生没年・出身地・歿地・墓地
アレッサンドロ・ストラデッラ生誕
Alessandro・Stradella
(1639年4月3日イタリア、ラツィオ地方ヴィテルボー、ネピ生れ。あるいは1643~45年の間頃に、父の失職後の移動中、ヴイテルボ近く、又はトスカーナのフィヴィッツァーノ辺りで、生まれたともいわれているが出生の記録が無いので定かではない)
(1682年2月25日ジェノヴァで歿、ジェノヴァの最も貴族的教会の一つといわれているサンタ・マリア・デッレ・ヴィーニュに埋葬)
目次(クリックまたはタップで各項目にジャンプします。)
- 1.職業
- 2.称号
- 3.経歴< 先祖はイタリア、ルニギァーナ王朝の頃から戦争で戦ったトスカーナ地方マッサ・カララ州フィヴィッツァーノ城地域、高貴の出身の家系といわれている。叔父アレッシオ・ストラデッラAlessio Stradellaは作曲家で、1575年ストリとネピの司教に任命されたときにストラデッラの家族は移動してネピに移住したようだ 父カヴァリエ・マルカントニオ・ストラデッラはメディチ家ピサの軍事施設でトスカーナ大公のセントステファノ騎士団の騎士であった。母ヴィットリア・バルトーリはオルヴィエート家の出で、二番目の妻にあたる。1642~43年までヴィニョーラの知事・副総督としてボンコンパーニ王子に仕えていたが、カストロ戦争でローマ法王軍に包囲され城を摂取され、ヴィニョーラの城からエメリア・ロマーニャ、セッラマッツオーニのモンフェスティーノ城に退いたが、1643年トスカーナ宮廷から解雇されてしまい失職。一家はモンフェシュチノに移る。 1648年父の死 1652~1660年母、弟ステファノとローマ、イッポリト・ランテ・ロヴェール公爵宮殿に移り住む。 1655年聖マルセロ・デル・クロシフィッソ大聖堂の歌手として在籍した記録が残されている。 1658スウェーデンのクリスティーナ女王(ローマ駐在)の宮廷で歌手になる。王室に出入りし、そこで仕えていたカルロ・アンプロジオ・ロナテイと知り会う。この頃には舞台作品、モテット等々を書いている。宮廷や貴族のパトロンに属していなく委嘱曲であった。ローマではプレイボーイといわれ女性との不注意の関係が街の有力者間で問題となり始める。 1663年音楽的技量に感銘を受けたクリスティーナ女王から作曲の依頼を受ける 1664年以前にステフブルダー・パドレ・フランチェスコに音楽を学んだとされている。 1667年3月11日オラトリオ「Arciconfraternite del SS Crocifisso」初演 1668年コミック・オペラ「Girello」作曲。 5月16日レオポルド・メディチ枢機卿のために「Serenata Se desio curioso」作曲しフラスカーティ宮殿で初演 1669年友人のアボット・アントニオ・スフォルツァとアンプロジオ・ロナティ等と共謀してローマカトリック教会の資金を横領しようとして失敗、ローマを離れる。 1670年ローマのトルノーナ劇場で上演される作品のためにローマに戻る。 1670年舞台作品「イ・ビアンテ」をクレマン10世を称えて作曲。 11月27日後援者のフラビオ・チギ枢機卿に多額の資金援助を申し込む 1671年ジェノヴァ皇太子の結婚を祝うために「カンタータ・ラヴァヴィオ・アル・デブロギュント」作曲 1672年2月エシディオ・コロンナとタルキニア・アルテイエリの結婚を祝うために「ラ・ラウリンダ」作曲 1674年8月ガスパーレ・アルティエリ殿下から「セレンディ・イル・デュエッロ」に作曲を依頼され、クリスティーナ女王からはBaldiniの詩に「セレナータ・イル・ダーモネ」を作曲を依頼される 1675年1月28日修道院長アンジェリカ・ランテのためにモテット「Pugna」を作曲し聖ドミニコ・エ・シスト教会で初演 1676年6月14日アンナ・アルティエリの結婚式を祝うために「カンタータ・エコ・アモーレ・シャルテッロ・リスプレンテ」作曲。 10月友人のジョヴァンニ・パティスタ・バルビオーと一緒に、アルデラーノ・チボー枢機卿の親戚による陰謀に巻き込まれ投獄されたが解放される 1677年2月アルデラーノ・チボー枢機卿の怒りをかいローマを離れヴェネツィアに向かう。