小澤征爾物語シリーズ‐8‐1958-59年

小澤征爾物語‐8-1958年-1959年

1958年(昭和33年)23歳 

・桐朋学園オーケストラがブリュッセルの万博博覧会青少年音楽コンクール参加する話が持ち上がったが、これは資金不足で断念する羽目になった。
その時、征爾は堅い決意をした。
私費留学
オーケストラの参加がだめならせめて自分一人だけでもヨーロッパに行こうと。その頃から単身渡欧することを計画していた。
多少の金さえ持っていれば、あとはスクーターでも宣伝しながら行けば、自分一人ぐらいの資金は捻出できるのではないかと思うようになった。
・「フランス政府給費留学生」の試験を受けた。
征爾と桐朋オーケストラのフルートで征爾の弟分の加藤怒彦が最終審査に残った。結局、語学ができて優秀な加藤が受かりパリ国立音楽院に留学が決まった。征爾が不合格となった。
・桐朋恒例の北軽井沢での夏合宿の後、征爾は軽井沢駅待合室で成城の同級生水野ルミ子にばったり会った。『征爾、何落ち込んだ顔してるの』という。征爾は外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明した。
ルミ子は『うちの父に話してみる?』という。ルミ子の父は水野成夫氏で文化放送やフジテレビの社長だった。その足でルミ子の別荘へ行き、水野に会う。
顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めてだった。
征爾の話を聞いて『本気なんだな?』と征爾に念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。
向かった先で重役の友田信氏が資金を用意してくれたが、確か50万円だった。
桐朋の同期江戸京子の父で三井不動産社長江戸英雄氏にも随分と助けられた。
征爾の父が川崎で歯医者を始め家を建てたから桐朋に通うのが大変だった。江戸はそれを知り、下落合の自宅に征爾を寝泊りできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。
桐朋の音楽科は江戸や生江義男先生たちと協力して設立したのだった。その江戸氏が話をつけて、日興証券会長の遠山元一氏からも資金を援助してもらえた。

1959年(昭和34年)24歳 フランスへ出航
・正月、成城時代の合唱の仲間と信州野沢へスキーに行き四日目に崖から墜落して腰を打ってしまった。その晩から高い熱を出し大変な目にあったがわが家に着くころにはなおっていた。
・家に帰ると前から方々に頼んであったヨーロッパ行きのチャンスが来ていた。江戸氏の手配でフランス行きの貨物船に安く載せてくれるという話だった。
征爾はフランスではスクーターで移動することを思いつき、江戸氏の家によく出入りしていた後の彫刻家藤江隆氏と毎日新聞記者木村氏と手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はなかった。結局、父の満洲時代の同志で富士重工業の松尾清秀氏がラビットジュニアスクーター125㏄新型スクーターを用意してくれた。
・富士重工の工場でスクーターの分解法や修理法を習った。

