IWY. 1 グイド・ダレッツォ

イタリアの中世後期のベネディクト会修道士・音楽理論家・教育者
グイド・ダレッツォGuido d’Arezzo(991/992-1045/50)

11世紀のイタリアにおいて、音楽理論と教育法は新たな原理に基づいて刷新された。その原理は即座に成功を収め、その後何世紀にもわたって音楽教育の礎となった。
・グイド・モナコGuido Monaco、あるいはグイド・ポンポジアヌス、一般には「アレッツォのグイド」の名で知られる。
彼は重要な音楽理論家であり、それまでのアディアステマティックadiastematica記譜法に取って代わるテトラグラマトンtetragrammaを体系的に採用した現代音楽記譜法の作成者と考えられている。その中で最も重要なのは彼の音楽論文「ミクロログスMicrologus」は、セヴェリヌス・ボエティウスSeverino Boezio.の論文に次いで、中世で最も広く普及した音楽テキストとなった。
同時に、ソルミゼーション(階名唱法)の発明と五線譜表記法の改良を通じて、音楽の伝承を口承という閉ざされた領域から解放した。
それは、五線譜や音程の正確な歌唱法(イントネーション)を考案したことで、彼は音楽を単に暗記によって学ぶ段階を脱し、正確な記譜を通じて伝達する手法へと移行した。
・グイドは、音楽の記号学と教授法を明確化および特定しようとする試み、完成させたことで非常に重要である。彼の改革は、主に次の2つの問題に向けられていた。
➀ネウマ記譜法。これは、音部記号と黄色と赤の色を使用して、五線譜上の線の数が決定され、音階の異なる音に、ネウマの解釈の大きな不確実性が取り除かれ、そのイントネーションが固定され、当時の記号学が今日の記号学の基礎となった。
➁ソルフェージュの理論と実践において、彼は類推のシステムを用い、既知のメロディーに含まれる音をモデルとして別のメロディーのイントネーションを見つけ出し、歌手が異なる音程を区別してイントネーションすることに慣れさせ、その後六音音階に融合して5世紀以上続いたソルフェージュの形式を生み出した。
音符の正確なイントネーションを記憶するために使用されたメロディーは聖ヨハネの賛美歌のもので、そのテキストはUt queant laxis resonare fibris – Mira gestorum famuli tuorum – Solve poluti labii reatum – Sancte Iohannesという行で始まります。最初の6つのヘミスティックの最初の音節から、最初の6つの音符の名前が取られました ( ut、re、mi、 fa、sol、la )、音符 u の名前はその後Sancte Iohannes という単語の頭文字から派生した。

991/992年頃アレッツオで生まれた。
グイドの生年月日や出生地については、多くの推測がなされてきたものの、確かなことは何もわかっていない
・1011年(UBALDO PASQUI, op. cit., doc. 99 et 102)これらの文書は、グイドの生年を特定する上で特に重要である。司教の文書に署名した時点で、ヴィド(Wido)――すなわち「下級聖職者(subdiaconus)」であり「聖歌隊長(cantor)」――はすでに成人(当時は21歳とされていた)に達していた。このことは、グイドが1013年の時点では下級聖職者であった(一方、助祭への叙階には23歳という年齢要件があった)という事実によって裏付けられる。したがって、1011年に彼が21歳であった可能性は極めて高い。この推論に基づけば、アレッツォのグイドは990年生まれということになる。なお、この推論の元となったミケーレ・ファルキ(Michele Falchi)は、1011年の文書の存在を知らなかったとはいえ、計算の誤りを犯し、グイドの生年を992年としていたようである。(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)
・彼の出生地も年代も不明である。おそらくフェラーラ、ポンポーサ、タラ、コディゴーロ、ラヴェンナ、アレッツォ近郊が出生地という説、又はフランス、パリ生まれ説もある。「山育ち」であると言ったという説もある。彼自身はコディゴロCodigoroの地ポンポーザの村で生まれたと述べている。
歿地も年代も不明である。おそらくイタリア、アレッツオ近くのアヴェラーナ(Avellano)又はラヴェンナとも言われている
最近のMicrologusの研究により、1025年か1026年、彼はある手紙の中で34歳と記していることから、生まれたのは991年か992年であることが推測されるともある。
彼の没年地も年代も不明である。おそらくイタリア、アレッツオ近くのアヴェラーナ(Avellano)又はラヴェンナとも言われている。
最近のグイドの音楽論文「ミクロログスMicrologus」研究により、1025年か1026年、彼はある手紙の中で34歳と記していることから、生まれたのは991年か992年であることが推測されるともある。

