トンマーゾ・ジョルダーニ

生没年・出身地・歿地・墓地
トンマーゾ・ジョルダーニ生誕 Tommaso Giordani

(1730か1733年頃イタリア、ナポリ生)
(1806年2月23日アイルランド、ダブリンで歿)

目次(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)

1.職業

イタリア出身でイギリスで活躍したオペラ作曲家

2.称号

3.経歴

父のドメニコ・ジョルダーニは家族と雇った歌手で巡業する小さなオペラ一座の経営者であったようだ。母はアンナ・マリア・トサト。一座には姉妹のマリア・アントニアとマリア・ニコリーナ、兄弟のトマスとフランチェスコが加わっている、1751年生まれの弟ジュゼッペ・ジョルダーニは後にオペラ作曲家として知られるフェルモ大聖堂の楽長
1745年父の一座とアンコーナーとペザロで公演
1747年セニガリアで公演
1748年グラーツで公演
1750年ザルツブルクとフランクフルトで公演
1752年アムステルダムで公演
1753~54年のシーズンにジョン・リッチに招かれロンドンに父の一座は渡りコヴェント・ガーデンで上演し家族は舞台で活躍、トンマーゾはオーケストラとハープシコードを演奏し公演は成功している。一座はコヴェント・ガーデンに3年間過ごす
1756年最初のオペラを作曲
1764年ダブリンのスモック・アリー劇場からの招きを受け音楽監督に就任ロンドンとダブリンで活動を行う
その後3年間オペラを上演し1766年アイルランドでは初のオペラ・セリエ”L’eroe cinese”を共同制作する
1762年ヘイマーケットのキングス劇場で歌手として出演
1764年ダブリンに住む
1767年ロンドンに戻り2月25日コヴェント・ガーデンで”Phyllis at court”を初演するが盗作の罪の理由でロンドンを離れる
1768年ヘイマーケットのキングズ劇場で指揮者と台本作家を雇っている
1770年初期はロイヤル劇場でイタリアン・オペラを中心に活動。そして作曲のほかに音楽監督、喜劇の為の舞台音楽等の作曲をしている。
1781年ロンドンに戻った頃はアイルランドの首都では一流の音楽家として認められている
1783年の夏ダブリンに戻り歌手のマイケル・レオーニがカペル通りに劇場を借りてアイルランドの作家や音楽家の作る英語の作品を演じるイングリッシュ・オペラハウス会社を設立の
際に株式を出資。レオーニと一緒に一連のコンサートに出演。また12月18日に始まったシーズンには7つの演劇の為の音楽を作曲し成功したにもかかわらず費用がかさみ1784年7月に倒産
1784年テイト・ウィルキンソンの娘と結婚。
1785年スモック・アレー劇場に戻り1787年閉鎖されるとクロウ通りのロイヤル劇場に移り1788年音楽監督就任。

4.主な作品

歌曲「カロ・ミオ・ベン」
オペラ、管弦楽曲、チェンバロ、フォルテピアノの協奏曲やソナタ、室内楽曲オラトリオ、歌曲やソナタを残している

5.その他

門下にはレディー・モルガン、トーマス・シンプソン等々
ノクターンの創始者として知られている

6.初演

7.関連動画


Harpsichord Concerto in C
 


Op. 3 / Concerto for flute, 2 violins & b.c. in C major
 


Quartets & Quintets, L’Astree
 


“Caro mio ben” Montserrat Caballe
 


“Caro mio ben” Angela Gheorghiu
 


“Caro mio ben” Lucia Popp
 


“Caro mio ben” Luciano Pavarotti
 

参考文献:「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 「wikipedia」 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 「robortkelloyphd.com」 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「maokato.jp/bihoro/bihoro 「homepage3.nifty.com/cio/a-alta」 「www.wagnerdailas.com」