<神戸から貨物船淡路山丸でフランスへ出立>
・出航は2月1日に決まった。スクーターは横浜で貨物船に預け、神戸から乗船することにした。
・出発の前日、家族で水入らずの送別会をやってくれ、父は大まじめな顔で「水杯だ」と言い、二人で酒を飲み交わした。
・出発の夜、東京駅に大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんな、成城のラクビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。その時、夜のホームの向こうから斉藤秀雄先生がトボトボ歩いてきて、コートのポケットから『これ、使えよ』と分厚い封筒を出してきた。あとで確かめたら1000ドルちかく入っていた。征爾には何より来てくれたことが有難く感じた。俊夫兄と三等寝台にに乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
2月1日、三井船舶の貨物船「淡路丸」の甲板にスクーターを縛りつけ、ギターとともに神戸港から乗船し出港、マルセーユに向かった。見送りは明石にいる友人とその母、仙台から来た兄貴の三人だった。ヨーロッパに着くまで約二ヶ月、六十三日かかる気の長い旅の出発であった。
マニラ-シンガポール-ボンペイ- ポートスーダン-アレキサンドリア-メッシ-マルセイユ
神戸を発って四日目フィリピン諸島の港を回った。
✳<征爾がマニラから投函した船旅の手紙>
・『~略~一日の生活をザッと書く。六時に起床し体操。出港後ひまなときに教えてもらったコンパスを使って船の位置を確かめる。八時食事、トースト、ハムエッグ、コーヒー、果物。10時ごろからフランス語やスクーターの勉強。昼食はフルコースの洋食だ、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、パン、コーヒー、ミルク、アイスクリーム、果物、これだけは必ず出る。昼食後はサロンでお喋り、それから昼寝。三時ごろからマラソン、縄跳び、ゴルフだ。夕方はたいてい機関室か通信室かブリッジで専門的「船学」の個人教授を受ける。五時夕食、今度は日本食だ初めのうちはメシ、メシ、メシで困ったが、だいぶ慣れてきた。夜はレコードを聴いたり、甲板の上を散歩したり、お喋りしたりする。ヴァイオリンやコーラスを教えることもある。寝る前には必ず風呂に入り、九時と十時の間にはベッドに入る。ボーイは何でも好きな物を食わしてくれるしビールもただだ。マニラに着いたとき寒暖計を見たら三十八度あるのに驚いた。暑いはずだ。夕焼けはすごい。見ているこっちの顔にまで反映してくる。戦争で死んだ人のことを思うと胸が痛くなってくる。この辺は激戦地だったそうだ。』
・シンガポールに三日停泊。

✳<ボンベイからの手紙>
2月28日インドのボンベイに入港。ボンベイからの手紙『ボンベイに入港したよ。みんな元気?。今夜演奏会がある。会場のTAJホテルに行き、「ヤァー」といって、いつものように正面入口から堂々とロハ入場した。向こうは少しもいぶかしそうな顔をしなかったぜ。街を行くのはタクシーに乗るのが定石らしいが、ボクはわざと電車とバスで街をひと回りした。その方がその国の生活ぶりがわかっておもしろい、値段も七円ぐらいでまことに安い。』。

3月10日アフリカのポートスーダンに寄港した。
✳『ぼくは街をゆっくり散歩し、そのたびに英語はうまくなるし、物知りにもなる』。スエズでは上陸できなかった。
3月12日アレキサンドリア港。手紙を書き投函。
✳『みんな元気?おやじさんは相変わらず忙しいでしょう?。~略~船の風呂は海水に湯気(多分蒸気)を吹きこんで沸かすのだが、五分くらいで沸く。毎日海水をとりかえるから、ボクは太平洋、インド洋、紅海、地中海の風呂に入ったわけだ。~略~スクーターの勉強も進んだが、英語のほうもなかなか捨てたものではない。フランス語は単語カードを作った。ボクの部屋は皆の溜まり場になっている。夜になるとアミダクジを引き、ビールを飲む。もっともボクはビールも菓子も、つまみも、ブドー酒もクリーニング代もただだ。ただでないのは手紙代くらいだよ。マルセイユで日本円をフランに換えてもらえるように、船長が特別に手配してくれた。以下略。』

3月15日次はイタリアの南端、シシリー島のメッシへ港。
<フランス マルセイユに着、パリへ向かう>
3月23日マルセイユ港で上陸し通関。
三か月間は旅行者扱いで日本の免許証が使えた。

3月26日スクーターでパリを目指す。まずマルセイユからからヴァランスへ向かった。
『途中の道は「フランスの庭」というだけあり美しい。古い農家の後ろにはアルプスが見え、空が高くまで澄んでいる。ヴァランスのユースホステルは一泊七十円から百円くらい、飯は普通食なら八十円くらいだが、ちょっとおごって百五十円から二百円くらいする。もっともレストランに行けば五百円から六百円はかかる。ホステルでみんなにピアノを聞かせたら大いに喜ばれた。希望曲がほとんどアメリカのジャズなのは意外だった』。
4月8日パリ着。その日はホテルに泊まった。途中はほとんど野宿だった。パリで桐朋学園大学短期同期の江戸京子等に会う。