1045-1050年の間にアレッツォで没

1. 経歴


「はじめに」
[ミカエルMicheleに宛てた手紙]グイドが同僚の修道士ミカエル・ポンポーサに宛てた手紙の中でグイドはかつて名声を博したその修道院で過ごした日々について、数多くの詳細を語っている。そこから明らかになるのは、彼がポンポーサ修道院を「自分自身の場所」と見なしていたことがうかがえる。したがって、彼がそこで教育を受け(「ラヴェンナのグイド」と呼ばれていた聖グイド修道院長から指導直接教育を受けた可能性が高いと思われる)、さらに彼がそこで記譜法や聖歌指導に体系的な構成に関する新たな手法を見出新たな発見をした可能性は極めて高いと言える。楽譜表記や歌唱の体系的な構成に関する新たな手法を見出した可能性は極めて高いと言える。そして最後に、彼が自身の教授法を初めて広めようと試みた際に、仲間の修道士たちから激しい対立を招き、結局修道院を去ることになったという経緯である。
➋グイドはアレッツォ大聖堂のベネディクト会修道院で音楽マエストロであるシギゾSigizoに教育を受けたといわれている。一説によると、パリ近郊のベネディクト派のサン・モール・デ・フォッセ修道院のグランフェイユのオドOdoが著した「サン・モール・デ・フォッセの音楽論(Dialogus de musica/音楽についての対話)」で教育を受けたという説もある。
[ミカエルMicheleに宛てた手紙]グイードは友人ミカエルに宛てた有名な手紙の中で、音符の読み方を学ぶために「オドの『音楽についての対話(Dialogus de musica)』(または別名『音楽の手引書』)をよく学ぶように」と強く薦めている。この本は西暦1000年頃に著されたとされたとされている」
➍アレッツォのグイドの生誕地や生年について絶対的な確証がないことは認める。しかし、彼がポンポーザ修道院で長年過ごしたことは確実である。とはいえ、1011年1月および1013年6月付のアレッツォの重要な文書を無視したり、意図的に見落としたりしたまま、この著名な音楽家の伝記を書き始めることはできない。これらの文書は、この偉大な音楽家が―成人して間もない頃―アレッツォ大聖堂参事会に仕え、最初はカントル(聖歌隊長)、後にはマエストロ(楽長)として活動していたことを示しているからである。グイドの書簡8によれば、この修道院は「彼自身の」修道院であり、そこで最初の修道教育を受けたことが分かる(ただし、これはあくまで修道教育であり、音楽教育や初期の文化的・宗教的訓練は別の場所で受けていたことを付け加えておく)。参考(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)
➎グイドと同名を名乗っていたポンポーザ修道院長が、グイドの指導を自ら監督していたというヴァン・ワースベルヘVan Waesbergheの主張は、音楽や聖歌(グイドは1011年および1013年の文書で明らかなように、すでにこれらの分野の専門家であった)に関する教育ではなく、修道士としての修練を指す場合にのみ、妥当であるように思われる。参考(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)
➏グイドのポンポーザでの「滞在」が劇的な結末を迎えたこと―すなわち、修道院長の意向により、この名高い修道院から追放されたこと(その理由は、異口同音に「音楽上の意見の相違」とされている)―を考え合わせれば、その原因は明らかであろう。グイドは、極めて革新的な思想的・教育的立場を強く掲げる人物であり、それによって、千年以上にわたって用いられてきた「教授法」(と呼べるものならばの話だが)を瞬く間に時代遅れにしてしまったのである。その教授法とは、膨大な聖歌のレパートリーを暗記することに基づくものであり、修道院文化こそが――紆余曲折はあったにせよ―その正当な守り手であった。参考(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)

1001年頃
11歳のグイドはその年、夏の終わりに初めてアレッツォ大聖堂のベネディクト会修道院の聖職者の学校に入学し、マエストロであるシギゾSigizoから教育を受け、実りある教育の道を歩み始めたようだ。グイドはこの頃父親を亡くしていた可能性も考えられる。孤児は修道院付属学校や大聖堂付属学校に優先的に受け入れられていたからだ。
・グイドが聖職者養成学校に入った際、当時助祭長であったウィリアムGuillaumeに迎え入れられたという事実がある。
この学校に入学した子供は皆、直ちに「クレリクス(聖職者)」の肩書きを帯びたことが知られている。ただし、この呼称は当然ながら大人、すなわち正規の聖職者に対しても用いられ得たことには留意すべきである。本件に関しては、ヴィド(Wido)が「スブディアコヌス(下級聖職者)」および「カントル(聖歌隊長)」として署名した1011年と1013年の二つの文書に照らせば、前述の通り、彼が11歳程度の極めて若い聖職者であったと考えるのが妥当である。(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)
・deSmits van Waesbergheはその著「De musico-paedagogico et theoretico Guidone Aretino eiusque vita et moribus」で、グイドがフェラーラ近郊のポンポーザの地で生まれ、ごく幼い頃に修道院に入ったという見解も示している。つまり彼は、グイドがその修道院で「音楽の初期教育」を受けたという見解を示した。
・グイドは、シギゾSigizo聖歌隊長に委ねられた。シギゾは、その年、大聖堂カントールであり、聖歌隊学校の隊長であり、厳粛な典礼の音楽監督であった。グイドは、サン・モール・デ・フォッセのオドの音楽論「Dialogus de musica/音楽についての対話」を利用し、彼の原則を発展させたという。

1013年
6月の時点では、ウィドWido(助祭補にして聖歌隊長)は助祭補の身分で聖職者養成学校に通い続け、司教座聖堂の聖歌隊長という職にも就いていた。もっとも、彼はまもなくアレッツォを離れてポンポーザへ向かう決断を下すことになる。参考(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)

