「写真提供:加須市」
下總皖一
Kanichi Simoosa
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1.プロフィール
本名は下總覺三(しもおさ・かくぞう)という
下總皖一は1898年(明治31年)、埼玉県北埼玉郡原道村大字砂原75番地(現・大利根町)で父:吉之丞、母:ふさの子として生まれた。兄:好昌、姉:かね、弟:徳三郎の4人兄弟の3番目である
《たなばたさま》《野菊》などを作曲。東京藝術大学教授として和声学など音楽理論を確立し、日本近代音楽の基礎を築いた。文部省派遣留学生としてベルリン高等音楽院に留学、パウル・ヒンデミットに師事した。数多の優れた音楽家を育てた教育者。1956年東京藝術大学音楽学部学部長に就任。七十数年の音楽学校の歴史において初の音楽学部出身者が就任したことになった。
1904~1910年12才、地元の原道村尋常小学校卒業
1910~1912年14才、父が校長していた北葛飾郡栗橋高等小学校卒業
1912~1917年19才、埼玉県師範学校本科(現埼玉大学)寄宿舎生活のなか勉学や音楽に励み卒業
1917~1920年3月25日22才、東京音楽学校(現東京藝術大学)甲種師範科首席卒業
同年4月新潟県、長岡女子師範学校教師として奉職した。以降、秋田県立秋田高等女学校、岩手県師範学校、栃木県師範学校、東京の成城小学校、東京女子高等師範学校、帝国音楽学校、府立第九中学校、武蔵野音楽学校、日本中学校等々で教壇に立ち教職者としての道を歩んだ
1932年34才、文部省在外研究員としてベルリン高等音楽学校‐ホッホシューレ(ベルリン音楽大学)に留学し、作曲家のヒンデミット等に学ぶ
1934年9月36才、帰国後、東京音楽学校講師拝命、同年12月助教授に任命された
1940年42才、音楽教科書編纂委員
1942年44才、教授就任
1956年58才、音楽学部長に就任
1959年61才、学部長辞任後、亡くなるまで同校の教授を務めた
1962年7月8日64才歿。「正四位」に叙される
門下に團伊玖磨、芥川也寸志、石桁眞禮生等がいる
純音楽作品のほか小学唱歌や童謡などの作品を残した。作品に《蛍-1932年》《たなばたさま-1940年》《花火-1941年》《野菊-1942年》《かくれんぼ》《母の歌》ほか1000曲以上の作品が残された。それらは校歌を含め今なを広く歌われ続けている。多くの理論書:「作曲法」「作曲法入門」「対位法」「楽典」「和声学」「楽式論並びに楽曲解剖」「合唱編曲法」などの名著がある
2.生没年・出身地・歿地・墓地
Historische Chronologie
通称 下總皖一
Simo-fusa,Kan-ichi
本名:下總覺三
Simo-osa,Kakuzou
本人は「しもおさ かくぞう」が正式な読みと語っている
1898年3月31日埼玉県北埼玉郡原道村生まれ
1962年7月8日肝臓がんなどの病気で他界する
埋葬地:東京都東村山市萩山町1-16-1 東京都小平霊園27-2-18
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3.職業
作曲家
教育者・東京藝術大学教授
4.称号
加須市名誉市民(旧大利根町名誉町民
5.家族
父:下總吉之丞~教育者・栗橋尋常高等小学校訓導兼校長
母:ふさ
兄:好昌
姉:かね
弟:徳三郎
妻:伸枝(旧姓:飯尾千代子)
養子:忠敬
養女:とし子
孫:佐代子
孫:希代子
6.下総皖一 / 歴史年譜
Simo-osa,Kakuzou / Historische Chronologie(1898~1962)
1898年3月31日、埼玉県北埼玉郡原道村大字砂原75(旧大利根町、現・加須市砂原)に父:吉之丞、母:ふさの二男として生まれる
父は教師、尋常小学校・高等小学校の校長を務め30数年の教員生活をおくった。母は農業のかたわら祖母とウドンの製造販売をしていた
1904年6才、4月、「原道村尋常小学校」入学
1908年10才、3月原道村尋常小学校四学年を卒業。小学校令の一部改正により尋常小学校の年限は六年制となり五年に進級
1910年12才、3月「原道村尋常小学校」卒業
4月、北葛飾郡「栗橋高等小学校」に入学。覺三が入学した当時、父は栗橋高等小学校の校長をしていた。家から学校まで利根川に沿った道で約一里半(約6㎞)あった。夏は七時半始まりのため、あさ五時前に起床した。兄や姉も栗橋高等小学校に通った道だった
