イタリアの作曲家、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、歌手
クラウディオ・モンテヴェルディ・ジャン・アントニオClaudio Giovanni Antonio Monteverdi(1567-1643)
世俗音楽と宗教音楽の両方を作曲し、オペラの発展の先駆者でもある彼は、音楽史におけるルネサンス期とバロック期の間の重要な過渡期の人物とみなされている。
1567年クレモナに生まれ、5月15日クレモナの聖ナザロと聖ケルススSs. Nazaro e Celso教会で洗礼を受けた。記録簿には彼の名前が「クラウディオ・ジャン・アントニオ」、父は「メッサー・バルダサール・モンデヴェルドBaldassarre」と記されている。彼は薬剤師バルダッサーレ・モンテヴェルディと最初の妻マッダレーナ・ジニャーニMaria Domitillaの長男で、二人は1566年初頭に結婚した。クラウディオの弟ジュリオ・チェーザレ・モンテヴェルディも音楽家になる。その後、マリア・ドミティッラMaria Domitilla(1571年5月16日洗礼)と弟ジュリオ・チェーザレGiulio Cesare後に音楽家になった(1573年1月31日洗礼)が生まれた。
1576年頃に母親が亡くなった後、父親はジョヴァンナ・ガーディオ Giovanna Gadioと再婚し(1576年から1577年の間)、クララ・マッシミリアClara Massimilia(1579年1月8日洗礼)、ルカLuca(1581年2月7日洗礼)、フィリッポFilippo(1583年1月洗礼)をもうけた。ジョヴァンナ・ガーディオの死後、バルダッサーレ・モンテヴェルディは1583年以降のある時期にフランチェスカ・コモFrancesca Comoと再婚した。
モンテヴェルディは幼少期、クレモナ大聖堂の楽長であったマルカントニオ・インジェニェーリMarcantonio Ingegneriの下で音楽の基礎を学んだ。
1643年ヴェネツィアにて没し、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に埋葬されている。
1. 経歴
1582年から1590年にかけて出版された初期の作品集の表紙において、この若き作曲家は、自らをクレモナ大聖堂の楽長であったマルカントニオ・インジェニェーリの弟子であると記している。したがって、彼の音楽的修練はその聖堂で始まったと考えるのが妥当であろう。実際、彼の公的なデビューは極めて早い時期に果たされた。
1582年8月1日、当時15歳であったモンテヴェルディClaudinus Monsviridusは、聖書や典礼のテクストに基づく小規模なモテット集「3声のための聖なる小歌Sacrae cantiunculae tribus vocibus」(ヴェネツィア、A. ガルダノ刊、1582年)を、参事会員ドン・ステファノ・カニーニ・ヴァルカレンギに献呈しています。翌年には、より意欲的な作品集である「4声のための霊的マドリガーレ(Madrigali spirituali a quattro voci)」(ブレシア、V. サッビオ刊、1583年;不完全な形で現存)が発表されました。この曲集は、フルヴィオ・ロラーリオの「霊的詩集(Rime spirituali))」(ヴェネツィア、グエッラ刊、1581年)から採られたテクストを題材としている。
インジェニエリは1581年(そしておそらく1576年から)から1592年までクレモナ大聖堂の楽長を務めていた。音楽学者のティム・カーターは、インジェニエリが「彼に対位法と作曲の確固たる基礎を与えた」と推測し、モンテヴェルディはヴィオール属の楽器の演奏と歌唱も学んだだろうと述べている。
モンテヴェルディは、2冊目のマドリガル集の献辞で、自身をヴィヴォーラ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の奏者と表現した。
クレモナの書店主ピエトロ・ボッツォーラの出版事業に端を発し、地元の有力貴族の家系に連なるアレッサンドロ・フラガネスコに献呈されたこの曲集(モンテヴェルディは1583年7月31日付で献呈の辞に署名している)は、トリエント公会議後の気運の中で生まれた、信心深い詩に音楽を付すという潮流の一環をなすものであった。この運動の熱心な推進者の中には、ロンバルディア地方で活動していたミラノ司教カルロ・ボッロメーオ枢機卿や、クレモナ司教ニコロ・スフォンドラート(1583年に枢機卿に任命され、後に教皇グレゴリウス14世[在位1590–91年]に選出)といった人物がいた。モンテヴェルディの多面的な初期の出版活動における3つ目の作品は、「3声のカンツォネッタ……第1巻」(ヴェネツィア、G.ヴィンチェンツィおよびR.アマディーノ刊、1584年)であり、彼はこれを1584年10月31日付で、クレモナの旧家出身であるピエトロ・アンブロジーニに献呈している。