1013年
おそら23歳頃、約10年間の研究と準備の後、成人した若い聖職者は下級助祭および聖歌隊長(カントル)に任命された。
司教はグイドに街を離れ、ポンポーザの修道士になるようにいわれた。
大人になったグイドはアレッツォを去り、最も有名なベネディクト修道院の 一つと見なされていた名声に、新しい精神的および音楽的生活への希望に満ちて、1013年末または翌年の初めにポンポーザに到着しポンポーザの修道院に入った。
23歳ぐらいのときである。彼はすでに副助祭に叙階されており、アレッツォ大聖堂のカントールとして長年の宗教的経験や音楽経験を積んでいた。
ポンポーザはイタリア全土で、特にその素晴らしい芸術的、文化的、音楽的活動でよく知られていた。
フェラーラ近郊の「アドリア海沿岸にあるポンポーザ修道院」で修道生活を始め、カマルドリ会ベネディクト派の修道士となった。
当時の修道院長(アッバス)はグイド・デッリ・ストランビアティGuido degli Strambiati(後の聖グイド)で、彼は1008年から1046年まで修道院を統率していた。また、当時の修道院の運営責任者である「プリオル(院長代理)」は修道士マルティーノMartinoが務めていた。ポンポーザでの彼の生活に関する詳細は、後にグイド・モナコが友人の修道士ミケーレに宛てた書簡から知ることができる。その中で彼は、ミケーレを「最愛の兄弟」、聖グイドを「私の父であり、魂の一部」、そしてマルティーノを「私の大きな支え」と呼んでいる。
・彼が音楽の道へと進むきっかけとなったのは、ポンポーザで年少の生徒たちの音楽指導を任されたことであった。その役割を担う中で、彼はグレゴリオ聖歌の学習や暗記、そして音楽のリズムに関する既存の教授法が抱える困難さに気づくことになる。グイドによる改革以前は、教師が旋律を演奏したり歌ったりし、生徒はそれを絶え間なく骨の折れる反復練習を通じて覚えなければならなかった。当時、ネウマ(記譜記号)は歌詞の各音節の上に単純な慣習的記号として記されていたが、そこには音の高さや音程を示す情報は一切含まれていなかった。
歌手がグレゴリオ聖歌の音高(おんこう)を口伝による教育方法では覚えるのが難しいことを知り、グイドはこの問題を解決するために、彼はグレゴリオ聖歌をはるかに速く学ぶことを可能にする方法を考え、ポンポーザ修道院で教えはじめた。
彼は全く新しい教授法を考案・採用し、それによってたちまちイタリア全土で有名になった。
グイドは、教師の助けを借りず、かつ多くの時間を費やすことなく、誰でも音や半音の音程を読み、理解し、解釈できるようにネウマを記譜する方法を考案した。
ポンポーザ修道院では、彼の新しい歌唱法に抵抗し、従来の歌唱法にこだわる同僚やグイド修道院長との間にも指導方法の違いが表面化し始めた。グイドの考案に脅威を感じていた仲間の修道僧たちからかなりの嫉妬と抵抗を引き起こしたと伝えられている。これらは、何年にもわたって、グイドの尊大な道に悪影響を及ぼしていたであろう要素であった。
グイドの発見は真の革命とも言うべきものであり、グイド・ストランビアティ修道院長もその価値を十分に理解していた。しかし、ポンポーザの修道士たちは――ごく一部の例外を除き――古くからの伝統に頑なに固執していた。彼らは断固として抵抗し、この傑出した革新者に対して抗議や敵意を向け、ついには彼を追放へと追い込んだ。修道院長グイドにできることは、友人のテオダルドが司教を務めるアレッツォへグイドを追放する手配を整え、保守的な修道士たちによる騒動を鎮めること以外にはなかった。
一説によると、1020年頃28/29歳の彼はポンポサを離れることを余儀なくされた。おそらくフランスに行き、サン・モール・デ・フォッセの修道院に行き、そこで彼と同じくらい進んだ理論家と出合ったという伝えもある。やがて、グイドはポンポーザを去り1025年頃アレッツォに移動した。
この点について、グイドは友人でありポンポーザの修道士でもあったミケーレMicheleに、次のように書き送っている。「地上の楽園から今日に至るまで、人々の心から平安を奪い去る『嫉妬』というものよ、永遠に呪われよ。」

⬇ youtube[Guidonian Hand]

1020年頃ポンポーザ修道院に修道士たちの間で新しい詠唱法をめぐる争いがあったことを述べている。(アントニオ・ブランディは『グイド・アレティーノ』(トリノ、1882年、109-111頁)の中でGuido Aretino*, Turin, 1882, pp. 109–111)(L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,)