1911年11才、当時、教室のベビーオルガンに触れることを生徒は許されていなかった『 町にお祭がある時、よく、私は祖母と二人で学校の小使いさんにおよばれして、小使室へ泊めて貰った。オルガンは昼の間は教員室に置いてあって一切いじらせられないが、小使室へ泊った夜は誰にも遠慮もなくぶーぶー鳴らす事が出来た。
何という嬉しさ。がらんとした校舎に響きわたるベビーオルガンの音を、私はいつまでも楽しんだのである。勿論すらすらなど鳴ってくれないけれど、耳と片手の指でさぐりさぐり鳴らすのである 』
この頃には覚三少年が音楽、オルガンという鍵盤楽器に興味を示していたことは周囲には知られていたようだ。
『高等小学校二年の時に級長をしており転任先生に送辞を書いて校庭に並んだ生徒の前で読んだ』という
参考※6.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、288~289頁
1912年14才、3月,北葛飾郡教育会総会が行われ「模範児童」の表彰があり覺三が受賞した。同月「栗橋高等小学校」を卒業
4月、浦和町鯛ヶ窪(現さいたま市役所所在地)の「埼玉県師範学校予備科」に入学(修行年限一年)。寄宿舎に入りそこからの通学となった
1913年15才、4月「埼玉県師範学校本科一部」一年に進級
『師範学校の生徒になったが、オルガンはいじらせられなかった。ちょっといじって上級生から手ひどく叱られた。やむなく冬休み、夏休みに小学校へ行ってベビーオルガンを鳴らしてはひそかに喜んだ。やがて、一年生が終わり、二年生を過ぎて、三年生になった時、漸く楽器使用が許された。』
引用※7.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、288~289頁
1917年19才、3月、「埼玉県師範学校本科一部」を卒業
4月、東京市下谷区上野公園地、「東京音楽学校甲種師範科」(校長:村上直次郎)に入学
参考※8.:甲種師範科は中等教員養成目的で設置され募集30~40名の3年制(後に4年制)で、入学者を数倍の倍率で選抜していた。音楽学校時代は浅草のおじの家から徒歩で通学した
参考※9.:1917年頃(大正時代)の東京音楽学校の入学資格は、本科が予科卒業生、予科と甲種師範科が旧制中学・高等女学校4学年修了程度、乙種師範科(小学校唱歌教員養成目的)が高等小学校2学年修了程度であった
1919年21才、雑誌『敬明』創刊号に「下總白桃」というペンネームで詩《初夏の町》を投稿
1920年22才、3月25日「東京音楽学校甲種師範科」(現・東京芸術大学)を首席で卒業(本科声楽部2名、本科器楽部11名、甲種師範科27名、乙種師範科1名の41名)。記念奨学賞を受賞。作曲を信時潔に師事。
4月新潟県「長岡女子師範学校」教師として赴任し寄宿舎生活をおくる。あだ名「丸ちゃん」と付く
1921年23才、1月東京音楽学校時代に声楽を学んでいた飯尾千代子と結婚
9月、「秋田県立秋田高等女学校」・「秋田県師範学校付属小学校」教師。この地に新居を構えた
1922年24才、4月「岩手県師範学校」教師。ピアノトリオを結成し活発な演奏活動を行なう
1924年26才、9月、「栃木県師範学校」教師。千代子夫人が病気がちのため伸枝と改名
下總も覺三改め、皖一と改名。本格的に作曲に取り組む。毎週日曜日になると作曲の指導を受けるため、住んでいた宇都宮から東京国分寺にいる「信時潔」に自作品を持って通い始めた。個人レッスンは2年間続いた
1927年29才、服務義務年限を終え退職し4月、上京。牛込喜久井町に住む
私立「成城小学校」(翌年11月まで)に勤務
1928年30才、4月、「東京女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大学)講師、私立「帝国音楽学校」講師(4~12月まで)、東京「府立第九中学校」に勤務
1929年32才、 2月「武蔵野音楽学校」講師となる
「新曲と聴音練習」著す
1931年33才、4月私立「日本中学校」に勤務
1932年34才、文部省在外研究員としてドイツ留学が決まる。父は重病だったが3月21日「鹿島丸」に乗船し日本を発ち仏・マルセイユから汽車でドイツに向かった。作曲法研究のためドイツ国に着いた。そして入学試験に合格し「ベルリン高等音楽学校‐ホッホシューレ作曲科」に入学
