カラヤン

生没年・出身地・歿地・墓地
ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕
Herbert von Karajan
本名:ヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン
生年月日: 1908年4月5日
出身地:オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク、シュヴァルツ通り1番地で生まれた。
Salzburg, Salzburg, Salzburg, Austria
没地: 1989年7月16日オーストリア、ウムゲブン地区ザルツブルク アニフで没(81)
Anif, Salzburg-Umgebung District, Salzburg, Austria
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1.職業
オーストリアの指揮者

ザルツブルク、生家前のカラヤン像
2.名誉/称号
ザルツブルク市名誉市民(1968年)
ザルツブルク州名誉指輪(1968年)
ベルリン市名誉市民(1973)
西ベルリン名誉市民(1973)
ウィーン市名誉市民(1978年)
ミュンヘン大学名誉博士号を授与(1978年)
ザルツブルク大学名誉博士号を授与(1978年)
オックスフォード大学名誉博士号を授与(1978年)
早稲田大学より名誉博士号を授与(1978)
東京大学名誉博士号を授与(1979)
西ドイツのエドゥアルト・ライン財団エドゥアルト・ライン名誉指輪授与(1984)
ザルツブルク音楽祭名誉勲章受章(1985)
ザルツブルク音楽祭名誉の指輪(1985)
<受章>
1960年:イタリア共和国功労勲章グランド・オフィシエ受章
1961年:オーストリア科学芸術勲章受章
ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章Grosses Bundesverdienstkreuz受章
1981年:ソフィアにおけるブルガリア人芸術家への貢献により聖キュリロス・メトディオス勲章一級受章
<受賞>
1968年:ドイツ・グラモフォン協会黄金蓄音機賞
1969年:ルツェルン市芸術賞
1977年:エルンスト・フォン・ジーメンス音楽賞受賞
パリのアカデミー・フランセーズから金メダル
ロンドンのロイヤル・フィルハーモニー協会から金メダル
1981年:マーラーの交響曲第9番とパルジファル全集の録音で2つのグラモフォン賞を受賞
1982年:グラモフォン賞
1982年:ヴェルメイユ勲章
1983年:ドイツレコード賞
1983年:ゴールデンレコード
1983年:ユネスコ国際音楽賞
1986年:オナシス財団オリンピア賞
2012年:初代グラモフォンの殿堂入り
ユネスコからピカソ・メダルを受賞
グラミー賞受賞
(カラヤンはグラミー賞を複数回受賞しており、歴史的に見ても特に著名な指揮者である。30年近くにわたり、40回ものグラミー賞ノミネートを受けた。内グラミー賞は3回受賞しており、1964年にはビゼーの『カルメン』で最優秀オペラ録音賞、1969年にはワーグナーの『ジークフリート』で最優秀オペラ録音賞、1978年にはベートーヴェンの交響曲全集で最優秀クラシック管弦楽演奏賞を受賞した。 カラヤンのベートーヴェン全集は、世界中で最も人気があり、長く愛されている録音の一つであり、また、前世紀で最も批評家から高く評価されている録音の一つでもある。)
ヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕地、ザルツブルクにある像
モニュメント
カラヤンは、かつて故郷と呼んだ都市において、彼の功績を称える記念碑の建立などもあり、日常生活の中で目に見える存在であり続けている。ザルツブルクでは、ウィーンのカラヤン財団がチェコの芸術家アンナ・クローミーにカラヤンの等身大像の制作を依頼し、現在では生家の外に建立した。
1983年、カラヤンのブロンズ胸像が西ベルリンの新しい国立劇場の玄関ホールで公開された。

3.家系
カラヤンの先祖はアナトリアの滅亡したキリキア・アルメニア王国からのアルメニア系亡命者かも知れない。アルマニア人は中世の東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言葉を話す少数民族でヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかといわれ、その子孫という説がある。
カラヤン家はギリシャ起源のカラヤニス(またはカライオアネス)Karagiannis(oder Karaioannes)と呼ばれる一族で、北ギリシャのマケドニア地方(当時はオスマン帝国の一部でルメリアという名だった)出身であり、 1743年にコザニの文書に初めて言及されている。父方の高祖父の父ヨアニス・カラヤニスはオスマン・トルコ支配下のギリシャ系マケドニア人で、マケドニアのカルスト山岳地帯オリンポス近くのコザニKozaniに居住したしていたようだ。

参考:https://www.travel-zentech.jp/world/map/greece/Kozani.htm
1. 高祖父の父:ヨアニス・カラヤニスJoannis Karajannis
推定1678年〜1738年生‐1764年没
高祖父の母:カラガニス ピジョン (ストグマティ)Peristera Karajannis (Stojmati)
