小澤征爾物語‐その他

9.その他Others


➀ 1963年音楽評論家の秋山邦晴は自著「現代音楽をどう聴くか」の「小澤征爾(当時28歳/編者)」の項のなかで次のように述べ、将来を予言した。
『指揮者というものは、いわばアル・カポネの条件をそなえていなければならない。こう定義したのは芥川也寸志である。指揮者は直接に手をくだして音を発することはしない。けれどもその配下にある組織には絶対の力をもっている。そしてかれの大胆にして細心の計画を、命令一下、忠実に実行させる絶大なる腕力と尊敬をかねそなえていることが必要である。これはつまり、かの有名なギャング団のボス的存在であったアル・カポネとおなじだというのである。この論法でいけば、さしずめ小澤征爾はカポネにどれほど近づいたかを書くのが、ここでぼくにあたえられている役割ということになるわけだ。しかし小澤にはおよそそのような親分的な風貌や性格が感じられない。むしろ組織のなかのボス的存在とは逆の魅力がつよい。それはあくまでかれの個人的な魅力といえるものだ。・・ぼくが初めて小澤征爾の指揮を<聴いた>のは、たしか1958年(小澤征爾23歳/編者))、かれが桐朋学園のオーケストラを振った卒業演奏だった。ヨハン・シュトラウスのワルツを指揮したのだが、ぼくはたいへん興味深く感じたのをおぼえている。だいたい型やぶりなのだ。指揮者の卵の演奏には、たいてい大指揮者のレコード演奏の下敷きがどこかに感じられるものだ。ところが小澤の演奏には、それがまったく見当たらない。それもウィンナ・ワルツとなれば、その抑揚の独特のとり方に難しさがあり、それを表現するためにはレコードで勉強するだろう。しかし小澤はそんな型にとらわれず、リズムのてきぱきとした、熱っぽいかれのウィンナ・ワルツを情熱的に演奏した。それはぼくにはたいへんおもしろかったのである。いわばそれはかれの音楽家としての個人的な魅力をはじめてしらされた<表現>であった。その演奏会の帰り道、ぼくは友人の数人の批評家たちにその魅力を論つづけたのをおぼえている。それならば、小澤は他人の表現や個性的なスタイルにまったく無関心かといえば、そうではない。ひといちばいの勉強家なのである。略・・1959年(小澤征爾24歳/編者))の秋のことだった。当時ベルリンにいたぼくは、ひょっこりやってきたかれと一ヶ月ほど同宿することになった。折からベルリン芸術祭が開催中で、世界の名演奏家やオーケストラ、合唱団が連日演奏をくりひろげていた。小澤はまったくまめによく通った。おまけにスコアを買っては各指揮者の表現を細部にわたって研究していた。それが老指揮者であろうと、若手であろうとおなじように究明しつくしながら、あれはいい、あそこはこうあるべきではないかと、ぼくに向かって質問し批評した。ぼくより五つ六つ年下のこの青年が、なかなか適確な批評をもっていることを知らされたものである。そしてなんて無駄のない男だ、とぼくは関心させられもした。ともかく一時間だって無意味にすごさないのだ。楽譜を調べる。演奏会の練習にもぐりこむ。自分に必要とあらば少々強引なまでにおしかけていって、事務的あるいは政治的な交渉を実行する。昨年のあの事件は、棒の振り間違いなどという問題で、小澤がいかにも未熟な青年指揮者だといった印象を悪意的にひろがらせた。しかしかれの指揮棒の技巧はなかな適確なものである。たとえば現代の巨大な、モニュメンタルな壁画といったメシアンの《トゥーランガリラ交響曲》を、昨夏ふったあの名演。複雑に交錯し変化するリズムと音色の饗宴といえるあの難曲を、あれほど適確な把握で、熱っぽくもりあげていったかれの表現。それはかれの指揮棒の技巧の適確さと、多彩な才能を証明してあまりあるものだったとおもう。そこにかれの特徴もはっきりとあらわれていた。かれの表現はリズムとテンポの新鮮さにある。うんとゆったりした表現のなかにも、けっしてだらだらした感覚がない。それに色彩感と抒情性といったものが、明るくブリリアントにうきあがってくる。以下略・・それを裏書きするように、最近のかれの海外演奏についてのいろんな批評は、オザワはロシア音楽やドイツ音楽に若い指揮者とはおもえぬすばらしい表現をみせたと論じている。以下略・・このすぐれた若手指揮者は、こうして大胆にして細心の”かれ”の計画を着々と実行しているのだ。カポネの肖像はすててしまってもかまわない。そのかわり小澤征爾の内部の立派な肖像を段々大きくしていくことだ、そのときさまざまなわが国の雑音がきこえなくなるはずだ。そしてわが国にはユニークな”指揮者”という存在がはっきりと浮かびあがってくることだろう。(1963年)』
引用:秋山邦晴著、「現代音楽をどう聴くか」、発行晶文社、刊行1973年、177-182頁

