IWY. 25 フィリップ・ヴェルドロ

フランス出身のルネサンスの作曲家
フィリップ・ヴェルドロPhilippe Verdelot(1480-1530)
本名フィリップ・デスルージュPhilippe Deslouges

イタリアのマドリガーレの先駆者のひとり、ルネサンスを代表するフランス人作曲家。史上初めてマドリガーレを印刷した人物。生涯の大部分をイタリアで過ごした。彼は一般にイタリア・マドリガーレの父とみなされており、間違いなくその最初期の、かつ最も多作な作曲家の一人であった。また、ジロラモ・サヴォナローラの支持者からメディチ家がフィレンツェを奪還した後の同市において、音楽活動の中心的役割を担った人物でもある。ヴェルデロの様式は、homophonic(和声的)なテクスチュアとイミテーティブimitative textures(模倣的)なテクスチュアのバランスが取れたものである。マドリガーレの多くは、5声または6声のために書かれている。ヴェルデロのマドリガーレは、16世紀を通じてヨーロッパ各地で広く普及し、頻繁に再版されたことからも分かるように、絶大な人気を博していた。

1480/85年頃パリ近郊、セーヌ=エ=マルヌ県デ・ロージュ生れた。
シャンパ-ニュ伯の家系の出とも言われている。少年期をフランス北部、かってイル=ド=フランスの半分を占めていたマルヌ県で過ごしたと言われている。
その初期の経歴については不明な点が多くあり、おそらく若くしてイタリアに渡り、16世紀の最初の10年から20年ほどを北イタリアのいくつかの都市で過ごしたと考えられている。ヴァザーリVasariが記述している1511年の絵画(具体的な作品の特定には至っていないが)について、多くの音楽学者は、ヴェネツィアでイタリア人歌手と共にいるヴェルデロの姿が描かれているものと推測している。

1530/31年頃フィレンツェで歿

1. 経歴


1500年代初期の若い頃にイタリアに定住し、イタリアで音楽活動を初めた。イタリアのマドリガーレの先駆者のひとり。フィレンツェでマドリガルに新たな形式を与え、多くのイタリア人作曲家に影響を与えた。史上初めてマドリガーレを印刷。
1511年ヴェネツィアで画家のセバスティアン・デ・ピオンボに肖像画を描かせている。1521-22年頃フィレンツに着いた時には音楽家として名声を得た。
1521-2年頃フィレンツに着いた時には音楽家として名声を得ている。
1522年3月-23年4月フィレンツのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に奉職。1523年-27年同大聖堂楽長。
1523年から1525年までフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂で楽長を務めていたことが知られており、また1523年から1527年までは同地の司教座聖堂にも雇われていたと見られている。
1523-29年フィレンツェ、1529-33年ローマ、そしてヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂でカントルとして働いた。最後に、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ教会で楽長の地位に就いた。
1524年にはジュリオ・デ・メシチに選ばれて教皇クレメンスⅦ世の戴冠式に出席。
1526年、彼はニッコロ・マキャヴェッリNiccolò Machiavelli(君主論/喜劇作家)と共同で、同氏の有名な冷笑的な喜劇「 La Mandragolaマンドラゴラ」の上演に取り組んだ。この劇は 1518年に書かれまたが、1526年のフィレンツェでの公演はメディチ家の教皇クレメンス Ⅶ世に捧げられた。
・1527年メディチ家によってフィレンツェから追放されたマキャヴェッリも、概してメディチ家に対抗するフィレンツェ共和国の側に立っていたヴェルデロも、双方の機嫌を取るという微妙な政治的駆け引きを試みていた。ヴェルデロはフィレンツェ共和国の側に立ったことに加え、殉教した改革者ジロラモ・サヴォナローラの支持者でもあった可能性が高い。ヴェルデロがマキャヴェッリの戯曲のために作曲したいくつかの楽曲は、「カンツォーネ」と呼ばれてはいるものの、最初期のマドリガーレであると見なされている。
彼がフィレンツェ包囲戦(1529–1530年)の最中にその場にいたことは、当時作曲されたモテットの一つ「Congregati sunt inimici nostri」という証拠から、可能性が高いと考えられている。
・1530年代に出版されたヴェルデロの作品には、当時の出来事への曖昧な言及が含​​まれており、一部の学者はこれに基づき、彼が1540年頃まで存命であったと推測している。
・1530年代後半にヴェネツィアで出版された複数のマドリガーレ曲集には彼の作品が収録されており、そのうちの1冊は彼のみの作品で構成されている。
・彼は、包囲戦での勝利後に復讐心で悪名高いメディチ家から逃れるため、ヴェネツィアへ移り住んだ可能性がある。1552年には、作家オルテンツォ・ランディOrtenzo Landiが彼を故人として言及していることから、その時点ですでに亡くなっていたことが分かっている。
・ヴェルデロが1530年以降も存命であったことを示す確かな証拠がないため、彼はフィレンツェ包囲戦(1529–1530年)か、あるいは同時期に同市を襲った疫病のいずれかで命を落とした可能性がある。

作品:
Madrigals、Motets、Missa Philomna、Missa La Gloria del Dixit Dominus、Hymns、Magnificat sexti toni
1530年にローマで「MADRAGALI DE DIVERSI MUSICI, LIBRO DE LA SERENA」出版。3つのミサ曲、81のモテット、そして3冊の本に収められた4声から6声のための約100のマドリガルが含まれており、後に「Libro I della Serena」(ローマ、1530年)を含むいくつかのアンソロジーに収録された。
「チューダー王のためのマドリガル集」、「わがイタリア」、「マリアは祝福されています」ほか

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


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