斎藤秀雄


斎藤秀雄
Hideo SAITO,

生没年・出身地・歿地・墓地
1902年5月23日 東京市京橋区築地明石町十六番地に生誕
1974年9月18日 東京都中央区明石町9-1 聖路加病院で逝去

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1.職業

日本の音楽教育者、指揮者、チェロ奏者

【楽歴】
1918年 宮内庁雅楽部多基永にチェロを学ぶ(16歳)
1923-1927年 ライプツィヒ音楽院修了/ユリウス・クレンゲル教授に師事(21歳)
1927年 新交響楽団首席チェロ奏者として入団
1928年 新交響楽団第三十回定期演奏会で指揮者デビュー
1929年 第一回チェロ独奏会開催しデビュー
1930-1932年 ベルリン高等音楽院修了/エマーヌエル・フォイアーマン教授に師事(28歳)
1932-1941年 新交響楽団首席チェロ奏者復帰
1942-1943年 松竹交響楽団指揮者
1943年 日本放送管弦楽団指揮者就任
1946年 自宅で指揮教室を開く
1945-1946年 東京交響楽団(東フィル)専任指揮者
1947年 指揮教室開設(目白の自由学園)
1948年 「子供のための音楽教室(市ヶ谷の家政学院)」弦楽科主任、指揮教室開講(市ヶ谷の家政学院)
1948年 相愛学園音楽科弦楽主任
1952年 桐朋女子高等学校音楽科弦楽科主任
1952-1953年 京都市立音楽短期大学教授
1955年 桐朋学園短期大学音楽科弦楽科及び指揮科主任教授
1955年 相愛学園(大阪)「子供の音楽教室」弦楽科主任
1958年 相愛女子大学音楽学部弦楽科主任
1958-1960年 桐朋学園短大学長
1961年 桐朋学園大学音楽学部教授、指揮科及び弦楽科主任、オーケストラ運営の責任者
1970年9発26-11月30日 桐朋学園渡欧弦楽合奏団を結成、ソ連、東欧諸国を含む西欧公演を行う
1971‐1973年 相愛学園大学音楽学部(大阪)学部長
1972年 新日本フィルハーモニ交響楽団指揮者団顧問

【審査員】
1967年 民音第一回指揮者コンクール審査委員長
1970年 民音第二回指揮者コンクール審査委員長
1973年 民音第三回指揮者コンクール審査委員長
1973年 ロン=ティボーコンクール審査員

師事:多基永(チェロ)・ユリウス・クレンゲル(チェロ)、エマーヌエル・フォイアーマン(チェロ)、ローゼンシュトック(指揮)

【関係諸団体】
1946年 東京室内楽協会結成に参加
日本指揮者協会
音楽芸術家協会
1967年 日本指揮者協会会長

【受賞 ・受章】
1949年 毎日音楽賞受賞
1956年 芸術院賞受賞
1974年 正四位勲二等瑞宝章追贈

2.称号


1973年 文化功労者顕彰

3.斉藤家家系

祖 父:斎藤永頼 (1866.1.2~1929.11.9)旧仙台藩士(運上方)明治新政府になり宮城県学務課長
祖 母:不詳
継 母:斉藤ちせ 1854年6月29日生まれ。1883年12月28日入籍。宮城、横尾常助の二女
長 男:斉藤秀三郎
大叔父:斉藤二郎 1874年生まれ。帝国大学で造船学を学んでいたが肺結核で歿    
大叔母:斉藤冬 アメリカ人宣教師で校長の一方的な教育方針に反発し、日本初の女子校内ストライキ「宮城女学校スト
ライキ事件」の首謀者として学校側から退学を命じられた斉藤冬は秀三郎の妹。事件後、明治女学校へ転校したが、肺結核で歿。   

<父:斉藤秀三郎について>
斎藤秀三郎は、慶応2年(1866年)正月二日生 斎藤永頼の長男、従六位勲五等、工部大学校(現、東京大学工学部)中退、正則英語学校創立者、同校校長、英文法学者である。
1.父:斉藤秀三郎 略歴
『 仙台藩士・斎藤永頼の長男として誕生した。六歳にして仙台藩英語学校辛未館に入り、明治七年には明治政府最初の英語学校の一つ宮城英語学校に入った。宮城英語学校では課業は主に外国人教師によって英語で行なわれた。特に米国人教師C.L.グルードは斎藤に英語の基礎を教授した人として記憶される。
 その後、明治十二年に上京、東京大学予備門(第一高等学校前身)を経て、翌年、工部大学校(東京大学工学部前身)に入り、自然科学、応用科学、造船学等を学んだ。また、終生傾倒することとなった英国人J.M.ディクソン教授からは英語を伝授された。斎藤は生涯を通じての英語研究をidiomology (慣用語法学)と称したが、その源泉は同教授の英語教授にある。同教授はスコットランド生まれの英国人で、明治十二年(1879年)来日し、のちに夏目漱石、岡倉由三郎らを教え、日本英語界の大恩人となった人である。 工部大学校卒業目前の明治十六年十二月、斎藤は放校処分を受けた。海外密航を企てたためと言われるが、真相は不明。1866年)正月二日、仙台藩士斎藤永頼の長男として誕生した。六歳にして仙台藩英語学校辛未館に入り、明治七年には明治政府最初の英語学校の一つ宮城英語学校に入った。宮城英語学校では課業は主に外国人教師によって英語で行なわれた。特に米国人教師C.L.グルードは斎藤に英語の基礎を教授した人として記憶される。
 その後、明治十二年に上京、東京大学予備門(第一高等学校前身)を経て、翌年、工部大学校(東京大学工学部前身)に入り、自然科学、応用科学、造船学等を学んだ。また、終生傾倒することとなった英国人J.M.ディクソン教授からは英語を伝授された。斎藤は生涯を通じての英語研究をidiomology (慣用語法学)と称したが、その源泉は同教授の英語教授にある。同教授はスコットランド生まれの英国人で、明治十二年(1879年)来日し、のちに夏目漱石、岡倉由三郎らを教え、日本英語界の大恩人となった人である。 工部大学校卒業目前の明治十六年十二月、斎藤は放校処分を受けた。海外密航を企てたためと言われるが、真相は不明。工部大学校中退の翌年、すなわち明治十七年(1884年)、十九歳の斎藤は郷里に戻り、翌年秋に私塾仙台英語学校を開校した。同校第一回生の一人に土井晩翠がいる。
 明治二十年四月には、仙台に第二高等中学校が創設され、斎藤は翌年四月、同校助教授に就任。明治二十一年十一月二十七日、斎藤は前島美孝長女〈とら〉と結婚し(再婚同士であったという)、明治二十一年十二月には岐阜中学校へ赴任。明治二十五年まで勤務。長崎の鎮西学院、名古屋の第一中学校に教授として転じ、第一高等学校教授就任のため、明治二十六年七月上京、本郷西片町十番地に転入した。明治二十九年十月には同じ錦町三丁目に自らが創設者・校長となって正則英語学校を旗揚げした。『熟語本位英和中辞典』(大正四年、1915年)を刊行。大正十一年四月(斎藤五十七歳)、日英社から『携帯英和辞典』 を刊行。昭和三年『和英大辞典』刊行。昭和四年、十一月九日午前一時、直腸癌のため、東京都麹町区五番町二番地の自宅において六十四年の生涯を終えた。』
資料/http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/efl_dictionaries_01.htm
2.父:斉藤秀三郎 年表
1866年0歳 仙台藩士斎藤永頼の長男として生まれる。
1871年5歳 辛未館(仙台藩の英学校)入学。横尾東作に英語を学ぶ。
1874年8歳 宮城英語学校に入学。米国人教師C.L.グールドに英語を学ぶ。
1879年13歳 宮城英語学校を卒業、上京して東京大学予備門に入学。
1880年14歳 工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学。純粋化学、造船を専攻。後に夏目漱石の師となるスコットラン
ド人教師ジェイムス・ディクソン (James Main Dixon (英語版) に英語を学ぶ。後々までイディオムの研究を続けたの
は彼の影響だったと後年述べている。また、図書館の英書は全て読み、大英百科事典は2度読んだ、という逸話が残っている。
1883年17歳 工部大学校を退学。
1884年18歳 『スウヰントン氏英語学新式例題解引』(十字屋・日進堂)を全ページ英文で執筆して出版。その後、仙台に戻り、仙台英語学校を開設。詩人土井晩翠は一回生。
1885年19歳 来日したアメリカ人宣教師W・E・ホーイの通訳を務める。
1887年21歳 9月に第二高等学校助教授
1888年22歳 第二高等学校教授、5月にとら子と結婚。
1889年23歳 11月に岐阜中学校、1892年4月、長崎鎮西学院、9月、名古屋第一中学校へ。この学校でたまたま東京から知人の教師を訪ねて来た学習院教授が秀三郎とめぐり会い英語の実力に驚く。これがきっかけで1893年7月、第一高等学
校教授(‐1897年)。に就任した。
1896年30歳 10月に神田錦町に正則英語学校(現在の正則学園高等学校)を創立して校長となる。以後、死亡するまで、ここを本拠として教育・研究に生涯を尽くした。
1897年31歳 4月に第一高等学校を辞した。
1904年38歳 東京帝国大学文科大学講師となった。
1906年40歳 明石町から麹町五番町二番地の英国大使館脇の千坪の敷地をもつ広壮な邸宅に移り住む。
1915年49歳 11月に勲五等瑞宝章を授けられた。
1929年11月 直腸癌で死去、享年満63歳、勲四等に陞叙された。墓所は多磨霊園。
著書「熟語本位斎藤英和中辞典」「斎藤和英大辞典」『英文法初歩』「英会話文法」「実用英文典」四巻ほか二百冊以上に及んだという
資料/http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/efl_dictionaries_01.htm
写真下、左:母のとら、右:斉藤秀三郎