1023/1025年頃
33~35歳頃、青春時代を過ごしたアレッツォに戻り、グイドはトスカーナ教区のテオダルドTheodald司教に会った。
テオダルド司教は、グイドの並外れた発明の歴史的重要性を感じ、彼の保護を申し出た。彼はテオダルドTeodaldo司教の庇護下に入り、その司教に有名な著書『ミクロログスMicrologus』を献呈した。テオダルド司教はオフィスで修道士グイドをもてなし、彼が音楽の勉強を終えるための資金を提供した。
アレッツォのグイドにとって幸いなことに、その街には修道院こそなかったものの、刷新を必要とする歌唱学校が存在していた。
テオダルド司教は大聖堂聖歌隊少年合唱団のカントールに任命し、彼の牧師としての奉仕を結びつけた。
1025年以降、グイドはグイドは首都アレッツォの近郊バディクリーチェBadicroceに移った。
市壁の外、ピオンタの丘(Colle del Pionta)にあったアレッツォ大聖堂で少年合唱団の音楽と歌の教師をはじめた。彼が現代の記譜法を考案し、実際に導入したのはこの地でのことである。歌手がグレゴリオ聖歌の音高(おんこう)を口伝による教育方法では覚えるのが難しいことを知り、彼はグレゴリオ聖歌をはるかに速く学ぶことを可能にする方法を考え、ポンポーザ修道院で教えはじめた。五線譜を使用して、グイドは大量の音楽をすばやく教えることができた。
このようにしてグイドは、ポンポーザで受けたすべての苦しみと屈辱を一瞬にして償うと同時に、宗教界全体の正当な配慮を取り戻した。
テオダルド司教から聖歌の歌い方等の音楽の技芸と訓練の指導書を公にするよう命じられた。数年後にグイドは音楽という技芸の諸規則を「ミクロログス(音楽小論)Micrologus」に著わし司教に捧げられた。
「記譜法」
歌い手を支援するため、グイドはヘクサコルド(6音音階)の音程を示すのに、グレゴリオ聖歌における音高認識と視唱を教えるために、パウル・ディアコヌスPaolo Diaconoの聖ヨハネ賛歌『ウート・クエアント・ラクシス(Ut queant laxis)』のサッフォー詩節による冒頭のスタンザの最初の単語からut、 re、 mi、 fa、 sol、 laの各半行の冒頭音節を用いた。
この賛美歌の全文は、トロカイック四歩格の6つのスタンザ(節)から成り、歌い手たちが妨げられることなく神を賛美できるよう、洗礼者ヨハネに歌声を清めてもらうよう祈願している。これは、キリストの道を備えるという聖人の聖書における役割を象徴している。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラの型の6音の記憶を基礎にして視唱を教える方法を完成した。ミとファとの間が半音であとは全音である。グイードはこの型を記憶する助けとして《「ヨハネ讃歌」の歌詞の「一番」原典はカトリック教会での「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祝日、6月24日の第二晩課の時に歌われていた》というよく知られた賛歌で、6つの句のそれぞれがこの型の音符のひとつで始まり、しかも一句ごとに上昇するようになっている、一番目の句はut、re、mi、fa、sol、la(ウト、レ、ミ、ファ、ソル、ラ)が音符の名前になった。ウトの代わりにド、ラの上にシをつけ加えている点を除けば、現在の楽譜表記法のドレミの原案を考案したという。今日でも音の名前はこの方法で学ばれている。
・聖ヨハネ賛歌(ラテン語)
«Ut queant laxis ‖ Resonare fibris
Mira gestorum ‖ Famuli tuorum,
Solve polluti ‖ Labii reatum,
Sancte Iohannes.»
「 解き放たれた声が あなたの僕(しもべ)らの偉業を響かせんことを 汚れし唇の咎を解き放ちたまえ、聖ヨハネよ。」
・「助祭パウロ、『洗礼者ヨハネへの賛歌』1-4)」(イタリア語)
«Affinché i servi possano cantare a corde distese
le meraviglie delle tue gesta sciogli il difetto del labbro debole, San Giovanni»
(Paolo Diacono, Versus in laudem sancti Iohannis Baptistae, 1-4
「しもべたちがあなたの御業の奇跡を、声を張り上げて歌えるように、聖ヨハネよ、弱々しい唇の欠点を癒してください。」
註:トロカイック四歩格とは、4つのトロカイック音節から構成される詩行であり、 1行全体で合計8音節(/u/u/u/u)のリズムパターンになる。トロカイとは、強勢音節の後に強勢のない音節が続く韻律のことで、古典的な量韻律では長音節の後に短音節が続くのと同等である。この形式は、2つのトロカイを持つディメーターや5つのトロカイを持つペンタメーターなど、他のトロカイック韻律とは異なり、1行あたり4つの音節という独特の構造を持っている。「トロキー」という名前は、ギリシャ語の「トロカイオス」に由来し、「走る」という意味で、足のパターンに内在する下降または落下するリズムを想起させる。しばしば最後の無強勢音節を欠いたカタレクティック形式で現れるこの韻律は、切迫感や呪文のような感覚を生み出す7音節の行を作り出す。
グイードの音楽指導法はイタリア中から注目を集め、高く評価された。グイドの考案は音楽を見たり、読んだり、メロディーを学んだりするには実用的な価値があった
ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes
Ut queant laxis ‖Resonare fibris Mira gestorum ‖Famuli tuorum、Solve polluti‖Labii reatum、Sancte Iohannes
それから、音符Ut-Re-Mi-Fa-Sol-La-の名前が出てくる
「ヨハネ賛歌の楽譜」

「グイドの手」

⬇ youtube[Himno a San Juan Bautista (Guido d’Arezzo)]

「ソルミゼーション」
・こうしてグイドは、ソルミゼーションsolmisazione(ソルフェージュの最も初期の形態)として知られる理論体系の基礎を築いた。
彼の体系は、絶対的な音高(これについては既存のアルファベット表記法が用いられていた)を示すためのものではなく、むしろ旋律におけるホ(mi)とヘ(fa)の間の半音の位置を正しく定めるためのものであった。つまり、例えば(ut)という名称は、現在私たちが(do)と呼んでいる音だけに割り当てられていたわけではないのである(実際、ルネサンス期まで用いられていた音階において最も低い(ut)は、実際にはト音(G)であった)。グイドの体系における音名が絶対的な音高と結びつけられるようになったのは17世紀である。それ以前の16世紀後半には、音階の第7音を表す名称として(Si)(Sancte Iohannesの頭文字に由来)が追加されていた。また、響きの良さを求めて(ut)を(do)に置き換えることも決定されていた。この変更は一般に、理論家ジョヴァンニ・バッティスタ・ドーニGiovanni Battista Doni(自身の姓の最初の音節を用いたとされる人物)によるものとされているが、実際には(Do)という音節は、ドーニの誕生よりはるか以前の1536年に書かれたピエトロ・アレティーノPietro Aretinoの文献において、すでに最初の音を指す言葉として登場している。
・グイドの記譜法がアルファベットによる記譜法に取って代わり、(フランス語では、最初の音は今日でも(Ut)と呼ばれている)。一方、ドイツ語圏や英語圏では、後者(A)から(G)を用いるものが引き続き使用された。
・またグイドは、五線の線や間(かん)における音符の位置を定義し、その表記のための統一的な体系(音符の頭部に正方形を用いる方法。この形状は後にひし形、さらには楕円形へと変化していくことになる)を提案することで、音符を書き表す方法(記譜法)を体系化した。
・グイドの五線譜は4本の線から成っていたため、「テトラグラム tetragramma(四線譜)」と呼ばれていた。(フォルリのウゴリーノ・ウルベヴェターノUgolino Urbevetano da Forlìが導入した現代の「ペンタグラムpentagramma(五線譜)」とは異なる)
・グイドはまた、音階や六音音階の音程を正確に発音するための記憶術、すなわち「グイドの手Guidonian hand」を考案した人物としても知られている。
前述の『ミクロロゴス』に加え、彼は書簡や論文の中でこうした革新的な事柄を提示した。その中でも特に注目すべきものとして、書簡『未知の旋律についてミカエル宛て(ad Michaelem de ignoto cantu)』、『アンティフォナリウム(聖歌集)への序文(Prologus in Antiphonarium)』、そして『韻文による規則(Regulæ rithmicæ)』が挙げられる。
グイドの時代、アレッツォ大聖堂は城壁近くのピオンタの丘の上にあった。 この丘には、約七世紀前にアレッツォの司教で殉教者のサン ドナートが埋葬されており、それ以来、その強い精神的呼びかけに惹かれた高位聖職者や教会員が大聖堂教会を建設し、そこに住居を構えていた。したがって、その丘には、教会、家屋、宮殿を備えた本物の城塞があり、壁や塔によって有効に保護されていた。
下、11 世紀の中世の写本に描かれたモノコードを手にしているグイード・ダレッツォ(左)とテオバルドゥス司教

