IWY. 71 ジャン=バティスト・リュリ

1632年「イタリア、バロックの作曲家」(フランス国籍取得)
ジャン・バティスト・リュリJean-Baptiste Lully
旧姓(former name)
ジョヴァンニ・バァッティスタ・ルッリGiovanni Battista Lulli
「フランスオペラの父」と呼ばれている
バレエダンサー、ヴァイオリニスト、作曲家、そして興行主であり、ルイ14世のパリ宮廷において、威厳と畏怖の念を抱かせる存在だった。イタリアに生まれ十代でパリに移住したリュリは、フランス音楽史において最も影響力のある人物の一人として不朽の名声を確立し、やがてフランス独自の優雅な作曲手法を象徴する存在となった。
エドワード・エルガーよりもはるか以前から「荘厳さと華やかさ」を追求していたリュリは、器楽曲、特に間奏曲、舞曲、そしておそらく最も有名なのはオペラやバレエといった大規模な劇作品のためのリズミカルな序曲への貢献で知られていた。これらのフランス風の序曲(文字通り「幕開け」)は、それ自体がほぼ一つのジャンルと言えるほどで、ゆったりとした荘厳なシンコペーションと、軽快で対位法的なリズムという2部構成は、バロック時代の金字塔となった。
1632年11月26日トスカーナ大公国のフィレンツェ生れ
1687年3月22日壊疽によりパリで急死
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祖先は農民
トスカーナの製粉業者の家系であるロレンツォ・マルド・ルッリとカテリーナ・デル・セラの間に生まれた。
父ロレンツォ・マルド・ルッリは妻の実家に住み粉屋を営んだ
フィレンツェでの幼少期の彼の一般的な教育と音楽の訓練については不明だが、成人後の筆跡から、羽根ペンを難なく操っていたことがうかがえる。彼はフランシスコ会の修道士から初めて音楽のレッスンを受け、ギターを教わったと語っていた。
幼少時にフランシスコ会修道士に音楽の基礎とギター、ヴァイオリンの演奏も学んだ
1643年母を失う
1644年マルディグラでハーレクインの衣装を着て道化師の芸とヴァイオリンで通行人を楽しませていた少年は、フランスに帰りに立ち寄ったギーズ公シャルルⅠ世の公子ギーズでマルタ騎士団の騎士ロジェ・ド・ロレーヌの目に留まった。ロジェは姪のモンパンシエ嬢(ラ・グランデ・マドモワゼル)とイタリア語を話せる少年を捜しており、陽気なルッリが気に入り父親の承諾を得てギーズは少年をパリに連れ帰り、公爵夫人の小姓として仕え、その間に宮廷音楽家達からヴァイオリン、ギター、オルガン作曲法を学びジャン・レニュウ・セグレらからバレエを学んだ
1647年から1652年まで、彼は彼女の「侍女」(garçon de chambre)として仕えた。彼は恐らく、マドモワゼルの侍女音楽家や作曲家のニコラ・メトリュ、フランソワ・ロベルデー、ニコラ・ジゴーと共演することで音楽の腕を磨いたのだろう。少年はギタリスト、ヴァイオリニスト、ダンサーとしての才能で、すぐに「バティスト」や「偉大な大道芸人」(le grand baladin )というあだ名を得た。
1652年フロンドの乱として知られる反乱の後、マドモワゼルが地方に追放されたとき、リュリは「田舎に住みたくないので、許可を懇願した」。王女は彼の願いを聞き入れた。
1653年2月までに、リュリは若いルイ14世の注目を集め、バレエ・ロワイヤル・ド・ラ・ニュイで彼と踊った。
同年3月16日までに、リュリは器楽の王室作曲家となった。宮廷バレエのための彼の声楽と器楽は次第に彼を不可欠な存在にした。
同年には早くもルイ14世は彼を自身のヴァイオリン楽団「プティ・ヴィオロン」(「小さなヴァイオリン」)の指揮者に任命した。この楽団は、過去数十年のポリフォニーや分割をゆっくりと放棄していた「24のヴァイオリン」または「グラン・ヴィオロン」(「大きなヴァイオリン」)とは対照的に、リュリの革新を受け入れていた。
1660年と1662年には、フランチェスコ・カヴァッリの『クセルセ』と『エルコレ・アマンテ』の宮廷公演で協力した。