1587年1月27日、モンテヴェルディは「5声のマドリガーレ集 第1巻」(ヴェネツィア、A. ガルダノ刊、1587年)をヴェローナのマルコ・ヴェリタMarco Verità伯爵に献呈する際、自身が受けた「数々の厚意」や「恩義」、「好意」について言及している。彼をそのような音楽活動や愛好家による音楽サークルが盛んな環境へと導いたのは、おそらくヴェローナ出身の師インジェニェーリであっただろう。「5声のマドリガーレ集 第2巻」(ヴェネツィア、A. ラヴェーリ刊、1590年)は、彼がまた別の方向へと関心を向けていたことを示唆している。ジャコモ・リカルディGiacomo Ricardiに宛てた献辞(1590年1月1日付)からは、モンテヴェルディがミラノでリカルディに謁見し(おそらく1589年)、ヴィオール奏者としてだけでなく作曲家としても自身を売り込んでいたことがうかがえる。
1590年か1591年にマントヴァ公ヴィンチェンツォⅠ世ゴンザーガ宮廷において、ヴィオラ奏者としての地位を確保することに成功した。実際、彼の名は1592年の給与支払名簿に初めて登場している。
1592年6月27日、マントヴァ滞在中のモンテヴェルディは公爵に献呈する「5声のマドリガーレ集 第3巻」(ヴェネツィア、R. アマディーノ刊、1592年)の公爵への献辞署名にした。その中で彼は、自身の新たな雇用状況に触れ、「公爵に仕える幸運な扉を私に開いてくれた、ヴィオラという極めて気高い営み」について言及している。
モンテヴェルディは、当時ジアケス・デ・ヴェルトGiaches de Wertが率いていた公爵礼拝堂の歌手団(約12名)を支える器楽奏者グループ(7-8名)の一員として加わった。彼はヴィオラ奏者としての役割に加え、「歌手」としてもその名が挙げられており、同時に、1592年に出版され、パトロンである公爵に献呈された前述の「マドリガーレ第3巻」によって、作曲家としても評価を確立した。
・ヴィオラ奏者、歌手、作曲家としての多才な能力は、モンテヴェルディが小規模な声楽アンサンブル(歌手4名)の指揮を任されることになった決定に、間違いなく影響を与えたであろう。
1595年6月から11月にかけてこのアンサンブルは、対トルコ戦を戦う帝国軍の増援として派遣されたマントヴァ軍に続き、ヴィンチェンツォ公に随行し、トレント、インスブルック、リンツ、プラハ、ウィーンを経由して旅をした(帰路はシュタイアーマルク、ケルンテン、フリウリを通るルートであった)。
1596年5月23日マントヴァで宮廷楽長ヴェルトが死去し、ベネデット・パッラヴィチーノがその後任楽長となった。一方、モンテヴェルディの名声が高まっていたことは、彼の「第3巻」(1594年、1600年)が再版されたことや、クレモナの作曲家アントニオ・モルソリーノの作品集「3声のためのカンツォネッタ第1巻」(ヴェネツィア、R. アマディーノ、1594年)に彼が4曲を提供したこと、そして何よりも、曲集「様々な極めて優れた作曲家による庭園の花々」(ニュルンベルク、カウフマン、1597年)に彼のマドリガーレが6曲(うち1曲はおそらく未発表曲)収録されたことからも明らかであった。
1599年5月20日、彼は同僚のヴィオラ奏者ジャコモ・カッタネオの娘であり、宮廷歌手でもあったクラウディア・カッタネオ Claudia Cattaneoと結婚し、3人の子供をもうけた。2人の息子(フランチェスコ、1601年生まれ、マッシミリアーノ、1604年生まれ)と、1603年に生後間もなく亡くなった娘である。その直後、彼は再び公爵のヨーロッパへの旅に同行することになる。
1599年6月7日一行は今回の目的地はスパの温泉地に向けて出発した。トレント、インスブルック、バーゼル、ナンシーを経て7月にフランドルに到着しました。帰路はリエージュ、アントワープ、ブリュッセルを経由し、10月15日にマントヴァへ戻った。この旅の間に、モンテヴェルディは「canto alla franceseフランス風の歌唱様式」を経験することとなった。
