生没年・出身地
ヨハネス・ブラームス生誕
Johanne・Brahms
(1833年5月7日ハンブルク生)
(1897年4月3日ウイーンで歿)
1.職業
ドイツの作曲家・ピアニスト・指揮者
2.称号
1889年ハンブルクから名誉市民
1879年ブレスラウ大学名誉博士号
3.家系
曾祖父:ドイツ北部のハノーファー出身で馬車職人であった
祖父:ヨーハン・ブラームスは1769年年に生まれた。宿屋と小売商を営み、1839年に亡くなった
父:ヨーハン・ヤーコブ・ブラームスは1806年に生まれた。北ドイツのハンブルクに移住し小間物商を営んだ。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、フルート、ホルンを学び、独学でコントラバスを勉強し、結婚前は町音楽師として市民劇場のコントラバス奏者として働いたといわれている。1872年に亡くなった
母:旧姓・ヨハンナ・ヘンリーカ・クリスティーナ・ニッセンは1789年に生まれ、1865年に亡くなった
4.経歴
1833年5月7日ドイツの港町、ハンブルクでヨハネス・ブラームスは、ヨハン・ヤーコプ・ブラームスとヨハナ・ヘンリカ・クリスティーナ・ブラームス(旧姓ニッセン)の長男(第二子)として生まれた。2才上に姉、2才年下に弟がいた
父は小間物商人、結婚前は市民劇場のコントラバス奏者だった
住まいのSpeck Strasse 60はハンブルクの下町の貧民窟といわれる場所にあった。そこのアパートの2階で生活していたといわれている
ブラームスは貧しいホルンとコントラバス奏者の家に育った
後年になってブラームスが語った話によると、家の表札には「Brahmst(ブラームスト)」と書かれていたという
しかし子供の頃から「ブラームス」と頭に刷り込まれていた彼は、最後の「t」が嫌で、表札をしょっちゅう指でこすり、しまいには消してしまった
実際に「Brahmst」と書かれた1849年4月14日の「音楽の夕べ」のプログラムが残っている
父は後年ハンブルク・フィルハーモニのコントラバス奏者となった
父からは最初の音楽の基礎を学ぶ
1839年6才、小学校入学。父からヴァイオリンのレッスンはじまる
1840年7才、正式にオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルにピアノを学ぶようになる
親が居酒屋でダンス音楽や娯楽音楽を演奏する際に、ブラームスもついて行くようになる
1843年10才、中高等学校入学
ブラームスはピアノの早熟な才能を現し、初めてステージに立った
この時彼の演奏を聴いたアメリカの興行師がアメリカ演奏旅行を提案した
両親は賛成したが、コッセルはこれに反対し、より高度な音楽教育が受けられるように、コッセルの師である作曲家でピアニストのエドゥアルト・マルクスゼンに師事させ理論とピアノを学びはじめる
マルクスゼンの影響でバロックや古典派の音楽を知ることになる
家計を助けるためこの頃からバーやダンスホ-ルで演奏をするようになった
1846年13才、ブラームス家は貧しかったため、家計を助けるために小さな楽団に加わって、レストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えた
こうした経験はよい意味で人間性に深い影響を与えたと考えられている。そのためか穏和で過剰な自己主張型ではないブラームスの音楽スタイルは、やさしくあたたかいといわれる所以だと語られている
1848-49年15~16才、演奏会の舞台に初めて立ち、自作の『愛すべきワルツの主題に基づく幻想曲』を初演する。この頃から作曲と演奏活動を開始、各地で演奏活動をしながら作品を発表している
10代のブラームスは音楽家になろうと志したのかどうか定かではない
1850年17才、3月16日ハンブルク・フィルをシューマンが指揮、その妻クララがピアノ演奏をしたのを聴いたのがシューマンを見る機会となる
1853年20才、ブラームスはハンガリー出身のユダヤ系のヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニイと共に各地を演奏旅行に行った時、彼からロマ(ジプシー)音楽を教えてもらったことが、彼の創作活動に大きな影響を及ぼした。
