小澤征爾物語シリーズ‐4‐ 1941-47年

小澤征爾物語 シリーズ-4. 1941-1947
小学生時代~

1941年(昭和16年)6歳 幼稚園
『日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。
船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。』
立川市柴崎町三丁目の貸家に住む。
自宅の前にあった若草幼稚園入園。

1942年(昭和17年)7歳(9月1日になると) 小学一年
・立川国民学校入学。
・長兄からアコーディオンの手ほどきを受け、小学校4年頃には習得している。
・柴崎町三丁目に家を買い移った。
『柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。』

1943年(昭18年)8歳 小学二年
やがて、開作は関東軍により満州国退去勧告を受け帰国。帰国後は軍需大臣遠藤三郎の招きで軍需省顧問等を務め終戦を迎える。戦後は極東国際軍事裁判の弁護側証人として出廷し板垣征四郎の証人に立つ。その後はいろいろな仕事に手を出し、川崎の宮川病院に務め、歯科医院を開業した

・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』

参考文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15

1943年(昭18年)8歳 小学二年
やがて、父開作は関東軍により満州国退去勧告を受 け帰国した。
帰国後は軍需大臣遠藤三郎の招きで軍需省顧問等を務め終戦を迎える。戦後は極東国際軍事裁判の弁護側証人として出廷し板垣征四郎の証人に立つ。その後はいろいろな仕事に手を出し、川崎の宮川病院に務め、歯科医院を開業した

1944年(昭19年)9歳 小学三年
『だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』

1944年(昭和19年) 9歳 小学三年
『だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』

1945年昭和20年10歳 小学四年
『だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。
ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。』
『8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」。
敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。
おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学4年生の夏のことだ。』
・『戦時中、上の克己兄貴からアコーディオン教わっ
ていた僕は、だんだん物足りなくなった。
小学生の 担任の青木キヨ先生はピアノができる人
で、ある日講堂で弾いているときに”触ってもいい
よ”と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触
れたのはその時だ。小学校四年の終わりごろだっ
た。』
・克己兄が音楽の先生にピアノを習い始めていた。
府 立二中(現都立立川高校)に通っていたころで、特別に二中のピアノを使わせてもらい、バイエル教則本で最初の手ほどきをしたのは克己アニメーションからであった。

1946年(昭和21年)11歳 小学五年
4月頃長兄の通う府立二中の許しを得て、音楽室のピ
アノのを特別に使わせてもらい克己兄からレッスン
を受け続けた。
兄たちが"征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいから家にもピアノが一台あるといいねと話し合っているのを、父開作が聞いた。征爾にピアノを手に入れて本格的にやらせようと小澤家は決めた。
・開作は方々伝手を頼ってピアノを探した。静叔父の妻英子の横浜の実家にあるアップライトピアンを三千円で譲ってもらえることになる。開作は北京で買った愛用のライカを売って工面した。兄たちがリヤカーを借りて運ぶのを開作も途中から手伝う、三日かけて横浜から立川の家まで運んだのだった。途中農家に一晩ピアノを預けたり、親戚の家に泊めて貰ったりの道中だったようだ。
・柴崎小学校の五年生の学芸会でベートーヴェン《エリーゼのために》を弾いて初めて人前での演奏だった。
・この頃征爾は小学校野球部のエースピッチャーとして活躍していた。上井草球場で東京都大会にも出場した。
・このとき兄からピアノの手ほどきを受けたのが後に征爾に音楽家として大事な縁となった。その頃、二中の大和先生からピアノを教わる。

1947年(昭和22年)12歳 小学六年
・小学校五年、卒業式で送辞を読む。
・父開作はミシン会社製造の白百合ミシン会社を小田原に設立し経営をはじめる。
『おやじは歯医者に戻ればいいものを「長いことやってないからもう忘れた」と言って、商売を始めてはことごとく失敗した。僕が小学校6年生の時にはミシン製造の会社を始めるというので、立川の家を売り払い、小田原の近くの神奈川県足柄上郡金田村へ移る。わらぶき屋根の古い農家に住み、おふくろが慣れない百姓仕事で米を作って育ち盛りの4人の息子を食わせた。』
征爾は家から細道を少し行くと流れの急な小川があらり、夏は泳いで遊んだ。
4月金田村小学校6年に転入学した。田んぼの中を30分ぐらい歩くと金田小学校があった。
征爾は担任の先生に、音楽の授業でオルガン弾きを任されるようになる。
金田小学校の間、小田原市内の石黒先生にピアノのレッスンを受けた
兄たちの所属する小田原の合唱団「シグナス」に征爾も時々ピアノ伴奏にかり出されていた

・2000年8月長野県奥志賀高原で大江健三郎は、『小澤さんが西洋の音楽を学び始めた、そしてそれを外国に向かって出していった、そもそものきっかけは、どういうことでしたか』。小澤征爾はこう答えた、『おふくろはキリスト教徒なもんで、教会で賛美歌をうたう。子供たちを日曜学校に無理やり連れてって、そのうちに僕たちはだんだん面白くなってその日曜学校が大好きになった。男の子四人だったものですから、当然四人で賛美歌をうたう。だから音楽の最初はまったく賛美歌です。おふくろや日曜学校で教わった賛美歌。亡くなった一番上の兄貴はすごい音楽的才能のある男で、音楽を本気になって勉強し始めた。本当に物がないときで、ピアノもありませんから、ハーモニカとかアコーディオンとか、いまから思うと木琴のようなもので、名前忘れちゃったんだけど、鉄でできている楽器で叩くと音が出るわけですね(多分=鉄琴のこと編者)。一番手近にあったのがアコーディオンで、それが僕にとっては最初の音楽です。教会へ行ってオルガンを聴いて、下の兄弟三人の中で一番のめり込んでいったのが僕で、結局、長男と三男の僕が最後まで音楽を続けた』

参考文献:小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて』、中央公論新社、2001年、P14~15