6月<ブザンソン国際指揮者コンクール締切日間に合わず>
江戸京子からブザンソンで国際指揮者コンクールが行われると知らされた。
・「棒ふりコンクール」、征爾のヨーロッパへ来た目的は棒ふりの修行であった。『そりゃ一発やってみたいけど、どんなふうになっているのかな』『私の通っているパリ国立音楽院の玄関に、たしかコンクールのポスターが貼ってあったわ』江戸京子に連れられパリ国立音楽院に征爾は行った。
おぼつかないフランス語では征爾には分らない。ポスターの内容を江戸京子に通訳してもらうと征爾にも資格があった。
・半年も指揮していなかった征爾は、指揮をしたくてたまらなかった。わずかな申込金でコンクールを受けることができる。
・フランスのナマのオーケストラを一回でも指揮することができれば、それだけでも十分意義があると征爾は考えた。そう思って応募することに決めた。
ところが手続きの不備で締切日に間に合わなかった。
・このままあきらめる気もしなかった。征爾は最後の綱とばかり日本大使館に駆け込んだが、思わしくない。
まだ諦めることはできず、征爾が友人から聞いていたアメリカ大使館の音楽部のことを思い出しコンコルド広場の近くにあるアメリカ大使館を訪れた。
・そこには昔ニューヨークの弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンを弾いていたというマダム・ド・カッサ女史が座っていた。
征爾は今までの事情を説明した。そして『日本へ帰る前に一つの経験としてブザンソンのコンクールを受けたいのだが、今からなんとか便宜をはかってもらえないだろうか』と頼み込んだ。
<あなたはいい指揮者か?>
・するとカッサ女史は『あなたはいい指揮者か?』と聞く。征爾はデカい声で『自分はいい指揮者になるだろう』と答えた。
カッサ女史はゲラゲラ笑いだし、すぐに長距離電話でブザンソン国際音楽事務所を呼び出して、『遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやってほしい』と頼んでくれた。
向こうの返事は『今すぐは決められないから二週間ほど待ってくれ』だった。
カッサ女史は『コンクールを受けると決まった時に慌てるといけないから、その間にスコアを買って読んでおいた方がよい』と親切に言ってくれた。
このころ征爾は少し栄養失調気味になっていた。長い旅行とパリでの安メシ屋がよいが原因だ。何をやっても体がフラフラする。血が上がったり下がったりした。エレベーターが一番苦手になっていた。
・コンクールの日に一番良いコンディションに持っていかなければならないのに弱ったなと思うようになっていた。
そんな時,見るに見かねた堂本印象氏の甥の堂本尚郎画伯が風光明媚な南仏のニースへ招待してくれた。征爾は喜んで飛びつき体力作りがてらスコアを抱えて行った。体力作りに夢中なあまり、直射日光を浴びすぎ、日射病になるという不覚を取ってしまった。それからはもっぱら半病人のようにニースの山の上で過ごしていた。
・パリのアメリカ大使館から速達が来てコンクール受験の資格を取れることが正式に決まったと言ってきた。
征爾はすぐにパリへ戻った。
・そのころ征爾は大学都市のイギリス館に住んでいた。征爾はそこでオーストラリアから来たピアニストのロジャーと江戸京子が何度も何度も連弾してくれ、それを頼りに実際に指揮するようなつもりで手を振った。これが一番いい勉強になった。

・征爾がブザンソンのに着いた連日連夜の勉強の後なのでかなり疲れていた。所持金も欠乏し始めていた。征爾は学生向きの安宿に入った。
その夜は各国から集まった若い指揮者の歓迎パーティーがあった。みな自信がありそうに見えた。
誰もがおれこそ一等賞だという自信にあふれているような顔をしている。
若い指揮者の採用試験のようなものはいくつかあるが、正式な指揮のコンクールは世界でここだけ、各国の政府が数名の応募者を派遣しているのだ。
その中にはオペラ座の指揮者や、ロンドン・フィルのアシスタント指揮者などの優秀な者も混じっていた。

