IWY. 23 ヤコブ・オブレヒト

ベルギー、フランドルのルネサンスの作曲家
ヤコブ・オブレヒトJacob Obrecht(1457-1505)

ナポリの音楽理論家ヨハネス・ティンクトリスは、ヤコブ・オブレヒトを、音楽の実践を芸術的完成の域にまで高めた同時代の作曲家の一人として挙げた。オブレヒトの生前、彼の音楽はヨーロッパ中に広まり、その名声はヨーロッパ全土に及んだ。

1457年/58年11月22日ヘント市生(一説には1450年11月22日オランダのベルヘン オブ ゾーム生)
ヘント市のプロのトランペット奏者の息子として生まれた。聖歌隊学校での幼少期の教育、司祭叙階、そして1480年までに文学修士号の取得を経て、彼は聖職者の道を歩み始めた。

1505年7月イタリア、フェラーラで歿)

1. 経歴


1480-1484年ベルヘン・オプ・ゾームのノートルダム聖堂の聖歌隊長。
作曲家がわずか30歳で、イタリアに足を踏み入れる前から、彼のミサ曲2曲は教皇のシスティーナ礼拝堂聖歌隊のレパートリーに含まれていた。
1484-1491年影響力のあるカンブレー大聖堂の副聖歌隊長に選出された。しかし、オブレヒトはカンブレー大聖堂に所属しながらもブルージュの聖ドナティアン教会の聖歌隊に雇われ、不祥事を抱えてオランダに戻った。
1485~1491年ブルージュの聖ドナティアン教会の聖歌隊
1487年、権力者フェラーラ公エルコレ1世は、オブレヒトを自身の側近として迎え入れるために精力的な活動を展開した。当時の記録によれば、オブレヒトの作曲の才能はヨーロッパ中に知られていた。
1492~1497年アントゥールペンのノートルダム大聖堂の聖歌隊長
1497-1500年ベルヘン・オプ・ゾームのフランドル教会で雇用(そして解雇)を繰り返すサイクルとなった。
1498~1500年ブルージェで聖歌隊長での雇用
彼の音楽は大陸全土で演奏されていたが、オブレヒト自身は歌声が本当に下手だっただけでなく、教会のプロの音楽家としての実際の責任である管理業務や教育業務を怠る癖があったのかもしれない。
1501-1503年アントゥールペンのノートルダム大聖堂の聖歌隊長。
1503-1505年フェラーラ公エルコム一世の礼拝堂楽長。当地でペストで客死した。
オブレヒトの作曲能力を認めたフェラーラ公は1504年に彼にイタリアでより高給の仕事を与えた。残念ながら、作曲家はそれから1年も経たないうちにペストで亡くなった。

作品:オブレヒトの作品の中心は、さまざまな構造計画に基づいて書かれたミサ通常文の30曲からなるシリーズである。初期のビュノワAntoine BusnoisとオケゲムOckeghemの流麗な音楽の影響から、彼は強く抑制され、合理的に組織された音楽的プロセスを追求している。
ミサ「Missa de Sancto Donatiano聖ドナティアヌス」、ミサ「Missa Maria zart優しく愛らしいマリア」、ミサ「Missa Cuis sacrata viscera」、ミサ「Missa Sub tuum praesidiumめでたし神の御母」 モテット(宗教的声楽曲)「Mille quingentis1500年」「Ave Mariaアヴェ・マリア」 世俗曲・器楽曲「Tandernakenタンデルナーケン」 当時広く知られていた世俗旋律をもとにした3声の器楽曲・世俗作品。

2. その他

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtubeMissa de Sancto Donatiano「Kyrie」

⬇ youtubeMissa「Salve diva parens」

⬇ youtubeMissa「Missa Maria Zart」

⬇ youtubeMissa「Missa Grecorum & motets」

⬇ youtubeMissa「Missa Sub Tuum Praesidium」

⬇ youtubeMissa「 Mille quingentis-Motet」

⬇ youtubeMissa「Parce Domine」

⬇ youtubeMissa「Ave Regina Cœlorum」

⬇ youtubeMissa「Ave maris stella」