1661年にルイ14世が政権を握ると、彼はリュリを王室音楽監督官と王室の音楽教師に任命され、フィレンツェの許可を受けフランスに帰化し名前をジャン・バッティスタ・リュリに改名
同年グラン・ヴィオロンもリュリの指揮下に入った。彼は宮廷バレエでは主に「小さなヴァイオリン」に頼った。
同年12月、フィレンツェ出身の彼は帰化証明書を与えられた。
1661年以降、彼が宮廷のために作曲した三重奏曲や舞曲はすぐに出版された。
1662年音楽仲間で王室音楽家の著名な歌手兼作曲家ミシェル・ランベールの娘マドレーヌ・ランベール(1643年-1720年)と結婚した際、ジョヴァンニ・バッティスタ・ルリは自らを「ジャン=バティスト・ルリ、エスクワイア、ローラン ・ド・ルリの息子、フィレンツェの紳士」と宣言した。後者の高貴な出自の主張は虚偽であった。夫妻には、幼少期を生き延びた6人の子供がいた。カトリーヌ=マドレーヌ、ルイ、ジャン=バティスト、ガブリエル=ヒラリー、ジャン=ルイ、ルイ=マリーである
リュリと劇作家モリエールのコラボレーションは、1661年の『Les Fâcheux [fr] 』で始まった。この作品はニコラ・フーケの豪華なヴォー・ル・ヴィコント城で初演された後、リュリが歌唱によるクーラントを1曲追加したものである。本格的なコラボレーションは1664年の『Le Mariage forcé』で始まった。その後もコラボレーションは続き、王宮での祝祭のために構想されたものもあれば、宮廷での御前公演やモリエールのパリの劇場で上演された劇のための劇中音楽(intermèdes)の形をとったものもあった。
1672年、リュリはモリエールと決別し、モリエールはマルク=アントワーヌ・シャルパンティエに目を向けた。ピエール・ペランのオペラ特権を引き継いだリュリは、王立音楽アカデミー(Académie Royale de Musique)、すなわち王立オペラの監督となり、パレ・ロワイヤルで公演を行った。
1673年から1687年にかけて、彼はほぼ毎年新作オペラを制作し、この新しいジャンルにおける独占権を徹底的に守った。

1672年王立音楽アカデミー(オペラ座)の上演権を買い取る
1673年パロ・ロワイヤルの使用権を入手し最初のオペラ「音楽の悲劇」初演する。その後1687年までの間、毎年オペラを作曲
1674年オペラ「アルチェスト」初演
1677年長男の洗礼式に国王自らが代父となり王の名を長男に与える
1681年ルイ14世の国王秘書官に任命され「リュリ閣下」と呼ばれる
1683年にマリー・テレーズ王妃が亡くなり、国王がマダム・ド・マントノンと秘密裏に結婚した後、宮廷では敬虔さが前面に出てきた。
以降は国王がリュリのオペラへの熱意は薄れ音楽に関心を示さなくさる、リュリの放蕩な生活や同性愛関係に苛立ちを覚えた。
リュリは、ヴァンドーム公、タラール伯、グラモン公を中心に宮廷に集まっていた秘密の同性愛者グループにあまり近づかないようにしていた。
1685年、彼は自分の家に住むブルネという小姓との不適切な関係で告発された。警察の捜索の後、ブルネは連れ去られ、リュリは処罰を免れた​​。しかし、全般的な不満を示すために、ルイ14世は翌年ヴェルサイユでリュリをアルミードの公演に招待しないことにした。
リュリは温厚な人物として知られていたわけではなく、歴史家のルパート・ヒューズは「彼の気性は容赦ない残虐さによって強められていた」と記し、自分の息子を勘当したことにも触れている。伝記作家フランソワ=ジョゼフ・フェティスが報告したあるエピソードでは、リュリは聖歌隊員のマリー・ル・ロショワが妊娠していることを知った。これが『アルミード』の初演の妨げになるかもしれないと激怒した彼は、彼女が流産するまで腹を蹴った。
1687年1月ペル・フリオン教会において、リュリは、ルイ14世の手術からの回復を祝うテ・デウムの演奏中に、長く、重量のある指揮丈でモテットの演奏指揮中、誤って指揮丈で右足を打ち腫瘍ができそれが原因で壊疽に罹った。彼は足の指を切断することを拒否した。その結果、壊疽が全身に広がり、最終的には脳の大部分に感染し、2ヶ月後の3月に死に至った。彼はパリで亡くなり、ノートルダム・デ・ヴィクトワール教会に埋葬された。そこには大理石の胸像のある彼の墓が今も残っている。