<第一次予選>
9月7日第一次予選、48名が応募した。
一人ずつ会場のカジノ劇場に呼び出されてテストを受けた。
曲目はメンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、征爾はそれを自分の好みの練習でオーケストラを仕込む。わずか8分でメンバーに指示を与えたり、大胆に棒を振って、誰にもわかるように派手な身振り、手振りを見せた。終わってお客ばかりでなくオーケストラの連中からも一斉に「ぶらぼー!」という喝采が上がった。
・第一次予選パス。17人の中に入った。
嬉しく帰る途中にある花屋に入り一抱えの花を買って帰ると部屋に美しく飾った。

<第二次予選>
9月9日第二次予選。
課題曲はサン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソ》とフォーレ《タンドレス》。
サン=サーンスの曲はその場で初めてのソリストに、初めてオーケストラ伴奏をつけるという伴奏テクニックのテスト。
フォーレは六十人編成の各パートの譜に赤インクで間違った譜が書き込まれてある。
ヴァイオリンが違っていたり、ホルンとトロンボーンの音が入れ替えてあるという具合に都合十二ヶ所の誤りを、五分で発見して、完全なオーケストラに仕上げるという課題。
征爾はスコアを見つめ、神経をとがらして聴きながら棒を振った。瞬く間に五分間は過ぎ、征爾は十二の誤りを全部指摘することができた。この分なら受かるぞと思った。
・真夜中に発表があり、合格だ ! バンザイ!。
この調子だとコンクールに優勝するかもしれない。
そうなればいろんな人からインタビューを受けるかもしれない。
フランス語の下手な征爾には不安であった。征爾は急ぎパリにいる江戸京子と前田郁子(ヴァイオリニスト)に電話して来てもらえることになった。
・彼女たちは翌日すぐに来てくれた。会場の客の中に彼女らがいると思うとどんなにか力づけられた。

<本選は六人が出場>
9月10日本選はブザンソンのグラン・テアトル。
課題曲はドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》とヨハン・シュトラウス《春の声》、ビゴーがこの日のために作曲した新曲、出場者六人はボーイスカウトに付き添われて、防音装置で完全に遮断された部屋の中に入る。
そこで課題曲のスコアを初めて渡された。初見であある。それも五分後に指揮する。
征爾は六人のクジで一番最初に指揮台に上がった。不思議と落ち着いた気分で指揮台に上がった。指揮棒をとると少しも臆せずすらすらと思う存分にやれた。征爾が後で知ったことだが、征爾が演奏している間に、作曲者のビゴーが「ブラボー」と叫んだという。
全部のテストが終わり、一時間後に発表がある。その間、お客さんもオーケストラの人もみな結果を待っている。

・発表の時間が来て、一等を呼び出す声が聞こえた。
「ムッシュー・セイジ・オザワ ! 1等入賞」するとお客さんやオーケストラの人々が「ブラボー、ブラボー、ブラボー ! ! 」と歓声を上げ、すごい拍手が起こった。
征爾は1等入賞した。確かに僕なんだと、征爾は何度か自分に向かって言い聞かせた。
そうでもしなければ信じられないような気持であった。征爾はいつの間にかステージの中央に押し出されていた。賞金と腕時計とフランス語で書かれた免状をもらった。
・江戸京子と前田郁子もすぐステージに上がって来てくれペラペラフランス語で通訳をしてくれた。征爾はカメラでパチパチやられ新聞記者のインタビュー攻めにあった。
・よかった !! 、これでもう少しヨーロッパに残れると喜びを噛みしめた。それが、賞をもらった時に最初にわいてきた喜びだった。
・優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者ロリーン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばにやにやしながらピアノを弾き始めた。本選の《牧神の午後への前奏曲》でオーケストラがうまくできなかったところを、わざとそのままにして征爾に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・プーランジェのサロンであった時も輪の中心にいた。征爾は縮こまってコーヒーを飲むばかりであった。《牧神》を弾かれた時もホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえなと思った。
・コンクールが終わって三日ほど水の澄んだブザンソンのホテルの前の川でボーっと魚釣りをして楽しんだ。コンクール入選の知らせは家と斉藤先生に知らせた。
・コンクールはブザンソン音楽祭の一環でほかにもいろいろな音楽会が開かれていた。審査員だったシャルル・ミンシュが指揮する音楽会があると聞いて、征爾は出かけて行った。