3.斉藤秀三郎 家族
父:斉藤秀三郎
母:斎藤とら  明治3年生、前島美孝の長女 東京士族・前島震太郎の妹
  参照・前島震太郎 http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12012738414.html
伯母:斉藤ふみ 長女 明治26年生 お茶の水高女出身 幣原喜重郎外務大臣秘書官・岸倉松に嫁す
伯母:斉藤その 二女 聖書学者塚本虎二に嫁す
伯母:斎藤ミドリ 三女明治31年生  米国ボストン大で公衆衛生看護を学び、1927年に聖路加病院に公衆衛生看護部を
発足 東京、中外商工取締役 平野真三に嫁す
伯母:斉藤 静 四女明治33年生  女子英学塾出身 宮城、農学士・橋本重郎に嫁す
叔母:斎藤敦子 五女明治37年生  聖心女学院出身 東京、秩父鉄道取締役 渋沢信雄に嫁す
  参照・渋沢信雄 http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12037613118.html
伯父:斉藤  長男 四歳にならぬうちにジフテリアで亡くなる
  :斎藤秀雄 二男明治35年生(後述) 
叔父:斎藤武彦 三男明治38年生  盛岡高等農林学校出身 分家す
    
<斉藤秀雄 家族>
 :斎藤秀雄 明治35年生 斎藤秀三郎の長男 上智大中退、独国ライプチヒ音楽学校卒 ベルリン高等音楽院修了 音楽教師 チェロ奏者 指揮者 新日本フィルハーモニー交響楽団指揮者団顧問等 相愛学園大学音楽学部(大阪)学部長 桐朋学園大学学長
1902年 誕生
1974年 死去
妻:斎藤秀子 明治42年生 男爵小畑大太郎の二女 東京音楽学校出身
註:斉藤夫妻は子供に恵まれなかった

4.斉藤秀雄 歴史年譜

1902年
5月23日東京市京橋区築地明石町十六番地に生まれた。英文学者の斉藤秀三郎を父、とらを母として生まれた。

1906年4歳
1906年明石町から麹町五番町二番地の英国大使館脇の旗本屋敷だった千坪の敷地をもつ広壮な邸宅に移り住む。
熱心なクリスチャンの母のもとで、姉たちと富士見町教会の日曜学校に連れて行かれ讃美歌を歌った。四人の姉は箏、ピアノ、ヴァイオリンを習っており、秀雄の音楽環境は幼少から恵まれていた。

1909年7歳
暁星小学校入学。金の六つボタンの上着、金モールの帽子をかぶり、ニッカ式の半ズボンの制服で秀雄は小学校に通った。
小学生の頃は画家になると言っていたが教師に反対され、造船家になると言ったという。父の兄弟はみんな造船家になりたがったようだ。”ぼくも造船家になるつもりだと言ったら、おやじは非常に喜んでいた・・”

1915年13歳
暁星小学校卒業
暁星中学校入学。ふたクラスありフランス語科を選ぶ。マンドリン・アンサンブルに興味を持ち合奏に参加した。また民間のマンドリン・クラブから頼まれて指揮をしていた時期もあった。
姉たちに続いて妹の敦子もピアノを習い始めた。秀雄は姉妹たちが弾くのを見てピアノを独学で学び始めた。秀雄をが
弾いたのは来日音楽家が持ってきたものを父秀三郎が娘たちのために買い取った舶来品だった。それを秀雄は自己流で弾いていた。

1918年16歳
宮内省楽部の多基永にチェロを学び始めた。
『幼い時代にぼくは絵が好きで学校の成績の中では絵が一番良かったのです。それで絵描きになりたいと思ったのですが、なぜか学校の絵の先生が反対しました。それで家の姉妹がみなピアノを習っていたので、ぼくも何か音楽をやらしてくれないかといったら親兄弟が、やるのはいいけれどといって相談してくれたのです。その当時河合道子先生という方がアメリカから帰られてYMCAの会長をさせられていたのです。その方に相談されたらチェロがいいのではないかということだたったのです。それで父の英語の弟子であり、音楽の評論家として有名であるとともに、浮世絵界の古い絵の研究もしていた牛山充さんに父が相談したのです。そしたら宮内省楽部にいられた多基永(おおのもとなが)に習ったらいいだろうということで、牛山先生に連れられて(秀雄は紋付羽織袴で編み上げの革靴をはいて)行った。多(オオノ)先生にチェロの手ほどきを受けることになったのです。このころのレッスンは音を出せばいいというようなものであったようだ。「後年、斉藤は” 奏法のあらましとチェロという楽器の性能の概略を、それとなく教わったような気がする”と回想している」。それで上智大学へ行ったら学友の多くはマンドリンをやっているのです。その頃別にチェロで帝大のオーケストラに伝手代に行っていたのですが、そこで指導に来ていられた近衛秀麿先生にお目にかかったのです。それである日、銀座を歩いていて、偶然近衛先生にお目にかかったのです。「今日は」と挨拶したら”俺は近いうちドイツに行くのだよ”といわれる。すかさず「ぼくも連れて行ってください」といったら、”ああ、いいよ”と簡単に応えられた。家に帰って早速父の前に行って「来年ドイツに音楽の勉強に行きたい」といったら、父も全く簡単に”ああ、いいだろう”といってくれて、あっけないほどすらすらと留学が決まったのです。それが音楽の道に入るきっかけだったのです。』
神田のYWCAの慈善音楽会に家族で出かけ、姿勢の正しい姿が、病弱な姿勢の悪い秀雄に楽器を持つならとチェロ演奏を見た母の許しで、東京音楽学校教授のハインリヒ・ウェルクマイスターにチェロを習っていた宮内省式部職楽部在籍の多基永(おおのもとなが)にチェロを学ぶことになる。
註:多基永は1888年生まれ、1897年宮内省雅楽所楽師伶人、1903年楽生、1908年楽手・東京音楽学校器楽部入学。1912年同校卒業後、研究科チェロ専攻に進み、1914年研究科修了、宮内省雅楽所楽師楽師
註:斉藤秀雄・音楽と生涯、発行民主音楽協会、刊行昭和60年、P325-326

1919年17歳
マンドリン・クラブ「オルケストル・エトワール」の創設に参加。暁星中学の同人グループで文芸雑誌「若き人々の群」を発行していた静美社の比留間賢八に師事していた二人が「暁星マンドリン倶楽部」と称し演奏活動をしていた。秀雄はマンドリンとチェロ、ピアノを弾いた。

1920年18歳
暁星中学校卒業。仙台の第二高等学校受験に失敗。
家に近い上智大学哲学科を受験。
上智大学入学した秀雄はマンドリン合奏とチェロ練習に明け暮れていた。
秀雄は比留間賢八にギターを習い始める。そしてマンドリン・オーケストラのための編曲も手掛けるようになる。

1921年19歳
『父は放任の他面細心周密の一面をもっておりました。次のような逸話があります。私は牛山先生(東京音楽学校出身で当時音楽学校教師で正則英語学校にも英語出講)の紹介で宮内省雅楽部の多基永先生のもとでチェロを学んでおりましたが、将来音楽家になりたくてドイツに留学させて欲しいと父に話しましたところ、例の調子で「うん」と賛成してくれましたが、後で牛山先生のお話によると、父は牛山先生を「将来音楽で生計を立てて行けるだろうか」ということを尋ねて先生の保証を聞いたとのことでした。また学生時代に樺太へ旅行に行きたいと父に希望したところ「よかろう」ということでしたが、十分位して書生が呼びに来たので行くと父は「防寒具はあるか」と問い「ありません」と答えると「それなら止めたらよかろう」ということもありました。』引用:「斉藤秀三郎伝」補遺、大村喜吉

1922年20歳
ドイツ留学の目途がつき、上智大学を退学。
『斉藤:銀座で偶然、近衛秀麿先生に会ったのです。”おれはドイツへ行く”って言うから「それじゃ、ぼくも連れてっていってください」というお、”ああ、いいよ”とそのころは、船や旅券を取ることなどで非常に面倒くさいことがあったのですが、いろんなつてがあったのでスイスイといった。その時の船でぼくが同室したのが佐藤紅緑先生。』
註:斉藤秀雄・音楽と生涯、発行民主音楽協会、刊行昭和60年、P310

1923年21歳
春、ドイツ留学。近衛秀麿について渡独、半年近くベルリンの宿も近衛と一生だった。『落着いて見ると先生の問題である。まだ誰にしようか定めていなかった。所がその時ベルリンにコンスタンティン・シャピロ氏がいた。氏は毎週一回ライプツィヒのクレンゲル先生の所へ稽古に行っていた。私は氏の言に動かされて、クレンゲル先生の処へ行こうと決心した。』『6月のある日、私はヒャピロ氏に連れられてライプツィヒのクレンゲル先生の処へ行った。その翌週から私は週に一回先生の処へ稽古に出かけたのだが、最初の日に私はゴルターマンの二番のコンチェルトを奏いたのだった。最初の訪問の帰りシャピロ氏に誘われ、ゲヴァントハウスの前で自動車に乗り、高勇吉君を訪問した。それから後も、先生の処へ稽古に行った帰りは必ず高君の処へ寄って晩飯を食べたりしたものだった。ベルリンに馴れたころ私は近衛氏と一緒に、当時日本の音楽家の巣であったヘルムシュトラーセへ引っ越した。そこには既に、真篠敏夫、ジェームス・ダン、平田義宗、遠山芳蔵、山井基清、田中英太郎、高折宮次、伊達愛の諸氏がいて非常に賑やかだった。』。
5月1日ライプツィヒ音楽院入学。チェロの名教師ユリウス・クレンゲル教授に師事してチェロを学ぶ。
註:斉藤秀雄・音楽と生涯、発行民主音楽協会、刊行昭和60年、P293-294