下總皖一が留学した当時のドイ国内は、前年からの金融危機は収まらず、不況はさらに悪化していた。登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達してピークを迎え産業総失業者割合は40%を超えていた。5月にはブリューニング内閣が失脚し、フランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。そして翌年1月にはヒトラー内閣が成立することになる。ナチスによる第三帝国統制下に進みゆくこの大変な時代に、下總はベルリンで音楽を学び始めることになる
作曲家「パウル・ヒンデミット」教授に師事して和声法や対位法の授業を受けはじめる
この頃を回想して下總皖一は『9月末の「ホッホシューレ」の入学試験の日、筆記試験中にどうかした拍子に視線が合うとニコニコと眼と口元だけで笑顔を見せる試験官がいたので、初めて会った人のようでないという印象でした。ことによったらあれが憧れのヒンデミット教授ではないか、と想像していました。やはり本人だったのです。二日目に実技試験があり自作の曲をピアノで弾き、声楽曲の伴奏を弾いた。「ゲオルク・シューネマン校長」の「もう十分」という言葉で希望どおりにパウル・ヒンデミット教授の教室に入ることができた』と書き残している。『父:吉之丞は大手術をして良くなったから安心するようにという手紙が留学先に届いた。』父、訃報の電報はこの年の秋ごろか翌年春頃の間かも知れない
要約※10. :中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、32~33、36頁
↓ 歌:《蛍》 新訂尋常小学唱歌(三学年)詩:井上 赳
1933年35才、この年の1月、下總皖一の留学していたドイツ国内は、選挙の投票でナチ党が51%を獲得。政権獲得後の2月1日にヒトラーは国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」として第一次四カ年計画の開始を発表し、失業者の削減と自動車産業の拡大を訴えた
5月にはすべての労働組合は解散され、ロベルト・ライが率いるドイツ労働戦線に一本化された。これにより労使関係調整はナチ党の手中に落ちた
ナチスが権力を握るとプロイセンのすべての州立劇場とベルリン第一の歌劇場である州立歌劇場は内務相ヘルマン・ゲーリングの管理下に入った。そして、ベルリン・フィルを含む、市立劇場、プロイセン以外のすべての劇場、およびマスメディアは宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの支配下に入った
7月には強制カルテル法が施行され、新規企業設立の禁止、同業企業によるカルテル設立の強制と、国家による監視と規制が行われる体制が始まった。間もなく人種政策が発効されユダヤ人その他の好ましからざる人々がドイツを離れたりした。ユダヤ系芸術家の粛清が始まり、ドイツ文学界だけで1938年までに推定2,500名の作家を失った。演劇界では、演出家、劇作家、俳優「好ましからざる」という烙印を、もっと悪い場合は「ユダヤ人」という烙印を押されて仕事を奪い取られた。強制的に辞職されたり追放されるようになった
オペラ界だけを見ても、ほんの数ヶ月前までスター扱いされていた歌手が突然追放させられた。ローゼ・アドラー、ジッタ・アルバー(ソプラノ歌手)、イレーネ・アイジンガー、メリッタ・ハイム、フリッツ・ヨーケル、ザビーネ・カルター、ロッテ・レオンハルト、フリッツィ・マサリー、デリア・ラインハルト、ロッテ・シェーネ、ヴェラ・シュヴァルツ、エマヌエル・リスト、ベノ・ツァイグラー、ヨーゼフ・シュミット、リヒャルト・タウバー(テノール歌手)などはその一部にすぎない
ユダヤ人や半分ユダヤ人の血の混じる人と結婚していた芸術家も危険にさらされていた
音楽界ではアーノルド・シェーンベルク(作曲家)、アルバン・ベルク(作曲家)、クルト・ヴァイル(作曲家)、カール・エーベルト(演出家)、フリッツ・ブッシュ(指揮者)、アルトゥア・シュナーベル(ヴァイオリニスト)、アルフレート・アインシュタイン(音楽学者)、ブルーノ・ワルター(指揮者)、オットー・クレンペラー(指揮者)、エーリヒ・クライバー(指揮者)その他何百もの人々ドイツを離れた