推定1678年〜1738年生
長男:ゲオルク・ヨハネス・カラヤニスGeorg Johannes Karajannis
二男:テオドール・ヨハン・カラヤニスTheodor Johann Karajannis
推定1713年〜1773年生
2. 高祖父:ゲオルク・ヨハネス・カラヤニスGeorg Johannes Karajannis
1743年Kozani, Greece生‐1813年6月02日Wien, Austriaで没(69-70)
ゲオルグ・ヨハネス・カラヤニス(実際はゲオルギオス・イオアンネス・カラヤニスGeórgios Ioánnes Karagiánnis)はおそらく1750年前後頃にコザニで生まれたと推定される。
24才頃弟のテオドール・ヨハンとウィーンを目指して旅立った。やがてザクセンのケムニッツへ定住し、綿織物・紡績工場を営む綿花商人となった。財をなしザクセン選帝侯国の経済発展にも貢献したとして、ゲオルク・カラヤンは、妻と息子のディミトリオス、弟テオドールと共に、 1792年6月1日にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の帝室代理在任中に、世襲の帝国貴族に叙せられた。
この貴族の称号は、1832年1月4日の勅令により、オーストリアにおいてカラヤンの未亡人ゾーイ・カラヤニスとその息子たちにも認められた。
前高祖母:ペリステラ カラヤニス (エコノモ/エコノモス)Peristera Karajannis (Economo/Ökonomos)
1747年生‐1799年2月2日Wien Nr. 1769,Austriaで没(51-52)
後高祖母:ゾーイ・カラヤニス(ドムナンド)Zoë Karajannis (Domnando)
1784年12月16日İstanbul, Turkey生‐1863年10月21日Mauer Nr, 134, Wien,Austriaで没(78)
長男:マヌエル・フォン・カラヤンManuel von Karajan
1775年North Macedonia (Macedonia, Republic of)生‐
1792年7月17日Landstrasse 404, Wien,Austriaで没(16-17)
長女:エウフロシュネ・フォン・カラヤンEuphrosyne von Karajan
1803年4月03日t. Georg, Wien,Austria生‐
二男:ヨハン・フォン・カラヤンJohann von Karajan
1803年12月15日Hl. Dreifaltigkeit,Austria生‐1812年4月29日Wien, Austriaで没(8)
二女:エカテリーナ・フォン・カラヤンEkaterina von Karajan
1804年9月27日Hl. Dreif., Wien,Austria生‐ 1814年9月11日Fleischmarkt 744, Wien,ustriaで没(9)
三女:エレノア・フォン・カラヤンEleonora von Karajan
1805年9月07日Hl. Dreif., Wien,Austria生‐ 1811年4月09日Fleischmarkt 744, Wien,Austria夭折(5)
四女:マリア・ゲオルギーネ・フォン・カラヤンMARIA Georgine von Karajan
1806年8月10日Hl. Dreif., Wien,Austria‐1807年3月19日Turm Nr. 769, Wien,Austriaで夭折(7ヶ月)
三男:カラヤンの「デメトリオス」(デメテル)Demetrios (Demeter) von Karajan
1807年8月07日Wien, Austria生‐1852年10月16日Wien,Austriaで没(45)
四男:テオドール・ゲオルク・リッター・フォン・カラヤンTheodor Georg Ritter von Karajan
1810年1月22日Wien, Austria生-1873年4月28日Wien, Austriaで没(63)
3. 曽祖父:テオドール・ゲオルク・リッター・フォン・カラヤン
Theodor Georg Ritter von Karajan
1810年1月22日Wien, Austria生‐1873年4月28日Wien, Austriaで没(63)
テオドール・フォン・カラヤンは、博士号取得の後、オーストリアの官僚となり、ウィーン大学で中世古文書学と歴史学を教える教授であり、宮廷図書館司書を兼務し、後に学部長になった。1848年に帝国学術アカデミーの会員、1851年に副会長、1866年に会長となった。1848年のフランクフルト国民議会に議員(派遣団員)として参加し、1867年からオーストリア貴族院(上院)の終身議員。1869年5月27日にウィーンでフランツ・ヨーゼフ1世からレオポルド騎士十字章を授与され 、同勲章の規定に基づき、1869年9月にオーストリアの世襲騎士に叙せられ、神聖ロ-マ帝国貴族の地位を与えられ、貴族の称号であるフォンを名のりカラヤンという姓に変え、「騎士フォン・カラヤン」(Ritter von Karajan)を名乗った。
曾祖母:ユリアナ(ジュリー)・フォン・カラヤン(ヴォッケンフーバー)Juliana (Julie) von Karajan (Vockenhuber)
1808年2月14日Wien, Austria生‐1889年7月27日Mauer,Wien, Austriaで没(81)