<ミンシュのベルリオーズ幻想交響曲>
・その時征爾が聴いたベルリオーズの《幻想交響曲》をどう言い表せばいいか彼は、わからなかった。そんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒をもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。

<アメリカの放送局特派員とクレイジーホース> 
・最後のパーティーの時、征爾は思い切って "ミンシュ先生“ と声をかけた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。江戸京子に通訳してもらって伝えた。"弟子にしてください"返事は冷たかった。"私は弟子をとらない。大体、そんな時間はない“ 征爾はがっくりきたが、“もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい“ と付け加えられた。
ミンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン交響楽団が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるということらしい。

<タングルウッド音楽祭参加を目指す>
・征爾らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員ヘイスケネンが聞いていた。
ボストン交響楽団のかっての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの婦人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。それをたよりに征爾はパリへ戻った。
・パリに戻ってから、コンクール第1位の新聞記事を読んだパリのコルビュジエが設計したブラジル館の館長が、征爾に無条件で下宿させてくれた。普通は四十人に一人という難関な贅沢な建物、部屋に風呂までついていた。
・フランス滞在手帳もすぐに交付してくれた。征爾のように学校も入らず、金の出所もあいまいな者には絶対ありえないことだった。その上パリの音楽会の招待券も送ってくれので、どの指揮者のも聴くことができた。

9月末にベルリン音楽祭を聴きに行った。当時、日本人の音楽留学生の世話をよくしてくれていた、田中路子をたずねた。田中路子はかつて、征爾の師・斎藤秀雄と恋愛をしたこともあった、ソプラノ歌手でった。戦後、ドイツの人気俳優だった、ビクトル・デ・コーバと再婚して、ベルリン郊外のお城のような豪邸に住んでいた。彼女は1945年、ベルリンが陥落する前、自邸を解放して、多くの人びとをナチスの迫害からのがした。そのころ、ナチス党員でありながら、アドルフ・ヒトラーの逆鱗にふれたヘルベルト・フォン・カラヤンを、救ってあげたのも田中であった。その関係で、戦後ヨーロッパ楽壇の「帝王」と呼ばれたカラヤンも、田中には一目おいていた。彼女は、のちにソニーの社長・会長をつとめた、かつてのバリトン歌手・大賀典雄をはじめ、多くの日本人音楽家をカラヤンに引き合わせた。
9月26日征爾は家に手紙を書いた。
ベルリン音楽祭に来たこと、前日朝着いたこと、すぐ東ベルリンに入り、国立歌劇場を観たりした。夜はロシア・バレエ《ガヤーヌ》を観たこと聴いたこと、ニ三日中にベルリン・フィルのマネージャーに会うこと、などを書き送った。