リヒャルト・シュトラウス(作曲家)、カール・オルフ(作曲家)、ユルゲン・フェーリング(演出家)等はナチスからの依頼を快く引き受けた。ナチスは、ドイツ人の魂と心を手に入れようとして、いち早くドイツ文化における過去の偉大な人物をすべて自分たちに都合のよいように取り上げて、これを役立たせた。ベートーヴェンの音楽がナチス指導層によるラジオ演説の導入部となり、ヒトラーによるバイロイトのリヒャルト・ワーグナーの聖地訪問が例年の公式行事となった。パウル・ヒンデミットの音楽作品は「退廃」という理由でヒトラーに嫌われていたから、下總はこうした事実を見聞きして知っていただろう
ヒンデミット教授は『日本にはヨーロッパの油絵と違った墨絵というものがある。あれはきっと作曲のヒントになると思うんだが・・・』と語ったという。この言葉に近い物言いは、その後の日本人音楽学生が留学先でしばしば言われるようになる
要約※:サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、242~255頁、306~307頁
要約※11. :中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、52頁
1934年36才、ベルリン高等音楽学校-ホッホシューレ教授で作曲家パウル・ヒンデミットはドイツの画家マティスの生涯に基づいてオペラ《画家マティス》を作曲していた
『パウル・ヒンデミット(~略~)は1920年代を通じてその厳しい表現主義的な作品のためにナチス政権内ではかなり評判が悪かった。フルトヴェングラーはヒンデミットの新作オペラ《画家マティス》を新シーズンためにベルリン州立歌劇場のプログラムに組み入れた。フルトヴェングラーはヒトラーがヒンデミットの音楽を嫌っていたことに気づかず、また気にもしなかった。特にナチス党は、理想に合わない作品には常に(退廃)という言葉を使った。これはナチスが最悪の芸術に浴びせかける罵倒用語だった。ヒンデミットのナチスの新聞記者への不適切なコメントや妻がユダヤ人であることなどでヒトラーに気に入られ損なったことなどによって、ナチスのブラックリストでも特別な監視下に据えられる結果となっていた』
『ナチス理論を唱えるアルフレート・ローゼンベルクはヒンデミットがドイツ音楽を汚したとして厳しく非難した。こういう背景のもと、ゲーリングは早速、ベルリン州立歌劇場における上演をフルトヴェングラーがプログラムに取り上げていたにも関わらず、オペラ《画家マティス》をはずした。(~略~)フルトヴェングラーは激しく抗議したが、ヘルマン・ゲーリングはこのオペラの許可をできるのはヒトラーだけであると説明する』世にいう「ヒンデミット事件」である
フルトヴェングラーは、3月11日、12日ベルリン・フィル定期演奏会でヒンデミットの管弦楽版組曲《画家マチス》を指揮した
ヒンデミットの教え子である下總皖一等は指揮者ヴィルヘルクム・フルトヴェンクラー指揮によるパウル・ヒンデミット作曲の作品を直に聴きに演奏会場に行っただろうと思われる
6月11日パウル・ヒンデミット教授の教室の作品発表会で、下総は自作《クラリネットとピアノのための小曲》を発表
パウル・ヒンデミットはアーリア人(注)であったが、ナチスによる圧力のため、翌年トルコに渡り創立したばかりの「アンカラ音楽学校」の名誉教授を1937年まで務めた。1939年アメリカに移住し、1946年米国市民権を取得した。 1940~53年には「エール大学」音楽部長となり,1951~58年「チューリヒ大学」とエール大学を隔年交互に講義し,晩年はスイスに住んだ
9月3日、下総は滞独2年半の留学生活を終えて神戸港に帰着。母校「東京音楽学校」講師となった
12月、助教授となる。あだ名「ガッチャン」と付く
要約※12. :サム・H・白川『フルトヴェングラー/悪魔の楽匠[上]』、藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代(共訳)、アルファベータ、2004年、306~307頁
(注)ヒトラーは人種的純度という信念で支配民族アーリア人の優位性を広めた。ヒトラーにとって理想的な「アーリア人」とは金髪で目は青く背が高いことであった
1935年37才、作曲:《三味線協奏曲》。著書:「和声学」
山田常三(音楽家)氏によれば『下總先生は大変温厚な方で、大声を出したり、怒鳴ったりは決してしなかった。そんな先生がいつも学生に向かって言う言葉が「高く飛ぶ鳥は地に伏すこと長し」細かいことにコセコセするな、じっくりと地に足をつけてしっかりやれと学生たちを常に励ましていた』と語っている