長男:マクシミリアン(マックス)・テオドール・フォン・カラヤン教授(哲学博士)Prof. Dr. phil. Maximilian (Max) Theodor von Karajan
1833年7月01日Wien, Austria生‐1914年8月20日Salzburg, Austriaで没(81)
マックスは古典文献学者で、博士号取得後の1857年から1904年までグラーツ大学の古典文献学の教師を務めた。1860年代半ば、グラーツ歌唱協会 (Grazer Singverein) を設立。1909年、この協会の沿革書を執筆し、「グラーツ歌唱協会の創設40年史(1866/67-1905/06)」の題名で出版された。
二男:ルートヴィヒ・マリヤ・フォン・カラヤンLUDWIG Maria von Karajan
1835年3月6日Wien, Austria生‐1906年11月20日Wien, Austriaで没(71)
三男:テオドール・アントン・フォン・カラヤンTHEODOR Anton von Karajan
1836年11月08日Stadt Nr. 728,Wien, Austria生‐1836年11月09日Wien, Austriで没(1日)
四男:ヴィルヘルム・ユリウス・リッター・フォン・カラヤンWILHELM Julius Ritter von Karajan
1838年1月27日Wien, Austria生‐1890年6月01日Wien, Austriaで没(52)
長女:ジュリー・カロリーネ・フォン・カラヤンJULIE Caroline von Karajan
1839年8月Wien, Austria生‐1841年7月09日Wien, Austria夭折(1)
五男:エミリー・カタリーナ・テオドラ・ヴィルヘルムEMILIE Katharina Theodora Wilhelm
1841年1月08日Wien, Austria生‐1882年3月28日Wien, Austriaで没(41)
4. 祖父:ルートヴィヒ・マリヤ・フォン・カラヤンLUDWIG Maria von Karajan
1835年3月06日Wien, Austria生‐1906年11月20日Wien, Austriaで没(71)
ルートヴィヒは医師になり、医学博士号の取得後、ニーダーエステライヒ州政府の公衆保健衛生部門の官僚となった。1880年、ザルツカンマーグート地方のグルンドルゼー湖の西端にあるモーゼルンに邸宅「ヴィラ・カラヤン(カラヤン邸)」を設けた。ルートヴィヒの息子、騎士エルンスト・フォン・カラヤン(1868–1951)は父と同じく医師の道を進んで外科医となり、ザルツブルクで暮らした。最初はザンクト・ヨハン病院(現在のザルツブルク州立病院)の医師長を務め、甲状腺腫(副腎腺腫)の専門医として勤務した。後に、ザルツブルク州政府の公衆保健衛生部門の責任者となった。宮廷顧問官を務めた。
祖母:ヘンリエッテ・フォン・カラヤン (フォン・ラインドル)Henriette von Karajan(von Raindl)
1837年3月27日Wien, Austria生‐1912年10月28日Wien, Austriaで没(75)
長女:ヘレン・スタンキェヴィチ・デ・モヒラ(フォン・カラヤンHelene Stankiewicz de Mogila (von Karajan) (1861 – 1921)
1861年6月20日Wien, Austria生‐1921年6月01日Baumgarten, Wienで没(59)
二女:ヨハンナ(ハンナ)・オーバーマイヤー・フォン・レヒツィンJohanna (Hanna) Obermayer von Rechtsinn (von Karajan)
1863年1月08日Wien, Austria生‐?
ヨハンナの夫:ERNST Eduard Obermayer von Rechtsinn, Dr. Jur. (1861-1936)
長男:エルンスト・テオドール・エマヌエル・フォン・カラヤンErnst Theodor Emanuel von Karajan, Dr. med.
1868年12月2日‐1951没(82-83)
エルンストは1905年にマルタ・コスマッチュ(スロベニア系。父のミハエル・コスマッチュは現在のクランスカ・ゴーラ市内のモイストラナ区の出身)と結婚し、息子の騎士ヴォルフガング・フォン・カラヤン(1906-1987)と2歳下の騎士ヘリベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)が生まれた。
二男:エマヌエル・マックス・フォン・カラヤンEmanuel Max von Karajan,1870年4月28日Wien, Austria生‐1947没・
5. 父:エルンスト・テオドール・エマヌエル・フォン・カラヤン医学博士
Ernst Theodor Emanuel von Karajan, Dr. med. (1868-1951)
出身地:1868年12月2日ウィーン
没地:1951年10月11日スイス、リッテンハイト
母:マルタ・フォン・カラヤン(コスマッチ)
Martha von Karajan (Kosmač) (1881-1954)
出身地: 1881年7月19日オーストリア、シュタイアーマルク州グラーツ、グラーツ
没地:1954年2月14日(72)ザルツブルク、オーストリア Salzburg, Salzburg, Austria
マルタの父はマイケル・コスマチ(1839-1885)Mihael Kosmač
マルタの母Hカタリーナ・コスマチ(1848-1944)Katharina Kosmač (Arterer)