1601年8月27日には、長子フランチェスコ・バルダッサーレFrancesco Baldassarreが洗礼を受けた。
モンテヴェルディとフェラーラ宮廷との関わりも、この時期に遡ります。
11月26日、パラヴィチーノが死去した。モンテヴェルディはハンガリーに滞在していた公爵に後任への就任を願い出て、その地位を得た。
1602年4月10日、彼はマントヴァの市民権を取得し、公爵宮殿の近くの住居へと転居した。
その間、彼の家族も増えていった。1603年2月20日にはレオノーラ・カミッラLeonora Camillaが、続いて1604年5月10日にはマッシミリアーノ・ジャコモMassimiliano Giacomoが洗礼を受けた。
1603年の「マドリガーレ集 第4巻」の表紙において、彼は初めて「マントヴァの至高の公爵の音楽長という肩書きを名乗っていた。もっとも、会計係オッタヴィオ・ベニンテンディの不履行により、実際に給与を受け取ることはしばしば困難を伴った。
1606年ヴィンチェンツォの後継者フランチェスコは、1607年の謝肉祭シーズンに向けて、モンテヴェルディにアレッサンドロ・ストリッジョの台本によるオペラ『オルフェオ』を依頼した。1607年2月と3月に2回上演され、歌手にはたラージがタイトルロールで出演した。
1607年2月24日モンテヴェルディの名は、マントヴァにおける「全編歌唱による演劇 歌劇」の初演とも結びついていた。アレッサンドロ・ストリッジョ・ジュニアが詩を書き、牧歌劇favola pastoraleの形式をとった「オルフェオL’Orfeo」が、公爵宮殿の広間で上演された。インヴァギティ・アカデミーAccademia degli Invaghitiの主催によるこの作品は、3月1日にも再演された。
1607年8月10日、モンテヴェルディはクレモナのアニモーシ・アカデミーAccademia degli Animosiに入会し、その直後にミラノへ向かった。
11月10日に妻が亡くなった。
1608年11月9日および27日、家庭での悲劇的な出来事、不十分な報酬、そして給与支払いの遅延といった状況が重なり、彼はついに父親を通じて公爵へ嘆願書を提出するした)。そこでは辞任の許可、あるいは少なくとも業務負担の軽減が求められていた。しかし、そのどちらも認められることはなかった。
同年後半の書簡において、モンテヴェルディ本人(12月2日付)と彼の父親(11月27日付)の双方が、19年間にわたる途切れることのない奉仕について言及することになる。
1609年1月19日マントヴァへ呼び戻された彼が得た唯一の成果は、公爵から終身年金を認められたことであったが、その受給をめぐってはその後も絶えず苦労することになった。
1612年ヴィンチェンツォ公爵が没し、マントヴァ公爵の位をついだフランチェスコは経済難からモンテヴェルディと弟のジュリオ・チェーザレは解任され、二人ともほとんど無一文でクレモナに戻った。
モンテヴェルディは約1年間にわたり、定職を持たずにクレモナで過ごした。
1613年前任者ジュリオ・チェーザレ・マルティネンゴの死後、モンテヴェルディはヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長職のオーディションを受け、ミサ曲を提出した。彼は1613年8月に任命され、経費として50ドゥカートを与えられた。マルティネンゴは亡くなる前からしばらく病に伏しており、サン・マルコの音楽は脆弱な状態にあった。合唱団は放置され、運営もおろそかにされていた。モンテヴェルディが着任したとき、彼の主な責任は、サン・マルコの音楽家(カペラ)を募集、訓練、規律、管理することであった。カペラは歌手約30名と器楽奏者6名で構成され、大きなイベントの際には人数を増やすことができ、衰微していた合唱隊および器楽隊を建て直した。
1615年11月6日付別の書簡で、(モンテヴェルディはすでに1612年の7月か8月にはマントヴァを離れていた)の中で、作曲家は宮廷で「21年間」を過ごしたと述べている、この数字は後に「道徳的・霊的森Selva morale e spirituale」(1640年または1641年刊)の献辞において「22年間の継続的な期間」と記されることになる。したがって、彼がマントヴァで職を得た時期は、1590年の初頭、遅くとも1591年であったと考えられる。
1616年サン・マルコ教会のプロクラトーレは、彼の仕事に満足し、彼の年俸を300ドゥカートから400ドゥカートに引き上げた。