※(後にレメーニイは、ブラームスの《ハンガリー舞曲》をめぐって盗作の疑いでブラームス訴えた。レメーニイの敗訴に終わったが、この事件はドイツ・オーストリアの音楽史に名を残した)
この演奏旅行中にハノーファーでレメーニにより同郷のヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムを引き合わされた
ヴァイマルではリストとヨアヒムを通して知り合った
9月30日デュッセルドルフではシューマンを初めて訪れ自分の作品を見てもらう。14才年上のクララ・シューマンと出会う
10月8日ブラームスの楽譜を出版するように、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社のヘルマン・ヘルテルに手紙を出す
シューマンとは互いに魅せられシューマンの自宅に住むようになる。音楽新聞に「若鷲」と記し「必ず立派な業績を残すだろう」と書いている。
10月28日シューマンはこの日付けで、自身が創刊した「音楽新報(Neue Zeitschurft fuer Musik)」に論説『新しい道』を書き、ブラームスを音楽における新世代の巨匠として紹介する評論活動をしていたブラームスを熱烈に賞賛した。これはブラームスの作品を世に知らせるために重要な役割を果たした。
11月16日『新しい道』のお礼の手紙をシューマンへ送る
11月下旬頃シューマンに勧められて、自作の出版交渉を行うために、ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社へ向かった
1854年21才、2月27日シューマンに破滅的な危機が訪れ、橋の上からライン河に身を投じた
シューマンは、ライン河投身後すぐにボン近郊のエンデニヒにある精神病院へ送られた
6月11日クララに7番目の子供のフェリックスを出産しブラームスが名付け親になる
1855年22才、ブラームスはクララとライン河に沿って旅行
11月14日ダンツィヒ(現在はポーランドの都市グダニスク)への演奏旅行。この演奏旅行で、ブラームスは、ベートーヴェンのファンタジー作品77と、ハイドンの《ヴァイオリン・ソナタ》ト長調(ヴァイオリン:ヨアヒム)と、シューベルトのマーチ、自作の《サラバンドとガヴォット》を演奏。
デトモルト侯爵の王女、フリーデリケと知り合い、彼女にピアノを教える。
1856年23才、7月4日ブラームスはアントワープでロンドン演奏旅行帰りのクララを迎える
7月6日ブラームスとクララ、デュッセルドルフに到着。ブラームスはそのままハノーファーに赴く
7月29日ロベルト・シューマン死去がした。ブラームスはシューマンが死んだときはクララの傍に寄り添っていた
ブラームスはクララから離れ、デュッセルドルフを去る
彼はシューマンの死以降も生涯に渡ってクララと親しく交流した。この母子家庭に経済的な援助も惜しまなかった。恋愛に近い関係になった時期も見られたが、結婚には結び付かなかったようである
1857年24才、デトモルト宮廷に赴きシーズン契約で合唱団の指揮を始めて経験する
1858年25才ゲッティンゲンで、アガーテ・フォン・ジーボルトと知り合う。彼女とは婚約するまでに話が進むが、結局、束縛されることを嫌ったブラームスは、婚約を解消する
1859年26才、1月ナノーヴァーで「ピアノ協奏曲第一番」作曲しライプツィヒで初演され自ら独奏したが酷評を受ける
ハンブルクに戻り女声合唱団を指揮しながら合唱団用の作品を作曲する
秋を再びデトモルトで過ごした。二曲の《セレナード第1番》ニ長調作品11と《セレナード第2番》イ長調作品16が書いた
長い時間を掛けて完成された《ピアノ協奏曲第1番》ニ短調作品15は、ライプツィヒにおける上演が失敗に終わる。
ハンブルクで女声合唱団を組織するが、この合唱団からは新しい合唱曲《ドイツ民謡》《マリアの歌》《埋葬の歌》を作曲する刺激を受けた
1860年27才、リストを中心とする《新ドイツ楽派》に対する宣言文に署名
1861年28才、ハンブルク郊外に住まいを移す。『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24』を作曲