1924年22歳
4月『ライプツィヒ国立音楽学校へ入学した。私は学校でクレンゲル先生から週二回、自宅へ一回という忙しい生活になった。そこえ鈴木二三男君が来てクレンゲル先生につく事になった。また私はドレスデンにいた山本直忠(指揮者/山本直純の父)君をライプツィヒへ呼び寄せた。』
『私がある稽古の時、クレッシェンドもディミヌエンドも表さないで奏いたら、先生は”クレッシェンドの時はピアノで奏け、ディミヌエンドの時はフォルテで奏け、ピアノにして初めてクレッシェンドが表せる” というフォン・ビューローの言葉を引用された。』
註:斉藤秀雄・音楽と生涯、発行民主音楽協会、刊行昭和60年、P293-294

1925年23歳
ドイツ、ライプツィヒ音楽院在学

1926年24歳
ライプツィヒ音楽院在学

1927年25歳
ライプツィヒ音楽院修了。帰国
4月30日NHK交響楽団の前身である新交響楽団チェロ奏者として入団。
9月同楽団首席チェロ

1928年26歳
ケーニヒ、前田璣、辻井富造、池譲とともに室内楽演奏会開催
新響のチェロ奏者:橘常定が斉藤に師事
3月11日<新響第二十五回定期演奏会>ソリストとして出演しボエルマン《交響変奏曲》を日本初演。
5月27日<新響第三十回定期演奏会>指揮して指揮者デビュー   日本青年館
・シューベルト《イタリア風序曲第二番》
・メンデルスゾーン《ピアノ協奏曲第一番ト短調》ピアノ:福井直俊
・ニーマン《ドイツの森の歌》
・ワーグナー《リエンチ》序曲
9月23日<新響第三十三回定期演奏会>でサン=サーンス《チェロ協奏曲第一番》を初演。

1929年27歳
10月24日<第一回チェロ・リサイタル>を日本青年館で開催。演奏曲目:R・シュトラウス《ソナタ》、ハイドン《協奏曲ニ長調》、ボッケリーニ《ソナタイ長調》、ドヴォルザーク《ロンド》、ドビュッシー《メヌエット》、グラズノフ《吟遊詩人の歌》・《スペインのセレナーデ》、ピアノ:沢崎秋子。
新交響楽団客員指揮者としてシフェルブラット就任

1930年28歳
4月23日近衛秀麿指揮、<新交響楽団第六十七回定期演奏会>で、ブラームス《ヴァイオリンとチェロのための協奏曲》をニコライ・シフルブラット(Vn.)と協演。日本初演。
4月26日<斉藤秀雄・沢崎秋子ソナタの夕>バッハ《ソナタ第2番・ベートーヴェン《ソナタ第3番》・ブラームス《ソナタ第1番》、仁壽講堂において。
ベルリン高等音楽院入学Musikhochschule(新交響楽団在籍のまま)
5月5日エマーヌエル・フォイアーマン教授に師事

1932年30歳
ベルリン高等音楽院修了後に帰国
4月30日新交響楽団首席チェロ奏者に復帰
ラジオ放送でゴルターマン《チェロ協奏曲第一番》を放送演奏。
井上頼豊、鷲尾勝郎、原田喜一らの第一線チェリストたちが斉藤秀雄に師事す。
チェリストとして活動を続けるが、チェリストとして出演した演奏会で失敗したのがきっかけとなり

1933年31歳
1月25日<新交響楽団第120回定期演奏会>でハイドン《チェロ協奏曲一番》、シフェルブラット指揮
写真下、6月ニューヨーク

1934年32歳
ドイツ留学中にに起こったコロナ事件(団員二十数名脱退)の不信感により団員とマネージャー原善一郎、近衛秀麿への間が深刻化してゆくなかで、斉藤は団員側のまとめ役として奔走する。
皇太子生誕一周年記念祝賀演奏会に新交響楽団を指揮。

1935年33歳
新交響楽団改組事件起こり近衛秀麿が新響を去り、斉藤の指揮の機会が増える。
7月22日新交響楽団と日本放送協会の契約を解約される。
9月新響と日本放送協会との契約が成り放送再開。
10月2日<斉藤秀雄・沢崎(井口)秋子ソナタの夕>曲目:バッハ《三つのコラール前奏曲(コダーイ編)》初演/ベートヴェン《魔笛の主題による七変奏曲》・《ソナタ第5番》初演/ヒンデミット《ソナタ作品11の3》初演、軍人会館において。
12月17日<新交響楽団第162回定期演奏会>を指揮   日比谷公会堂
・シューベルト《交響曲第十番》「グレート」
・ラロ《スペイン交響曲》ヴァイオリン:鰐淵賢舟
・バルトーク《舞踏組曲》

1936年34歳
6月24日<新交響楽団第168回定期演奏会>客演予定のヘルベルト急病のため斉藤秀雄:指揮  日比谷公会堂
・ベートーヴェン《レオノーレ序曲第三番》
・ブラームス《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》ヴァイオリン:ウィリー・フライ
・ヒンデミット《画家マティス》
・エック《ゲオルギーカ》「四つの農民音楽」
「オペラの夕べに」に出演し、《セビリアの理髪師》第一幕、《椿姫》第三幕、《マルタ》第一幕を指揮。
<ローゼンシュトックから指揮などについて指導を受ける>
新交響楽団の招きで来日したヨーゼフ・ローゼンシュトックとの出会いは齋藤の将来を大きく変えた。齋藤はローゼンシュトックのありとあらゆるものを吸収しようと努力。ローゼンシュトックの音楽に対する情熱や指導方法は、戦後「齋藤メソッド」を確立する際大いに参考になったという。
『私がローゼンシュトック先生のお名前を初めて耳にしたのは、昭和十年麻布のプリングスハイム氏のお宅で、氏から”ドイツからこういう指揮者が来たいと言っているがどうか”ときかれ、リーマンの音楽辞典に載っているローゼンシュトック先生の経歴を示された。当時の新響は近衛さんと別れて専任指揮者がなく、早急に新しい指揮者を求めていた時なので、リーマンに載るような大家が、日本のオーケストラの指導に来てくださるなどということは、願ってもないことと思った。丁度その年に恩師フォイマンが来朝され、ローゼンシュトック先生の事をお話したところ、現下に”あんな大家はとても日本に来るまい”と言われながらも非常に推賞して居られた。当時の新響は技術の不足に加えて、練習の際には初見で演奏していたような訳で、事ごとに無能ぶりを発揮したので先生は忽ち神経衰弱気味になられてしまった。オーケストラの方は先生の御意見に従って規則正しく、予備練習を行い、弓使いなどは予め練習の始まる前に決めるようにし、どうしたら先生の要求について行かれるかということに専念していた。』『そうしている間に先生によって非常に多くのことが啓発され、音符の解釈、音楽の表現などに対する疑問、未知の点が総て明確に解答を与えられた。だから先生が日本で教えられた生徒は、指揮者は勿論作曲ピアノ、声楽等非常に多方面にわたっており、現在日本における音楽家は殆ど全部先生が作り上げたられたと言っても過言ではあるまいと思われる。』
註:斉藤秀雄・音楽と生涯、発行民主音楽協会、刊行昭和60年、P297
写真下、フォイアマンを迎えて、後列中央は近衛秀麿

1937年35歳
新交響楽団第168回定期演奏会ローゼンシュトック指揮において、ローゼンシュトック作曲の交響的協奏曲《ピアノと管弦楽》独奏:ローゼンシュトックの指揮を担当した。
写真下、左から黒柳守綱(コンサートマスター)、橘常定(チェロ)、ローゼンシュトックと

1938年36歳
4月26日新響特別演奏会でローゼンストック指揮によるヴェルディ《レクイエム》で合唱指揮を務めたが、練習中に舞台から転落して大怪我をする。

1939年37歳
1月新交響楽団初の海外公演で京城で指揮。
<ワインガルトナー賞入賞作品演奏会>で早坂文雄、尾高尚忠の作品を新交響楽団を指揮して演奏。
貝谷八百子バレエ団公演でリムスキー=コルサコフ《シェラザード》を指揮して演奏

1940年38歳
<協奏曲の夕べ>バッハとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、独奏:巌本真理、新交響楽団を指揮。

1941年39歳
<音楽コンクール優勝者記念演奏会>二夜に渡り新交響楽団を指揮。
8月31日新交響楽団が翌年の日本交響楽団への改組に向けた準備に際し、齋藤がすでに日本ビクターと個人契約していることがネックとなり、同年秋のシーズン開幕を前に新響を退団。指揮者として独立することとなる。齋藤は松竹交響楽団や東京交響楽団などの首席指揮者を務めた。

