IWY. 56 ハインリッヒ・シュッツ

ドイツ、初期バロックの作曲家・オルガニスト
ハインリッヒ・シュッツHeinrich Schutz(1585-1672)

ドイツバロックの「3S」、「ドイツ音楽の父」とも呼ばれる。一般にヨハン・ゼバスティアン・バッハ以前のドイツで最も重要な作曲家、旋法的な様式で作曲を行った最後の世代の作曲家の一人である。そして17世紀における最も重要な作曲家の一人と見なされている。シュッツはイタリアからドイツへ新しい音楽的発想をもたらす上で極めて重要な役割を果たし、それによって後世のドイツ音楽に多大な影響を及ぼした。バッハ以降、シュッツの影響を受けた作曲家の中で最も重要な人物としては、彼の作品を研究したアントン・ヴェーベルンやブラームスが挙げられる。
彼はイタリア様式をドイツに導入し、ルネサンスから初期バロックにかけてその様式を発展させた人物として知られている。現存する彼の作品の多くはルター派教会、とりわけドレスデンの選帝侯礼拝堂のために書かれたものである。彼は、一般にドイツ初のオペラとされる『ダフネ』(1627年トルガウで初演)を作曲しましたが、その音楽は、儀式用や劇用の楽曲のほぼすべてと同様に、現在では失われている。シュッツは多作な作曲家であり、500曲以上の作品が現存している。

1585年10月9日10月18日シュッツはチューリンゲン州ゲーラ近郊ケストリッツで生まれた。
父クリストフ・シュッツ Christoph Schütと母エウフロジーネ・ビーガーEuphrosyne Biegerの長男。1590年、一家はヴァイセンフェルスへ移り住み、そこで父親は「Zum güldenen Ring黄金のリング」という宿屋を経営した。父親はやがてヴァイセンフェルスの市長を務めるようになり、1615年には「Zur güldenen Sackpfeife黄金のバグパイプ亭」や「Zum güldenen Esel黄金のロバ」の名で知られていた別の宿屋を購入し、その名を「Zum Schützenツム・シュッツェン」と改めた。
・シュッツが両親と暮らしていた1598年、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツが父クリストフ・シュッツの宿屋に宿泊した際、彼の音楽の才能が見出された。若きハインリヒの歌声を耳にした方伯は、さらなる教育と指導を受けさせるために、少年を自身の宮廷へ送るよう両親に求めた。両親は当初その申し出に難色を示したが、度重なるやり取りの末、1599年8月にハインリヒを方伯の居城があるカッセルへと連れて行った。