1028年
音楽家の間で名高いアレッツォのグイドは、当時のイタリアにおいて著名な人物であった。教師の歌声や楽器を用いるよりも、彼が考案した方法による方が、少年少女たちが新しい聖歌を容易に習得できたため、彼は哲学者以上に高く評価されていたのである。参考(Sigebert de Gembloux)

1028~32年
38~42歳、彼の名声はすぐに現職の教皇ヨハネス十九世(1024-1033)に届き、教皇はグイドに関心を示し三人の使者を派遣し、グイドにローマに来て、彼の新しい作品、Micrologus の論文が完成した直後の教授法、典礼を含む彼のシンフォニアをを発表するよう招いた。
グイドは、グリマルドゥスGrimaldus修道院長とアレッツオの大聖堂首席司祭ペトルス師Petrusに同行してローマを訪問した。
教皇はグイドを歓迎し、説明するグイドの話を熱心に聞き修得した。教皇ヨハネは、マスターの助けなしに簡単にメロディーを解読して学ぶことができたことに大喜びし、また多くの質問をして会話を楽しみ、理解を示したという。
グイドをローマに住まわせ、ローマの聖職者に新しいシステムを教え、それを紹介するように勧めた。それは、少年たちが未知の聖歌を学ぶことに成果を上げた「アンティフォナリウム」作品などを聖職者に説明する必要があったからだ。
グイドはローマの夏の猛暑と湿気に苦しみ体調を崩したためローマを出立した。冬に再訪する約束をして作品を教皇と聖職者に説明する約束をした。
結局アレッツォに戻ることになった。しかしこの時は400キロ離れたポンポーザのグイド修道院長に招かれポンポーザを訪れた。グイド修道院長はグイドの業績を認めた。ポンポーザ修道院時代の敵対関係も、教皇が理解を示したことを伝え、誤解の謝罪をしグイドにポンポーザへ戻ることを願った。

「ヨハネ19世ローマ教皇」

1029年以降晩年
ポッピPoppiのカマルドレーゼComaldolesi修道院に行き歌唱法の指導を行った。その後グイドの名声はさらに広がるようになった。
11世紀の新しい歌唱法の写本の多くはこのカマルドレーゼ修道院であるため、晩年はアレッツォ近郊のポッピにあるカルマドリCamaldoliの修道会のアヴェッラーナAvellanaの修道院一つであるエルミタージュの修道院に移り、定住したと言われている。
1050年頃(60歳)にそこで生涯を終えたといわれている。
グイドに関する最後の文書は、1033年5月20日になっており、グイドの死はその日付より後であると知られている。

下は、「カマルドレーゼ修道院」

2. 記譜法


グイドは記譜法と実践の発展に多大な影響を与えた。五線譜の原型の最も重要な創設者の一人と見なされている。
歌手がグレゴリオ聖歌の音高(おんこう)を口伝による教育方法では覚えるのが難しいことを知り、彼はグレゴリオ聖歌をはるかに速く学ぶことを可能にする方法を考え、ポンポーザ修道院で教えはじめた。
現在の楽譜表記法のドレミの原案を考案したという。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラの型の6音の記憶を基礎にして視唱を教える方法を完成した。ミとファとの間が半音であとは全音である。グイドはこの型を記憶する助けとして《「ヨハネ讃歌」の歌詞の「一番」原典はカトリック教会での「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祝日、6月24日の第二晩課の時に歌われていた》というよく知られた賛歌で、6つの句のそれぞれがこの型の音符のひとつで始まり、しかも一句ごとに上昇するようになっている、一番目の句はut、re、mi、fa、sol、la(ウト、レ、ミ、ファ、ソル、ラ)が音符の名前になった。ウトの代わりにド、ラの上にシをつけ加えている点を除けば、今日でも音の名前はこの方法で学ばれている。
⬇ youtube[聖ヨハネ賛歌]
伝統的なグレゴリオ聖歌の記譜法は、四線譜表の「ネウマ」と呼ばれる単一の音節で歌われる音符に書かれている