山田常三(音楽家)氏は1935年頃、下總の担任するクラスの学生だった
引用※13. :中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、55頁
1936年38才、作曲:《パッサカリアと舞曲》
1937年39才、Nコン-NHK第8回《日本の秋》作曲、詩:風巻景次郎。宮城道雄との合作による《壱越調箏協奏曲》作曲
1938年40才、作曲:《箏独奏のためのソナタ》、著書:「作曲法」
1939年11月《東京音楽学校創立六十周年記念歌》作詩:乘杉嘉壽、作曲:下総皖一
11月23日に開催された、東京音楽学校創立六十周年記念式典・演奏会で歌われたもの。手書きのメモに「新嘗祭の日 朝香宮湛(きよ)子女王殿下御台臨 河原田稼吉文部大臣臨席」とある。
楽器/声種編成:変ロクラリネット・ファゴット・変ロトランペット・ソプラノ・アルト・テノール・バス
参考:東京藝術大学資料室『河野マリ子氏 寄贈史料(大井悌四郎氏関連資料)』整理番号221-222
《京都大学学歌》
京都帝国大学学歌 水野康孝/京都帝大合唱団 作置版
1940年42才、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員に任命される
文部省からの依頼を受け、唱歌《たなばたさま》作曲
文部省唱歌《たなばたさま》詩:権藤はなよ/林柳波 うた:ひばり児童合唱団
1941年43才、9月品川区上大崎に転居
《たなばたさま》、3月発行の『うたのほん下』国民学校初等科第二学年用に掲載された
作曲:《筝独奏のための舞曲》《花火》
↓ 《花火》詩:井上赳 歌:タンポポ児童合唱団
1942年44才、3月東京音楽学校教授に就任する
作曲:《母の歌》、この歌は国民学校五年生の教科書に掲載された。文部省唱歌《野菊》を作曲
youtube<昭和31年全国唱歌ラジオコンクール>(現・NHK全国音楽コンクール)中国地方代表校
広島大学附属三原小学校 指揮:佐藤文子 / ピアノ:繁村昌彦
↓ 文部省唱歌《野菊》詩:石森延男 歌:NHK東京放送児童合唱団
1943年45才、※12月22日、<東京交声楽団演奏会>に出席、朝倉(のち中山)靖子、下總皖一、木下保、信時潔、千葉(のち川崎)靜子、佐々木成子、多田光子、山口和子、平田黎子、奥田智重子、柴田睦陸、鷲崎良三、青木博子、戸田敏子、藤井典明、前田幸市郎、村尾護郎、酒井弘、栗本正、秋元清一(のち雅一朗)、畑中良輔、高木清。 日本青年館
作曲:箏・三味線・尺八合奏協《秋の虫》
1944年46才、4月、雑誌「音楽文化」4月号に投稿、『新音楽教科書の内容 ” 外国依存の脱却 ” (師範学校)」出版年月日:1944年04月、巻号:2巻4号、ページ:03~04
著書:「日本音階の話」
1945年47才、5月25日の東京大空襲で家もピアノも楽譜など一切を焼失する
写真 下総皖一、芥川也寸志
1947年雑誌『 美の探求』創刊号に下総は寄稿し『我々はいろいろな方法で民謡の音楽的な方面の調査研究などをしなければならない。従来文学面からの民謡研究は相当に注意深く行われていっと思う。・・・がいこくでは民謡が随分学校教材などに取り上げられているものが多い。また作曲家たちは民謡を基礎として、合奏曲、変奏曲、はては室内楽曲、交響曲にまで発展させている。音楽的なにおいを増して高貴な作品にまでつくりあげている例が非常に多い。わが国でもどんどんそんな仕事をしたらいいと思う。・・・日本の民謡は洋風の演奏技巧や洋楽器では気分の合わないところも相当多いと思うが・・・』と記述している
引用※14.::中島睦雄著、『下総皖一』、発行:さきたま出版、刊行:2018年、53頁
1948年50才、著書:「樂典」
1950年52才、下總皖一《混声合唱曲集》10巻の出版始まる
1951年53才、著書:「音楽理論」「対位法」
《北海道帯広市立緑ヶ丘小学校校歌》 緑ヶ丘小学校合唱部
歌詞
はるかな宇宙のかなたから
ひかりさんさん きらめく夜明け
一人ひとりが生き生きと
よりたくましく 健やかに
緑丘の子 両手を上げて
微笑みの輪と 輪を広げれば
展望台から 明るい明日が見えてくる
1955年57才、11月、文部省教科調査委員に任命される。
1956年58才、4月7日ドイツからウィーン交響楽団とともに指揮者として恩師パウル・ヒンデミットが来日。同月11日演奏会後に新橋駅近くの松喜で教え子の坂本良隆等と会う