1672年11月6日ドレスデンで歿

3.経歴


1599年カッセル宮廷に仕え聖歌隊員として過ごし音楽を学んだ。後、シュッツはマールブルクで法学を学んだ。
1609年から1612年にかけてモーリッツ伯の奨学金を得てヴェネツィアに赴き、ジョヴァンニ・ガブリエリGiovanni Gabrieliに師事した。ガブリエリは、シュッツが生涯で唯一「師」と呼んだ人物である。彼はガブリエリの死の直前、その指輪を譲り受けている。
1613年から1615年までカッセル宮廷のオルガニストを務めた。
ヘッセン=カッセル方伯とザクセン選帝侯との間の長期にわたる交渉を経て、シュッツは1615年にドレスデンへ移り、ザクセン選帝侯の宮廷作曲家として活動を始めた。
1617年ドレスデン宮廷礼拝堂付き作曲家となった。
1619年、シュッツはマグダレーナ・ヴィルデックMagdalena Wildeck(1601年生)と結婚した。彼女は1625年に亡くなるまでに、1621年にアンナ・ユスティーナ、1623年にエウフロジーネという二人の娘をもうけた。
・シュッツはドレスデンにおいて、現在のシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)の礎を築いたが、同地を離れることも度々あった。
1628年には再びヴェネツィアへ赴き、そこでクラウディオ・モンテヴェルディと出会った可能性がある。
1633年には結婚式の祝賀音楽を作曲するためにコペンハーゲンへ招かれ、1635年にドレスデンへ戻った。その後、選帝侯の宮廷が荒廃していたこともあり、1641年には再び長期にわたってデンマークに滞在した。
1648年に三十年戦争が終結すると、彼は再びドレスデンで精力的に活動するようになった。娘エウフロジーネが亡くなった1655年には、ヴォルフェンビュッテルにおける楽長の職を名誉職として引き受けている。
・三十年戦争の最中、シュッツがドレスデンで手がけた作品は、時代の要請により、それ以前のしばしば大規模だった作品に比べて小規模なものとなったが、この時期には彼の最も魅力的な楽曲の数々が生み出された。戦後、シュッツは再び大規模な作品を執筆するようになり、その集大成として1660年代には、バッハ以前における最高傑作のシュッツ作曲の「ヨハネ受難曲」SWV 481を作曲した。
・シュッツは、懇願してようやく得た引退生活のため、妹と暮らすためにヴァイセンフェルスに戻った(その家は現在、彼の生涯を記念する博物館となっている)。しかし、選帝侯宮廷はしばしば彼をドレスデンに呼び戻した。
1672年、彼は87歳でドレスデンで脳卒中のため亡くなった。彼は旧ドレスデン聖母教会に埋葬されたが、1727年に教会が取り壊され、新しいドレスデン聖母教会が建設された際に、彼の墓も破壊された。同じ広場にあった彼の長年の住居は、同じ様式で再建され、現在はホテルとレストランを備えたアパートメントビルとなっている。
・彼の生徒には、Heinrich Albert, Christoph Bernhard, Anton Colander, Constantin Christian Dedekind, Carlo Farina, Johann Wilhelm Furchheim, Johann Kaspar Horn, Caspar Kittel, Christoph Kittel, Johann Klemm, Adam Krieger, Johann Jakob Loewe (or Löwe), Johann Nauwach, David Pohle, Philipp Stolle, Johann Theile, Clemens Thieme, Johann Vierdanck, Matthias Weckmann, Friedrich Werner, and Friedrich von Westhoff.Passions受難曲(according to Matthew, Luke, and Johnマタイ、ルカ、ヨハネによる)等がいる。

作品:
「Psalmen Davids (Psalms of David, Opus 2)ダヴィデの詩篇」(作品2)、「Cantiones sacrae (Opus 4)聖なる歌」(作品4)、3巻からなる「Symphoniae sacrae聖なるコンチェルト」、「Die sieben Worte Jesu Christi am Kreuz十字架上のイエス・キリストの七つの言葉」、three Passion settings3つの受難曲、そして「Christmas Storyクリスマス・ヒストリー」「Es steh Gott auf神よ、立ち上がりたまえ」SWV 356)、葬送音楽「Musikalische Exequien音楽的葬送」(1636年)、Passions受難曲(according to Matthew, Luke, and Johnマタイ、ルカ、ヨハネによる)等がある。
オラトリオ、宗教合唱曲、受難曲などを残した

2. その他


ヴェネツィア楽派の複合唱様式、コンチェルト様式、通奏低音書法をドイツにもたらしバッハに至るドイツ音楽の基礎を築いたといわれている

3. 初演

4. 関連動画


⬇ youtube「ヨハネ受難曲」SWV 481

⬇ youtube「Davids Psalmenダヴィデの詩篇」

⬇ youtube「Selig sind die Toten死者は幸いなり」

「Selig sind die Toten死者は幸いである」

「Die mit Tränen säen涙とともに種を蒔く者たち」

「 Die Himmel erzählen die Ehre Gottes天は神の栄光を物語っている」

「Symphoniae Sacrae I聖なる交響曲 I」

「Schwanengesang白鳥の歌」

「Musicalia ad chorum sacrum聖歌隊のための音楽」

「Davids Psalmenダビデの詩篇」