IWY. 17 ジョン・ダンスタブル

イギリスの作曲家
ジョン・ダンスタブルJohn Dunstable

イギリスのルネサンスを代表する作曲家・数学者・天文学者・占星術師。
・中世からルネサンス期への移行の先駆けとなる音楽を創り出した。「コンテナンス・アングレーズContenance angloise」(イギリス風)様式の中心的な提唱者であったダンスタプルは、同時代におけるイギリスのルネサンスを代表する作曲家であり、ウィリアム・バードWilliam Byrdやヘンリー・パーセルHenry Purcellと並び、イギリスの最も重要な古楽の作曲家としてしばしば名を挙げられる。彼の様式は、その後の大陸ヨーロッパの音楽に多大な影響を及ぼし、デュファイ、バンショワ、オケゲム、ビュノワといった作曲家たちに影響を与えた。

1390年頃ベットフォードシャ-州ダンスタブル生れた。
・ダンスタブルの生涯に関する情報はほとんど存在しないか、あるいは推測の域を出ないものであり、その活動時期について確実に判明しているのは、1453年のクリスマスイブに死去したという日付のみである。
・彼がイングランドのベッドフォードシャー州ダンスタブルの町で生まれた可能性を示唆している、彼自身のものと思われる署名を含め、同時代の資料では、その名前は「Dunstaple」と綴られている。1390年という生年は、年代を特定できる現存する最古の作品群――アジャンクールBattle of Agincourtの戦いにおけるイングランド王ヘンリーⅤ世English King Henry V’s victoriesの勝利を祝う行事で演奏されたモテット「来たれ、聖霊Veni sancte spiritus」および「卓越した先触れPreco preheminencie」――の登場時期から推定されている。これらの楽曲は、1416年にカンタベリー大聖堂において、国王および神聖ローマ皇帝ジギスムントの臨席のもとでも再び演奏された。このことは、「オールド・ホール写本」の作者であるカンタベリーの作曲家レオネル・パワーLeonel Powerがダンスタブルと面識があり、パワーがダンスタブルの師であった可能性を示唆しているかもしれない。ダンスタブルとパワーの作品は非常によく似ているため、同時代の写本の中には、同一の楽曲について両者の名前が作者として併記されているものさえある。
・14世紀後半、おそらくベッドフォードシャーのダンスタブルで生まれた。彼の生年は、1410年から1420年頃の現存する初期作品に基づいた推定であり、それらは彼が14世紀後半に生まれたことを示唆している。音楽学者のマーガレット・ベント Margaret Bentは、生年を1390年頃としている。彼の家族はベッドフォードシャーのダンスタブルという町にちなんで姓を採用したと考えられている。現代の研究では、町の綴りに合わせて「Dunstable」と表記されることもあるが、彼と同時代の史料では、一般的に「Dunstaple」と記されている。

1453年12月24日ロンドンで歿

ダンスタブルという名前は、彼がイングランドのベッドフォードシャー州ダンスタブルの町で生まれた可能性を示唆しています。彼自身のものと思われる署名を含め、同時代の資料では、その名前は「Dunstaple」と綴られています。1390年という生年は、年代を特定できる現存する最古の作品群――アジャンクールの戦いにおけるイングランド王ヘンリー5世の勝利を祝う行事で演奏されたモテット『来たれ、聖霊(Veni sancte spiritus)』および『卓越した先触れ(Preco preheminencie)』――の登場時期から推定されています。これらの楽曲は、1416年にカンタベリー大聖堂において、国王および神聖ローマ皇帝ジギスムントの臨席のもとでも再び演奏されました。