9月24日東京藝術大学は加藤茂之学部長の改選となり、候補は下総のほか二名が立候補し選挙の結果、下総が学部長に選出された。10月東京藝術大学音楽学部・学部長(旧:学校長にあたる)に就任した。七十数年の音楽学校の歴史において初の音楽学部出身者が就任したことになる
同年11月8日の東京新聞夕刊四面の「かげの声」欄に「芸大音楽部長めぐる怪文書」という故事が掲載された。内容は『 最近芸大の音楽部出身者はじめ音楽関係者のもとに、同声会有志懇談会、楽壇有志会、日本青年音楽連盟などの署名による怪文書がひんぴんと舞い込んでいる。内容をかいつまんでいえば、ごく最近加藤成之氏の後を襲って芸大の音楽部長に就任した下総皖一氏にたいする攻撃に終始しており五日付の怪文書には「芸大音楽部長下総皖一氏不適任の理由をもって、直ちに辞任するよう勧告状を送った・・・」とある。同声会理事長外山国彦氏は ” これら怪文書は全然私のあずかり知らぬところ、ごく一部の人が会の名を借りてやっているらしいのは大いに迷惑だ ” などと述べている。表面的には「芸大の加藤部長(社会的に有力)の辞任、城多又兵衛教授(多年教育に献身)の退陣にともない、下総皖一部長(温和だが社会的に低調)の就任という耳を疑うニュース・・・」と対社会的にあまり力を持たぬ下総氏を排するように文書にうたわれているが、その続きに師範科の下総、長谷川良夫、井上武士などの諸氏が傍若無人の振舞いで本科出身者を圧迫している・・・うんぬんとあるのをみると、どうやら本科、師範科の勢力あらそいも含まれているとの印象はまぬがれない。さらに芸術院会員の信時潔氏も《海ゆかば》の作曲者であるという理由から怪文書で攻撃しており、このまま進むと告訴問題もおきかねない情勢にあるようだ。前期外山国彦氏は ” 加藤君も今度の事件には怒っているし、僕も同声会の理事長として困ったことだと思っている。よしんば下総君に不満があるとしても、就任した以上彼を助けて、より良く職務を全うできるようにしてあげるのが常道だ。ねらいがどこにあるか知らぬが、同声会の名を使ってあちこちに変な文書をまくのは不愉快だ ” と述べている。いずれ怪文書発行側も姿をあらわすに違いないし、どのような発展をみせるか、藝術の殿堂であるはずの芸大の出来事だけに注目されるところである 』
1957年59才、学部長になった翌年、音楽之友社発行の雑誌「音楽の友」4月号に下總は『~曲が自然に湧き出るといっても、作曲というものはそれだけではだめです。多分に人為的な構成の部分があって、➀和声的な立体的構成~、➁時間的楽式的構成~・・・夢のない人は芸術家を志す資格はない。しかし、ただ形だけのあこがれであってはならない。長年にわたる修行、苦行、これが作曲家への道である』と記述している
要約※15. :中島睦雄著、もっと知りたい埼玉のひと『下總皖一《野菊》《たなばたさま》などの作曲家)』、さきたま出版会、2018年、55頁
1958年60才、1月、東京国立文化財研究所芸能部長就任。11月、文部省視学委員となる。
1959年61才、6月1日東京藝術大学音楽学部長を辞任。教授として逝去まで同大学に在籍。 この間、埼玉大学講師を務めた
1962年64才、7月8日肝臓がんなどの病気で他界
7月8日「正四位」に叙される
皖一の死後、恩師の作曲家:『信時潔は「下総君は模範的な勉強家であった。パウル・ヒンデミットの手法をわが国に伝える唯一人の指導者であったのに、業なかばにして倒れ、誠にに残念』と語った
1987年「下總皖一音楽賞」を生誕90年を記念して「埼玉会館友の会」が制定した。平成7年に県に移管。平成10年からは童謡に特化して実施。平成24年、この原点に返って、童謡中心の音楽賞から本来の業績に沿った音楽賞にしました。主にクラシック分野のプロで、県にゆかりの音楽家を毎年表彰している
2000年5月野菊歌碑設置 野菊公園(埼玉県加須市旗井1450-1 野菊公園及び設置年は不明だが山口県熊毛郡田布施町下田布施3394-1 ふるさと詩情公園に「野菊」の歌碑はある)
7.主な作品
8.その他
<下總皖一先生之像> 道の駅童謡のふる里おおとね(埼玉県加須市)
<下総皖一先生を称える碑> 北浦和公園(埼玉県立近代美術館北隣り)(埼玉県さいたま市浦和区)
<楽譜《野菊》歌碑> 平成12年3月「下総皖一を偲ぶ会」建立
<30周年記念「奏でる」ブロンズ像>2018年2月5日、「下總皖一を偲ぶ会」除幕式