彼の3人の息子(ルイ・リュリ、ジャン=バティスト・リュリ・フィス、ジャン=ルイ・リュリ)は皆、国王の音楽監督として音楽家としてのキャリアを積んだ。
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リュリの音楽は中期バロック時代、1650年から1700年の間に作曲されました。バロック音楽の特徴は、音楽の原動力として通奏低音を用いることです。当時のフランス・オペラのピッチ基準は、中央ハ音の上のAが約392Hzで、現代の慣習である440Hz よりも全音低いものでした。
リュリの音楽は、力強さ、速い楽章の躍動感、そして遅い楽章の深い情感で知られている。彼の最も人気のある作品には、パッサカリアやシャコンヌがあり、これらは『アルミード』や『ファエトン』など、彼の多くの作品に見られる舞曲であった。
リュリの音楽の影響は、宮廷舞踊の様式そのものに根本的な変革をもたらした。それまで主流だったゆったりとした荘厳な動きに代わり、彼はガヴォット、メヌエット、リゴードン、サラバンドといったよく知られた舞踊形式を基にした、テンポの速い活気のあるバレエを導入した。
劇作家モリエールとの共同作業を通して、1660年代には新たな音楽形式、すなわち演劇、喜劇、劇中音楽、バレエを融合させたコメディ・バレエが誕生した。時に豪華な特殊効果を伴うこれらの劇の人気、そしてリュリのオペラの成功と出版、さらにフランス国外への普及は、オーケストラの編成、楽譜、演奏方法、レパートリーの統合、確立、普及において決定的な役割を果たした。
リュリはフランス風オペラを音楽ジャンルとして創り出した。イタリア風オペラはフランス語には不適切だと結論づけたリュリと、尊敬される劇作家である台本作家のフィリップ・キノーは、劇作家が韻文悲劇に用いたのと同じ詩法を採用した。
リュリのオペラのレチタティーヴォには、台本劇の12音節の「アレクサンドリーヌ」と10音節の「英雄的」詩行が用いられ、同時代の人々からは非常に「自然」な効果を生み出していると認識された。対照的に、特に舞曲に基づくアリアは、8音節未満の行に設定された。
リュリはまた、イタリアの音楽番号を別々のレチタティーヴォとアリアに分ける方法を放棄し、代わりに両者を組み合わせて混ぜ合わせることで劇的な効果を狙った。彼とキノーはまた、よりテンポの良いストーリー展開を選択したが、それはフランスの観客の好みに合致していた。
リュリは1650年代にフランス序曲を発明したとされており、この形式はバロック時代や古典派時代に広く用いられ、特にヨハン・セバスチャン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルによって用いられた。
作品
歌劇「カドミュとエルミオーヌ(Cadmus et Hermione)」、歌劇「アルセスト、またはアルキードの勝利(Alceste, ou Le Triomphe d’Alcide)」、歌劇「テゼ(Thesee*)」、歌劇「アティス(Atys)」、歌劇「イシス(Isis)」、歌劇「プシュケ(Psyche*)」、歌劇「ベレロフォン(Bellerophon*)」、歌劇「プロセルピーヌ(Proserpine)」、歌劇「ペルセ(Persee*)」、歌劇「フェートン(Phaeton*)」、歌劇「ゴールのアマディス(Amadis de Gaule)」、歌劇「ロラン(Roland)」、歌劇「アルミード(Armide)」、歌劇「アシールとポリュクセーヌ(Achille et Polyxene*)」、バレエ「夜(La nuit)」、バレエ「ペレとテティスの婚礼(Les noces de Pelee et Thetis*)」、バレエ「現代のバレエ(Ballet du Temps)」、バレエ「楽しみのバレエ(Ballet des Plaisirs)」、バレエ「もてなし(Ballet des Bienvenus)」、バレエ「病める恋人のバレエ(Ballet de L’amour malade)」、バレエ「衣装転売(La revente