1862年29才、ウィーンへの初旅行。彼が望んでいたハンブルク・フィルハーモニー・コンサートの指揮者の地位を望んでいたが、ウィーン滞在中の11月歌手のユーリウス・シュトックハウゼンが新しい指揮者に任命され、採用拒否の通知を受ける
これが生涯、故郷を捨てる決心となり恨みを持つことになる。ずっと先の30年後の1893年4月ハンブルク・フィルハーモニーの幹部が指揮者か協会員になって欲しいと申し入れてきたことがある。今更遅すぎると断っている
この年からウィーンに移住したブラームスは、作曲に集中し始める
1863年30才、ブランケネーゼでカンタータ《リナルド》作品50を作曲
ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に任命され、これを受諾する
1864年31才、ウィーン・ジングアカデミーの指揮者を辞任
1865年32才、母クリスティーナが死去
《ドイツ・レクイエム》作品45の完成作曲に専念する
1866年33才、父が再婚
ブラームスは継母との良好な関係を保つことに心を砕き、後年、継母に対して感動的なまでの心遣いを示す
1868年35才ブレーメンで《ドイツ・レクイエム》の初演が成功を収める
その後は自作を各地の演奏会で客演指揮した
『ハンガリー舞曲集』出版
1869年36才、1861年に着手していた《マゲローネのロマンス》が完成。シューマンの三女:ユーリエ・シューマンが他の男と結婚が決まり失恋
1871年38才、普仏戦争におけるドイツの勝利に刺激されて《勝利の歌》作品55を作曲。この曲は直ち
4月にブレーメンで、6月にカールスルーエで)上演された
1872年39才、ヴィーン楽友協会の指揮者就任。これ以後「交響曲第1番」を作曲に取り掛かる
カールスガッセ4番地の住宅に移る
父ヤーコプが死去
1873年40才、才、トゥッツィングに夏期滞在中、《ハイドンの主題による変奏曲》作品56を完成
1874年41才、チューリヒ近郊のリュシュリコンで夏を過ごす
ライプツィヒに於いてハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクとエリザーベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクとの友情が芽生える
1875年42才、ウィーン楽友協会の芸術監督を辞任
1876年43才、約20年かけたといわれる《交響曲第1番》ハ短調Op.68を完成。これを機に他の3つの交響曲を比較的短い間隔で書き上げられていく
11月4日にカールスルーエでオットー・デッソフの指揮によって初演される
デュッセルドルフ音楽協会の監督就任の件で同市の当局と交渉
1880バート・イシュルで夏を過ごす。『悲劇的序曲作品80』『大学祝典序曲作品81』を作曲。ブラームスは、「一方は涙の音楽、他方は笑いの音楽」と語っている。
1877年44才、初めてペルチャハで夏を過ごす。同地で《交響曲第2番》ニ長調Op.73完成
12月30日にウィーンで初演される
1878年45才、ペルチャハで二度目の夏を過ごし、《ヴァイオリン協奏曲》ニ短調作品77を作曲
親友で外科医のテオドール・ビルロート(胃癌切除手術に初めて成功した医師。Billroth Ⅱ法という術式でも有名だが室内楽や歌曲も作曲している)と共に、初のイタリア旅行を行う
1879年46才、3月ブレスラウ大学から名誉博士号を1879ブレスラウ大学から名誉博士号を授けられる。ペルチャハにおける三度目の、しかも最後の夏を過ごす。ヨアヒムとジーベンビュルゲンを演奏旅行
《ヴァイオリン協奏曲》ニ長調Op.77初演された
1881年48才、《ウィーン郊外のプレスバウムでピアノ協奏曲第2番》作曲。ハンス・フォン・ビューローの指揮するマイニンゲンのオーケストラ、自身のソロで初演された
1883年50才、ヴィースバーデンで夏を過ごす。《交響曲第3番》ヘ長調作品90が完成し、12月にウィーンでハンス・リヒターの指揮によって初演された
ワーグナーの訃報を聞いたブラームスは、「偉大な音楽家を亡くした」と涙したと伝えられている
コントラアルト歌手のヘルミーネ・シュピースと知り合い、互いに行き来していたが結婚への踏ん切りがつかなかったようだ
1884年51才、マイニンゲン侯爵の別荘を訪れる
