
フランスの中世の作曲家・詩人・貴族
ギョーム・ド・マショーGuillaume de Machaut(1300/1305-1377)
アルス・ノーヴァArs nova(新芸術)を代表する作曲家である。初の4声のポリフォニーを作曲した。
1300/1305年頃シャンパーニュ地方ランス近郊マショーで生れた
7人兄弟の1人として生まれ、ランス近郊で教育を受けた。彼の姓は、おそらくランスの北東30km、アルデンヌ地方にあるマショーという町に由来する。
1377年4月13日ランスで歿
1.経歴
・聖職者になる教育を受ける。
1323年から1346年までルクセンブルク伯兼ボヘミア王ヨハン1世の秘書を務め、ボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハン・ド・リュクサンブールの秘書となった。
彼はヨハン王の様々な旅に同行することが多く、イタリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジア、プロイセン、ポーランド、リトアニアなどヨーロッパ各地(プラハを含む)への旅し、国際的な教養と外交感覚を身につけた。その多くは軍事遠征であった。
1330年にヴェルダン、1332年にアラスの参事会員に任命された。
1337年にランスのノートルダム大聖堂(司教座聖堂)参事会員等の名誉職を得た。
1346年、百年戦争初期のクレシーの戦いでルクセンブルク伯ヨハンが戦死すると、名声が高く需要が高かったマショーは後のフランス国王ヨハンⅡ世の妃であるヨハンの娘の娘ボンヌ(1349年に黒死病で死去)、その息子ジャン・ド・ベリーとシャルル(後のノルマンディー公シャルルⅤ世)、ナバラ王シャルルⅡ世など、さまざまな貴族や君主に仕え、居をランスに定めて終生ここから動かなかった。
1349年のペスト大流行の後、自作品を集大成し、これらは数冊の『マショー写本』として残されている。
1350‐1364年フランス王ジャンⅡ世の妃ボンヌに仕え住まいをランスに終の棲家に定めた。
1359年-1360年には、ペスト禍が納まって再び始まった百年戦争のランス包囲戦を経験している。
1364年からフランス国王になったノルマンディー公シャルルⅤ世に仕え、その後ジャンⅡ世のジャン2世の末子でブルゴーニュ公になったフィリップ、ナバラ王カルロスⅡ世、サヴォイア伯アメデーオ6世、華麗な時祷書で知られるベリー公ジャンなど多くの当時の超一流の貴族たちをパトロンに持った。
晩年は、フランス国王の戴冠式が行われる最も格式高い教会、ランス大聖堂の参事会員(高位の聖職者)として定住し、安定した地位の中で創作活動と自身の作品の編纂に没頭し、ノートルダム大聖堂に葬られた。
「アルス・ノーヴァ(新技法)」を完成の域へと押し上げた最大の巨星は、ギョーム・ド・マショーであった。彼は音楽史における単なる「作曲家」であるだけでなく、フランス文学史に名を残す「大詩人」でもあった。前代のヴィトリやムリスが作った「数学的で知的な新しいリズムのルール」を使って、極めて美しく芸術的な作品を生み出した彼の生涯と功績を残した。
・マショーの功績は、宗教音楽・世俗音楽(娯楽の音楽)・そして芸術家としての在り方の革命を起こしたことである。
・音楽史の金字塔『ノートルダム・ミサ曲』の作曲は、彼の最も有名で、かつ西洋音楽史において決定的な意味を持つのがこの作品である。それまで、ミサ曲(キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイなどの通常文)は、別々の作曲家が作ったものを寄せ集めて歌うのが普通であった。しかしマショーは、「史上初めて、一人の作曲家がミサの全曲を一貫したテーマと4声のポリフォニー(多声音楽)で作曲」した。これは、現代のクラシック音楽の「交響曲」のような巨大な単一作品の概念を初めて提示した大事件であった。
・彼は宗教音楽だけでなく、宮廷の貴族たちが楽しむための世俗音楽(宮廷の愛の歌)の洗練と「定型詩」でも大成功を収めた。ヴィトリたちが考案した「アイソリズム」などの複雑な数学的リズム・パズルを使いながらも、決して理屈っぽくならず、非常に優雅で感情豊かなメロディを乗せた。また、「バラードBallade「ロンドーRondeau」「ヴィルレーVilleray」と呼ばれるフランス語の定型詩Poésie formelle(フォルム・フィクスforme fixe)の枠組みを音楽と完全に融合させ、後世のシャンソンの基礎を築いた。