1942年40歳
松竹交響楽団に指揮者として就任。

1943年41歳
松竹交響楽団指揮者辞任
日本放送管弦楽団指揮者就任
11月東響(のちの東京フィル)定期演奏会でベートーヴェン《交響曲第六番》、ブルッフ《ヴァイオリン協奏曲》ソロ:巌本真理、江文也《台湾交響曲》を指揮。
斉藤、巌本真理、河野俊達、橘常定らと室内楽の活動準備をはじめる。
井口基成とベートーヴェンの「皇帝」を録音する。室内楽と指揮教程の研究を深める。
写真下、左から斉藤、巌本真理、井口基成、河野俊達

1944年42歳
大東亜交響楽団(前年松竹交響楽団が改称)を指揮して、戸田邦雄《ピアノ協奏曲》を演奏。
巌本真理とベートーヴェンのロマンス第1番、第2番を録音する。
始めた

1945年43歳
東京交響楽団(東京フィルハーモニー)の専任指揮者就任。
『ぼくが音楽教育について考えるようになったのは、家で個人指導を始めた頃、藝大の学生やそのほか既成の音楽家たちが何人か習いに来たのですが、基本の勉強が皆できていなかったのです。それは戦争前の話ですが、それで戦後になってから日本の音楽教育はこれから何か新しい方式を作らなければならないと考えたわけです。それには日本の特殊性というものを生かして音楽教育を確立しなければいけない、と薄々思っていたのです。
それまでの日本の音楽教育というものはどういうものかというと、ドイツ人が自分の国で習っていたものをその通り教えるだけだったのです。それをやってみて彼らは日本人は音感が無いから駄目だ、という風に考えていたのじゃないかと思うのです。そのいい例は日本の海軍に航空隊ができて霞ヶ浦に航空隊の基地が置かれて、そこにフランス人の教官を呼んだのです。当時の飛行機は今日のジェット機ではなくプロペラ機です。そしてエンジンの音を聴き分けて正常化どうか判断したり、プロペラの音のピッチで回転数の大体のところを把握したりするわけです。ところが日本人はそうしたことは馴れていないから出来ない訳です。するとフランス人の教官曰く”日本人は音楽的素養が無いから飛行機乗りには適さない”というレッテルを貼ってしまったわけです。
それから少し時期を置いてピアニストの園田高弘君のお父さんの薗田清秀さんが、音楽というものは子どもの時から音感教育をすれば非常に有効であるということを主唱され、自分の子どもの高弘君に音感教育をしたわけです。それが見事に成功したのです。そうしたことを僕も聞いていたので、音楽をやるには指が動けばいいのか、それとも耳で音が聴き分けられればいいのかを考えてみると、それは同時に両方の教育をやれば更にいいわけです。耳がきき分けるからその音が出せるのであって、耳が識別できる能力がなければいくら指が動いてもその音を出せないのです。もう一つは指の訓練で、そのメカニズムというのは子どもの方が速くつき易く、大人になると筋が固くなってつきにくい。ことにピアノやチェロはそうです。そうしたことを朧げながら考えていた時にたまたま吉田秀和先生に会った際に、戦争中ですがぼくはこうした学校を作りたいのだと話したのです。
戦後になてこういう学校を家政学院で作ったのが「子どもの音楽教室」その時にはヴァイオリンの生徒が沢山集まって来たのです。みんな子どもばかりでした。そこでさっき話した教育を子どもたちにやってみたら面白いように伸びていったのです。』
吉田秀和は次のように述べている。「何日がかりかで、しつこく口説かれ、今度は私も落城した。彼の基本理念は音楽早教育。”音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そして、上までのぼってゆける。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。” というもの。
戦後、やたらと大学をつくりたがる世の中で、いちばん下の学校をやろうというのも、気に入った。では、日本一の先生を集められるだけ集めようではないか。ピアノは井口基成に当たった。彼は欣然受諾。それも自分のほか、夫人の秋子さん、妹の愛子さん、それから一門から選りすぐった優秀な弟子を引き連れて参加してくれた。声楽の伊藤武雄夫妻。彼は畑中良輔を推薦し、畑中は石桁真禮雄をつれてきた。ほかに遠山一行、柴田南雄、入野義朗、別宮貞夫、小林福子らが加わり、ソルフェージュ、楽典、絶対音感教育、簡単な音楽史などを受け持った。教室の授業は土曜日の午後だけ。そこでソルフェージュ、音感教育、合唱訓練といった集団授業をやる。
あとのピアノや弦の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。教室の月謝は最低。当然、講師たちにはろくな金も払えない。払う意思もなかった。ただし個人レッスンは別。これは最高を抑えるだけで、あとは先生によりまちまち。こんな具合で、井口基成が安い月謝で小学生を教え、斉藤秀雄がただで少年にチェロのレッスンをつけるといった光景が生まれることになった。弦の方は斉藤が、これはという音楽家をどんどん集めて来て教師にした。鷲見三郎、小野アンナその他、当時有数の名教師たちが、自分の秘蔵弟子をつれて参加した。
その子どもたちが成長するのを待ち兼ねるように斉藤は彼らを集めて合奏訓練を始めた。これが森正その他に助けられながら、後年の桐朋学園オーケストラに発展していったのだが、そのオーケストラは同時に、指揮者の卵たちにまたとない実践訓練の場となった。小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明そのほか数えきれないほどの斉藤門下の指揮者たちは、斉藤というとびきり優秀な教師に育てられる幸福をもつだけでなく、高校生にしてすでに、オーケストラの育成、訓練という課題の処理と、自分自身の指揮者としての勉強、経験を重ねるという、この二つを同時に解決する機会を与えられたのだった。
斉藤秀雄は彼と一緒に仕事をするものは、時々、あまりにも自己本位の主張をするのに閉口する場合があった。困難にぶつかると、彼はそれを乗り越え、克服するのに全力を傾ける。そこには超人的意志の強さがあった。だが、彼には、その困難が生まれる真の原因について深く考えてみるという点で、不充分なところがあった。というのも、彼は、自分の信念の正しさについて、あまりにも確信があり、自分と違う考えはにな間違いと考えやすかった上に、自分は私利私欲のために動いているのではないと、神がけて誓いうる理想主義者だったからである。いずれにせよ、私の持つ斉藤秀雄像が正しければ、彼はとても大勢の同僚と仲よくやってゆけるような人間ではない。のち、指揮者として、管弦楽団と交渉を持つ場合も、彼はいつも他人より多い練習回数を求め、楽員とあれやこれやで衝突していたようだ。しかし、いろいろ指摘されている演奏家としての彼の短所のすべてを、教育者としての長所に転換し得たのが、彼の偉大さだった。彼は自分に何が足りないかをよく自覚し、自分ではやらないが、弟子には、どうすればよいかを示すことが出来た。彼は、それまで兎角カンに頼りがちだった音楽教育に体系的方法をもちこんだ。彼は指揮法の指南書を書いているが、これは拍子の取り方から、最も高度な技術まで、具体的に規定した本で、世界的に見ても珍書といえよう。私は斉藤秀雄を尊敬し、その理想追及のためにいっしょに働き、十年後に別れた。彼がいなかったら、日本の今日の姿はひどく違っていたろう。」要約/1983年2月15,16,17,18日読売新聞「百年の日本人掲載」より
註:斉藤秀雄・音楽と生涯、発行民主音楽協会、刊行昭和60年、P13-20、P326-327、

1946年44歳
東京交響楽団の専任指揮者の職を辞する。
森正、河野俊達、橘常定、巌本真理、渡邊暁雄、松浦君代、江藤俊哉らと東京室内楽協会を結成し、三越劇場を本拠とする三越室内楽鑑賞会の定期公演の母体となった。
年末ごろから自宅で指揮教室を開く。
写真下、左から江藤俊哉、渡邊暁雄、斎藤秀雄、松浦君代(三越劇場)

1947年45歳
指揮教室開設(目白の自由学園)。教材として森正を助手としてタイプ謄写のテキストを作成した。のちの「指揮法教程」の基になった。

1948年48歳
9月伊藤武雄、井口基成、吉田秀和らと準備を進めていた「音楽早期教育」は斉藤は実は鈴木乃婦子先生にいろいろ子供の音楽教育の理想を話していたら、大変賛同してくださってぜひ自由学園でそれを実現しましょうってことになったんです。』と述べている。結局うまくいかなく鈴木乃婦子らが家政学園に話をつけ「子どものための音楽教室」は開設された。
写真下、斎藤秀雄、右鈴木乃婦子

