ナバラ王シャンパーニュ伯テオバルドⅠ世

1201年「ナバラ王シャンパーニュ伯/フランスの詩人・作曲家・トルバドゥール/シャンソニエ」
ナバラ王シャンパーニュ伯テオバルドⅠ世Teobaldo I de Navarra
・シャンパーニュ伯ティボーⅣ世(Thibaut IV)と呼ばれ、ナバラ国王としては「Ⅰ世」ナバラ王国の王位を継承した。ナバラ王国において「テオバルド」という名の国王は彼が初代であったため、テオバルド1世(Teobaldo I)と呼ばれた。
1201年5月30日フランスのオーブ県トロワで生まれた
1253年7月8日コロンビアのアンティオキア州サバナラルガのパンプローナに埋葬された。
「詩人王」テオバルドは、詩人および音楽家としての名声から「吟遊詩人」という愛称で知られていた。
1234-1253年初代ナバラ王に即位。
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フランスの宮廷で育ち、吟遊詩人
ティボーⅣ世はトルバドゥールとしても知られ、才能ある詩人であった。作詩が500以上、作曲が400以上あったとされ、詩は現在でも約60篇ほど残っており、中にはメロディーが伝えられているものもある。詩は恋愛に関するものが多く、騎士と田舎娘の恋物語や、宮廷での恋愛模様を描いたものもある。王太后ブランシュと恋に落ちていたと言われ、残した詩の多くはブランシュに宛てたものだと言われ、女性への思慕で苦しむ胸の内を書き連ね、詩で言及している「奥方」「あの方」はブランシュを指し示すとされている。十字軍歌と称される歌も多数制作、1239年の十字軍遠征前に作った歌は兵士を脅しで参加を促しつつも希望を鼓舞する内容だが、この世への失望を綴った歌も残し、アッコ滞在中に作ったと推定される十字軍歌は「奥方」への想いを伝える記述になっている。
詩人として成長したのは祖先も詩人だったからであり、アキテーヌ公ギヨーム9世は最初のトルバドゥールとされ、曾祖父母はフランス王ルイ7世とアリエノール・ダキテーヌ(ギヨーム9世の孫)で、2人の間に生まれた祖母マリー・ド・フランスは南フランス伝来の愛の文化を広めた。ティボーⅣ世は南仏の文化が漂うトロワの宮廷で育ち、戦争と恋愛の比較論を展開しながら詩を製作していき、クレティアン・ド・トロワ、ジャン・ド・ジョアンヴィル、リュトブフと並ぶトロワ出身の詩人として世に認められ、作品は本になって広まった。
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政治家としては評判が悪く、1220年代と1230年代の政争では王家と貴族の間を右往左往する姿勢から「臣下としては無節操、政治家としては無能で移り気」と厳しい非難を浴びている。反抗の理由は大諸侯連合を作り王家と対等の立場に立ちたいという野望を抱いていたからと推測されるが、自家が王家の支援無くしては成り立たないことも理解していたことから、最終的に王家についたと思われる。政治家と詩人それぞれの評価は落差が激しく前者は最低、後者は最高の評価を与えられているが、歴史の流れである王権の集中に抵抗して地方の大貴族の権威と宮廷文化を守ろうと戦ったとも解釈され、それが詩の魅力にも繋がると評される
シャンパーニュ伯ティボーⅢ世とナバラ王女ブランシュ(ブランカ、サンチョ6世の娘)の子として生まれる。生まれる前に父が他界したため、誕生とともに伯位を継承したが、21歳になるまでは母ブランシュが国を統治した。将来に不安を感じた母によりフランス王フィリップⅡ世が後見人になり、ティボーⅣ世はフランス宮廷で育てられた。
1209年と1213年に母とフィリップⅡ世との間で臣従儀礼(オマージュ)に関する約束と保証金支払いが2度交わされ(ティボー4世が21歳になるまで王への臣従は免除、ブランシュは保証金として1209年に1万5000リーブル、1213年に2万リーブルを王に支払う)、1214年以降は母の後見の下シャンパーニュを治めた。
シャンパーニュ家ことブロワ家は十字軍と関係が深い家系で、祖父のアンリ1世は十字軍に参加して帰国後の1181年に死去、伯父のアンリ2世は第3回十字軍参加者の1人でエルサレム王となり(1192年-1197年)、父も第4回十字軍に参加する予定だったが急死した。家臣にも十字軍関係者がおり、第4回十字軍の参加者ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン、第5回十字軍の指揮官ジャン・ド・ブリエンヌ、第7回十字軍の参加者ジャン・ド・ジョアンヴィルはシャンパーニュ伯領の出身または家臣である。
だが当初は2人の従姉、すなわちエルサレムで事故死した伯父アンリ2世の遺児たち、次女フィリパとその夫ラメール公エラールⅠ世との家督争いに悩まされた。この抗争は1216年初頭からティボー4世が成人する1222年まで続き、当時のシャンパーニュ家に対する領主層の反乱や王家・カペー朝とホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対抗するヴェルフ家の対立関係も絡んでいた。
ブランシュ・ティボーⅣ世母子にはフィリップⅡ世とローマ教皇ホノリウスⅢ世が味方していたため抗争を有利に進め、エラール夫妻は1221年にシャンパーニュに関する権利を放棄、ブランシュ母子はエラール夫妻から没収した領土を返還し年金を提供することで和睦、争いはようやく治まった。
1234年にはフィリパの姉であるキプロス王ユーグ1世妃アリスにも領土と現金4万リーブルを提供して継承権を放棄させたが、この時現金が無かったため4万リーブルと引き換えにブロワ・シャルトル・サンセール・シャトーダンをフランス王ルイ9世(フィリップⅡ世の孫)に売却した。また、伯父や父の十字軍遠征によりシャンパーニュ家はすでに莫大な借金を抱えており、この点でも苦労することになった。
1227年末、ルイ9世の叔父フィリップ・ユルプルが不満分子を集めて王を誘拐する企てに加担したが、誘拐が失敗してフィリップらが蜂起すると、ティボーⅣ世は討伐に向かい自ら軍を率いたブランシュに降伏、反乱鎮圧に加わった。以後2人は親密になるが、これが人々の疑惑を掻き立て、反王党派の詩人ユエ・ド・ラ・フェルテが頻繁に2人を中傷したシャンソンを町中で歌い、ティボーⅣ世がブランシュの愛人となり国事へ介入しているという噂を流した。2人の関係は不明だが、歴史家ジャック・ル・ゴフは中傷だと結論付けている。
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テオバルドが生まれた時、彼の父親であるティボーⅢ世・ド・シャンパーニュ伯爵は22歳、母親のプリンセサ・ブランシュ・ド・ナヴァーラは24歳であった。
1220年5月ティボーⅣ世は、ティボー1世の未亡人フランスのシャンパーニュ、ゲルトルート・フォン・エギスハイム=ダグスブルク・「ド・ダド」伯爵夫人と結婚したが、フリードリヒⅡ世の許可を得ていなかったため不興を買い、1222年に教会から近親婚を理由に婚姻を無効にされ、1223年にアニェス・ド・ボジューと再婚した。

作品
作詩が500以上、作曲が400以上あったとされ、詩は現在でも約60篇ほど残っており、中にはメロディーが伝えられているものもある。
[十字軍の歌Canto de Cruzada]

[領主諸君、金は決して消え去らないことを知れ]

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