➁ ベルリン・フィル関係ニュース/アーティスト・インタビュー
小澤征爾
聞き手:ファーガス・マクウィリアム(ベルリン・フィル、ホルン奏者)
 今号では、5月にメンデルスゾーンの《エリア》で客演した小澤征爾のインタビューをご紹介します。この演奏会は、ベルリンにおける小澤の公演のなかでも特筆すべき出来栄えでしたが、それはベルリン・フィルとの長い友好関係がもたらした成果でしょう。ベテラン団員ファーガス・マクウィリアムによる親愛に満ちた受け答えも、絆の深さを象徴しています(マクウィリアムが心からの愛情をもって接しているので、ぜひ映像をご覧ください)。
マクウィリアム 「セイジ、ちょっと握手させてください」
小澤「ああファーガス、もちろんですよ」
マクウィリアム 「というのは、私たちが一緒に演奏し始めて40年になることに、2年前気がつきましたよね。すごい年月です。40年前、あなたはトロントで指揮されていました。その時私はほんの子供でしたが、あなたの指揮でデビューしたのです(注:マクウィリアムは1967年、15歳の時にトロント交響楽団でソリストとして初舞台を踏んでいる)」
小澤 「あなたは、どうしてトロントにいたんですか」
マクウィリアム 「家族がスコットランドからカナダに移住したのです。トロントで音楽学校に行きまして、ホルンを勉強したのです。今はもう随分長い間ヨーロッパにいるわけですけれども」
小澤 「なるほど」
マクウィリアム 「あなたは今、ベルリン・フィルと共演する音楽家のなかでも、最も関係が長い指揮者のひとりです。ご健康でいてくださり、こうして共演を続けられていられることに、心から感謝しています。42年前にベルリン・フィルを初めて指揮された時、あなたは…」
小澤 「カラヤン先生の弟子でした」
マクウィリアム 「しかしその前に、日本の先生にもついていらっしゃったんですよね」
小澤 「齋藤秀雄先生です」
マクウィリアム 「齋藤氏の名前は、サイトウ・キネン・オーケストラのおかげで欧米でも有名になりました」
小澤 「キネンというのは、メモリアルという意味です。でもメモリアルという英語はちょっと暗い感じがしますよね。ですから“記念”という日本語を使うことにしたのです。“記念”は日本語では暗い感じがしませんし」
マクウィリアム 「キネンと呼ぶ方が、ポジティヴなイメージがあるのですね。齋藤氏は、あなたにとって非常に重要な方のようですが、一体どんなことを教えたのでしょう」
小澤 「日本には当時、クラシック音楽の伝統がありませんでした。齋藤先生はチェリストとしてドイツにやって来て、エマヌエル・フォイアーマンのもとで勉強したのです。フォイアーマンの方が齋藤先生よりも少し若かったのですが……。これはずっと後のことですけれども、私がボストン交響楽団とカーネギー・ホールに客演した時に、ニューヨークにお住いのフォイアーマン夫人が私を訪ねてきたのです。そして齋藤先生のことを語られました」
マクウィリアム 「彼は、様々な人々に強い印象を与えたのですね」
小澤 「齋藤先生は、クラシックの伝統がないアジアの音楽学生に必要なことを、たいへんよく理解していました。彼はパリ音楽院からソルフェージュと聴音の先生を2人招聘し、日本で教えさせたのです。そして非常に理論的な教育法を行いました。彼はどのようにスコアを読むべきかを、完璧にマスターしていたのです。本当に隅々までディティールを読み、知的に解釈していました。しかしレッスンそのものは、アカデミックに硬直したものではありませんでした。感情表現としてのフレージングを重視し、きわめてエスプレッシーヴォ。フレーズがどこからやってきて、どこへ流れて行くのかを、エモーショナルに示したのです。細部の解析と感情的な表現の両方を教えることが、齋藤先生の最も素晴らしい点でした」
マクウィリアム 「当時の日本では、西洋のクラシック音楽はほとんど知られていなかったのですね」
小澤 「ほんの少しのロシア人音楽家、ヨーロッパのユダヤ人音楽家が来たのみで、聴く機会はあまりありませんでした」
マクウィリアム 「素晴らしい先生に出会われたわけですが、あなた自身は、どのようにクラシックに目覚めたのでしょう」
小澤 「子供の頃、私の兄がピアノのレッスンを受け、作曲の勉強をしていました。しかし私自身もピアノが大好きで、ずっと弾いていたのです。しかしオーケストラのスコアや室内楽には関心がありませんでした。少年時代はラグビーもやっていたのですが、ご存知のようにラグビーは荒っぽいですよね。それで2本指を折ってしまい、ピアノが弾けなくなったのです。当時ピアノを習っていたのは、豊増昇先生というバッハの権威だったのですが、この方が突然“君はどうして指揮をやらないの?”と言いました。当時日本で指揮をしていたのはヨーロッパ人、アメリカ人、ロシア人で、日本人は齋藤先生を含めて少ししかいませんでした。そうして私は、14歳で生まれて初めてオーケストラを聴きに行ったのです。演奏したのは、レオニード・クロイツァー。彼はナチスに追われて日本に来ていたのですが、指揮をしながらベートーヴェンの《皇帝》を弾きました。それは私にとって、決定的な瞬間でした。それ以来、スコアを読み、指揮の勉強をするようになったのです。齋藤先生にも教えていただくようになったのですが、先生は当時、指揮の学生をほとんど取っていませんでした。しかし幸運にも弟子の1人に加えていただき、ほとんど毎週末、先生のもとで勉強していました」
マクウィリアム 「彼はあなたを大事にして、集中して教えたのですね」
小澤 「本当に幸運でした。本当に……。その後ベルリンに来て、カラヤン先生にも教えていただきました。これも少数の学生だけだったと思います。ヴィリー・ブラントがベルリン市長だったのですが、あれはカラヤンとブラントのアイデアだったのでしょう」
マクウィリアム 「若い指揮者のワークショップとコンクールのことですね」
小澤 「そうです」
マクウィリアム 「それ以来40年以上にわたってご一緒してきましたが、あなたはカラヤン時代以来、今や我々の伝統の一部となっています。もちろんメンバーは相当変わりましたけれど(笑)」
小澤 「カラヤン時代の伝統は、今でも立派に受け継がれていると思いますよ。素晴らしいです。デビュー当時のことに戻ると、私はカラヤン先生がどうしてあんなに私に目をかけてくれたのか不思議なのです。彼が私をベルリン・フィルに招待してくれた時は、わぁーという感じで気が動転しました」
マクウィリアム 「その感覚は私も知っています(笑)」
小澤 「普通客演指揮者がプログラムを作る時は、オーケストラのマネージメントと話をするものですよね。しかしこの時は、カラヤン先生自身が“お前のプログラムは私が作る”と言ってくれたのです。それでザルツブルクやベルリンに電話して決めました。でも、彼の英語はゴニョゴニョしていて聴き取りにくいでしょう」
マクウィリアム 「ここだけの話ですが、ドイツ語の時もそうですよ(笑)」
小澤 「ああ、そうなんですか(爆笑)。それで何度も聞き返してひどい電話だったんだけれども、彼は多くの新しい曲をやるように求めました。今回演奏する《エリア》も、そのひとつだったと思います。例えばバルトークの《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》もそう。それで私は一生懸命勉強して、ベルリンにやってきたのです」