エルンスト・テオドール・エマヌエル・フォン・カラヤンは、1868年に父ルートヴィヒ・マリヤ・フォン・カラヤンと母ヘンリエッテ・フォン・カラヤンの間に長男として生まれ、後に医師となった。
1905年スロヴェニア人の家系で民族的にはスラブ人の血を引くグラーツ出身のマルタ・コスマチと結婚。
ザルツブルク州立病院外科部長に就任した時に、一家でウィーンからザルツブルクに移住した。
その後ザルツブルクの聖ヨハネ病院院長、ザルツブルク州立病院院長、ザルツブルク州衛生担当官を歴任した。
カラヤンは語る『父は、音楽好きで、俳優としての才能もあった。父はピアノを弾き、クラリネットを吹いた。小さなグループができていて、夜など一緒に集まって音楽を演奏した。レコードもなくテレビもなかった。音楽といえば生の音楽しかなかった。父は鼻筋が通ったギリシャ風の端正な好男子で女性は父に夢中になった。情味があり患者を大事にしていた。いつも病院へ歩いて通った。徒歩で25分の距離だ。あるとき、なぜ歩くのかと父に尋ねた。父は歩いている間に、これからするはずの手術についてあらゆ側面から検討できるからという答えが返ってきた。病院に着いたときには、完全に心構えができているということだった。あとで振り返ってみると、わたしはこの考え方にずいぶん影響されたようだ。わたしはたいていの人よりも、計画や準備、組織といったことにはるかに時間をかかける。ときにはスケジュールをたてるために何か月もかける。そうしておけば、いざとなってもあわてふためくことはない。そうしておかないと、心構えができないし、心構えができないことは耐えられない。仕事は別だが、父は何事につけてもなかなか決心できなかった。兄やわたしが何か尋ねようとすると、必ず”おかあさんに訊きなさい”と言うのだ。そのくせ母が何か決めると、それに満足できなかった。それを見てわたしは強い印象を受けたようだ。子供のころから、命令するのはいつもわたしだったからだ。』『母はいつも蔭に隠れていた。でしゃばる必要など感じなかったのだ。父は一度、母にこう言った。”修道院の院長になって、世界中のの人に仕えることができればしあわせなんだろうね”』。
父の弟エマヌエル・リッター・フォン・カラヤンはウィーン国立歌劇場管理者・監督官で、歌劇場での非公開指揮演奏のリハーサルをカラヤンが学べるように配慮してくれたようだ。
カラヤンの兄は、ヴォルフガング・フォン・カラヤンWolfgang von Karajan,
1906年7月21日ザルツブルク生-1987年ザルツブルクで没
ヴォルフガングは自然科学の経歴を歩み、ザルツブルクで応用物理学研究所 (Labor für technische Physik) を運営した。1950年、ハンス・アンドレアエと妻のヘディとともに「ヴォルフガング・フォン・カラヤン・オルガン・アンサンブル」を結成し、世界各地に演奏旅行に出た。バッハの「フーガの技法」を得意のレパートリーとしていた。この時期には、弟のヘリベルトはすでに著名な指揮者になっており、「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の名(芸名)で20世紀のクラシック音楽の世界で最重要にして最も有名な人物へと成長していた。ヘリベルト(ヘルベルト)は数多くの著名なオーケストラと共演し、名だたるオペラハウスで活動し、無数のレコードディスクを残した。
<プロフィール>
ヘルベルト・フォン・カラヤン(本名ヘリベルト、リッター・フォン・カラヤン)は、オーストリアの指揮者。彼は35年間ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。彼は20世紀を代表する偉大な指揮者の一人と広く認められており、1950年代半ばから亡くなるまでヨーロッパのクラシック音楽界を牽引する存在でした。その理由の一つは、彼が残した膨大な数の録音と、それらが生前より高く評価されていたことです。ある推計によると、彼はクラシック音楽史上最も売れた録音家であり、推定2億枚ものレコードを売り上げた。
4.カラヤン歴史年譜
1908年
4月5日ヘルベルト・フォン・カラヤンは、ザルツブルクのザルツァッハ川右岸の中心地、シュヴァルツ通り1番地に生まれた。
当時のオーストリアはオーストリア=ハンガリー帝国の一部であった。
カラヤンは二男で二歳上にヴォルフガングという兄がいた。
住まいはバロック様式で2階にカラヤン一家は暮した。父は音楽好きで自宅では仲間と毎週のように演奏した。
カラヤンは語る『わたしはつねに兄より小さかった。兄の遊び仲間には入れなかった。これは学校にも影響した。わたしは一年の中ごろに生まれたので、兄が学校へ行っても、自分は行けなかった。行くべきだったかもしれない。もうその準備はできていたから。だが、わたしは待たねばならなかった。それから音楽のレッスンがはじまった。両親は兄のヴォルフガングにピアノを習わせようとした。”ぼくにも”やらせて”とわたしは言った。だが両親に一年待てと言われた。だからヴォルフガングのレッスンがあるときは、カーテンの蔭にかくれていたものだ。そして一人になると、自分も弾いてみようとした。三週間もするとわたしは見つかり、レッスンを受けさせてもらえることになった。そして、すぐにヴォルフガングに追いつき、追い越した。』
↓ オーストリア=ハンガリー帝国のザルツブルク

↓ カラヤンの生家

1911年3歳
3才頃兄のピアノレッスンを聞き自分で弾いているのが見つかり、両親は音楽の才能を認める。