四本の線の上に四角い音符を書くという当時、聖歌を正確に記録し後世に伝えることが可能となった。
現在のソルフェージュの基となる歌唱法を、グイドは同僚のミカエル修道士に宛てた「知らない歌についての書簡」で視唱方法を書いた。グイドはヨハネ賛歌を完全に憶え、特にフレーズの最初の音符・音節を示しただけで、そのフレーズをすぐに歌いだせるようになっておくこと。新しい曲の楽譜を読む際に、ある音符をどの高さで歌えばよいのかを知るには、対応するヨハネ賛歌のフレーズの開始音を思い出せばよい。そして、そうすると曲の各音符に対してこれを繰り返せばその曲が歌えるようになると説く。これらができると聴音もでき楽譜に書きとめられてない賛歌の各音節が賛歌の、どのフレーズの開始音に当たるのかを聴き分けると、楽譜に正しく書き取ることができると書簡に書いている。
聖歌の歌い方等の音楽の指導書「ミクロログス」を著わした。
下は、古代アレッツォのグイドモナコ広場にある記念碑

記譜法と実践の発展に多大な影響を与えた。五線譜の原型の最も重要な創設者の一人と見なされている。
下、伝統的なグレゴリオ聖歌の記譜法は、四線譜表の「ネウマ」と呼ばれる単一の音節で歌われる音符に書かれている
⬇ youtube《聖ヨハネ賛歌》

3. グイド生涯の情報


グイドの生涯に関する情報はほとんどない。音楽史家のチャールズ・バーニーは、記録が不足しているのはグイドが修道僧だったからだと主張した。バーニーはさらに、音楽学者サミュエル・D・ミラーの言葉を借りれば、「グイドの謙虚さ、物質的利益からの無私無欲な放棄、そして権威への服従は、彼の行動、仕事、動機をあいまいにする傾向があった」
グイドは西暦990年から999年の間に生まれた。この生年の範囲はミクロログスMicrologusの写本から推測されたもので、ヨハネ十九世が教皇(1024-1033年)であったとき、グイドは34歳であったと述べている。
オーシュによる写本の年代は1025から1026年であるということは、学者のクロード・V・パリスカ、ドロレス・ペシェ、アンジュエロ・マフッチによって認められている。生誕地は学者の間で多くの意見の相違の対象となっている。主な候補はトスカーナ州アレッツォ、またはフェラーラ近くのアドリア海沿岸にあるポンポーザPomposa修道院である。

「アレッツォ大聖堂」

「コッレデルピオンタ旧大聖堂」

1028~32年
彼の名声はすぐに現職の教皇ヨハネス十九世(1024-1033)に届き、教皇はグイドに関心を示し三人の使者を派遣し、グイドにローマに来て、彼の新しい作品、Micrologus の論文が完成した直後の教授法、典礼を含む彼のシンフォニアをを発表するよう招いた。
グイドは、グリマルドゥスGrimaldus修道院長とアレッツオの大聖堂首席司祭ペトルス師Petrusに同行してローマを訪問した。教皇はグイドを歓迎し、説明するグイドの話を熱心に聞き修得した。教皇ヨハネは、マスターの助けなしに簡単にメロディーを解読して学ぶことができたことに大喜びし、また多くの質問をして会話を楽しみ、理解を示したという。グイドをローマに住まわせ、ローマの聖職者に新しいシステムを教え、それを紹介するように勧めた。それは、少年たちが未知の聖歌を学ぶことに成果を上げた「アンティフォナリウム」作品などを聖職者に説明する必要があったからだ。
グイドはローマの夏の猛暑と湿気に苦しみ体調を崩したためローマを出立した。冬に再訪する約束をして作品を教皇と聖職者に説明する約束をした。結局アレッツォに戻ることになった。しかしこの時は400キロ離れたポンポーザのグイド修道院長に招かれポンポーザを訪れた。グイド修道院長はグイドの業績を認めた。ポンポーザ修道院時代の敵対関係も、教皇が理解を示したことを伝え、誤解の謝罪をしグイドにポンポーザへ戻ることを願った。

1029年以降晩年
ポッピPoppiのカマルドレーゼComaldolesi修道院に行き歌唱法の指導を行った。その後グイドの名声はさらに広がるようになった。十一世紀の新しい歌唱法の写本の多くはこのカマルドレーゼ修道院であるため、晩年はアレッツォ近郊のポッピにあるカルマドリCamaldoliの修道会のアヴェッラーナAvellanaの修道院一つであるエルミタージュの修道院に移り、定住したと言われている。1050 年頃にそこで生涯を終えたといわれている。
グイドに関する最後の文書は、1033年5月20日になっており、グイドの死はその日付より後であると知られている。
下は、「エルミタージュ修道院」
グイドは晩年エルミタージュの修道院に移り、定住しそこで生涯を終えたといわれている

4. 主な作品


1. 「ミクロログスMicrologus」(1025–1026年頃)
聖歌の歌い方等の音楽の指導書「ミクロログス」を著わした。
国内【グイド・ダレッツオ『ミクロログス(音楽小論)』、中世ルネサンス音楽史研究会訳、春秋社、2018年】がある

2. 「アンティフィフォナリウム序文Prologus in antiphonarium」(1030-1031年頃)
どんな楽曲を表記する場合にも標準的に使える記譜法を説明した音楽教師向けの実践的なテキストを著した。楽曲の記憶を補助するこの優れたテキストは巷間に流布し、多くの写本が作られた。

3. 「韻文規則Regulae rhythmicae」(1026年以降)
「内容(訳)」
記譜について[の説明が]始まる。 私たちは、聖歌を学ぶためには、少なくとも3ヶ月間まじめに使い続けるのであれば、音を文字だけで記すこと以上にやさしい[方法は]ないと考えてきた。
一方、ネウマも、文字に比べて場所を取らないので普通に使われている。ネウマは、注意深く使い、次のように線と共に文字がいっしょに書かれるのなら、文字の代わりになる。
そして学習が進んだら、2本の線の間に1つの音を置こう。もちろん、様々な状況において様々な置き方が存在することを理性は求めている。
(註:原著はネウマ譜があり説明されている。)