当時、鈴木先生も私も自由学園で教えていましたので、羽仁さんに話したんですがうまくいかなくて、鈴木先生が家政学院でも教えていらした関係で家政学院に話してくださったら理事会が、やってみようじゃないかということになったんですよ。それで私に会ってくれっていうことになって、話に行ったわけです。それで私は事務的なことが不得手ですから、吉田(秀和)さんをお願いしたんです。ところが、吉田さんがあまり乗り気じゃなかったので、私は吉田さんを脅かしたんですよ。”今、あなたがこの仕事をしなかったら、日本で非常に有意義な事がはじまろうとしているのに、それをつぶすことになる。ひとえに、日本の音楽の将来はあなたの双肩にかかっているんだってね。そしたら、吉田さんが引き受けてくださって、家政学院の田代理事に話に行ったのです。』こうして市ヶ谷の家政学院の施設を借りることにより市ヶ谷の東京家政学院内に「子供のための音楽教室」開設された。
音楽教室の吉田秀和ら創始者たちは、子供たちの限りない才能を大切にし、それを育み、未来を創り出すことに努めてた。
斉藤は、子供のための音楽教室(市ヶ谷の家政学院)」弦楽科主任となり、指揮教室開講(市ヶ谷の家政学院)した。
相愛学園音楽科弦楽主任となる。
<自由学園時代の斉藤>
後に指揮者となる山本直純は、斎藤が自由学園を借りて毎週日曜に開かれていた齋藤秀雄教室に通って指揮を学び始めた。
山本直純が斉藤教室に通い始めて一年くらいでAクラスになる。BやCクラスを教えるのはAクラスの生徒だった。やがて同門に、羽仁恊子、久山恵子、秋山和慶、飯守泰次郎、尾高忠明、山本直純がメンバーになる。午前がチェロ、午後は指揮の学生が勉強し、終わると斉藤の自宅に行ってお茶を喫するのが山本直純らの楽しみだった。
市ヶ谷では、家政学院の教室で日曜に開かれる子どものオーケストラ教室でソルフェージュを教えた。山本直純らは子どもたちの面倒をみながら懸命に指揮法を習った。「シャクイ」「ヒッカケ」「センニュウ」など、斉藤はさまざまな指揮用語で山本直純たちに指揮法を体感させた。レッスンは三人一組で二人がピアノの連弾でオーケストラ部分を弾き、一人が指揮をする。山本直純は小澤征爾、秋山和慶と一緒にやっていた。
写真下、自由学園指揮教室時代、左から佐々金治・久山恵子・羽仁恊子・斉藤秀雄・山本直純・横山千秋・後列小澤征爾

ある時、斉藤に東京フィルハーモニーが上野のタカラホテルで練習している所に連れて行かれ練習を見た。
この年、演奏会をやることになり初めてプロのオーケストラを相手に東京フィルハーモニーの棒を振って練習させてもらう。演奏会はいい結果を残せたが、練習時のリーダーシップの取り方、人格、人徳というものがないと人は簡単には動かないということを山本らは知った。
斎藤秀雄、山本直純らは、自由学園が4年に1度、外部のホールで開催している音楽会で指揮をしていた。
小澤は後に、「自分は日本に留まって音楽の底辺を広げる。お前は世界の頂点を目指せ」と山本直純から告げられたことがあった、と語っている。
註:斉藤秀雄・音楽と生涯【資料編座談会・桐朋二十年、創設期の思い出】、発行民主音楽協会、刊行昭和60年P304-305
写真下、左から河野俊達、森正、斎藤秀雄 演奏旅行(北海道砂川)

1949年47歳
三越室内楽鑑賞会の活動が認められ毎日音楽賞を受賞した。

1950年48歳
斉藤は教育活動に重点を置くようになり「子供のための音楽教室(市ヶ谷の家政学院)」に弦楽合奏団を作り、弦楽合奏教育を始める。
2月27日日本指揮者協会(Nippon Conductor Association、略称:NCA)に設立に参加。設立者は山田耕筰、近衛秀麿、齋藤秀雄、上田仁、尾高尚忠、金子登、山田一雄、渡辺暁雄、高田信一、森正。
写真下、井口基成、斎藤秀雄 演奏旅行

1951年49歳
指揮法を教えながら「指揮法教程」の原案を少しづつ進めていった。
この年から東響の定期公演の指揮を年1~2回振るようになる。
12月11日<東京交響楽団第40回定期演奏会>を指揮   日比谷公会堂
・J.S.バッハ《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調》より「シャコンヌ」斎藤秀雄編曲
・ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第四番ト長調》ピアノ:伊藤裕
・ブラームス《交響曲第二番ニ長調》

1952年50歳
京都市立音楽短期大学教授就任。
2月14日<東京交響楽団第42回定期演奏会>を指揮   日比谷公会堂
・モーツァルト《フィガロの結婚》序曲
・モーツァルト《ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調》ヴァイオリン:鈴木秀太郎
・ベルリオーズ《幻想協奏曲》
「子供のための音楽教室」卒業生の受入れ先の音楽課程のある高等学校を探した結果、桐朋女子高等学校の快諾を得ることが出来た。
4月学校法人桐朋学園・桐朋女子高等学校に男女共学の音楽科を併設スタートした。
「子供のための音楽教室」も家政学院から桐朋学園移った。
弦楽科主任となり合奏教育の責任者として務めた。
『音楽の基礎というには、音が正常に聞こえるということね。それは耳が良くならなければ、いくら指が廻ってもダメだということから考え始めて、どうしたら耳が良くなるかということを考えたんです。たまたま鈴木乃婦子さん(アルト歌手・当時家政学院で声楽指導)が共鳴してくれて、九段の家政学院で始めたのが最初です。それまでの教育は、先ず最初にヴァイオリンとかピアノとかで音符をいかに音にするかというテクニックの問題を先にやっていた訳です。そうじゃなくて、それより先に耳の方が良く聴こえてこなければ正確な音程はつかめないし、リズムが作れないということなんです。だから才能教育の鈴木慎一さんの方向とは逆な訳です。あちらはすぐ弾かせるし、こちらは先ず聴かせるということです。だから「聴音」「ソルフェージェ」が最も重要視されるわけです。で九段の家政学院でやっていたのですが、そこには高等学校をつくることができず、それで桐朋で付属音楽科を作った訳です。音楽科で最初に指揮を習いに入って来たのが小澤征爾なんです。』
5月22日<東京交響楽団第45回定期演奏会>を指揮   日比谷公会堂
・ベートヴェン《交響曲第四番変ロ長調》
・ベートヴェン《ピアノ協奏曲第1番ハ長調》ピアノ:加藤るり子
・ヴェルディ《シチリア島の夕べの祈り》序曲
・デュカス 交響詩《魔法使いの弟子》
12月4日<東京交響楽団第49回定期演奏会>を指揮   日比谷公会堂
・J.S.バッハ《コーヒ・カンタータ》伊藤京子(S.)・渡邊高之助(T.)・畑中良輔(Br.)
・チャイコフスキー《弦楽のためのセレナードハ長調》
・コダーイ《ハーリ・ヤーノシュ》

1953年51歳
1月14日<東京交響楽団第50回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・フォーレ《レクイエム》浅野千鶴子(S.)・秋元雅一郎(Br.)・成城合唱団
・シューマン《交響楽団第四番ニ短調》
・R・シュトラウス歌劇《サロメ》より「サロメの踊り」
京都市立音楽短期大学教授辞任。
5月7日<東京交響楽団第54回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・J.S.バッハ《組曲第2番ロ短調》フルート:林りり子
・ヒンデミット《画家マティス》
・フランク《交響曲ニ短調》
11月23日<東京交響楽団第57回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・ミヨー バレエ音楽《世界の創造》
・プーランク 歌曲集《村人の歌》ソプラノ:相澤アクリヴィ
・入野義朗《シンフォニエッタ1953》
・ブラームス《交響楽団第四番ホ短調》
 
1954年52歳
桐朋女子高等学校音楽一期生の卒業年を迎えるについて、桐朋学園短期大学音楽科が開設され、弦楽科及び指揮科主任教授就任する。
5月13日<東京交響楽団第62回定期演奏会>を指揮     日比谷公会堂
・J.S.バッハ《フーガの技法》編曲:斎藤秀雄
・ショーソン歌曲集《夏と海の詩》より「リラの花咲くころ」、ソプラノ:福澤アクリヴィ
・デュパルク《旅への誘い》ソプラノ:福澤アクリヴィ
・プーランク ピアノと18の楽器のための《朝の歌》ピアオ:大堀洋子
・R・シュトラウス 交響詩《死と変容》
10月7日<東京交響楽団第64回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・モーツァルト《セレナード第7番ニ長調》「ハフナー」
・石井歓 交響詩《山》
・カバレフスキー《ヴァイオリン協奏曲ハ長調》ヴァイオリン:巌本真理
・R・シュトラウス《ばらの騎士の円舞曲》

1955年53歳を兼任。
相愛学園(大阪)「子供の音楽教室」弦楽科主任
桐朋学園短期大学音楽科開設〔学長 井口基成〕され、斉藤は弦楽科および指揮科主任教授就任した。
東京フィルの定期公演を年1-2回振るようになる。
5月12日<東京交響楽団第70回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・荻原利次 交響詩《早春の広場》
・JSバッハ《ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調》
・JSバッハ《ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調》
・ミヨー《交響曲第一番》
・ブゾーニ《喜劇序曲》作品16
11月10日<東京交響楽団第73回定期演奏会>を指揮     日比谷公会堂
・間宮芳生《交響曲(1955)》
・バルトーク《ピアノ協奏曲イ短調》ピアノ:園田高弘
・ブラームス《セレナード第2番イ長調》

1956年54歳
芸術院賞受賞
4月2日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮     日本青年館    
・モーツァルト《劇場支配人序曲》
・ブゾーニ《喜劇序曲》指揮     
5月10日<東京交響楽団第78回定期演奏会>を指揮     日比谷公会堂
・別宮貞夫《二つの祈り》(1956)
・シューマン《ピアノ協奏曲イ短調》ピアノ:高野曜子
・シューマン《交響曲第三番変ホ長調》「ライン」
11月8日<東京交響楽団第81回定期演奏会>を指揮     日比谷公会堂
・オネゲル 交響詩《夏の牧歌》
・バルトーク《舞踊組曲》
・シューマン《チェロ協奏曲イ短調》チェロ:ルートヴィヒ・ヘルシャー
・ハイドン《チェロ協奏曲ニ長調》チェロ:ルートヴィヒ・ヘルシャー
11月29日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮     桐朋学園講堂
・グルック 歌劇《オルフェオとエウリディーチュ》全曲
出演:オルフェオ/戸田敏子、エウリディーチュ/佐藤花子、古澤淑子、補助指導/斉藤秀雄、小澤征爾、合唱指揮/伊藤武夫、桐朋学園オケストラ・桐朋学園合唱団、桐朋学園講堂。
『指揮法教程』が音楽之友社から出版された。レナード・バーンスタインから賞賛されるなど、斎藤の遺した最も大きな仕事の一つ。