2016年4月8日 小澤征爾 with ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
<お気に入りの生徒が帰ってきた>
小澤征爾は半世紀にわたってベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の最も人気のある客演指揮者の一人である。最近病気のため多くのキャンセルを余儀なくされていた80歳の彼の復帰コンサートは嬉しい驚きだ。
昨年80歳の誕生日を迎えた小澤征爾は最近、健康上の理由から多くのコンサートをキャンセルしなければならなかった。これは、この日本人指揮者が1966年のデビュー以来、密接な関係を築いてきたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にも当てはまります。小沢氏が久しぶりに代役を務め、その間に若手が代役を務めていたことが知られると、驚きはさらに大きかった。ズービン・メータ氏の代わりに小沢氏が再びベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、その管楽器奏者が初めてモーツァルトの曲を演奏したのである。 「グラン・パルティータ」は指揮者の指導なしで独奏的に演奏されました。稀に演奏される「合唱幻想曲」を含む、ベートーベンの印象的な 2 つの作品で、才能豊かなミュージカル俳優小沢の演壇での演奏を聴くことができます。
小澤氏が単なる客演指揮者以上の存在であるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にとって、これは特別な瞬間である。1935年に現在の中国で生まれたこの音楽家は、ヘルベルト・フォン・カラヤンに師事し、カラヤンの「愛弟子」とみなされ、カラヤンの死後は音楽後継者の役割に成長したが、もちろんカラヤンの演奏家には選ばれなかった。後任: 1989 年にクラウディオ アバドが任命されました。小澤はカラヤンと関わりがあった一方で、独立した立場を保っていた。何十年もほとんど飼い慣らされていないヒッピーのたてがみをした快活な男は、非常に特異な指揮者であり、彼のもう一人の教師はカラヤンの対極であるレナード・バーンスタインだった。
小澤:緻密で高尚な演奏をする人。壮大な作品を好む指揮者で、クラシックのレパートリーに夢遊病のような自信を持ち、パウル・ヒンデミットのオーケストラ作品のような新しくて(今日では)遠いものに対する多大な情熱を持っています。ミュージカル・ベルリンは、同世代最後のグランドマスターの一人に再会することを楽しみにしている。
ベルリン・フィルハーモニーからのライブ
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
管楽器のためのセレナード ロ長調 KV 361「グラン・パルティータ」
午後8時55分頃、コンサート休憩
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの悲劇「エグモント」序曲作品84
合唱、ピアノとオーケストラのための幻想曲 ハ短調 作品80
ペーター・ゼルキン(ピアノ)
ベルリン国立歌劇場
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:小澤征爾(ベートーヴェン)
出典:https://www.deutschlandfunkkultur.de/seiji-ozawa-bei-den-berliner-philharmonikern-der-100.html

➂ 「NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち」

NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち