まった。ヴェルトは、妻に裏切られた夫(寝取られ夫)として聖歌隊から非難を浴びながらも、職務を全うしけした。しかし、その後のルクレツィアの不遇は、ヴェルトのそれを上回るものであった。ノヴェッラーラに戻った彼女は、同地のフランチェスコ伯爵の庶子クラウディオと肉体関係を持ち、伯爵の死に際して遺産と爵位を奪取しようと画策された叔父殺害の陰謀に加担した。クラウディオは法の裁きを免れたものの、ルクレツィアは他の共謀者らと共に捕らえられ、1584年に獄中で亡くなった。
1596年、ヴェルトはマントヴァにある公爵宮殿近くの自邸で亡くなった。彼の墓は、長年奉職した教会の地下にあるサンタ・バルバラ聖堂の地下聖堂にあり、同時代の音楽家フランチェスコ・ロヴィーゴの墓の近くに位置している。

作品:
宗教曲や世俗曲、さらには少数の器楽用ファンタジアも作曲したが、生前において最も名声を博したのはマドリガーレであった。彼は生涯で約230曲のマドリガーレを作曲し、1558年から没後の1608年に出版された最後の曲集に至るまで、半世紀にわたって計16冊の曲集として世に送り出した。そのマドリガーレ集のほとんどは5声のための作品で、1561年には4声のための曲集が1冊出版されており、また1608年の死後に出版された曲集には、4声から7声の作品が収められている。

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


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