1957年55歳
3月25日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮      神奈川県立音楽堂
フランク《交響的変奏曲》、出演:林秀光(Pf.)/柳瀬洋子・竹前聡子・久山恵子・森正(指揮)、神奈川県立音楽堂
3月31日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮      日本青年館
フランク《交響的変奏曲》を指揮、出演:林秀光(Pf.)/柳瀬洋子・竹前聡子・久山恵子・森正(指揮)、日本青年館
東響定期公演でシベリウスを追悼し、シベリウス《トゥオネラの白鳥》と《交響曲第四番》などを指揮
5月9日<東京交響楽団第86回定期演奏会>を指揮
・安倍幸明《交響楽第一番》
・ヘンデル オラトリオ《救世主》より
・メンデルスゾーン オラトリオ《エリア》より
・カステルヌオーヴォ=テデスコ カンタータ《ナオミとルツ》より
・ガーシュウィン《オギーとベス》より
・黒人霊歌《イエスのもとにのがれよう》 メゾソプラノ:ジョージア・ラスター
・黒人霊歌《進め、主イエス》
・プロコフィエフ 組曲《キージェ中尉》
・コダーイ《ガランタ舞曲》
11月7日<東京交響楽団第88回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・モーツァルト《協奏交響曲ホ長調》
演奏:丸山盛三(ob.)・北爪利世(cl.)・太田佐武郎(fg.)・安原正幸(hrn.)
・サン=サーンス《ヴァイオリン協奏曲第三番ロ短調》ヴァイオリン:ジャンヌ・イスナール
シベリウス《四つの伝説》より「トゥオネラの白鳥」
・シベリウス《交響曲第四番イ短調》
12月7日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮     共立講堂
フォーレ《レクイエム》出演:伊藤武雄(Br.)・永山圭子(S.)

1958年56歳
井口基成学長の外遊のため、桐朋学園短期大学学長就任。
相愛女子大学音楽学部弦楽科主任
4月1日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮     神奈川県立音楽堂
ハイドン《チェロ協奏曲ニ短調》チェロ:堤剛
4月3日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮     日比谷公会堂
ハイドン《チェロ協奏曲ニ短調》チェロ:堤剛
12月9日<東京交響楽団第96回定期演奏会>を指揮
・諸井誠《管弦楽のためのコンポジション第二番》
・ブラームス《ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調》ヴァイオリン:塩田益子、チェロ:堤剛
・ムソルグスキー 組曲《展覧会の絵》(ラヴェル編曲)

1959年
4月27日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮     日比谷公会堂     
・プロコフィエフ《ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調》ヴァイオリン:潮田益子、
・リスト 交響詩《前奏曲》を指揮
12月8日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    相愛講堂
・モーツァルト《ザルツブルク・シンフォニー》
・モーツァルト《セレナード第6番ニ長調》
・ブリトゥン《ザ・シンプル・シンフォニー》

1960年58歳
3月17日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    文京公会堂
・バルトーク《弦楽のためのディヴェルティメント》
・シューマン《ピアノ協奏曲イ短調》ピアノ:高橋晴子
・ドヴォルザーク《交響曲第9番ホ短調》「新世界より」
5月18日<日本フィル第23回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・ヘンデル《交響曲第92番》
・コダーイ《ハーリ・ヤーノシュ》
・バルトーク《ヴィオラ協奏曲》ヴィオラ:北爪規世
井口基成帰国し桐朋学園短期大学学長の任を退く。
11月8日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    共立講堂
ヴィヴァルディ《四季》より「夏」ヴァイオリン:振吉圭子
12月6日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    相愛講堂
・シューベルト《軍隊行進曲第1番ニ長調》
・ヨナッソン《かっこうワルツ》
・ヴィヴァルディ《四季》より「秋」
・モーツァルト《セレナード第13番ト長調》「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
・ウェーバー《舞踊への勧誘》「華麗なロンドニ長調」ベルリオーズ編曲
・ブラームス《ハンガリー舞曲集》より「第5番、第6番」

1961年59歳
3月22日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    東京厚生年金会館
・パガニーニ《ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調》ヴァイオリン:久保陽子
・ブラームス《交響曲第一番ハ短調》
桐朋学園大学音楽学部開設され四年制となる(学長 井口基成)
演奏学科(ピアノ専攻、弦管打楽器専攻、声楽専攻)、作曲理論学科(作曲・指揮専攻、音楽学専攻)などの各科となる。
5月10日斉藤は、桐朋学園大学音楽学部教授、指揮科及び弦楽科主任、オーケストラ運営の責任者となった。
11月21日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    東京厚生年金会館
・サン=サーンス《チェロ協奏曲第一番イ短調》チェロ:岩崎洸
・ロッシーニ《セビリアの理髪師序曲》
11月28日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二・大橋博    朝日会館
・レオポルド・モーツァルト《おもちゃの交響曲》「カッサシオント長調より」
・パデレウスキ《メヌエット》「演奏会用ユモレスク第一曲」
・シューベルト《楽興の時第三番へ短調》
・ヴィヴァルディ《四季》より「夏」
・J.S.バッハ《シャコンヌ》斎藤秀雄編曲
・ヨハン・シュトラウス《美しき青きドナウ》

1962年60歳
NHK交響楽団と小澤征爾とのトラブルについて解決の方策を考えた。
12月26日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    ABCホール
・ヴィヴァルディ《合奏協奏曲イ短調》
・ハイドン《交響曲第94番ト長調》「驚愕」第2・3楽章
・コレッリ《合奏協奏曲集》「第8番ト短調」クリスマス・コンチェルト
・モーツァルト《交響曲第38番ニ長調》「プラハ」
・ロッシーニ《セビリアの理髪師序曲》

1963年61歳
桐朋学園オーケストラ海外公演実現の方途について準備を進めた。
12月12日<日本フィル第74回定期演奏会>を指揮    東京文化会館
・モーツァルト《交響曲第29番イ長調》
・グラズノフ《ヴァイオリン協奏曲イ短調》ヴァイオリン:和波孝禮
・ブラームス《交響曲第三番》

1964年62歳
3月17日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    東京厚生年金会館
・ベートーヴェン《交響曲第三番変ホ長調》「英雄」
7月6-27日桐朋学園弦楽合奏団が結成され、入野義郎団長引率し、アメリカ公演を全米各地で行う。指揮者として同行。7月6日19時30分目黒雅叙園ホテルに渡米桐朋学園弦楽合奏団集合
7月7日7時バスで羽田空港へ、日本航空810便。
7月6日日付変更線をこえ、22時30分ホノルル空港着。23時59分ホノルル空港発。
7月7日ロスアンジェルス空港着。U.C.L.Aの寄宿舎に入る。ロスアンジェルス泊。
7月8日U.C.L.A内ロイスホールで初練習、終了後ディズニーランド見学。ロスアンジェルス泊。
7月9日ロイスホールで最初の演奏会。22時40分頃終演。夜食と荷造り。ロスアンジェルス泊。
7月10日11時ロスアンジェルス発、U.A006便、17時55分ニューヨーク・ケネディ空港着。ニューヨーク泊。
7月11日13時ホテル発。スタンフォードへ。18時30分演奏会(ベニー・グッドマン主催)。ニューヨーク泊。
7月12日14時フィルハーモニー・ホールで練習。終了後、ニューヨーク郊外のScarsdaleへ向かう。ニューヨーク泊。
7月13日10時30分-13時まで練習。20時フィルハーモニー・ホールで小澤征爾の指揮で第一回演奏会。ニュヨーク泊。
7月14日練習。午後、休養買い物後に17時まで練習。20時第二回目の演奏会。ニューヨーク泊。
ヴィヴァルディ《四季》「春と夏」、JSバッハ《ピアノ協奏曲第1番ニ短調》を指揮。
7月15日10時-13時練習。20時小澤征爾の指揮で第三回演奏会。ニューヨーク泊。
7月16日10時―13時練習。20時第四回演奏会。ニューヨーク泊。
ヴィヴァルディ《ソプタニーノ・リコーダーのための協奏曲》を指揮
7月17日13時まで練習。19時第五回演奏会。21時30分第六回演奏会。ニューヨーク泊。
ヴィヴァルディ《四季》「春と夏」、JSバッハ《ピアノ協奏曲第1番ニ短調》を指揮。
7月18日11時練習。19時第七回演奏会。21時30分第八回演奏会。ニューヨーク泊。
ヴィヴァルディ《ソプタニーノ・リコーダーのための協奏曲》を指揮
7月19日10時30分ホテル出発。ニューヨーク世界博覧会見学。19時食事後荷造り。。ニューヨーク泊。
7月20日9時20分ホテル出発。バスでタングルウッドへ。13時50分タングルウッド着。音楽村で昼食後宿舎へ。15時45分ビボストン・シンフォニーの野外演奏会場での演奏会。終演後バスで宿舎へ。タングルウッド泊。
7月21日10時音楽村着。ラインスドルフ指揮の学生オーケストラの練習に桐朋勢数人が加わる。20時クラウディオ・アラウのピアノ・リサイタル。タングルウッド泊。
7月22日7時30分ノーフォーク(エール大学音楽部のサマー・スクール開催地へ)。9時音楽キャンプ着。朝食後普段着のままコンサート。モーツァルト《ディヴェルティメント》ほか。終演後バスでニューヨーク・ケネディ空港へ向かう。16時U.A.029便でサンフランシスコへ。18時サンフランシスコ着。サンフランシスコ泊。
7月23日10時30分ヒルトンホテル練習。20時演奏会。終演後総領事館主催のパーティ。サンフランシスコ泊。
7月24日8時30分朝食後、市内見物。14時サンフランシスコ発、空路ホノルルへ。15時55分ホノルル空港着。ホノルル泊。
7月25日9時30分ワイキキ・シェルで練習。20時ワイキキ・シェルで野外演奏会。ホノルル泊。
7月26日8時30分朝食後、島めぐりや海水浴。17時30分ホノルル発、日本航空801便。
7月27日18時15分羽田空港着。控室で学長の挨拶があった後、解散。
11月12日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    毎日ホール
・モーツァルト《セレナード第6番ニ長調》
・ローサス《円舞曲‐波を越えて》
・ヴィヴァルディ《四季》より「冬」
・ロッシーニ《弦楽四重奏のためのソナタ第1番ト長調》
・グルック 歌劇《アウリスのイフィゲニア序曲》
・シューベルト《交響曲第8番ロ短調》「未完成」
11月17日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    東京厚生年金会館
・モーツァルト《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲ホ長調》ヴァイオリン:梅津南美子・ヴィオラ:今井信子
写真下、タングルウッド ボストン交響楽団音楽監督ラインスドルフ(中央、左斉藤)と桐朋学園弦楽合奏団メンバー