ヴェネツィアでポロ・ミシエルとギロラモ兄弟にオペラの作曲を頼まれる。そこに有力な貴族アルヴィーゼ・コンタリーニが自分の愛人アグネーゼ・ヴァン・ユーフェレの音楽教師にと依頼され雇われる。ところが間もなく女性との間に関係が生まれ、6月二人はトリノへ駆け落ちしサヴォイの公爵夫人ジョヴァンニ・ド・ヌムールの摂政の保護を受ける。アグネーゼは結婚準備のため修道院に入った。ひと月もしない内にコンタリーニがトリノに着き、コンタリーニは二人が結婚するよう大司教に訴え、ストラデッラは結婚に同意する契約書に署名。10月2日二人は結婚する。10月10日の夜、暗殺者として雇われた二人にストラデッラは襲われ負傷する。トリノの裁判所はネムールのマリア・ジョヴァンナが暗殺者に雇われた疑いがあると推定したが、暗殺者はフランス大使館に亡命。11月コンタリーニと和解する。サボイの摂政からルイ14世への苦情となり暗殺者グループは裁判となる。 1678年ジェノヴァに単身到着したが妻のユーフェレには知らされていなかったようだ。ジェノヴァでファルコーネ劇場のオーケストラを担当。ある貴族のグループはストラデッラに住まいと、食事、召使いを提供することに同意する。同年のシーズンはオペラ「La torza dell’amor paterno」とオペラ「Le gare dell’amor eroico」、コミック・オペラ「イル・トレスポロ・ツトー」を作曲し上演。 1681年ローマへ戻るための接触を計っていたようだ。5月「Il moro per amore」作曲。6月「リ・バルチェッリオ」をカルロ・スピノーラとパオラ・ブリニョールの結婚式を記念して作曲。夏にはジェノヴァの貴族から依頼されたオペレッタ「別荘と海で行う6人のキャラクターの岬と剣」を作曲 1682年2月25日ストラデッラと姉との音楽レッスンを行った関係を疑ったジェノヴァの貴族、ジオバン・バテイスタ・ロメリーニの命令で3人の暗殺者が、ジェノヴァのバンチ広場でストラデッラを刺殺する。犯人の身元は分からないままとなる。 >4.主な作品
- 5.その他
- 6.初演
- 7.関連動画
1.職業
イタリア、バロックの作曲家・歌手
合奏協奏曲、様式の創始者と言われている
2.称号
3.経歴<
先祖はイタリア、ルニギァーナ王朝の頃から戦争で戦ったトスカーナ地方マッサ・カララ州フィヴィッツァーノ城地域、高貴の出身の家系といわれている。叔父アレッシオ・ストラデッラAlessio Stradellaは作曲家で、1575年ストリとネピの司教に任命されたときにストラデッラの家族は移動してネピに移住したようだ
父カヴァリエ・マルカントニオ・ストラデッラはメディチ家ピサの軍事施設でトスカーナ大公のセントステファノ騎士団の騎士であった。母ヴィットリア・バルトーリはオルヴィエート家の出で、二番目の妻にあたる。1642~43年までヴィニョーラの知事・副総督としてボンコンパーニ王子に仕えていたが、カストロ戦争でローマ法王軍に包囲され城を摂取され、ヴィニョーラの城からエメリア・ロマーニャ、セッラマッツオーニのモンフェスティーノ城に退いたが、1643年トスカーナ宮廷から解雇されてしまい失職。一家はモンフェシュチノに移る。
1648年父の死
1652~1660年母、弟ステファノとローマ、イッポリト・ランテ・ロヴェール公爵宮殿に移り住む。
1655年聖マルセロ・デル・クロシフィッソ大聖堂の歌手として在籍した記録が残されている。
1658スウェーデンのクリスティーナ女王(ローマ駐在)の宮廷で歌手になる。王室に出入りし、そこで仕えていたカルロ・アンプロジオ・ロナテイと知り会う。この頃には舞台作品、モテット等々を書いている。宮廷や貴族のパトロンに属していなく委嘱曲であった。ローマではプレイボーイといわれ女性との不注意の関係が街の有力者間で問題となり始める。
1663年音楽的技量に感銘を受けたクリスティーナ女王から作曲の依頼を受ける
1664年以前にステフブルダー・パドレ・フランチェスコに音楽を学んだとされている。
1667年3月11日オラトリオ「Arciconfraternite del SS Crocifisso」初演