夏はシュタイヤーマルクのミュルツツーシュラークで過ごす
《交響曲第4番》ホ短調作品98に着手
1885年52才、二度目の夏を過ごしたミュルツツーシュラークで《交響曲第4番》ホ短調作品98を完成し10月25日にマイニンゲンで初演された
《大学祝典序曲》ハ短調Op.80完成
1886年53才才、ウィーンの音楽家協会の名誉会長に就任
夏をヴィトマンの勧めで、スイスの避暑地トゥーン湖畔のヴィトマン邸で過ごした
《チェロ・ソナタ第2番》へ長調op.99、《ヴァイオリン・ソナタ第2番》op.100、《ピアノ三重奏曲第3番》ハ短調op.101、《ヴァイオリン・ソナタ第3番》op.108を作曲し、
12月20日ブラームス、イェネー・フバイ、ダーヴィト・ポッパーで初演された
1887年54才、前年に続きこの夏を、スイスの避暑地トゥーン湖畔のヴィトマン邸で過ごした
《ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲》op.102を作曲
1888年55才、前年に続きこの夏を、スイスの避暑地トゥーン湖畔のヴィトマン邸で過ごした
1889年56才、ハンブルクの名誉市民にばれる
オーストリア皇帝からレオポルト勲章が贈られた
春、ブラームスはイタリアに旅行した
夏、皇帝フランツ・ヨーゼフの過ごした避暑地で知られる、気候の良いオーストリア、ザルツカンマーグートの温泉地バート・イシュルで過ごす
12月2日ブラームスはエジソンの代理人の依頼で《ハンガリー舞曲第1番》を蝋管に録音した
1890年57才、意欲の衰えを感じるようになり、作曲を断念しようと決心して遺書も書き、手稿を整理し始めた
夏、バート・イシュルで過ごし《弦楽五重奏曲第2番》ト短調op.111を完成
コントラアルト歌手のバルビに出会った
《悲劇的序曲》作曲
1891年58才、クラリネット奏者ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻し、夏、バート・イシュルで過ごし《クラリネット三重奏曲》イ短調op.114、《クラリネット五重奏曲》ロ短調op.115作曲
1892年59才、《ピアノ小品集》Op.76」と《ピアノ小品集》Op.119作曲
1893年年60才、最後のイタリア旅行。最後のバート・イシュル滞在
1894年61才、2つの《クラリネット・ソナタ第1番》ヘ短調Op.120-1、《クラリネット・ソナタ第2番》変ホ長調Op.120-2を作曲
1895年62才、ブラームス音楽祭が、マイニンゲンやその他の都市で開催された
5月20日クララ・シューマン死去
1896年63才、5月7日《4つの厳粛な歌》Op.121作曲
6月頃から容貌が変わりヘルッカ医師から黄疸と診断されカールスパートの鉱泉飲用療法を勧められる。その後ウィーン大学のシュレッター教授の診察を受け胆管閉塞、肝臓肥大、肝臓がんと診断されるが本人へは知らされてない
9月9日《4つの厳粛な歌》ウィーンでアントン・ジスターマンスの歌とケーンラード・ボスのピアノで初演し、列席していたブラームスの称賛を受けた
1897年64才、2月中旬軽い脳卒中を起こす
3月7日ウィーン・フィルによる自作《交響曲第4番》演奏会に出席
3月25日吐血
4月に入ると昏睡状態となり消化管からの出血がひどくなる
4月3日午前8時30分胆嚢癌のため死去した。葬儀の日はハンブルク港に停泊中の船舶はすべて弔旗ををかかげたといわれている
ヴィーン中央墓地に埋葬
ハンブルクの生家は長く残されていたが、1943年7月の第二次世界大戦(1939-45年)下のハンブルク大空襲で焼失し、現在は記念碑のみがあるのみである。
5.主な作品
代表曲
<交響曲>
《交響曲第1番》 ハ短調 op.68
《交響曲第2番》 ニ長調 op.73
《交響曲第3番》 ヘ長調 op.90
《交響曲第4番》 ホ短調 op.98
<管弦楽曲>
《セレナード第1番》 ニ長調 op.11
《セレナード第2番》 イ長調 op.16
《ハイドンの主題による変奏曲》 変ロ長調 op.56a
《大学祝典序曲》 ハ短調 op.80
《悲劇的序曲》 ニ短調 op.81
<協奏曲>
《ピアノ協奏曲第1番》 ニ短調 op.15
《ピアノ協奏曲第2番》 変ロ長調 op.83
《ヴァイオリン協奏曲》 ニ長調 op.77
《ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲》 イ短調 op.102
<室内楽曲>
《ピアノ三重奏曲第1番》 ロ長調 op.8
《ピアノ三重奏曲第2番》 ハ長調 op.87
《ピアノ三重奏曲第3番》 ハ短調 op.101
《弦楽六重奏曲第1番》 変ロ長調 op.18
《弦楽六重奏曲第2番》 ト長調 op.36
《ピアノ四重奏曲第1番》 ト短調 op.25
《ピアノ四重奏曲第2番》 イ長調 op.26
《ピアノ四重奏曲第3番》 ハ短調 op.60
《ピアノ五重奏曲》 ヘ短調 op.34
《チェロソナタ第1番》 ホ短調 op.38
《チェロソナタ第2番》 ヘ長調 op.99
《ホルン三重奏曲》 変ホ長調 op.40
《弦楽四重奏曲第1番》 ハ短調 op.51-1
《弦楽四重奏曲第2番》 イ短調 op.51-2
《弦楽四重奏曲第3番》 変ロ長調 op.67
《ヴァイオリンソナタ第1番》「雨の歌」 ト長調 op.78 – 自作の歌曲『雨の歌』を転用。
《ヴァイオリンソナタ第2番》 イ長調 op.100
《ヴァイオリンソナタ第3番》 ニ短調 op.108
《ピアノとヴァイオリンの為のスケルツォ》(F.A.E.ソナタの第3楽章) ハ短調 WoO 2
《弦楽五重奏曲第1番》 ヘ長調 op.88
《弦楽五重奏曲第2番》 ト長調 op.111
《クラリネット五重奏曲》 ロ短調 op.115
《クラリネット三重奏曲》 イ短調 op.114
《クラリネットソナタ第1番》 ヘ短調 op.120-1
《クラリネットソナタ第2番》 変ホ長調 op.120-2
<ピアノ独奏曲>
《ピアノソナタ第1》番 ハ長調 op.1
《ピアノソナタ第2番》 嬰ヘ短調 op.2
《ピアノソナタ第3番》 ヘ短調 op.5
《シューマンの主題による変奏曲》 嬰ヘ短調 op.9
《4つのバラード》 op.10
《自作主題による変奏曲》 ニ長調 op.21-1
《ハンガリーの歌の主題による変奏曲》 ニ長調 op.21-2
《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》 変ロ長調 op.24
《パガニーニの主題による変奏曲》 イ短調 op.35
《8つの小品》 op.76
《2つのラプソディー》 op.79
《7つの幻想曲》 op.116
《3つの間奏曲》 op.117
《6つの小品》 op.118
《4つの小品》 op.119
《ピアノ連弾曲》
《ワルツ集》 op.39
《ハンガリー舞曲集》(全4集、21曲)
<声楽曲・合唱曲>
《埋葬(葬送)の歌》 op.13
《4つの歌》 op.17
《2つのモテット》 op.29
《聖歌 op.30
《ドイツ・レクイエム》 op.45
カンタータ《リナルド》 op.50
《アルト・ラプソディ》 op.53
《運命の歌》 op.54
《勝利の歌》 op.55
《2つのモテット》 op.74
《哀悼歌》(Nänie) op.82
《運命の女神の歌》 op.89
<歌曲> ブラームスは生涯におよそ300の歌曲を残した
6つの歌 《愛のまこと》Op. 3-1
《6つの歌曲》op.6
《6つの歌曲》op.7
6つの歌《まことの愛》 Op. 7-1
《8つの歌曲とロマンス》op.14
5つの詩《口づけ》 Op. 19-1
5つの詩《鍛冶屋》 Op. 19-4
5つの詩《エオリアンハープに寄せて》 Op. 19-5
子供のための15の民謡《眠りの精》 WoO 31-4
9つの歌曲(ブラーテンとダウマーによる) op.32
9つの歌曲《夜なかにはね起きて》Op. 32-1
9つのリートと歌《ああ、お前はもう一度わたしを》 Op. 32-5
歌曲集ティークの「マゲローネ」によるロマンス《憩え、いとしい恋人》 Op. 33-9
歌曲集ティークの「マゲローネ」によるロマンス《まことの愛はとこしえに》 Op. 33-15
49のドイツ民謡集 第6集《静かな夜に》 WoO 33-42
4つの歌《永遠の愛について》 Op. 43-1
4つの歌《5月の夜》 Op. 43-2
5つのリート《便り》 Op. 47-1
5つのリート《日曜日》Op. 47-3
7つのリート《愛する人のもとへ》 Op. 48-1
