IWY. 28 ニコラ・ゴンベール

フランスのルネサンスの作曲家
ニコラ・ゴンベールNicolas Gombert(1495-1561)

ルネサンス期のフランコ・フレミッシュ楽派の作曲家である。彼はジョスカン・デ・プレとパレストリーナの間に位置する作曲家の中で最も有名かつ影響力のある一人であり、音楽史上におけるこの時代の、完成された複雑なポリフォニー様式を最もよく体現している。

1495/1500年頃現在フランス領となっている現ノールNord県リールLille近郊のフランドル地方ラ・ゴルグLa Gorgue市辺の村で生まれた。
ドイツの作家で音楽理論家のヘルマン・フィンクHermann Finckは、ゴンベールがジョスカンに師事したと記している。これは、著名な作曲家がコンデ=シュル=レスコーで隠居生活を送っていた1515年から1521年の間のことだろう。

1561年頃フランドル領トゥールネーで没

1. 年代記
1526年ヨーロッパで最も権威ある宮廷、スペイン皇帝皇帝カールⅤ世に宮廷礼拝堂の歌手として、またおそらくは作曲家としても雇用された。彼が召し抱えられたのは、おそらくカールⅤ世がフランドルを通過していた時のことだろう。皇帝は頻繁に旅をしており、その際には常に随員を伴い、行く先々で新たな人員を加えていたからである。
・ゴンベールはその地位により、彼は皇帝一行とともに大陸中を旅することができた。同時代の人々は、ゴンベールがジョスカン・デ・プレの弟子であったと示唆した。
1529年の文書には、ゴンベールが王室礼拝堂の少年聖歌隊長(magister puerorumとして記されている。彼と歌手たちは、皇帝が自身の領地を巡る旅に同行し、帝国内の各地で演奏を行った記録が残されている。
・こうした訪問は、音楽家としてのゴンベールの高い名声もあって、音楽的に大きな影響を及ぼした。したがって、カールⅤ世(スペイン王としてはカルロスⅠ世)とその宮廷礼拝堂の旅は、先代のカスティーリャ王フィリップ1世が作曲家ピエール・ド・ラ・リューを伴って行った旅と同様に、フランコ・フレミッシュ楽派の多声音楽の伝統をイベリア半島へと移植し続ける役割を果たしたのである。
1530年代のある時点で、ゴンベールは聖職者(おそらく司祭)となり、コルトレイクCourtrai、ランスLens、メスMetz、ベテューヌBéthuneを含むいくつかの大聖堂で聖職禄を得た。
1537年から1540年の間のいずれかの時期まで、宮廷礼拝堂にて少年聖歌隊長master of the childrenの職にあり、その後任にはトマス・クレキヨンThomas Crecquillon次いでコルネリウス・カニスCornelius Canisが就いた。
・彼は宮廷礼拝堂においてまさにその職務を担っていたものの、アドリアン・ティボーやクレキヨンに与えられた楽長という正式な称号を授かることはなかった。
その職務に就いている間、彼は非公式ながら宮廷作曲家としての役割も果たし、カールⅤ世の生涯における重要な出来事を記念する数多くの作品を編曲した。
1540年、まさにキャリアの絶頂期にあった彼は、教会の記録から姿を消した。
・同時代の医師であり数学者でもあったジェローム・カルダンは、著書「テオノストン」(1560年)の中で、1540年に「音楽家ゴンベールは、皇帝に仕える少年への暴行の罪で三段櫂船(註:)(さんだんかいせん)での刑に処せられた」と記している
註: 船の両側に並ぶオール(櫂)を上下3段に配置し、多数の漕ぎ手によって推進する古代地中海世界の軍用ガレー船。
・ガレー船での服役期間の正確な長さは不明であるが、その期間中、少なくとも一部の時間は作曲を続けることができた。
おそらく彼が恩赦されたのは1547年かそれ以前であり、この年に彼はモテットとともにトゥルネーからシャルルのフェランテ・ゴンザーガFerrante I Gonzaga(カールⅤ世の寵臣シチリア副王)に手紙を送った。
マドリッドの写本に独自に保存されているマニフィカトの設定は、カルダンCardanによれば恩赦を勝ち取った「白鳥の歌」であると考えられていることが多い。この話によれば、シャルルはマニフィカトの設定にとても感動し、ゴンベールを早々に手放したという。
・別の仮説(Lewis 1994)によれば、カルダーノが言及していたのは、強い悔悟の精神が反映された4声モテット集の第1巻であったとされる。しかし、いずれの説をとるにせよ、囚人としてガレー船の漕ぎ手を務めながら、ゴンベールがいかにして作曲を行うことができたのかは明らかではない。
・恩赦後にゴンベールがどれほど長く生きたか、あるいは何らかの職に就いていたかどうかは定かではない。釈放後の彼の経歴は、次第に歴史の表舞台から消え、あまり知られないものとなった。
彼はトゥルネーに隠棲し、そこで参事会員として晩年を過ごした可能性がある。
・彼の没年については1556年から1561年の間と推定されている。1556年にはフィンクが彼の存命に言及しているが、1561年にはカルダーノが、詳細は記さなかったものの、彼がすでに死去していると記しているためである。

作品:
ゴンベールの作品はすべて声楽曲で、中には最大12声部からなるアンサンブルのためのものもある。より活気に満ちた和声的な表現に取り組み始めていた同時代のイタリアの作曲家たちとは対照的に、ゴンベールは厳格な対位法の領域に留まり、当時の新しい音楽的発展を軽視していたように思われる。彼の対位法はジョスカンのそれを基盤としているが、さらに複雑なレベルにまで高められている。
彼の死後まもなく、ゴンベールは声楽ポリフォニーの偉大な巨匠の最後の一人として惜しまれた。実際、彼のスタイルは、少なくともバロック時代のフーガの発展までは、模倣対位法の最も高度な発展を体現し続けていた。彼の音楽は死後も長きにわたって出版され続けた。
ミサ曲、多数のモテット、世俗的なシャンソン、8つのマニフィカト(各旋法で1曲ずつ)、そして様々な独立した楽章など、ゴンベールの作品は相当数が現存している。

2. その他

3. 初演
4. 関連動画
12声「Regina Coeliマリア賛歌」

6声のための「In Te Domine Speravi主よ、私はあなたに全てをゆだねました」

「Media Vita生のただ中にある」

「Missa Sur tous regretzすべての悲しみの中に」

「Oculi omnium」
詩編第145編「すべての目があなたを仰ぎ見て待ち望み、あなたは時にしたがって食物を恵まれます。」より

「Aspice Domineご覧ください、主よ。」

「O Malheureuse journeeなんて救いのない日だ」

シャンソン「Si le partir m’est dueil」
もし立ち去ることが私にとって悲しみであるなら

器楽曲「Mille regretzミル・ルグレ」

器楽曲「’Musae Jovisジュピターのミューズたち」

生年代:1500年頃

没年代:1561年頃