1668年コミック・オペラ「Girello」作曲。 5月16日レオポルド・メディチ枢機卿のために「Serenata Se desio curioso」作曲しフラスカーティ宮殿で初演
1669年友人のアボット・アントニオ・スフォルツァとアンプロジオ・ロナティ等と共謀してローマカトリック教会の資金を横領しようとして失敗、ローマを離れる。
1670年ローマのトルノーナ劇場で上演される作品のためにローマに戻る。 1670年舞台作品「イ・ビアンテ」をクレマン10世を称えて作曲。 11月27日後援者のフラビオ・チギ枢機卿に多額の資金援助を申し込む
1671年ジェノヴァ皇太子の結婚を祝うために「カンタータ・ラヴァヴィオ・アル・デブロギュント」作曲
1672年2月エシディオ・コロンナとタルキニア・アルテイエリの結婚を祝うために「ラ・ラウリンダ」作曲
1674年8月ガスパーレ・アルティエリ殿下から「セレンディ・イル・デュエッロ」に作曲を依頼され、クリスティーナ女王からはBaldiniの詩に「セレナータ・イル・ダーモネ」を作曲を依頼される
1675年1月28日修道院長アンジェリカ・ランテのためにモテット「Pugna」を作曲し聖ドミニコ・エ・シスト教会で初演
1676年6月14日アンナ・アルティエリの結婚式を祝うために「カンタータ・エコ・アモーレ・シャルテッロ・リスプレンテ」作曲。 10月友人のジョヴァンニ・パティスタ・バルビオーと一緒に、アルデラーノ・チボー枢機卿の親戚による陰謀に巻き込まれ投獄されたが解放される
1677年2月アルデラーノ・チボー枢機卿の怒りをかいローマを離れヴェネツィアに向かう。ヴェネツィアでポロ・ミシエルとギロラモ兄弟にオペラの作曲を頼まれる。そこに有力な貴族アルヴィーゼ・コンタリーニが自分の愛人アグネーゼ・ヴァン・ユーフェレの音楽教師にと依頼され雇われる。ところが間もなく女性との間に関係が生まれ、6月二人はトリノへ駆け落ちしサヴォイの公爵夫人ジョヴァンニ・ド・ヌムールの摂政の保護を受ける。アグネーゼは結婚準備のため修道院に入った。ひと月もしない内にコンタリーニがトリノに着き、コンタリーニは二人が結婚するよう大司教に訴え、ストラデッラは結婚に同意する契約書に署名。10月2日二人は結婚する。10月10日の夜、暗殺者として雇われた二人にストラデッラは襲われ負傷する。トリノの裁判所はネムールのマリア・ジョヴァンナが暗殺者に雇われた疑いがあると推定したが、暗殺者はフランス大使館に亡命。11月コンタリーニと和解する。サボイの摂政からルイ14世への苦情となり暗殺者グループは裁判となる。
1678年ジェノヴァに単身到着したが妻のユーフェレには知らされていなかったようだ。ジェノヴァでファルコーネ劇場のオーケストラを担当。ある貴族のグループはストラデッラに住まいと、食事、召使いを提供することに同意する。同年のシーズンはオペラ「La torza dell’amor paterno」とオペラ「Le gare dell’amor eroico」、コミック・オペラ「イル・トレスポロ・ツトー」を作曲し上演。
1681年ローマへ戻るための接触を計っていたようだ。5月「Il moro per amore」作曲。6月「リ・バルチェッリオ」をカルロ・スピノーラとパオラ・ブリニョールの結婚式を記念して作曲。夏にはジェノヴァの貴族から依頼されたオペレッタ「別荘と海で行う6人のキャラクターの岬と剣」を作曲
1682年2月25日ストラデッラと姉との音楽レッスンを行った関係を疑ったジェノヴァの貴族、ジオバン・バテイスタ・ロメリーニの命令で3人の暗殺者が、ジェノヴァのバンチ広場でストラデッラを刺殺する。犯人の身元は分からないままとなる。
>4.主な作品
オペラ「La・forza・deli・amor・patemo」
オペラ「Non・e・padre・essendo・re」
合奏協奏曲「Sonata・di・viole」
オラトリオ「洗礼者聖ヨハネ」
オラトリオ「エステル」
オラトリオ「スザンナ」
「弦楽のためのシンフォニア」
「Sinfonia・in・D」ほか間奏曲、ミサ曲、モテット、カンタータ、アリア、マドリガーレ等々