4. 「ミカエルへの未知の聖歌に関する書簡Epistola de ignoto cantu directa ad Michahelem」(1031-1032年頃)
グイドは同僚のミカエル修道士に宛てた「未知の聖歌に関する書簡」で視唱方法を書いた。グイドはヨハネ賛歌を完全に憶え、特にフレーズの最初の音符・音節を示しただけで、そのフレーズをすぐに歌いだせるようになっておくこと。新しい曲の楽譜を読む際に、ある音符をどの高さで歌えばよいのかを知るには、対応するヨハネ賛歌のフレーズの開始音を思い出せばよい。そして、そうすると曲の各音符に対してこれを繰り返せばその曲が歌えるようになると説く。これらができると聴音もでき楽譜に書きとめられてない賛歌の各音節が賛歌の、どのフレーズの開始音に当たるのかを聴き分けると、楽譜に正しく書き取ることができると書簡に書いている。

5. その他


ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes
Ut queant laxis ‖Resonare fibris Mira gestorum ‖Famuli tuorum、Solve polluti‖Labii reatum、Sancte Iohannes
それから、音符Ut-Re-Mi-Fa-Sol-La-の名前が出てくる
「ヨハネ賛歌の楽譜」

「グイドの手」

グイドの理論
<未知の歌の書簡Epistola de ignoto cantu>
グイドは、良く知られていた聖ヨハネの イムヌス(賛歌)、の最初の六章節の冒頭の歌詞を用いた以下の階名読みを考案した
ut  re  mi  fa  sol  la
全音 全音 半音 全音 全音
その最初の六行は、2つの全音、半音、2つの全音の音階を形成している。 ヘキサコードと呼ばれ、六行で始まるラテン語の音節に歌われるこの対称的な一連の六つの音符、ut-re-mi-fa-sol-laは、耳の聴力と視唱のための彼の中心的なツールになった。 このヘキサコードをさまざまなピッチレベルにシフトすることで、歌い手は重要なハーフトーン間隔をどこで歌わなければならないかを常に判断できるようになった。

<ミクロログス>
グイドによって書かれた中世音楽に関する論文で、トスカーナ教区のテオダルドゥスTheodaldus司教に捧げられた。この論文は、グレゴリオ聖歌の歌と指導の実践を概説し、ポリフォニック音楽の作曲について記している
この書は中世を通じて修道院で使われた。それ以降も大学でも使われた。中世において最も実用的な功績を残した理論家であった

「Fondazione Guido d’Arezzo: Attività/グイド・ダレッツォ財団:活動」ホームページ

Fondazione Guido d’Arezzo

6. 関連動画


《聖ヨハネ賛歌 UT QUEANT LAXIS》NATIVITÀ DI SAN GIOVANNI BATTISTA – B
Ut queant laxis resonare fibris
Mira gestorum famuli tuorum,
Solve polluti labiis reatum,
Sancte Joannes.

Himno a San Juan Bautista (Guido d’Arezzo)

⬇ youtube[Guido d’Arezzo – Ut queant laxis (2013)]

グイドの手を使ったソルフェージュ歌唱法
William Mahrtミラー・マルハート教授による、バブテストのヨハネを賛歌した8世紀ラテン語の賛美歌
Guidonian Hand

Guido – Ut Queant_0001.wmv

The Guidonian hand medieval notation printed on palms, for people to sing

Guido of Arezzo

Guido D’Arezzo

Coro Iride – Concorso Nazionale Guido D’Arezzo 2009

Ut queant laxis resonare fibris – Guido d’Arezzo

《The Tale of Guido d’Arezzo: An Interactive Storybook about the Inventor of Music Notation》

Top image:(Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=594709)

「The Story of Guido」 Music History Crash Course

参考資料
L’avis le jésuite hollandais deSmits van Waesberghe,/

参考文献:中河原理監修・フェニックス企画編 『クラシック作曲家辞典』 東京出版堂、刊行平成4年 / 堀内敬三『音楽史(音楽講座)』 音楽之友社、刊行昭和31年 / ドナルド・ジェイ・グラウトDonald Jay Grout著、『グラウト 西洋音楽史/上』服部幸三・戸口幸策共訳、音楽之友社発行、昭和52年刊行 / グイド・ダレッツオ『ミクロログス(音楽小論)(佐野隆、飯森豊水、石川洋一、宮崎晴代、黒須輝彦、吉川文、平井真希子論文含む)』、中世ルネサンス音楽史研究会訳、春秋社、刊行2018年 / https://ja.wikipedia.org/wiki/グイード・ダレッツォ、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ジェイミー・ジェイムス『天球の音楽:歴史の中の科学・音楽・神秘思想』黒川孝文訳、白揚社、1998年、アクセス2019年5月4日 / 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 / http://www.mab.jpn.org/lib/exp/solmi/basis.html#hex_table「ヘキサコード表」 / https://www.britannica.com/art/hexachord、アクセス2022年11月10日 / https://en.wikipedia.org/wiki/Guido_of_Arezzo、アクセス2022年11月10日 / https://www.newadvent.org/cathen/07065a.htm、カトリック百科事典、アクセス / https://longbeachchant.com/2024/01/19/guido-of-arezzo-and-the-invention-of-the-stave/https://www.musicologie.org/publirem/mafucci_it.html、Guido d'Arezzo : i primi venti anni della sua vita1、アクセス / https://digitalcommons.cedarville.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1003&context=musicalofferings、Guido of Arezzo and His Influence on Music Learning  / https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/nanki/event/minilec/pdf/2019_06_15minilecNo76.pdf南葵音楽文庫ミニレクチャー/南葵音楽文庫/和歌山県立図書館内/南葵音楽文庫で学ぶ西洋音楽史(3)/楽譜の誕生と記譜法の発展、アクセス / https://www.treccani.it/enciclopedia/guido-d-arezzo_%28Dizionario-Biografico%29/アレッツォのグイド、アクセス 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「maokato.jp/bihoro/bihoro 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 https://en.wikipedia.org/wiki/Odo_of_Glanfeuil http://renefiles.com/credits/star-trek/odo-in-history/ 「江戸東京年表」吉原健一郎・大濱徹也編 小学館 「日本史・世界史 同時代比較年表」楠木誠一郎著 朝日新聞出 「音楽文庫・日本音楽史」伊庭孝著 講談社

