フレデリック・ショパン

生没年・出身地・歿地・墓地
フレデリック・ショパン(フレデリック・フランチシェク・ショパン)生誕 Frédéric François Chopin

(1810年3月1日ワルシャワに近いジェラゾヴァ・ヴォラ村生)
(1849年10月17日パリで歿)

1.職業

ポーランド出身の作曲家・ピアニスト

「ピアノの詩人」とも呼ばれている。

2.称号

3.経歴

⑴.父ミコワイは現、フランス東部マランヴィルで葡萄園を経営する農家に生まれポーランドの士族ヤン・ヴェイドルに養育されヴェイドリヒ家領主ミハウ・パッツ伯の会計係をとなる。16才の時領主と共にワルシャワに行き貴族の子弟の家庭教師となる。1802年ジェラゾヴァ・ヴォラに移りルドヴィカ・スカルベル家伯爵夫人の長男フリデリックの家庭教師となる。その家の遠縁の家政婦と結婚

⑵.ショパンは4人きょうだいの長男として育つ。洗礼時の名親は伯爵夫人の長男フリデリックという名であったが留学中で、隣人のフウランチシェク・グレンベ代父となりミドルネームとなった
1810年の秋、父がワルシャワ中高等学校の教師となり一家はワルシャワ、サスキ宮に移住。幼い頃からピアノに示す異常な関心に周囲の者は気が付いた。4才の頃に7才の姉にピアノの弾き方を習い6才で母親より上達、6才でヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを習う。7才で作曲した「ポロネーズ ト短調」が出版される。
1818年のワルシャワ貴族の上流サロンでは「ショピネック」の愛称で呼ばれ社交界のアイドルとなった1823年からユゼフ・エルスネルに音楽理論、ヴィルヘルム・ヴュルフェルにピアノのレッスンを受ける
1823年ワルシャワ中高等学校4年に編入
1824年14才の夏休みに養生をする。医師の指導により菩提樹の実とどんぐりの実をコーヒーに混ぜて毎日飲んだという。妹のエミリアは14才で肺結核の診断をされている
16才の春にはリンパ腺をはらし、7月に母と姉妹と一緒にライネルツに療養に出かけ、この地方の鉱泉を飲んで体重が増やしたという
1826年卒業しないままワルシャワ音楽院に入学し校長のエルスネルに音楽理論・和声楽・作曲法を学び、ワルシャワ大学で歴史、国文学を聴講した
1827年4月10日妹エミリアの死
1829年卒業しウイーンに行き演奏会を開き喝采を博す。翌年ワルシャワの国民劇場での演奏会も大成功を収める
1830年11月ワルシャワを出立しヴロツワ等を経てウィーン入りしたが不運な時を過ごし祖国ワルシャワの不穏な知らせで孤独と絶望という最悪の精神状態となる
1831年ワルシャワ陥落。9月マルハッティが書いた宮廷指揮者パエル宛紹介状を持ちパリ入りし、パエルの紹介でフリードリヒ・カルクブレンナーを訪問する。 カルクブレンナーの尽力で1832年2月パリデビューは大成功を収め忽ちパリ音楽界の有名人になり、フェルディナント・ヒラー、メンデルスゾーン、リスト、ペルリオーズ等と知り合い友人になった。毎月曜日はアダム・チャルトリスキ公の居館オテル・ランベールにに行き、Xマスや新年なども此処で過ごしピアノ演奏をした。パリ有力出版社モーリス・シュレザンジェと契約。オーギュスト・ド・フラオー伯爵を通じ貴族社会に入り、大芸術家を妻や娘のピアノ教師として抱えたいという依頼が殺到生活基盤が安定する。個人のサロンで少数の親しい人々に囲まれて弾くことが自分のピアノ芸術を発揮できると、それを本領とした
1833年4月リストと共演。イタリアのオペラ作曲家ベッリーニとパリで会う
1834年アーヘン、デュッセルドルフ、ケルン旅行
1835年9月パリ到着、イタリア座の演奏会でピアノ協奏曲ホ短調演奏。アンガンで療養中カルロヴィ・ヴァリで両親に再会、ジェチーン経由でドレスデン、ライプツィヒでメンデルスゾーンを介してシューマンに会った。帰路体調を崩しパリへ帰京。翌月さらに体調を崩し喀血。ワルシャワでは死亡説の噂も流れる。
1836年ヴォジンスカ家のマリアと婚約(翌年破棄される)。10月パリ、マリー・ダグーのサロンへ出席しリストの紹介で初めてジョルジョ・サンドに会う
1838年マルリアーニ伯爵婦人のサロンでサンドと再会し、10月病気の進行したショパンを連れマジョルカ島のヴァルデモサの僧院で療養生活に入るが体調を崩し、神経衰弱症状になり翌年フランス、マルセーユに着きコヴィエール博士の診療を受け絶対安静を命じられる。6月サンドの別荘のあるノアンに行き療養を続ける
1839~46年春から秋にかけ毎年ノアンでサンドと共同生活しヴァカンスを過ごし体調も戻り作曲に専念し重要な多くの作品が生まれ出版された。パリに戻ると別々に住み弟子が通ってレッスンを受ける
1843年秋から度々病床についた。翌年父が他界
1847年サンドの家族との諍いが原因で絶縁状を突き付けられサンドとの仲は破綻。サンドを失い鬱状態に陥り健康の悪化、吐血もあり呼吸困難など病状は悪化す
1848年パリにおける最後の演奏会をプレイエルホールでヴィクトリア女王も臨席のなか内輪で開催される。この年ヨーロッパ各地で革命が起こる
1849年弟子のスコットランドの大金持ちの娘ジェーン・スターリングの招きでロンドンに革命から避難。体調を崩し再びパリに戻るが主治医が死亡しており落胆。7月に1日数回の下痢が始まり腸結核の
症状であったといわれている。既に結核は進行しておりレッスンも出版も出来ず貯金も底をつき無一文の状態での闘病生活となった。
母からの仕送りとオブリェスコフ公妃等の援助のなか、妹や古い女友達のポトカ夫人の歌う「乙女の歌」を聴きながら、「神様、何という美しい歌だろう、もう一度」と切望して昏睡状態に陥り、10月17日午前3時に見守られる中、他界。
葬式はパリのマドレーヌ寺院で行われ、モ-ツァルトのレクイエムがパリ音楽院のオーケストラと合唱で演奏された。また自身が作曲した葬送行進曲が管弦楽で演奏されたという。遺体はペール・ラシェーズの墓地に埋葬された。遺言に寄り心臓だけは取出されワルシャワの聖十字架教会に祀られている