1. 経歴


ダンスタプルは、グロスター公ハンフリーやナバラのジョーン、そして彼らを通じてセント・オールバンズ修道院と関わりを持っていた。
もう一人の重要なパトロンにヘンリーⅣ世の四男でありヘンリーⅤ世の弟でもあるベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターに仕えていたと広く考えられている。同公は1423年から1429年までフランスの摂政を、その後1429年から1435年に死去するまではノルマンディー総督を務めていたため、彼もまた一時期フランスに滞在していた可能性がある。
・ダンスタブルは1427年まで歴史の記録から姿を消しるが、この年には彼がフランスに滞在し、ヘンリーⅤ世の弟であるベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターに仕えていたことが確認されている。また、1428年からは、悪名高い王太后ナバラのジョーンJoan of Navarreの従者の一員であったことも判明している。
・プランタジネット朝Plantagenetsへのダンスタブルの奉仕に関する歴史的記録は不明瞭であるが、これは彼が両国の宮廷に仕え、イングランドとフランスの間を頻繁に行き来していたことを示唆している可能性がある。
・海外への旅の途上で、ダンスタブルは、彼を最も高く評価していたフランコ・フランドル楽派の作曲家、ギヨーム・デュファイやジル・バンショワと親交を結んだ可能性がある。
・15世紀の論文は、この時期にフランスの音楽家たちがイギリス音楽から受けた影響を認めている。これは当時の政治情勢を反映したものでもある。百年戦争の最終局面にあたる1420年から1450年にかけては、パリを含むフランス領土の大部分がイングランドの支配下にあったからである。
1435年にベッドフォード公が死去した際、ダンスタブルはこの状況から直接的な恩恵を受けた。公が彼に対し、ノルマンディーにおける広大な土地を授与したからである。
1436年の税務記録によれば、彼はノルマンディーに加え、ケンブリッジシャー、エセックス、ロンドンにも所領を所有していた。もう一人の後援者である王太后ジョーンが亡くなった後、彼は明らかにヘンリーⅣ世の五男であるグロスター公ハンフリーに仕えていたと見られる。
彼は同時代の多くの作曲家とは異なり、聖職者や修道士ではなかったと思われるが、セント・オールバンズ修道院との繋がりは存在する。
また、彼の教区に同姓の女性がいた記録から、彼は結婚していた可能性が高く、ハートフォードシャーに荘園を所有していた。
1437年にジョーン王妃が亡くなった際にも、彼女は彼に多額の年金を遺している。
・ダンスタブルは当時、天文学者としても高い評価を受けており、彼自身の筆によるものと見られる天文図も現存している。しかし、彼の音楽作品については、彼自身の自筆譜ではなく、他の筆写者による写本を通じてのみ知られている。それらの写本は、同時代の資料がごくわずかしか残っていないイングランドではなく、主にイタリアやドイツの資料群の中に保存されている。
1453年ダンスタプルはクリスマスイブに死去した。これは、彼が埋葬されたロンドンのセント・スティーブン・ウォールブルック教会にある墓碑に記されている。1453年に死去した際、彼は富と名声を手にしていた。作曲家としてのその名声は、16世紀前半に至るまで長く続いた。
・ダンスタブルのもう一人の知人とされる人物、セント・オールバンズSaint Albans修道院長のジョン・オブ・ウィートハムステッドJohn of Wheathampsteadは、ダンスタブルを追悼する二つの碑文を書き残した。その一つには次のように記されている。「with (Dunstable) as judge, Urania learned how to unfold the secrets of Heaven. This man was your glory, O Music; who had dispersed your sweet art through the world. The ‘star’ transmigrates to the stars; may the citizens of Heaven receive him as one of their own.(ダンスタブルを)審判者として、ウラニアは天の秘め事を解き明かす術を学んだ。音楽よ、この人こそ汝の栄光であった。彼は汝の甘美な芸術を世界中に広めたのだから。今やその『星』は星々の世界へと移りゆく。天の住人たちが、彼を同胞として迎え入れんことを。」意味は【「ウラニア」とは、ギリシャ神話に登場する天文学の女神の名称である。ダンスタブルは優れた音楽家であると同時に、当時高く評価されていた天文学者・占星術師・数学者でもあった。天文学(天の秘め事)の真理を極めた彼は、いわばウラニアをも導くような存在であったという意味が込められている。当時のイギリス風様式(コンテナンス・アングレーズ)の音楽は、大陸ヨーロッパの作曲家たち(デュファイやバンショワなど)に多大な影響を与えた。ダンスタブルがその美しい多声部の芸術をイギリスから世界(ヨーロッパ大陸)へと広め、音楽の発展に大きく貢献したことが称えられている。「星(Stella)」という表現には、天文学に通じていた彼自身を重ね合わせる意味と、天体のように光り輝く偉大な芸術家という賛辞が含まれている。彼の魂が天上の星々の世界(天国)へと召されていき、天の住人(神々や天使たち)が彼を仲間として温かく迎え入れてほしいという祈りが捧げられている。】
・ダンスタプルの死に際して書かれた墓碑銘には、彼が音楽家であるだけでなく、尊敬される数学者 mathematician、天文学者astronomer、占星術師astrologerでもあったと記されている。