1965年63歳
前年の桐朋学園オーケストラ渡米弦楽合奏団に対して第六回毎日芸術大賞が授与された。

1966年64歳
3月17日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮   東京厚生年金会館
・ドヴォルザーク《チェロ協奏曲ロ短調》チェロ:安田謙一郎
11月18日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    東京厚生年金会館
・ベルリオーズ《ローマの謝肉祭序曲》
11月26日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二・徳丸聡子    毎日ホール
・ヴィヴァルディ《四季》より「」春
・ブラームス《ハンガリー舞曲集》「第5・第6番」
・ブリトゥン《シンプル・シンフォニー》
・ハイドン《交響曲第92番ト長調》「オックスフォード」
・ロッシーニ《セビリアの理髪師序曲》

1967年65歳
3月17日<読売交響楽団第37回定期演奏会>を指揮    東京文化会館
・ハイドン《交響曲第92番ト長調》「オックスフォード」
・J.S.バッハ《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第二番ニ短調》より「シャコンヌ」斎藤秀雄編曲
・ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲ニ短調》ヴァイオリン:宗倫匡
・バルトーク《舞踊組曲》
日本指揮者協会会長に就任。
7月民音第一回指揮者コンクール審査委員長
11月26日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    毎日ホール
・ヴィヴァルディ《合奏協奏曲集「調和の霊感」第3番ト長調》
・チャイコフスキー《セレナードハ長調》
・ベートーヴェン《交響曲第八番ヘ長調》
・ビゼー《カルメン組曲第1番》「間奏曲、闘牛士の歌」

1968年66歳
2月8日<日本フィル第154回定期演奏会>を指揮    東京文化会館
・フォーレ《レクイエム》を指揮
出演:滝沢三重子()・芳野靖夫()・日本合唱協会・東京カンマー・コーア
・ピアノ小品集7曲、ピアノ:アダム・ハラシュヴィチ
9月30日<日本フィル第165回定期演奏会>を指揮    東京文化会館
・ヘンデル《合奏協奏曲ロ短調》
・ヴュータン《ヴァイオリン協奏曲第五番イ短調》「ル・グレトリー」ヴァイオリン:前橋汀子
・チャイコフスキー《セレナードハ長調》
・チャイコフスキー《幻想的序曲》「ロメオとジュリエット」
11月27日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二・大森栄一    大阪厚生年金会館
・ウェーバー《オベロン序曲》
・ヴィヴァルディ《調和の霊感》「第1番ト長調」
・バルトーク《ジーベンビュルゲンの踊り》
・シューベルト《セレナード》相愛合唱団
・三善晃《三つの抒情》
・メンデルスゾーン《交響曲第四番イ長調》「イタリア」

1969年
2月12日<東京交響楽団第166回定期演奏会>を指揮    東京文化会館
・ベートヴェン《レオノーレ序曲第三番》
・ベートヴェン《ピアノ協奏曲第五番変ホ長調》「皇帝」ピアノ:宮澤明子
・ベートヴェン《交響曲第三番変ホ長調》「英雄」
9月16日<日本フィル第184回定期演奏会>を指揮    東京文化会館
・ベートーヴェン《エグモンド序曲》
・ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲ニ短調》ヴァイオリン:海野義雄
・ベートーヴェン《交響曲第五番ハ短調》
11月25日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    大阪厚生年金会館
・ヴィヴァルディ《四季》「秋」
・ハイドン《交響曲第94番ト長調》「驚愕」
・ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番ハ短調》ピアノ:布野敦子
・モーツァルト《交響曲第41番ハ長調》「ジュピター」
・スメタナ《わが祖国》「モルダウ」

1970年68歳
2月21日<東京都交響楽団第21回定期演奏会>を指揮     東京文化会館
・モーツァルト《交響楽団第36番ハ長調》「リンツ」
・チャイコフスキー《ロココの主題による変奏曲イ長調》チェロ:岩崎洸
・ファリャ バレエ曲《三角帽子》第2部より「近所の人たちの踊り・粉屋の踊り・終幕の踊り」
民音第二回指揮者コンクール審査委員長
9月桐朋学園渡欧弦楽合奏団を結成、ソ連、東欧諸国を含む初のヨーロッパ演奏旅行(13カ国31都市・9月26-11月30日の66日間)に斎藤は同行した。ヨーロッパにおける桐朋の評価を決定づけるものとなる。
写真下、左から秋山和慶、アルヴィド・ヤンソンス、斉藤秀雄 レニングラードにて

1971年69歳
2月25日<日本フィル第215回定期演奏会>を指揮    日比谷公会堂
・J.S.バッハ《組曲第二番ロ短調》フルート:峰岸壮一
・サン=サーンス《ヴァイオリン協奏曲第三番ロ短調》ヴァイオリン:柳田昌子
・シューベルト《交響曲第五番変ロ長調》
9月桐朋学園は専任のまま、相愛学園大学音楽学部(大阪)の学部長に就任
11月19日桐朋学園オケストラ演奏会を指揮    東京厚生年金会館
・モーツァルト《クラリネット協奏曲イ長調》クラリネット:堀内信彦
11月24日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二・酒井睦夫    大阪厚生年金会館中ホール
・コレッリ《合奏協奏曲集》「第7番ニ長調」
・グルック《アウリスのイフィゲニア序曲》
・ブロッホ《弦楽合奏とピアノのための合奏協奏曲第1番》
・ハイドン《交響曲第100番ト長調》「軍隊」
・リスト 交響詩《前奏曲》

1972年70歳
2月9日<日本フィル第234回定期演奏会>を指揮     東京文化会館
・ベートーヴェン《レオノーレ序曲第三番》
・ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第三番ハ短調》ピアノ:内田光子
・ベートーヴェン《交響曲第七番イ長調》
9月新日本フィルハーモニ交響楽団指揮者団顧問
<新日本フィルハーモニ交響楽団指揮者団顧問になるまでの経緯>
斉藤秀雄、山本直純や首席指揮者小澤征爾が指揮していた日本フィルハーモニー交響楽団は、三月末を以てフジテレビと文化放送との「雇用契約」を終了することになる。
六月に両社がオーケストラの解散と楽団員の全員解雇を通告をし、財団法人としての日本フィルは、その年の六月末を以て解散に追い込まれた。
当時の首席指揮者だった小澤征爾は解散阻止のため昭和天皇への直訴までした。日本フィルは二つに分裂した。組合派の団員はとどまって自主的な演奏活動を行い、解雇を不当として裁判所に訴えた。そうして以後十二年間もの裁判闘争が続いたた。
一方、ストライキに参加しなかった十数名は山本直純らと共に新しいオーケストラに参加した。また、山本直純が、小沢征爾に”どうする”と聞いた時、小澤が”誰々を押さえてくれ”と言われ、彼らも団員として新日本に参加した。山本直純は小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に走った。斉藤秀雄は顧問に、斉藤の指示で山本は指揮者団幹事に、小澤征爾は首席指揮者に就任した。指揮団には斎藤秀雄(顧問)、小澤征爾(首席)、山本直純(幹事)、横山幸雄、手塚幸紀がなった。始めてから三年くらいは、全員が月給五万円だった。みんなでいくつかの仕事をこなしてどうにか食いつないでいたという。
11月30日相愛オーケストラ演奏会   指揮:斉藤秀雄・東儀祐二    大阪厚生年金会館大ホール
・ヴィヴァルディ《調和の霊感》「第7番ニ長調」
・モーツァルト《セレナード第6番ニ長調》
・ドヴォルザーク《弦楽のためのセレナードホ長調》
・ビゼー《交響曲第一番ハ長調》
・ヨハン・シュトラウス《ジプシー男爵序曲》