セレニッシマSerenissima(ヴェネツィア共和国)の音楽部門の長として(サン・マルコ寺院は総督府に付随する教会であり、市の司教座聖堂ではなかった)、モンテヴェルディは宮廷楽長としての通常の職務を担ったが、その職務は同機関の威信ゆえに、より重い責任を伴うものであった。彼の責務には、音楽団(約30人の歌手と数人の器楽奏者で構成され、重要な祭礼の際には追加の音楽家も雇用されていた)の円滑な運営と質の維持、新規採用者の監督、レパートリーの管理(楽譜の入手や自作による楽曲提供を含む)、そして公開演奏の準備と指揮などが含まれていた。国家元首の来訪やその他の公式行事といった特別な機会には、聖堂外での職務も求められ、その活動は必ずしも宗教的な儀式に限られたものではなかった。彼に支給された特別ボーナス(1615年4月20日)や昇給(1616年8月24日)は、運営側がこの新任者の仕事を高く評価していたことを物語っています。
同年1月、フェルディナンド・ゴンザーガは枢機卿の地位を辞して正式にマントヴァ公に即位したが、その祝賀行事のためにモンテヴェルディへ音楽の依頼がなされた(彼はここで、後に1619年の曲集「コンチェルトConcerto」に収録されることになるバッロ舞踏劇:「ティルシとクロリTirsi e Clori」を作曲した。
1617年3月、新公爵とカテリーナ・デ・メディチとの結婚を祝う祭典の準備に際しても同様の依頼があり、モンテヴェルディはジョヴァン・バッティスタ・アンドレイニ作の聖劇「ラ・マッダレーナLa Maddalena」のために、歌唱を伴うプロローグを作曲した。
11月10日にクレモナで彼の父親が亡くなった。
1619年2月、彼は息子のフランチェスコに同行してボローニャへ赴いた。フランチェスコは、パドヴァで始めたものの音楽活動に没頭するあまり疎かになっていた法学の勉強を、そこで継続することになっていた。この時期、弟のマッシミリアーノがボローニャの神学校に在籍し、その後医学の課程に進んだことは書簡によって裏付けられている(1622年にはマントヴァ公妃の推薦により、ボローニャのモンタルト学院に入学することになる)。
6月に同地の宮廷楽長サンテ・オルランディが死去したことを受け、モンテヴェルディを呼び戻すという提案につながなった。
1620年の謝肉祭の時期には、マントヴァ宮廷において、エルコレ・マルリアーニ伯爵の作による「アンドロメダの物語La favola di Andromeda」が上演された。
アポロンの恋物語を題材としたバレエ(ストリッジョが詞を書き、モンテヴェルディが全曲を作曲)も上演されたが、こちらも楽譜は失われている。
3月13日こうした噂はサン・マルコ寺院の管理官たちの疑念を招くこととなり、モンテヴェルディは賢明な判断として、マントヴァへの渡航計画を中止すると同時に、その申し出を辞退した。
6月13日地元の「アカデミア・デイ・フロリディ」は、この機会を捉えて会合の席で彼を称える催しを行った。1620年9月、モンテヴェルディは自らマントヴァを訪れました。その際、ゴイトにおいて公爵に謁見し、自身の年金支払いの件について取り計らいを求めています。
同年の夏、フランチェスコは学業を放棄して「跣足カルメル会Carmelitani Scalzi」に入会してしまった。
・モンテヴェルディは、国外の宮廷とのつながりも維持していた。1621年のマントヴァでの謝肉祭carnevaleに向けては仮面劇のための音楽を作曲し、続いて1622年1月18日に上演されたマルリアーニの喜劇「レ・トレ・コスタンティLe tre costanti」のための音楽も手掛けた。この喜劇は、公爵の妹エレオノーラ・ゴンザーガと皇帝フェルディナント2世の結婚を祝うために上演された。
1623年7月フランチェスコはサン・マルコ大聖堂の聖歌隊テノール歌手として採用されることになった。そのためモンテヴェルディはボローニャへ戻らざるを得なくなった。
1624年7月15日、モンテヴェルディはマントヴァの宮廷に呼び出された。これは、同年4月24日に死去した義父の遺産相続をめぐる紛争に関連するものであった。この訴訟は1625年後半、彼にとって不利な形で決着した。
1625年3月、モンテヴェルディはヴェネツィアを通過中であったポーランドの王太子ヴワディスワフ・ジグムントのために作曲した。その後(1625年から1638年の間)、彼は王太子に仕えるよう招かれたが、高齢を理由にこれを辞退している。