作品:
ダンスタブルの作品のうち、世俗曲が占める割合はごくわずかである。ダンスタブルの音楽作品は主に宗教的なものであったが、彼が聖職者としての地位にあったことを示す証拠はない。
ダンスタブルの現存する楽曲はすべて声楽曲であり、頻繁にisorhythms(註1)(等律)を用いつつ、3度や6度の和音を多用する手法を先駆的に取り入れている。モテット「来たれ聖霊」、「ああ栄光の十字架」、シャンソン「おお、美しいばらよ」、「わが愛ゆえ」など。中世イングランドでは膨大な数の音楽作品が創作されたが、その楽譜のほとんどはイングランド宗教改革、とりわけ1536年から1540年にかけて行われた修道院解散の過程で失われてしまった。そのため、ダンスタブルの作品の多くは、大陸側(主に北イタリアやアルプス以南の地域)に残された資料から復元せざるを得なかった。彼の作品の写本がイタリアやドイツで数多く発見されていることから、その名声は広範囲に及んでいたに違いない。
現存するのは約50点のみで、その中には完全なミサ曲2曲、循環ミサ曲セクション3セット、個々のミサ曲セクションmass sections14曲、完全な等リズムモテット12曲(賛美歌「Veni creator spiritus」とシーケンス「Veni sancte spiritus」を組み合わせた有名なもの、および上記のあまり知られていないAlbanus roseo rutilatを含む)、およびさまざまな典礼テキストの27の個別の設定が含まれる。Magnificatsと、Alma redemptoris MaterやSalve Regina、Mater misericordiaeなどのMarian antiphonsの7つの設定。
ダンスタプルは、compose masses(註2)として単一の旋律を使用してミサ曲を作曲した最初の人物の一人でった。このテクニックの良い例は、彼のMissa Rex seculorumである。
註1:isorhythmsとは中世アルス・ノヴァ期モテットに典型的な作曲技法で、特にテノール声部に同じリズムを反復させ、その上に別の旋律やリズムを重ねることで、複雑で理知的なポリフォニーを生み出す。
註2:compose massesとは、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アグヌス・デイ、これらの複数の5つの曲はそれぞれ全く別々の独立した曲として作曲されていた。これら5つの曲を「ひとつのまとまった音楽作品(=単一のミサ曲)」としてセットで作曲したことを意味する。これを音楽用語で「定旋律Cantus firmus」と呼び、グレゴリオ聖歌や、当時流行していた世俗の歌(民謡など)の中から「ひとつのメロディ」を選び、その選んだひとつのメロディを、5つの曲(キリエからアグヌス・デイまで)すべての土台(主にテノール・パート)に配置し、その上に別の美しいメロディを重ねて作曲した。同じメロディ(定旋律)が全曲を通じて繰り返し現れることで、本来バラバラだった5つの曲に「音楽的な統一感」が生まれた。
モテット「来たれ聖霊」、「ああ栄光の十字架」、シャンソン「おお、美しいばらよ」、「わが愛ゆえ」

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube 「Ave Maris Stella」

「Ave Regina Caelorum」

⬇ youtube 「Missa Da gaudiorum premia」

⬇ youtube 「Salve scema sanctitatis」

⬇ youtube 「Quam pulchra es」

⬇ youtube 「Veni Creator Spiritus」

⬇ youtube 「大聖堂の響き」

⬇ youtube 「Sancta Maria」

⬇ youtube 「Puisque m’amour」

⬇ youtube 「Magnificat」

生年代:1390年頃

没年代:1453年