des habits)」、バレエ「衣装転売(La revente des habits)」、バレエ「アルシディアーヌ(Alcidiane)」、バレエ「冗談(La raillerie)」、コメディ「クセルクセス(Xerxes*)」、「トゥールーズのバレエ-王の結婚のための」、バレエ「焦燥(L’impatience)」、バレエ「四季(Les saisons)」、悲劇「恋するヘラクレス(Hercule amoureux)」、バレエ「美術-自由な美術(Les arts – Les arts liberaux*)」、バレエ「村の婚礼(Les noces de village)」、バレエ「変装したアムールたち(Les amours deguises)」、バレエ「オイディプス(Oedipe)」、バレエ「フォンテーヌブローの小バレエ(Petit ballet de Fontainebleau)」、バレエ「ヴェニュスの誕生(La naissance de Venes*)」、バレエ「親衛隊(Les gardes ou Les delices de la campagne*)」、バレエ「クレキのバレエ、またはインドのバッカスの勝利(Ballet de Crequy, ou Le triomphe de Bacchus dans les Indes)」、バレエ「ミューズたち(Les muses)」、「謝肉祭、またはヴェルサイユの仮面舞踏会(Le carnaval, ou Mascarade de Veresailles)」、バレエ「花の女神(Flore)」、バレエ「青春(La jeunesse)」、バレエ「ピュティアの遊び(Les jeux Pythiens)」、バレエ「バレエのバレエ(Ballet des ballets)」、「謝肉祭(Le carnaval mascarade)」、バレエ「愛の勝利(Le Triomphe de l’amour)」、バレエ「平和の神殿(Le temple de la paix)」、コメディ「プルソニャック(Pourceaugnac)」、コメディ「うるさがた(Les facheux*)」、コメディ「ヴェルサイユの即興劇(L’impromptu de Versailles)」、バレエ「強制された結婚(Le mariage force*)」、「魔法の島の楽しみ(Les plaisirs de l’ile enchantee*)」、「エリドの王妃(La princesse d’Elide)」、コメディ「恋する医者(L’Amour medecin*)」、コメディ「シチリア人、または恋する画家(Le Sicilien, ou L’amour peintre)」、コメディ「ヴェルサイユの宮廷大ディヴェルティスマン(Grand divertissement royal de Versailles)」、「ジョルジュ・ダンダン(George Dandin)」、「ヴェルサイユの洞窟(La grotte de Versailles)」、コメディ「シャンボールのディヴェルティスマン(Le divertissement royal de Chambord)」、「プルソニャック氏(Monsieur de Pourceaugnac)」、ディヴェルティスマン「国王のディヴェルティスマン(Le divertissement royal)」、「偉大な恋人たち(Les amants magnifiques)」、コメディ・バレエ「町人貴族(Le bourgeois gentilhomme)」、「(La Ballet des Nations)」、「プシシェ(Psyche*)」、「アモールとバッカスの祭り(Les fetes de l’Amour et de Bacchus*)」、ディヴェルティスマン「平和の牧歌(Idylle sur la paix)」、「アシスとガラテー(Acis et Galatee*)」
器楽曲(Instrumental Works)、宗教曲(Sacred Works)、世俗曲(Secular Works)
出典https://ontomodb.jp/sakuhin-s/Lully-s.html