10月シェーンベルクの歌劇《モーゼとアローン》をヘルマン・シェルヘン指揮のベルリン初演を観た。
10月12日パリに戻る。
10月16日夜、ドイツのドナウエッシンゲンに行く。17日-18日現代音楽祭があり非公式な招待があり聴きに行った。
10月18日パリから十二時間もかかった。
現代音楽祭はヨーロッパ一ということもあり世界各国から著名音楽家が集まって来た。
日本人ではパリから戸田邦雄(45歳、外務省パリ日本大使館参事官・作曲家、声楽家で当時藝大声楽講師戸田敏子(後の教授・名誉教授)の実兄)、篠原真(29歳作曲家)、日本から現代音楽の評論と詩作で活躍した秋山邦晴(29歳音楽批評)等が来ていた。ベルリンで、作曲家の石井眞木や秋山邦晴と、親交をあたためた。
10月20日パリに戻る。家に手紙を書いた。
『今年いっぱいはパリにいて、来年はベルリン放送局が月給を出すというのでそれをもらい、合間に演奏会をやるつもり』。
パリにもどり、ビゴーから、週一度のレッスンを受けた。オーケストラを使ってのレッスンは、本場のフランス音楽を学ぶよい機会となった。 またこの地で、イサム・ノグチや堂本尚郎などの美術家や、数学者の広中平祐とも親しくなった。
10月放送局ラジオ・フランス主催で征爾のお披露目演奏会と記者会意見が開かれた。
毎日新聞パリ支局長の角田明、画家の堂本尚郎が来てくれた。堂本に紹介されたのが有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナンダンだった。
征爾が安い酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか、“これからはうちの店で好きなだけ飲め" という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。征爾が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。アランとはその後30年以上付合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、征爾がパリで指揮する時は必ず聴きに来てくれた。コンクールの後はそうやって酒を飲んだり、審査員長だった指揮者ウジェーネ・ビゴーのもとで指揮のレッスンを受けたりした。コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ、人生で一番、不安な時期だった。
11月はじめにフランス語の進級試験があった。

<ホームシックと体調を崩しノルマンディーの修道院で静養>
・その年の暮れホームシックにかかった。畳の匂いや日本語が無性に懐かしく、両親のことや、成城、桐朋の学友、先生のことが思い出された。本場ののブドウ酒を飲んでもうまく感じられない。体調を崩し、それである日医者に行った。
”パリの毒気にあてられたらしい。さっそくパリから逃げるんだなぁ” 征爾は"金がねえ” というと、修道院の紹介状を書いてくれた。ただで飯を食わして泊めてくれる。
・征爾はノルマンディーの一番イギリスに近い出っ張った半島の修道院へパリから汽車とバスに六時間かけ小さな村に着いた。
そこからさらに三十分歩いて南フランス、ノルマンディのノートルダム デュ ベック修道院に着いた。
・部屋は半地下室のような陽の当たらない、全部が石でできている火の気のない部屋だった。
修道院には老若四十人ほどが自給自炊していた。
・消灯は九時、朝は四時半起床。
オルガンが鳴り坊さんたちの重量感あるコーラスが始まる。グレゴリオ聖歌だ。
・征爾もその仲間に入り、四線譜の曲を歌って、帰る頃には坊さんたちと唱和できるようになった。
・昼間はほとんどの時間が労働で薪を山から馬で下ろしたり、豚のエサ運びなど一生懸命にやった。体を動かしていないと、寒さで凍え死んでしまいそうなのだった。
・十二時半の昼飯はスープ、豚肉、ウドン、パン、リンゴ酒。このリンゴ酒を飲むと百回ぐらいゲップが出た。
・夕飯は六時半。スープに卵焼一つにジャガイモ、チーズといった簡単なもの。ここでの静養という生活は征爾にとり、毎食出るチーズの匂いとグレゴリオ聖歌、メシのまずかったこと、これだけはいつまでも忘れられない。

・家に近況報告の手紙を書いた・送って欲しい物を書いている。”1.風呂敷数枚、こっちで世話になった先生あげる。2.白い木綿のワイシャツサイズ14インチ二枚。3.靴下ニ三足。4.アルミゲル錠(胃の薬、ボンがよくよく知っている)。5.ドイツ語の文法の本(易しいのがいい、仙台の兄貴に聞いてくれ)。6.漱石の(こころ、明暗)。7.ラビットジュニア用プラグ(点火栓、上の兄貴なら知っている)。8.色紙と和紙(これは誕生日やその他のカードとして小さく切って使うが大きいままでいい)。9.こけし人形(小さくて安いやつでいいから、十カラ二十)。10.その他食料(焼海苔、海苔の佃煮、昆布の佃煮、醤油の缶詰、昆布茶、梅干し、ウニ、味噌、しらたき、削り節、海苔のついた煎餅、わさび粉、七色唐辛子、その他缶詰なら何でも歓迎。なお湿気をうけやすい物はなるべく缶入りか瓶入りかにすること。11.飯櫃、友達を呼ぶときに見せる。12.箸数膳安くていい。12.茶碗と湯呑。こっちに来てめっきり料理の腕が上達した。洗濯もうまくなった。13.靴は十文七分、黒の皮、ズックでは困る。

