540年頃 「ローマ教皇」
ローマ教皇グレゴリウスⅠ世Pope Dialogos Gregorios I(在位590年から604年頃)
西暦540年頃ローマに生まれた
604年3月12日ローマ、ローマ公国、ラヴェンナ総督領、東ローマ帝国で没
大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士である。
グレゴリウスは、教会と密接な関係を持つ裕福なローマの貴族の家に生まれた。彼の父ゴルディアヌスは、貴族であり、元老院議員を務め、一時期はローマ市の長官でもあったが、教会ではレギオナリウスの地位にあったものの、その地位についてはそれ以上のことは知られていない。グレゴリウスの母シルヴィアは良家の生まれで、シチリアにパテリアという既婚の姉妹がいた。彼の母と父方の叔母2人、トラシラとエミリアーナは、カトリック教会と正教会で聖人として崇敬されている。グレゴリウスの高祖父は教皇フェリックス3世であった。
・一家はチェリオ丘のクリウス・スカウリ(現在のサン・グレゴリオ通り)にある郊外の別荘を所有し、そこに住んでいた。この通りは、向かい側のパラティーノ丘にあるローマ皇帝の旧宮殿へと続く道から分岐していた。通りの北側はコロッセオに、南側はチルコ・マッシモに通じていた。グレゴリウスの時代には、古代の建物は廃墟となっており、私有地であった。別荘が周辺一帯を覆っていた。グレゴリウスの一家はシチリア島やローマ周辺にも農園を所有していた。グレゴリウスは後にチェリオ丘の旧宅に両親の肖像画をフレスコ画で描かせ、300年後にヨハネス・ディアコヌスがそれを描写した。ゴルディアヌスは背が高く、面長で、目は明るい色をしていた。彼は髭を生やしていた。シルヴィアは背が高く、丸顔で、青い目をしており、明るい表情をしていた。彼らにはもう一人息子がいたが、その名前と運命は不明である。
グレゴリウスは政治家としてのキャリアを積んでいたが、父の死後、グレゴリーは家族の別荘を使徒アンドレに捧げる修道院に改築した。
思うところがあって修道院に入った。最終的に、ペラギウスⅡ世教皇はグレゴリウスを助祭に叙任し、北イタリアの三会派の分裂を修復するために彼の協力を求めた。579年ペラギウス2世はグレゴリウスをコンスタンティノープルの皇帝宮廷への大使に選び、グレゴリウスは586年までその職を務めた。585年にコンスタンティノープルを離れローマへ向かい、カエリウス丘の修道院に戻った。590年に教皇に選ばれた。聖ペテロの座に選ばれたことで、彼の家族は当時最も著名な聖職者一族となった。
主な実績は以下の通りである。
◇◇◇
「グレゴリウス1世と教会音楽」
1. 典礼(儀式とテキスト)の整備
1年のうち、どの日にどの聖書のテキストを読み、どの祈りを捧げるかという「ミサの土台」を厳格に整理した。
グレゴリウス1世はミサなどの「典礼(祈りのルールやテキストの配置)」を整理・統合した。しかし、彼が整理したのはあくまで「言葉(テキスト)」と「儀式の進行」であり、そこにどのような「メロディ(音楽)」をつけるかという音楽的な編纂作業を自ら行ったわけではなかった。グレゴリウス1世の時代(6世紀末)には、まだ音の高さを正確に記録できる楽譜(ネウマ譜)が存在していなかった。そのため、当時のスコラ・カントルムの歌手たちは、指導者の手の動き(キロノミー)を見ながら、すべて記憶と口伝(口頭伝承)のみで膨大な聖歌のレパートリーを暗記していた。
ローマ教皇庁に歌手の集団(後のスコラ・カントルムの原型)があったが、後世に伝えられている「グレゴリウス1世がそれを自ら創設・指導して聖歌の編纂にあたらせた」という証拠はない。彼は当時、ペストの流行やランゴバルド族の侵略対応、教会行政に忙殺されており、音楽の編集に没頭する余裕はなかったとされていた。
2. スコラ・カントルム(聖歌隊学校)の振興
ローマ教皇庁におけるプロの歌手を育成する学校や制度を整備し、ローマ聖歌の質を高めた。
➊.「歌の専門家」の地位と役割の確立(595年の教令)
グレゴリウス1世が行った最も重要な改革は、「役割分担」であった。当時、ミサの中で美しく歌うことは非常に目立つ行為だったため、高い地位の聖職者(助祭など)が自分の歌声を披露することに夢中になり、本来の仕事である「説教」や「貧者への施し」がおろそかになるという問題が起きていた。
そこでグレゴリウス1世は595年のローマ会議で、「高い地位の聖職者がミサで(複雑なソロなどを)歌うことを禁じる」という法令を出した。そして、音楽の担当を下級聖職者や専門の歌手(スコラ・カントルム)に完全に委託した。これにより、「歌うこと」に特化したプロ集団が育つ環境が整った。
➋. 財政的・物理的な支援(専業化の実現)
スコラ・カントルム(歌手の学校・聖歌隊)の起源自体は彼より前の時代からあったとされているが、グレゴリウス1世はこれを「国営のプロ機関」として強固なものにした。
➌. サン・ピエトロ大聖堂とサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の近くに、歌手たちのための立派な学び舎(孤児院を兼ねていたとも言われている)を建設した。
➍. 教会の領地(農園などの財産)から得られる収益を学校に割り当てた。これにより、歌手や子どもたちは生活の心配をすることなく、フルタイムのプロフェッショナルとして毎日音楽の訓練に専念できるようになった。
3. 徹底したスパルタ教育(口伝のためのカリキュラム)
1年間のミサで使われる膨大な数の聖歌を、すべて耳と記憶だけで暗記した。
後世の記録(伝統的な言い伝え)によれば、スコラ・カントルムに集められた少年たちは、大人になるまで「9年間」もの厳しい訓練期間を過ごしたとされている。楽譜がない時代に、これだけの規模のレパートリーを寸分違わず一糸乱れぬ声で歌い上げるには、このような国家ぐるみの徹底した音楽学校のシステムが不可欠であった。
グレゴリウス1世は、自らメロディを作曲したわけではないが、「豊富な資金を与えて学校を建て」「聖職者から歌の役割を切り離してプロに任せ」「徹底的な暗記教育のシステムを作った」という、プロデューサー・教育行政官としての巨大な功績を持っている。
この彼が整備した「世界最高峰のプロ合唱団(スコラ・カントルム)」の圧倒的な歌声と権威があったからこそ、後になってフランク王国の指導者たちが「あのローマの素晴らしい聖歌を我々の国にも導入したい!」と憧れ、結果的に「グレゴリオ聖歌」というブランドがヨーロッパ中に広まることになった。
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