カラヤンは語る『わたしはつねに兄より小さかった。兄の遊び仲間には入れなかった。これは学校にも影響した。わたしは一年の中ごろに生まれたので、兄が学校へ行っても、自分は行けなかった。行くべきだったかもしれない。もうその準備はできていたから。だが、わたしは待たねばならなかった。それから音楽のレッスンがはじまった。両親は兄のヴォルフガングにピアノを習わせようとした。”ぼくにも”やらせて”とわたしは言った。だが両親に一年待てと言われた。だからヴォルフガングのレッスンがあるときは、カーテンの蔭にかくれていたものだ。そして一人になると、自分も弾いてみようとした。三週間もするとわたしは見つかり、レッスンを受けさせてもらえることになった。そして、すぐにヴォルフガングに追いつき、追い越した。』。
1912年4歳
フランツ・レドヴィンカFranz Ledwinkaに師事して、ピアニストとしての勉強を始めた。
1913年5歳
チャリティーコンサートに出演。
カラヤンは語る『足がペダルにとどかなかったが、それほどあがってはいなかった。演奏したらケーキをくれる約束だったんだ』
スキーをはじめる。
1914年6歳
第一次世界大戦が勃発し、カラヤン兄弟はシュタイアーマルク州に住む叔母の家に預けらた。
ザルツブルクが戦禍をまぬがれそうだとわかると、兄弟は家に戻って勉学をつづけた。カラヤンはザルツブルクに設立されたばかりのモーツアルテウム音楽院でフランツ・レドヴィンスカに師事した。
カラヤンは語る『わたしたちは、いまのエスターライヒッシャーホーフ・ホテルのとなりに住んでいた。わたしはモーツアルテウムが建設されるのを見まもっていた。礎石にはモーツアルトの主題が刻まれたが、なんと音符が間違った音符が含まれているんだ。』。
ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に通い始めたカラヤンは、毎日4時間ピアノを練習した。
カラヤンは語る『なんでそうしたのかよくわからない。だが、わたしはいつも何かを学び、技を身につけたくて夢中になる。音楽でなければ、じっと腰をすえてロシア語かなにかをと取り組んだろう。天才だと人は言う。そうかもしれないが、自分ではわからない。夢中になって没頭するので、ほかのことは頭になくなるのだ。わたしには、やりたいことに集中して、ほかのことをいっさいしめだす能力があるのです。』。
数年後には、フランツ・レドヴィンカ(ピアノ)、ベルハルト・パウムガルトナー(作曲と室内楽)、フランツ・ザウアー(和声)という3人の著名な教師に師事するようになる。
1915年7歳
モーツァルテウム音楽院の期待の星として、若きヘリベルトは毎年開催されるモーツァルト誕生日特別コンサートに定期的に出演した。当時の批評家によると、カラヤンは演奏の仕方とタッチに自信に満ち、「明らかに早熟な音楽的感受性から生まれた音の美しさへのこだわり」を持っていた。
若きカラヤンはザルツブルクの様々な地元の教会の聖歌隊でも歌っており、「合唱は実際、生涯を通じて私のそばにありました」と回想している。
1916-1926年8歳
ザルツブルクのモーツァルテウムでレドヴィンカFranz Ledwinka(ピアノ)、ザウアー Franz Sauer(和声学)、パウムガルトナー Bernhard Paumgartner(作曲、室内楽)を師事した。
カラヤンは、パウムガルトナーが「その方面での彼の並外れた才能を感じた」ので指揮を始めるよう勧めたと述べている。しかし、カラヤンのオーケストラの音への関心は、レドヴィンカによって既に見抜かれていた。実際、パウムガルトナーはヘリベルトを「何度もオーケストラのリハーサルに連れて行き、自分の隣に座らせた。『指揮がどんなものかイメージできるように』と。そして、私が最終的にそれを試せるように全力を尽くしてくれた」という。
カラヤンは、最後のオーストリア=ドイツ伝統主義者の一人であり、ピアノの神童としてキャリアをスタートさせた。8歳になる前に初めて公の場で演奏し、すぐにピアノから指揮棒へと転向したが、ピアノの腕前は、指揮法の勉強と準備において、常に大きな価値があった。
1916~1926年:ザルツブルクのモーツァルテウムでレドヴィンカ(ピアノ)、ザウアー(ハーモニー)、パウムガルトナー(作曲、室内楽)に師事。
1916年から1926年にかけて、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院でレドヴィンカ(ピアノ)、ベルンハルト・パウムガルトナー(作曲、室内楽)、フランツ・ザウアー(和声)に師事した。
少年時代のカラヤンは、山登りに熱中し、ザルツブルクのカプツィーナ山から20メートルの高所から転落し、足を骨折したことがある。この転落が、晩年に彼が苦しんだ深刻な骨髄症の原因となった可能性もある。
1919年11歳
貴族階級廃止は(オーストリアの)フォン・カラヤン家にも影響を与え、家名は先頭の「フォン」がなくなるカラヤンとなった。後年、指揮者カラヤンは、告知ポスターに以前の「フォン」の使用が許可されなければオーストリアでの公演を行わないと発言した。その結果、彼はヘルベルト・フォン・カラヤンという芸名を与えられた。
1924年16歳
夏、ヘリベルト(カラヤンの本名)は兄と共にザルツブルクからロンドンへ出発し、3ヶ月間の英語学習に励んだ。カラヤンは後にイタリア語とフランス語も流暢に話せるようになった。
1925年17歳
オーストリア人民党所属の全ドイツ・ギムナジウム「ルギア・ザルツブルク」学生の会員となり、後にアルター・ヘル(OB会員)となった。
1826年18歳