1973年71歳
桐朋学園音楽学部定年退職。桐朋学園音楽学部参与・名誉教授
相愛学園大学音楽学部学部長退任
4月3日<新日本フィル第8回定期演奏会>を指揮     東京文化会館
・モーツァルト モテット《エクスルターテ・ユピラーチ》ソプラノ:片野坂栄子
・モーツァルト《ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調》「トルコ風」ヴァイオリン:久保陽子
・モーツァルト《ファゴット協奏曲変ロ長調》ファゴット:浅野和義
・モーツァルト《交響曲第39番変ホ長調》
民音第三回指揮者コンクール審査委員長
11月斉藤秀雄 教える事は学ぶ事 NHK放送インタビュー出演
ロン=ティボー国際コンクール審査員となり渡欧
11月文化功労者に顕彰される
写真下、「文化功労者」顕彰祝賀会。斉藤秀雄夫妻と藤原義江

1974年72歳
2月病気をおして新日本フィル定期演奏会を指揮する。これがラストステージとなった。
2月18日<新日本フィル第16回定期演奏会>を指揮     東京文化会館
・ロッシーニ《セビリアの理髪師序曲》
・チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲ニ長調》ヴァイオリン:佐藤陽子
・ムソルグスキー 組曲《展覧会の絵》ラヴェル編曲
・ヨハン・シュトラウス《皇帝円舞曲》
3月大腸がんの手術し入院。
8月桐朋学園オーケストラ志賀高原合宿に車いすで重病の体で参加する。最後の指揮をとる。
音楽教師対象の広島における連続講義を決行
9月18日癌のため東京都中央区の聖路加国際病院で逝去した。
正四位勲二等瑞宝章を追贈される。
イエール大学よりサン・フォード賞が贈られる
写真下、イエール大学サン・フォード賞授与式(壇上、中央左小澤征爾、その右斉藤夫人)

<没後>
1982年
5月25日チェロ門下生だけで、斉藤を偲ぶ演奏会<斎藤秀雄先生を偲ぶチェロ・グランド・コンサート>を東京文化会館大ホールで開催。演奏者は岩崎洸・藤原真理・平井丈一朗・松波恵子・菅野博文・倉田澄子・堀了介・橘常定・千本博愛・徳永兼一郎・西内荘一・伊堂寺仁・松下修也・丹羽経彦・原田喜一・鈴木秀美・鷲尾勝郎・升田俊樹・堤剛・桜庭茂樹・山崎伸子・渡邊暁・音川健二・森純子・渡辺滋・木越洋・安田謙一郎、指揮:井上頼豊であった。「チェロ・アンサンブル・サイトウ」の結成につながる。

1984年小澤征爾、秋山和慶らのよびかけにより、齋藤の教え子たちが世界中から集まり、主体となって「斉藤秀雄メモリアル・コンサート」サが開かれる。

1987年「サイトウ・キネン・オーケストラ」結成。このとしより毎年海外演奏旅行が始まる。ザルツブルク、カーネギーホールなどで評判を高めた。

1992年長野県松本市において「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(現・セイジ・オザワ 松本フェスティバル)が開始された。

2002年齋藤の妻・齋藤秀子(2000年に死去)の遺言により財団法人ソニー音楽芸術振興会によって「齋藤秀雄メモリアル基金賞」が創設された。

小澤征爾など斎藤のもとで指導を受けた門下生が編集委員となり、英訳版である“ THE SAITO CONDUCTING METHOD ”が音楽之友社より出版された。

5.主な作品

マンドリン小二重奏曲「蚊トンボ」
フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲
管弦楽のための「お才」
大東亜戦争行進曲「紀元二千六百一年」

6.その他


SPレコード復刻CD集 1(ロームミュージックファンデーション)
『日本人音楽家国内録音 (1)』 
⑴スッペ作曲《詩人と農夫》序曲(1933年録音) 斎藤秀雄(チェロ)、近衛秀麿(指揮)、新交響楽団。
⑵『Hidemaro Konoye inviting to the waltzes 近衛秀麿・幻の新年演奏会』 ウェーバー作曲、ベルリオーズ編曲《舞踏への勧誘》(1933年録音) 斎藤秀雄(チェロ)、近衛秀麿(指揮)、新交響楽団。
⑶『宮澤賢治の聴いたクラシック』 収録曲は、⑵と同じ。

7.初演


1928年3月11日<新響第二十五回定期演奏会>ソリストとして出演しボエルマン《交響変奏曲》を初演。
1935年10月2日<斉藤秀雄・沢崎(井口)秋子ソナタの夕>曲目:バッハ《三つのコラール前奏曲(コダーイ編)》初演/ベートヴェン《ソナタ第5番》初演/ヒンデミット《ソナタ作品11の3》初演、軍人会館において。

8.関連動画

《ハンガリー舞曲》(第六番)
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316622/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316622

《ハンガリー舞曲》(第五番)
斉藤秀雄:指揮演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316621/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316621

ハイドン《セレナーデ》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3571256/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3571256

ボアルデユ《バクダッドの大守》(上)
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316526/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316526

ボアルデユ《バクダッドの大守》(下)
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316527/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316527

シャルル・グノー《フアウスト・ワルツ》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316510/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316510

ブランケンバーグ《フリードリッヒ大王行進曲
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316608/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316608

グリーグ《ペールギュント》より「アニトラの踊り」
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316530/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316530

オッフェンバック《ホフマンの舟歌》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3571227/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3571227

J.シュトラウス《ラデッキイ・マーチ》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316599/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316599

J.シュトラウス《芸術家の生涯(一)》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316625/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316625

J.シュトラウス《芸術家の生涯(二)》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316626/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316626

グノー《兵士の合唱》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8275573/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8275573

ベートーヴェン《土耳古行進曲》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316509/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316509

カール・タイケ《:旧友行進曲》
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316504/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316504

ワルドトイフエル《スケータース・ワル》ツ
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316598/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316598

ビゼー《カルメン》「間奏曲」
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316637/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316637

ワルドトイフエル《エステュデイアンテイナワルツ》
齋藤秀雄:指揮/演奏::新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316505/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316505

ビゼー《アルルの女》「メヌエット」
斉藤秀雄:指揮/演奏:新交響楽団
https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316638/1
国立国会図書館「歴史的音源」https://rekion.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1316638

<斉藤秀雄によるレッスン>
<Hideo Saito (1966) 1 of 3>

<斉藤秀雄によるレッスン>
<Hideo Saito (1966) 2 0f 3>

<斉藤秀雄によるレッスン>
<Hideo Saito (1966) 3 of 3>

<日本の巨匠①山田耕筰・斎藤秀雄・近衛秀麿>

<齊藤秀雄 ヴィヴァルディ「四季」から「秋」 徳永二男1964年>

<斎藤秀雄先生を偲ぶチェロ・グランドコンサート>
斎藤秀雄門下生による演奏会
Cello:井上頼豊(指揮とチェロ)・平井丈一朗・堤剛・松波恵子・倉田澄子・菅野博文・橘常定・伊堂寺仁・丹羽経彦・松下修也・山崎伸子・渡辺暁・岩崎洸・堀了介・西内荘一・徳永兼一郎・千本博愛・原田喜一・渡辺滋・升田俊樹・藤原真理・森純子・鈴木秀美・音川健一・安田謙一郎・木越洋・鷲尾勝郎・桜庭茂樹、Piano:弘中孝
1982年5月25日 東京文化会館

<齋藤秀雄メモリアルコンサート>
R.シュトラウス 交響詩《ドン・キホーテ》作品35
ヴィオラ=今井信子、チェロ=堤剛
小澤征爾指揮/桐朋学園齋藤秀雄メモリアル・オーケストラ
1984年9月18日 文化会館大ホールライブ録音

<斉藤秀雄 教える事は学ぶ事 (NOV 1973 インタビュー)> 1:59:14

<斎藤英雄没後30年 ドキュメンタリー>
https://youtu.be/aQdkPkHSLUQ

参考文献:斉藤秀雄講義録、小澤征爾ほか編、発行白水社、刊行2004年 / 斉藤秀雄のチェロ教育、井上頼豊ほか編、発行音楽之友社、刊行1990年 / 斉藤秀雄音楽と生涯、編著・発行財団法人民主音楽協会、刊行昭和60年 / 斉藤秀雄の生涯、中丸美繪、発行新潮文庫、刊行平成14年 /  http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/efl_dictionaries_01.htm/辞書家としての斎藤秀三郎 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9%E5%AE%B6%E8%87%A3/仙台藩家臣 /  https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-12012728198.html/斎藤秀三郎 ー指揮者・斎藤秀雄の父ー /  https://www.library.pref.miyagi.jp>publication>kotoba-17>kotoba-17/宮城県図書館斎藤秀三郎 /  https://kingendaikeizu.net/ozawaseizi.htm/斎藤秀雄・小澤征爾家系図 / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/斉藤秀三郎 /   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E7%A7%80%E9%9B%84/齋藤秀雄 / 事興信録 4版 / 人事興信録 8版 / 人事興信録 13版 / 人事興信録 19版 / 現代物故者事典 / 日本近現代人物履歴事典 / 明治大正人物事典 / https://keibatsugaku.com/saito/ / http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saitou_hds.html/斉藤秀三郎 / https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeiken1964/1964/3/1964_3_1/_pdf/「斉藤秀三郎」補遺、大村喜吉 / https://rekion.dl.ndl.go.jp/公立図書館歴史的音源 /