9.活躍する教え子たち
芥川也寸志
1925年7月12日-1989年1月31日(63歳没)
東京府東京市滝野川区生まれ
東京都中央区で歿
東京音楽学校
作曲家、指揮者
石桁真礼生
1916年11月26日-1996年8月22日(80歳没)
和歌山県生まれ
作曲家、音楽教育者
團伊玖磨
1924年4月7日-2001年5月17日(77歳没)
東京府東京市四谷区生まれ
中国・江蘇省蘇州市で歿
東京音楽学校
作曲家、エッセイスト
松本 民之助
1914年7月11日-2004年3月15日(89歳没)
京都府生まれ
東京音楽学校甲種師範科
作曲家
金井喜久子(旧姓川平)
1906年3月13日-1986年2月17日(79歳没)
沖縄県宮古市生まれ
日本音楽学校
作曲家
兼田 敏
1935年9月9日-2002年5月17日(66歳没)
満洲国 新京生まれ
東京藝術大学音楽学部作曲科
作曲家、音楽教育者
土肥 泰
1928年9月10日-1998年11月14日(満70歳没)
埼玉県浦和市生まれ
東京芸術大学音楽学部作曲科
東京芸術大学大学院作曲研究科
作曲家、指揮者、ピアニスト、埼玉大学教育学部教授
須田くにお
1939年7月24日-
個人的に師事
福島県福島市渡利地区在住
合唱指揮者、作曲家
山岸磨夫
1933年??月??日-2003年12月23日(70歳没ー
東京都出身
東京芸術大学
作曲家
池本 武
1934-2010
埼玉県出身
武蔵野音楽大学卒、同専攻科修了
武蔵野音楽大学教授
作曲家、音楽理論家
佐藤 眞
1938年8月24日-84歳で歿
茨城県水戸市生まれ
東京藝術大学音楽学部作曲科
東京藝術大学音楽学部教授・同大学音楽学部名誉教授
日本現代音楽協会名誉会員
作曲家
鎌田弘子
指揮者
石渡日出夫
10.関連動画
11.下總皖一音楽賞・受賞記録
1987年・・・調査中
2005年彩の国 下總皖一童謡音楽賞-吉元恵子(秋田県旧鷹巣町出身)、ソプラノ歌手
・・・調査中
2008年彩の国下總皖一童謡音楽個人賞-谷禮子()、合唱指導者
・・・調査中
2012年下總皖一音楽賞-北原幸男()、指揮者
2012年下總皖一音楽賞-特別賞-持木弘-()、声楽家
2013年下總皖一音楽文化発信部門-坂本朱()、メゾ・ソプラノ
2013年下總皖一音楽文化貢献部門-秋山紀夫()、吹奏楽指導者・指揮者
2014年下總皖一音楽文化発信部門-佐藤美枝子()、ソプラノ歌手
2014年下總皖一音楽文化貢献部門-松居直美()、パイプオルガン奏者
2015年下總皖一音楽文化発信部門-栗山文昭()、合唱指揮者
2015年下總皖一音楽文化貢献部門-國土潤一()、合唱指揮者、声楽家、音楽評論家
2016年下總皖一音楽文化発信部門-安齋省吾()、雅楽奏者
2016年下總皖一音楽文化貢献部門-和田タカ子()、音楽プロデューサー
2017年下總皖一音楽文化発信部門-相曽賢一朗()、ヴァイオリニスト
2017年下總皖一音楽文化貢献部門-高橋美智子()、マリンバ奏者、武蔵野音楽大学特任教授
2018年下總皖一音楽文化発信部門-北川曉子(富士見市在住)、ピアニスト
2018年下總皖一音楽文化貢献部門-井上久美子()、ハープ奏者・武蔵野音楽大学特任教授
2019年下總皖一音楽文化発信部門-森谷真理()、ソプラノ歌手
2019年下總皖一音楽文化貢献部門-松本美和子()、ソプラノ歌手、武蔵野音楽大学特任教授
2020年下總皖一音楽文化発信部門-()、
2020年下總皖一音楽文化貢献部門-()、
12.下總皖一を偲ぶ会・記録
1987年<下總皖一を偲ぶ会>発足
7月第1回<下總皖一を偲ぶコンサート>
講演「下總皖一を語る」鎌田弘子、マリンバ演奏 / 笹谷久美子
歌:持木弘 / 持木文子 / 原道小学校 / 東小学校 / ヴォーチェビアンカ
1989年5月第2回<下總皖一を偲ぶコンサート> 文化体育館
真理ヨシコ / 田中星 / ・大場照子 / さわやかコーラス / ・ヴォーチェビアンカ / 原道小学校
1990年12月第3回<下總皖一を偲ぶコンサート> 原道小学校体育館
ピアノ演奏:小原孝 / 大野伸二
歌:さわやかコーラス / ヴォーチェビアンカ / コールグランツ
1991年11月第4回<下總皖一を偲ぶ音楽会> 福祉会館
ミュージカルアカデミイ / さわやかコーラス
大利根中学校吹奏楽部
1993年10月第5回<下總皖一を偲ぶ音楽会>
五郎部俊朗(T.)