3月カラヤンはバカロラ課程に合格し、モーツァルテウムの最終試験にも合格した。
ザルツブルクのHumanistischen Gymnasium in Salzburgグラマースクールを卒業した。この頃から、彼は国家社会主義的な見解に基づき、ドイツ文化のユダヤ化を嘆いていた。
この年から1928年にかけて、ウィーン工科大学で3年にわたり機械工学を学び、同時にウィーン音楽演劇アカデミー Wiener Akademie für Musik und darstellende Kunstniに入学した。
ウィーン工科大学入学の後両親の同意を得て工科大学を退学した。
片手の腱炎症によりパウムガルトナーの助言により、カラヤンは指揮に転向した。
ウィーン音楽演劇アカデミーには指揮の教師がいなかった。ピアノをヨーゼフ・ホフマンJosef Hofmannに学び、指揮をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の当時のソロオーボエ奏者のもとで、指揮の勉強を始めた。
1929年までウィーン音楽演劇アカデミーで、指揮をフランツ・シャルクFranz Schalk とアレクサンダー・ヴンデラーAlexander Wundererに師事した。
1929年21歳
1月22日、ザルツブルクのモーツァルテウム大ホールで、カラヤンは自費でチャイコフスキーの《交響曲第5番》、ペッシのピアノソロでモーツァルト《ピアノ協奏曲イ長調》(K488)、シュトラウス《ドン・ファン》を、モーツァルテウム管弦楽団を指揮者としてデビューした。
この演奏はウルム市立劇場の総支配人の目に留まり、ウルム市立劇場の支配人から指揮者オーディションを受けるよう招かれた。
1930年
カラヤンはウルム市立劇場とフィルハーモニー管弦楽団指揮者に就任した。(1929‐1934年)
3月ウルム市立歌劇場でカラヤンはモーツァルト歌劇《フィガロの結婚》で指揮デビューした。
1931年23歳
カラヤンはウルム劇場指揮者に就任した当時わずか21歳で、既に完璧主義者でした。1931年のクリスマス公演を前に、あるオーケストラのメンバーから殺害予告を受けました。幸いにも、問題のヴァイオリニストは弾丸が込められていないリボルバーを所持していたため逮捕されました。オペラは30分延期されたものの、上演は予定通りに行われました。
1933年25歳
ザルツブルク音楽祭でパウムガルトナーの指揮助手。
4月8日彼は入党金を支払い、党員番号1607525を取得し、ウルムに移住した。この入党は正式には行われなかったと言われている。ナチス党入党登録(党員番号1607525)ザルツブルクで第5地方支部「インシュタット」所属になる。
4月にザルツブルクでナチ党への入党を試みたが、何らかの理由で入党手続きを怠ったため、後に無効と判断されたというもの。また、カラヤンが正式にナチ党に入党したのは1935年のアーヘンであったため、入党に意欲的ではなかったと示唆されている。
5月1日ベルリン・オペラの指揮者だったカラヤンは、キャリアアップと支配層の支持を得るため、ナチ党に入党した。
ナチ党の政権掌握により先輩のオットー・シュルマンがドイツを追われた後、カラヤンはウルム市立歌劇場オペラ第一楽長に昇進した。
ウルムに戻り公式に入党した。この事実はベルリンのアメリカ合衆国使節団文献センターにあるナチ党関係のマスター・ファイルに記録が残っておりカラヤンの記憶よりも信頼できるとされている。
<カラヤンに関するナチ党の記録>
・1939年1月5日書簡にはミュンヘン本部からオーストリアのナチ党財政部宛、カラヤンに対してナチ党員証を交付する許可が下りたと書かれている。この書簡によればカラヤンは2度入党している。1933年4月8日ザルツブルクで(1607525)、2度目は同年5月1日ウルムで入党している。この書簡は4月8日が有効かどうかを尋ねている。
・1939年2月4日の書簡はオーストリア(ウィーン)のナチ党代表からミュンヘンのナチ党会計係に宛てたもので、4月8日に出されたカラヤンの申請が有効か否かを決定するのは、ザルツブルク支部に委ねられると記され、この件に関し決断するよう求めている。
・1935年5月15日書簡は、ザルツブルク地方支部ノイシュタットからザルツブルクナチ党会計係宛で、ザルツブルクでナチ党員カラヤンから5シリング受け取ったと署名している。カラヤンに受領書を渡し、ザルツブルク党員募集事務所(ザルツブルク、ジークムント通りハフナーガッセ16番地)で申請を受理した。その後カラヤンから便りがなく、オーストリアでは党費をいっさい払っていないはずだと党員ヘルベルト・クラインは述べている。
・1939年7月7日書簡で、ミュンヘン党本部からケルン・アーヘン支部の会計係に宛てたもので、1933年4月8日のカラヤンの申請は、カラヤンが党費を支払っていないために無効だと断言し、1933年5月1日の申請を有効と認め、請求のあったカラヤンの党員証を交付している。
・1942年12月12日書簡でオーバーライヒスライター・シュナイダーからベルリンの事務局にあてたもので、カラヤンが公式に入党した日付を1933年5月1日とし党員番号は(3430914)党員証は1939年7月13日に交付されたと記されている。
ポール・ムーアの記事は「ハイ・フィデリティ」に掲載されたが、さらにポールは、カラヤンがナチに入党したのは、「アーヘンでなくザルツブルクであり、圧力をかけられた」とカラヤンは回想しているが、それは1934年4月8日で、ヒトラーが政権の座についてわずか2か月後のことであった。