5つのリート《日曜日の朝に》 Op. 49-1
5つのリート《あこがれ》 Op. 49-3
5つのリート《子守歌》Op. 49-4
8つのリートと歌《私は夢を見た》 Op. 57-3
8つのリートと歌《ああ、その目をそらして》 Op. 57-4
8つのリートと歌《なまぬるい風》Op. 57-8
8つのリートと歌《たそがれは迫り》 Op. 59-1
8つのリートと歌《汝の青い瞳》 Op. 59-8
9つのリートと歌《わたしの恋は緑にもえ》 Op. 63-5
9つのリートと歌《私の愛は緑》Op. 63-5《懐郷》Op. 63-8
9つのリートと歌《おお、僕が帰り道を知っていたら》 Op. 63-8
4つの歌《海辺の庭の中に》 Op. 70-1
4つの詩《雲雀の歌》 Op. 70-2
5つの歌《秘めごと》 Op. 71-3
5つの歌《私に行ってほしいの》 Op. 71-4
5つの歌《愛の歌》 Op. 71-5
5つの歌《ああ,涼しい森よ》 Op. 72-3
5つの歌《失望》 Op. 72-4
《甲斐なきセレナーデ》op.84-4
6つのリート《テレーゼ》 Op. 86-1
6つのリート《野の寂寥》 op. 86-2
6つのリート《荒れ野を越えて》 Op. 86-4
6つのリート《思いに沈んで》 Op. 86-5
6つのリート《死へのあこがれ》 Op. 86-6
2つの歌《しずめられたあこがれ》Op. 91-1
2つの歌《聖なる子守歌》Op. 91-2
5つのリート《40歳になって》 Op. 94-1
5つのリート《サッフォー風頌歌》 Op. 94-4
4つのリート《死は冷たい夜》 Op. 96-1
4つのリート《われらはさまよい歩いた》 Op. 96-2
6つのリート《舟の上で》 Op. 97-2
6つのリート《柳の林の中に》Op. 97-4
ジプシーの歌《さあ、ジプシーよ》Op. 103-1
ジプシーの歌《湧き上がるリマの流れ》Op. 103-2
ジプシーの歌《僕の彼女が一番美しいのはどんな時》Op. 103-3
ジプシーの歌《神様もご存じ》Op. 103-4
ジプシーの歌《日焼けした若者》Op. 103-5
ジプシーの歌《三つのばらが》Op. 103-6
ジプシーの歌《あなたは忘れはしないでしょう》Op. 103-7
ジプシーの歌《まっかな夕べの雲が》Op. 103-11
5つのリート《調べのように私を通り抜ける》 Op. 105-1
5つのリート《私の眠りはますます浅くなり》 Op. 105-2
5つのリート《教会墓地にて》 Op. 105-4
5つのリート《裏切り》 Op. 105-5
5つのリート《セレナード》 Op. 106-1
5つのリート《霜が降りて》Op. 106-3
5つのリート《私の歌》 Op. 106-4
5つのリート《おとめは語る》 Op. 107-3
5つのリート《娘の歌》Op. 107-5
《3つのモテット》 op.110
4つの厳粛な歌《世の人に起こることは獣にも起こる》 Op. 121-1
<重唱曲>
《愛の歌》op.52
《3つの二重唱曲》op.20
《4つの二重唱曲》op.28
《3つの四重唱曲》op.31
《新しい愛の歌》 op.65
《4つの四重唱曲》op.92
《ジプシーの歌》 op.103
6.その他
1. ドイツ音楽における「3大B(バッハ・ベートーヴェン・ブラームス)」の一人と称される
2. ブラームスの人物像:
➀ブラームスは妥協しない音楽家だったようだ
➁我が強く、高圧的で、言葉にはトゲを含み異常に神経が過敏、皮肉屋の不愛想で粗雑なしゃべり方で短気であったようといわれている
➂多くの友人と喧嘩をし友を失ったいわれている
➃リスト、ワーグナーとは相いれず、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ヴェルディ、R・シュトラウス等にも敬意を払わず、お気に入りはヨハン・シュトラウスであったようだ
➄夏にはバード・イシュルの隣り合わせの別荘で暮らしたといわれている
➅敬愛した音楽家はシューマンただ一人であったようだ
➆でっぷり太り、頬とあごひげをはやし、葉巻を常に手から離さず外見は非常にむさくるしく、身なりは全くかまわず、衣服を買うのが大嫌いで古ぼけただぶだぶのつぎの当たったズボンはどれも短すぎていたようだ