生年代:990年頃 正暦元年

没年代:1050年頃

日本の元号:正暦~長徳~長保~寛弘~長和~寛仁~治安~万寿~長元~長暦~長久~寛徳~永承

時代:平安時代 一条天皇~三条天皇~後一条天皇~後朱雀天皇~後冷泉天皇

日本の出来事:平安時代

990年頃 グイード・ダレッツオ 生まれる

990 永祚2年 ◎楽制改革が完成し、雅楽の楽器編成が現在の形に統一された

1016 長和5年  ◎藤原道長摂政に就任

1025 万寿2年 ◎この頃、清少納言歿(966年生)

1028 長元元年 ◎藤原道長没 (平安時代の摂政・関白)祚

1039 長歴3年 ◎源義家(八幡太郎)誕生、平安時代武将

1050年頃 グイード・ダレッツオ 没

世界の出来事:990年頃 グイード・ダレッツオ 生まれる

992    ※ボレスワフ一世、ピャスト朝のポーランド国王に即位。ベーメンやマイセンに領土拡大

994     ※ウインチェスターのオールド・ミンスターにパイプオルガンが設置される

997    ※イシュトヴァーン一世、ハンガリー王国の初代国王に即位。ハンガリーの建国者。ハンガリーのキリスト教化を進めた

1000 ※この頃、ミサの形式がほぼ定まった ※11世紀は東ローマ帝国の全盛期、西ヨーロッパでは東西教会分裂、十字軍の遠征はじまる

1005 ※ファーティマ朝カリフのハーキムがカイロに「知恵の家(ダール・アル・イルム)」設置

1007 ※神聖ローマ皇帝ハインリヒ二世がバンベルク司教座を設置し大聖堂を建設

1008 ※バグラト三世がグルジア王国を統一する

1009 ※ファーティマ朝カリフのハーキムがの命でエルサレムの聖墳墓教会が破壊される

1010 ※この頃、イランでフィルドゥーシーが民族叙事詩「シャー・ナーメ(王書)=イランの神話・伝説・伝承・歴史(建国から4王朝迄)」完成

1013 ※デンマーク王スヴェン一世、エゼルレッド二世に勝利しイングランド王になる

1013 ※ヘルマヌス・コントラクトゥス生誕。7月18日ドイツ、アルツハウゼン侯爵家に生まれる。作曲家・音楽理論の研究者・数学天文学者。病気で不具になり一生をコンスタン湖に浮かぶライヒェナウ島の修道院で過ごす。著書「音楽論De Musica」では当時は旋法が何らかの気分と結びつけることが普通とされていたが、旋法とエートス(ギリシャ語では性格と訳すが、アリストテレス倫理学ではある場合は一時的な感情。ある場合には知性と対比される。その意味では習慣づけによって確立された持続性、恒常性を持つ更に多様化せれた意味を持つといわれている)とのかんけいは全くないとしている。そして、モノコードから音楽の定義を行い、当時の聖歌は1オウクターブの範囲に収まるよう作曲されたのに対し、2オウクターブを基準としている。宗教歌が現存する。1054年9月24日同地で没

1016 ※ノヴゴロド公ヤロスラフ一世が兄弟のスヴャトポルクを倒しキエフ大公となる ※この頃スラブ民族最古の「ルースカヤ・プラウダ」の「ヤロスラフ法典」が編纂される

1018 ※ダンカン一世がストラスクライド王国の王位を継承し、スコットランドのほぼ全域を治める

1022 ※フランス王ロベール二世の命によりオレルアンで異端者に対する最初の火刑が行われる

1025 ※ピャスト家のボレスワフ一世が初代のポーランド王に選ばれる

1028 ※イングランド王でデンマーク王のクヌートがノルウの王位も兼任し北海帝国成立

1030 ※この頃オルガンが教会音楽の楽器としてヨーロッパ中に普及。 ※神聖ローマ皇帝コンラート二世がシュパイアー大聖堂建設を命じる

1032 ※神聖ローマ皇帝は中世ドイツの王・イタリアの王・ブルグンド王(ドイツ西部ライン川右岸遅滞)を兼任することになる

1035 ※北海帝国クヌート大王死去に伴い追放されていたマグヌス一世がノルウェー王として独立し北海帝国は崩壊

1037 ※ジュミエージュのノートルダム聖堂建築

1045 ※エドワード懺悔王がテムズ川上流にウェストミンスター寺院を建設。ロンドン・ウェストミンスターにある、イングランド国教会の教会。聖ペテロ修道教会。戴冠式などの王室行事が執り行われ、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはもはやなくなっている。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接している。

1045 ※東ローマ皇帝コンスタティノス九世がコンスタンティノポリス大学が再編

1047 ※遼の章聖皇太后が内モンゴル自治区慶州の白塔(遼釈迦仏舎利塔)建立

1050年頃 にグイード・ダレッツオ 没