ドイツの音楽学者フレート・プリーベルクがベルリンの文献センターから必要な書類を手に入れ公表した時、カラヤンの最初の反応は激怒であった。「でっちあげだ」「話すのもいやだね。馬鹿げている。プリーベルクは金がほしかっただけだ」と軽蔑のこもる言葉を吐き捨てた。
数か月後、ロジャー・ヴォーンは必要な書類を入手した、党員証のコピーもあった。アニフ村の家でカラヤンにそれを見せた。不愉快そうに書類を手に取ると、警戒するようにしげしげと見つめていた。よく見えるように明りにかざし、数秒間じっと調べた。「私の署名はどこにある?」と彼は尋ねた。ロジャーはどう思うかと訊いてみた。カラヤンは肩をすくめ、ロジャーを見て言った。「にせものだよ」
ナチス時代、ヘルベルト・フォン・カラヤンとナチス政権との関係、そして彼の活動は、議論と論争の的となってきた。カラヤンは、アドルフ・ヒトラーがドイツで政権を握った直後の1933年にナチ党に入党した。当時の芸術家や音楽家の間では、彼の党員生活は珍しくなかったことは特筆に値する。
なぜなら、党員であることは、職業上の必須条件とみなされていたからである。
ナチス時代におけるカラヤンの台頭は、ナチス高官との良好な関係と支援によって促進された。
1933年、彼はベルリン国立歌劇場の指揮者とアーヘン歌劇場の芸術監督に就任した。これらの地位は、彼にキャリアアップと認知度向上の大きな機会をもたらした。指揮者としての成功は第二次世界大戦中も続き、ドイツ軍やナチス高官のために数多くの公演を指揮した。
カラヤンとナチス政権との関係は、ヒトラーの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスによって促進された。
ゲッベルスはカラヤンの才能を認め、その芸術的才能をナチスの文化政策を推進するための貴重な手段と見なしていた
ヘルマン・ゲーリングは、カラヤンがベルリン・オペラの常任指揮者に就任することを強く支持した。この決定により、カラヤンは、同じ地位を目指してヨーゼフ・ゲッベルスに支持されていたヴィルヘルム・フルトヴェングラーと対立することになった。
後に、ナチス支配の深刻さを目の当たりにしたカラヤンは、自分がナチスの一員であると認めたことを深く恥じ、ナチ党とのあらゆる関係を断とうとした。
ナチス時代の過去について語ることはなかったものの、ナチ党への入党という決断が生涯彼を苦しめていたことは明らかである。
『自分がしたことを変えようとは思わない。なにもかも仕事のためだった』とカラヤンは述べる。
7月カラヤンはマックス・ラインハルト演出による《ファウスト》のヴァルプルギスの夜の場面でザルツブルク音楽祭に指揮者としてデビューした。
1933年から1945年にかけてカラヤンが注目度を増したことにより、彼がナチ党に入党したのはキャリアアップのためだけだったという憶測が飛び交った。
ジム・スヴェイダなどの批評家は、アルトゥーロ・トスカニーニ、オットー・クレンペラー、エーリヒ・クライバー、フリッツ・ブッシュといった他の著名な指揮者たちも当時ドイツやイタリアから逃亡したと指摘している。
リチャード・オズボーンは、戦時中もドイツで活動を続けた多くの重要な指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・シューリヒト、カール・ベーム、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、カール・エルメンドルフの中で、カラヤンは最年少であり、したがってキャリアにおいても最も遅れをとっていた一人だったと指摘している。
1934年26歳
ウルムでの契約が終了し、彼は帝国音楽院Reichsmusikkammerで、当時コンサート部門の責任者であったルドルフ・ヴェダーRudolf Vedderのもとでオーディションを受けた。
ヴェダーはアーヘン市立劇場の音楽総監督ペーター ・ラーベPeter Raabeと親しかった。
4月カラヤンのアーヘンで指揮者としての試験採用が予定された。
6月8日にアーヘン市立劇場のオペラ監督兼指揮者(1934-1941)に任命され
この任命はザルツブルク・フォルクスブラット紙によって「故郷への栄誉」と評された。
8月21日、カラヤンはザルツブルクで初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とドビュッシーやラヴェルの作品を演奏した。
1935年27歳
3月にアーヘンでナチ党に再入党し、今度は党員番号3430914を取得したこともまた確かであった。
オーストリア併合後、ナチ党の責任ある帝国会計責任者はミュンヘンでカラヤンの二重入党を発見し、最初の入党を無効と宣言した。2度目の入党は1933年5月1日に遡及適用された。
4月20日ヒトラー総統誕生日を記念してワーグナー《タンホイザー》を指揮し、メーデーにはドイツ労働戦線の組織「歓喜の力」の公演を指揮した。
ナチス時代を通して、彼は「コンサートの冒頭をナチスのお気に入りの『ホルスト=ヴェッセルの歌(旗を高く掲げよ)』で始めることを決してためらわなかった」 が、「あくまでもキャリア上の理由で参加した」と常に主張していた。彼の敵は彼を「SS大佐フォン・カラヤン」と呼んだ。
4月30日国家社会主義の大衆組織「KdF」のオペラの夕べでベートーヴェン《フィデリオ》を指揮した。
4月ペーター・ラーベの後任としてカラヤンはドイツで最年少の音楽総監督に就任した。
6月アーヘン歌劇場で歌劇やオーケストラのコンサートを指揮した。