・マショーが革新的だったのは、「自分の作品(音楽と詩)を後世に残す」という強い自己意識を持っていたことである。中世の芸術家は「神に仕える匿名の職人」であることが多かったが、マショーはパトロンの資金力を活かし、自分の作品だけを集めた豪華な装飾写本(全集)を何冊も作らせた。目次や挿絵まで徹底的に監修しており、彼から「個人の名前と作品を歴史に刻む『芸術家』としての近代的な意識」が明確に始まったと言える。
・マショーは、ヴィトリたちが築いたアルス・ノーヴァの複雑な数学的ルール(理性)に、詩人としての豊かな感情(感覚)を吹き込んだ。中世の終わりにあって、音楽を「神への素朴な祈り」から「作曲家の個性と技術が光る、緻密で美しい芸術作品」へと完全に昇華させたことで、彼は西洋音楽史における最も重要な巨匠の一人として君臨している。
・1377年に彼が死去すると、F.アンドリューをはじめとする他の作曲家たちが、その死を悼む哀歌を作曲しました。
・マショーの詩は、ウスタシュ・デシャンEustache Deschamps、ジャン・フロワサールJean Froissart、クリスティーヌ・ド・ピザンChristine de Pizan、ルネ・ダンジューRené d’Anjou、ジェフリー・チョーサーGeoffrey Chaucerなど、数多くの人々の作品に直接的な影響を与えた。
2. 主な作品
「ノートルダムのミサ曲Messe de Nostre Dame」、「ダヴィデのホケトゥス」 ロンドー「わが終わりは、わが始めなり」
・マショーは主に、レー(lai)、ヴィルレー(virelai)、モテット(motet)、バラード(ballade)、ロンドー(rondeau)という5つのジャンルで作曲を行った。これらのジャンルにおいて、彼は「定型詩形式(formes fixes)」の基本構造を踏襲しつつも、独創的な歌詞の付け方や終止形をしばしば取り入れた。
抒情詩作品は約400篇に及び、バラード235篇、ロンドー76篇、ヴィルレー39篇、レー24篇、コンプリート10篇、シャンソン・ロワイヤル7篇が含まれる。マショーはこれらの定型詩の完成と体系化に大きく貢献した。彼の抒情詩作品の一部は、叙事詩や「ディ」と呼ばれる物語詩の中に収められており、例えば、抒情詩の各ジャンルから1篇ずつ収録されている「Le remède de fortune」や「Le voir dit」などがあるが、ほとんどは「Les loanges des dames」と題された、順序付けされていない別のセクションに収められている。彼の抒情詩の大部分に音楽が付けられていないこと(写本では音楽部分と非音楽部分が分かれている)は、彼が通常、一部の作品に音楽を付ける前にテキストを書いていたことを示唆している。「Le remède de fortune」「Jugement du roy de Behaigne」「Dit du Lyon」「Dit de l’Alérion aka Dit des quatre oiseaux」「Jugement du roy de Navarre」「」
3.その他
4.初演
5.関連動画
⬇ youtube 「ノートルダム・ミサ曲」
⬇ youtube 「Hoquetus David」
⬇ youtube 「Le Voir Dit」
⬇ youtube 「Polyphonic Chansons」
⬇ youtube 「Puis qu’en oubli」
⬇ youtube 「De Fortune Me Doi Plaindre Et Loer」
⬇ youtube 「Douce dame jolie」
https://youtu.be/CsuF9-T_2H0?si=5ZDDKUP-kNcPDVo-
⬇ youtube 「Je vivroie liement/Liement me deport」
⬇ youtube 「Dame ne regardes pas」