1625年から1626年にかけての書簡からは、モンテヴェルディが錬金術pratiche alchemicheの知識を有し、実際にそれに関与していたことがうかがえる。この時期、彼はボローニャのフィロムージ・アカデミーAccademia dei Filomusiの会員に迎えられるという栄誉も受けている。
1626年6月15日には、元首が元老院議員や外国の大使を招いて伝統的に催す公式晩餐会において、音楽の取りまとめ役を任された。
・一方、1626年にボローニャで医学の学位を取得した息子のマッシミリアーノは、マントヴァで医師としての活動を始めていた。1627年、彼は禁書を読んだことで異端審問所とのトラブルに見舞われ、数ヶ月間投獄されたが、父親が皇后から贈られた首飾りを売却して資金を工面し、保釈金を支払ったことで釈放された。
1627年7月15日、モンテヴェルディはまずヴェネツィアの駐在イギリス大使の邸宅(ノイブルク公が滞在していた場所)で、続いてカルミネ教会にて「カルメル山の聖母」の第一晩課のために演奏を行ったことが分かっている。
1627年9月までには、キオッジャでポデスタpodestàフォスカリーニFoscariniに仕えていた。
・パルマからは、オドアルド・ファルネーゼとマルゲリータ・デ・メディチの結婚式に向けた祝賀行事の一環として、大掛かりな制作依頼がモンテヴェルディのもとに舞い込んだ。彼はパルマに度々滞在し(1627年10月~12月初旬、1628年1月~2月、同年12月前半)、アントニオ・ゴレッティAntonio Gorett(モンテヴェルディの友人でありアマチュア音楽家)と協力して以下の作品の作曲に取り組んだ。
11月10日、彼はゴンザーガ家に復帰するよう招かれたが、ストリッジョを通じてその申し出を辞退した。しかし同時に彼は公爵に対し、クレモナにおける参事会員職canonicatoの授与を皇后である公爵の姉妹に働きかけてくれるよう依頼している。
タッソー「アミンタ」のためにクラウディオ・アキッリーニとアスカニオ・ピオ・ディ・サヴォイアが執筆した「インテルメッツォ」1628年12月13日上演。なお、そのうちの一つは1628年の謝肉祭の際に「マスケラータ」として既に披露されていた)と、新しい公爵劇場テアトロ・ドゥカーレのこけら落としとして上演された、アキッリーニ作の幕間劇:馬上槍試合劇「メルクリオ・エ・マルテMercurio e Marte」(1628年12月21日)であった。
ヴェネツィアにおいては、大公フェルディナンドⅡ世とジョヴァンニ・カルロ・デ・メディチ公子を歓待する宴席(1628年5月8日、ヴェネツィアのアルセナーレで開催)で上演された、ジュリオ・ストロッツィのソネットに基づく幕間劇:作品「5人の兄弟I cinque fratelli」の作曲を依頼されました。
1630年2月にはサン・ロレンツォ修道院の修道女たちから仕事を請け負い、同年4月には、ジュスティニアーナ・モチェニーゴとロレンツォ・ジュスティニアーニの結婚式のために、モチェニーゴ宮殿にて幕間劇:「Proserpina rapita略奪されたプロセルピナ」が上演された。これは死後に出版された「マドリガーレ集 第9巻」に収録されています)。
同年夏、マントヴァはまず皇帝軍のランツクネヒト(傭兵)によって略奪され(7月18日-21日)、次いでヴェネツィアではペストが流行し、約5万人の命が奪われた。こうした悲劇的な状況下で、モンテヴェルディは無事に生き延びることができればロレートへ巡礼を行うと誓いをたてた。彼が実際にその約束を果たしたかどうかは定かではないが、流行の終息を記念する感謝のミサ(1631年11月21日)のために彼が音楽を作曲したことは事実である。
1631年3月9日に下級聖職位を授かり、1632年4月16日には司祭に叙階された。翌年には、皇帝フェルディナントⅡ世に自作の音楽を献呈していた甲斐あって、念願であったクレモナでの聖職禄beneficioをようやく手にした。かつてマントヴァから支給されていた年金は受給が不確実なものであったが、この終身年金はそれとは比較にならないほど確かな生活の保障をもたらすものであった。
1632年モンテヴェルディはカトリック教会の司祭に任命された。
1640年カーニバル期に歌劇「ユリシーズの帰還ritorno di Ulisse in patria」(台本:ジャコモ・バドエル)を作曲、上演された。
1641年2月7日バレエ「愛の勝利Vittoria d’Amore」がピアチェンツァで上演されました。