1994年6月<下總皖一を偲ぶ講演とミニコンサート> 福祉会館
日本の童謡・埼玉の童謡 こわせたまみ
緑の風コンサート マリンバ:篠塚裕美子
12月第7回<下總皖一を偲ぶコンサート>
マリンバ:笹谷久美子
1995年6月第8回<下總皖一を偲ぶ音楽会>緑の風コンサート 文化体育館
歌:藤森照子と仲間たち
1996年5月第9回<下總皖一を偲ぶ音楽会>ミニコンサート 文化体育館
ハーモニカ:竹内克好、歌:吉武まつ子
1997年6月第10回<下總皖一を偲ぶ音楽会>七夕チャリティーコンサート
歌:高橋薫子
1998年6月第11回<下總皖一を偲ぶ講演会> 福祉会館
「下總皖一時代の童謡・唱歌について」 こわせたまみ
8月下總皖一の墓参をする 生誕100周年 東京小平霊園
1999年5月第12回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
緑のそよ風コンサート器楽アンサンブル、森美奈とその仲間たち
2000年5月第13回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
歌:吉武まつ子、アコーディオン:渡辺美和子
2001年6月第14回<下總皖一を偲ぶ音楽会>
歌:松倉とし子(S.)
2002年6月第15回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
糸と竹のひびき 筝:鎌田雅仙
2003年5月第16回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
歌:原田とみ子(S.)
2004年5月第17回<下總皖一を偲ぶ音楽会>
五郎部俊郎(T.)コンサート アスタホール
2005年5月第18回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
ピアノとフルートの名曲コンサート
ピアノ:小松勉/ フルート:波戸埼操
2006年6月第19回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
川口京子コンサート
2007年7月第20回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
吉武まつ子と愉快な仲間たち
2008年11月第21回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
河野めぐみ / 安達さおり(メゾ・ソプラノ)
2009年11月第22回<下總皖一を偲ぶ音楽会> アスタホール
ボニージャックスコンサート
2010年11月第23回「下總皖一を偲ぶ音楽会」 アスタホール
チターとマリンバのしらべ
チター:内藤寿子 / マリンバ:篠塚裕美子
13.父:下總吉之丞について
父:下總吉之丞は教育者で栗橋尋常高等小学校訓導兼校長を務めた
1870年5月25日北埼玉郡砂原村に生まれる
1891年4月埼玉県尋常師範学校卒業し、北葛飾郡高等小学島中学校訓導に任命された
1892年9月同校廃校。同年栗橋尋常高等小学校訓導となる
1897年4月児玉郡本庄高等小学校訓導となる
1906年1月南埼玉郡武里尋常高等小学校訓導兼校長となる。同年3月武里農業補習学校長も兼ねた
1907年栗橋尋常高等小学校訓導兼校長として着任
1911年三箇年精勤により埼玉県教育会から表彰される
1912年3月三箇年精勤により北葛飾郡教育会から表彰される
同年6月、栗橋尋常高等小学校訓導兼校長在任中、下総吉之丞ほか北葛飾郡教育委員諸氏等複数人により「栗橋町郷土誌」を執筆編さんした
1913年10月、誠実勤勉成績顕著により埼玉県知事から表彰される
1914年北葛飾郡教育会北支部副会長を務める
1915年11月栗橋町立商業補習学校訓導兼校長も兼ねた
1920年2月多年教育事業に尽くした功績で勲八等瑞宝章を授与される
1923年三十数年におよぶ教員生活から退職。多年同校に勤務し保護者、町民の信望は厚く、児童青少年みな心服して教化の実は校内外に及んだといわれている
※1932~33年頃歿
引用※1.:久喜市教育委員会 編、『久喜市栗橋町史.第2巻 (通史編 下)よりコラム⑾「下総皖一(覚三)と下総吉之丞」』、 出版:久喜市教育委員会、刊行:2014年、289頁
参考※久喜市教育委員会編集発行、『静村郷土誌』全、「栗橋町郷土誌」解説(埼玉県行政文書№大一三七〇)、4~5頁
参考※2.:『教育令』、1881年(明治14年)9月現在―教育令改正(明治13年12月)師範学校教則大綱(14年8月)/府県立の師範学校は、小学中等科卒業17歳または15歳で入学できた