4.主な作品

ピアノ協奏曲1番・2番、前奏曲、練習曲、ワルツ、マズルカ、ノクターン、即興曲が演奏される

5.その他

現在は5年に一度、命日の10月17日を中心に「ショパン国際ピアノコンクール」が開催されている、弟子にはS・リヒテル、E ・ギレリスなどがいる

6.初演

7.関連動画


Claudio Arrau plays Chopin Prelude op.28 n.4 (December 28, 1950)
 


Prelude Op. 28 No. 7 in A major
 


Etude Op 10 No.4 Valentina Lisitsa
 


Complete Nocturnes (Brigitte Engerer)
 


Etude Op.10 No.3 (Tristesse) – Piano & Violin (Performed By Andre Rieu)
 


Tristesse
 


Tristesse (Orchestral)
 


Martha Argerich – Chopin: Piano Concerto No. 1 in E minor, Op. 11 (2010)
 


Mazurka Op.17 No.4 (Horowitz)
 


Horowitz plays Chopin Polonaise Op. 53 in A flat major
 


Horowitz plays Chopin Ballade
 


Prelude Op.28. No.4. – Jozsef Eotvos -guitar
 


Andrés Segovia – Chopin: Prelude in A
 

参考文献:「クラシック作曲家辞典」中河原理監修、フェニックス企画編 東京出版堂 「音楽史(音楽講座)」堀内敬三著 音楽之友社 「偉大なる作曲家のためのカルテ」五島雄一郎著 医療ジャーナル社 「ショパンの生涯」バルバラ・スモンレスカ=ジェリンスカ著 関口時正訳 音楽之友社 「tsuzu/asakusaopera-nenpu.html」 「tsuzu/operetta-kafu.html」 「wikipedia」 「glennmie.blog.s0-net.ne.jp」 「robortkelloyphd.com」 「dictionary/composer/alkan」 「maucamedus.net/solmization/gawut」 「www.tcat.ne.jp/eden/music」 「www.cadenza-od.com」 「www.coara.or.jp/-doraemon/gagaku/nenpyoz.htm」 「www.gecities.jp/gzgaku.ryuteki」 「www.univesal-music,co.jp」 「www.wagnerdailas.com」