1641年シーズンに歌劇「エネアとラヴィニアの結婚 Le nozze d’Enea in Lavinia」を作曲、上演された。
1643年に歌劇「ポッペアの戴冠」(台本:ジャン・フランチェスコ・ブーゼネッロ)を作曲、上演された。
・モンテヴェルディは本来ヴィオラ奏者であったが、声楽と結びついていない器楽曲は一つも残していない。
実際、彼が書いた音符のほとんどは「言葉」と何らかの関わりを持つものであったと言えるであろう。彼はその原則を極めて明確に自覚しており、「言葉は和声の主人たるべきであり、その召使いであってはならない」という有名な信条を掲げたほどであった。この姿勢は、当時を代表する世俗声楽のジャンルであったマドリガーレの傑出した作品群において、とりわけ顕著に表れている。第1巻から第4巻までは専ら5声のために書かれ、16世紀末のマドリガーレの様式的な慣習に従っているが、第5巻と第6巻ではその枠組みに器楽による基盤(通奏低音)が導入され、声部数を減らして独唱的なスタイルへと向かう試みが行われた。さらに第7巻と第8巻では、通奏低音を伴う1声または2声のためのマドリガーレが全面的に採用されるとともに、高音域の楽器が声部と交互に、あるいは伴奏として取り入れられている。
晩年のモンテヴェルディは病に伏すことが多かったが、2曲の傑作とされるオペラ、『ウリッセの帰還』(1641年)と『ポッペーアの戴冠』(1642年)を作曲している。
1643年ヴェネツィアにて没し、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に埋葬されている。
作品:
モテット集「3声のための聖なる小歌Sacrae cantiunculae tribus vocibus」(ヴェネツィア、A. ガルダノ刊、1582年)
作品集「4声のための霊的マドリガーレ(Madrigali spirituali a quattro voci)」(ブレシア、V. サッビオ刊、1583年)
マドリガル集(ヴェネツィア、1592年)
「3声のカンツォネッタ……第1巻」(ヴェネツィア、G.ヴィンチェンツィおよびR.アマディーノ刊、1584年)
「5声のマドリガーレ集 第1巻」(ヴェネツィア、A. ガルダノ刊、1587年)
「5声のマドリガーレ集 第2巻」(ヴェネツィア、A. ラヴェーリ刊、1590年)
「マドリガーレ第3巻」(1592年出版)
「5声のマドリガーレ集 第4巻」(ヴェネツィア、R.アマディーノ刊、1603年)
「5声のマドリガーレ集 第5巻」(ヴェネツィア、R.アマディーノ刊、1605年)
「オルフェオL’Orfeo」スコア(ヴェネツィアのR.アマディーノから出版、1609年)
「5声のマドリガーレ集 第6巻」(ヴェネツィア、R.アマディーノ刊、1614年)
「マドリガーレ集 第9巻」
「スケルツィ・ムジカーリ」(ヴェネツィア、ガルダノ=マーニ刊、1632年)
「戦いと愛のマドリガーレMadrigali guerrieri et amorosi集 第8巻」(ヴェネツィア、A. ヴィンチェンティ刊、1638年)
作品集「倫理的・宗教的な森Selva Morale E Spirituale」(ヴェネツィア、B. マニ刊、1640年)
「マドリガーレとカンツォネッタ 第9巻」(ヴェネツィア、1651年)
「アリアンナL’Arianna」、「つれない女たちのバレエ:Il ballo delle Ingrate」、喜劇「イドロピカL’idropica」、「madrigali concertati(specie a 2 voci e continuo)」、喜劇「レ・トレ・コスタンティLe tre costanti」、馬上槍試合劇「メルクリオ・エ・マルテMercurio e Marte」、「5人の兄弟I cinque fratelli」、「Proserpina rapita略奪されたプロセルピナ」、「ユリシーズの帰還ritorno di Ulisse in patria」(1640年)、「エネアとラヴィニアの結婚 Le nozze d’Enea in Lavinia」(1641年)、「ポッペアの戴冠」(1643年)、「4声のミサ曲と詩篇la Messa et salmi」
2. その他
3. 初演
4. 関連動画
⬇ youtube歌劇「L’ ORFEO」
⬇ youtube歌劇[ポッペアの戴冠式]
⬇ youtubeミサ「Messa a quattro voci da cappella」