➇大変な倹約家で生涯つつましく暮らし経済的に恵まれた時期でも安い食堂で食事をし、簡素な生活をしていたという
➈ウイーンの人はブラームスとベートーヴェンはどちらも背が低く、田園を愛し、癇癪もちで一生独身を通し、頭をつきだし両手を後ろに組む歩き方までそっくりだったと語り伝えている
7.初演
8.関連動画
《交響曲第1番》 小澤征爾指揮 《天覧公演》
サイトウ・キネン・オーケストラ
長野県松本文化会館 1992年9月5日
Brahms : Symphony No.1 in C minor Op.68
Seiji Ozawa : Saito Kinen Orchestra 〔1992.9.5〕
His Majesty the Emperor your viewing concert
《交響曲第1番》 バーンスタイン指揮
ウイーン・フィル
Johannes Brahms – Symphony No. 1 in C minor, Op. 68
Conductor: Leonard Bernstein
Vienna Philharmonic Orchestra (Wiener Philharmoniker)
《交響曲第1番》 パーヴォ・ヤルヴィ指揮
Symphony 1- Paavo Järvi
《交響曲第2番》 カルロス・クライバー指揮
Symphony 2- Carlos Kleiber- 1991
《交響曲第3番》 バーンスタイン指揮
ウイーン・フィル
Symphony 3 F Dur op 90 Leonard Bernstein, Wiener Philharmoniker
《交響曲第4番》 カルロス・クライバー指揮
Symphony 4- Carlos Kleiber Bayerisches Staatsorchester
《交響曲第4番》 エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮
Symphony 4- Evgeny Mravinsky – 1973
《交響曲第4番》 デミトリー・ミトロプーロス指揮
ニューヨーク・フィル
Brahms “Symphony No 4” Dimitri Mitropoulos
Dimitri Mitropoulos, / New York Philharmonic
New York, 22.11.1953
ピアノ協奏曲 バレンボイム(Pf.)、チェリダッケ指揮
Piano Concerto No 1 – Barenboim, Celibidache
ヴァイオリン協奏曲 ハイフェッツ(Vn.)、トスカニーニ指揮
Violin Concerto in D major, Op 77 Heifetz – Toscanini
ヴァイオリン協奏曲 オイストラフ(Vn.)、指揮
Violin Concerto in D major, Op 77 David Oistrakh
ヴァイオリン協奏曲 イツァーク・パールマン(Vn.)、指揮
Violin Concerto in D major, Op 77 Itzhak Perlman
Sir Georg Solti & Wiener Philharmoniker – “Hungarian Connection” Concert
Hungarian Dances – Budapest festival Orchestra
Haydn Variations – Furtwängler
Haydn Variations – Claudio Abbado
Serenade No.1 in D-major, Op.11 (1857)
nbsp;
Piano concerto No. 2 (Pollini, Vienna Philharmonic, Abbado)
Tragic Overture
Variations on a Theme of Paganini, Op.35
Ein Deutsches Requiem Herbert von Karajan Wiener Philharmoniker
Academic Festival Overture Bernstein
“Wiegenlied” Elisabeth Grümmer