・修道院から帰るとパリの街では、クリスマス用の品物が売っていた。
12月チロルにスキーに行った。臨時に学生の団体に加えてもらった。仲間はこの年ロン・ティボー・コンクールで三位となったヴァイオリンの石井志都子、ピアノ江戸京子、ヴァイオリン加藤さんという女性三人と男一人、駅のプラットフォームに四十人が集まり団長を決めた。パリを出発し翌朝インスブルックに着いた。バスに乗りムッタース村の古風なホテルに着いた。征爾らはここでクリスマス、大晦日、正月を迎えた。

<斉藤指揮メトード>
・小澤征爾は語る『僕は日本を発つまで斉藤先生のもとで勉強した。斉藤先生の指揮のメトードは、基礎的な訓練ということに関してはまったく完璧で、世界にその類をみないと、僕は思っている。具体的にいうと、斉藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類した。たとえば物を叩く運動からくる「叩き」。手を滑らかに動かす「平均運動」。鳥の首がピクピク動くみたいに動かす「直接運動」。というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を力を入れるかというようなことを教えてくれた。その指揮上のテクニックはまったく尊いもので、一口に言えば、指揮をしながらいつでも自分の力を自分でコントロールすることができるということを教わった。言い方を変えれば、自分の体から力を抜くということが、いつでも可能になるということなのだ。それと同じようなことを、言葉は変わっているが、シャルルミンシュも言っていたし、カラヤンもベルリンで僕に教えてくれたときに言っていた。自分のことを言うようでおかしいが、ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、あるむずかしい曲で合わなくなったり、アンサンブルがわるくなったりしているときに、ぼくのもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斉藤先生のメトードによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、セイジの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、ぼくとしては、指揮するばあいに非常に有利な立場に立つことができるのだ。指揮の試験を受ける人たちに伝えておきたい。何より、柔軟で鋭敏で、しかもエネルギッシュな体を作っておくこと。また音楽家になるよりスポーツマンになるようなつもりで、スコアに向かうこと。それが、指揮をする動作を作り、これが言葉以上に的確にオーケストラの人たちには通じるのだ。ぼくが外国に行って各国のオーケストラを指揮して得た経験のうちで、一番貴重なものはこれである。』
Seiji Ozawa speaks『I studied under Mr. Saito until I left Japan.Saito Sensei’s method of conducting is absolutely perfect when it comes to basic training, and I believe that there is nothing of its kind anywhere else in the world.Specifically, Mr. Saito classified the movements of the conducting hand into several types.For example, “tapping” comes from the movement of hitting something.“Average movement” that moves the hand smoothly.“Direct movement” that makes the neck of a bird twitch.Classify as follows.
He taught me about when to relax and when to apply force in all of these aspects. This conducting technique is truly invaluable, and in a word, I learned that I can control my own strength at any time while conducting.
In other words, it means that it is possible to relax your body at any time.
Something similar, though in different words, was said by Charles Munch and also by Herbert von Karajan, when he taught me in Berlin.
It may sound strange to talk about myself, but I am confident that no matter what orchestra I go to, when the orcheistra is not in sync with a difficult piece or the ensemble is not playing well, I can always use my techniques to get the ensemble in order.
That is because of Mr. Saito’s method. From the orchestra’s point of view, this is reflected in the answer that Seiji’s baton is very clear, so I can be in a very advantageous position when conducting.
I would like to tell those who are taking the conducting exam. Above all, make your body flexible, sensitive, and energetic.
Also, approach the score with the intention of becoming an athlete rather than a musician. This creates the conducting action, and this is conveyed to the orchestra members more accurately than words. Of all the experiences I have gained by going abroad and conducting orchestras in various countries, this is the most valuable one. 』