カラヤンのキャリアが大きく飛躍したのは同年、アーヘンでドイツ最年少の音楽総監督に就任し、ブカレスト、ブリュッセル、ストックホルム、アムステルダム、パリで客演指揮者として活躍したときである。
6月29日アーヘンで開かれたNSDAP地区党大会で、カラヤンはオットー・ジーグル作曲のプロパガンダ作品《祝祭の賛歌》と題する一連の曲をてがけ、100人の演奏家と750人の歌手とともに公式作品を指揮した。この曲もヒトラーのために作曲されたもので歌詞はバルダー・シーハラ(のちにヒトラー・ユーゲントの指導者となる)。演奏曲目はほかにブルーノ・シュテュルマー作曲《我らが海》、『ヒトラー』『総統の警備兵』『ああ祖国』『ホルスト・ヴェッセル』を演奏した。
1936年28歳
ベルリン国立歌劇場指揮就任
8月20日、カラヤンは帝国音楽院とアーヘン市当局からアーヘン市音楽委員に任命された。
1937年29歳
6月21日カラヤンはワルターの招きで、ワーグナー 楽劇《トリスタンとイゾルデ》を指揮してウィーン国立歌劇場でデビュー
1938年30歳
2月20日カラヤンはブリュッセルでアーヘン管弦楽団と合唱団とともにバッハ《マタイ受難曲》を演奏
4月8日、カラヤンは後に生涯で1500回以上指揮することになるオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューした。
プログラムには、モーツァルト《交響曲第33番》K.319、モーリス・ラヴェル《ダフニスとクロエ》組曲第2番、ブラームス《交響曲第4番》が含まれていた。
4月20日ヒトラー総統の誕生日を記念して、カラヤンはアーヘンでベートーベン歌劇《フィデリオ》を指揮。
7月26日カラヤンはアーヘン初のオペレッタ歌手エルミー・ホルガールーフと結婚。
最初の妻はオペレッタ歌手のエルミー・ホルゲルレーフで、1938年7月26日に結婚した。彼女と初めて共演したのは、1935年の大晦日に行われたシュトラウスの『こうもり』の大晦日公演だった。二人は1942年に離婚した。エルミーは1983年に心不全で亡くなった。
ザルツブルクの事務所からの声明によると、カラヤンは「この知らせに非常に衝撃を受け、動揺し、深く悲しみました。彼は彼女のことを決して忘れていませんでした。彼女は彼の人生の一部でした。アーヘンで行われた彼女の葬儀には出席しなかった。
7月6日カラヤンが党員名簿(党員資格期間が長い場合にのみ取得可能)を申請した後、帝国指導部は党員資格確認を行い、どちらの入会日、ひいてはどちらの党員番号が正式に正しいかを確認した。この時点で、カラヤンは帝国指導部の記録に両方の番号と入会日が記載されていた。低い方の番号とザルツブルクでの入会日は最終的に削除された。カラヤンはザルツブルクで入会金以外の会費を支払っていなかったため、この党員資格は正式には有効ではなかった。したがって、党法に基づき、古い方の番号は無効とされ、索引カードから削除された。300万という番号と1933年5月1日の日付は、中央カード索引に残った(あるいは、1937年以降に使用された、新たに追加された用紙にガウ党のカード索引の古い番号が記されていた)。会員名簿は1939年7月にアーヘン支部に送付され、カラヤンに届けるよう指示された。会員事務局は引き続きザルツブルクを加盟支部とみなした。旧会員番号の正式な削除は、カラヤンが1933年4月8日にNSDAPに入会するという意思に変化を与えるものではない。再入会は行われず、新しい会員番号と入会日が割り当てられただけである。カラヤンの伝記作家の中には、月次報告書に基づく索引カードを誤解している者もいるようで、指揮者自身による戦後の記述を示唆している。これは、彼が音楽総監督になるために1935年にナチ党に入党したというものだ。当時、ナチ党は党員資格を全面的に禁止していたため、1935年に入党することは不可能だっただろう。例外はいくつかあったものの、おそらくそのような例外が一つ記録されていただろうが、カラヤンの場合はそうではない。
9月30日カラヤンがベルリン国立歌劇場でベートーヴェン歌劇《フィデリオ》を指揮してデビューした。
10月21日ベルリン国立歌劇場でワーグナー楽劇《トリスタンとイゾルデ》を指揮して大成功を収めた。
10月22日批評家のヌルは「ベルリン・ミタークスツァイトゥング」に「カラヤン国立歌劇場の中で」という記事を発表した。エドウィン・フォン・デア・ヌルの熱狂的な批評によると、彼の演奏はベルリンの批評家から「カラヤンの奇跡」と称賛された。批評家ニュルは、カラヤンが「ワーグナーの難解な《トリスタンとイゾルデ》で成功を収めたことで、彼は現在ドイツで最も偉大なオペラ指揮者であるヴィルヘルム・フルトヴェングラーやヴィクトル・デ・サバタと肩を並べるようになった」と記している。
この批判の発端は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを犠牲にして、おそらくカラヤンのキャリアを促進しようとしたベルリン国立歌劇場の総監督総監督ハインツ・ティーチェンだと言われている。
フルトヴェングラーはそれが自分に対する侮辱であると認識し、ゲッベルに苦情を申し立てている。
同年、ドイツ・グラモフォンと契約を交わしたカラヤンは、ベルリン・シュターツカペレを指揮してモーツァルト《魔笛》序曲を録音し、その後数多くの録音を行うようになった。
カラヤン、帆船「カラヤニデス」号を購入。
11月6日、プロイセン首相ヘルマン・ゲーリング元帥はカラヤンをベルリン国立歌劇場指揮者に任命した。同時に、カラヤンはアーヘン市の音楽総監督も兼任した。
12月18日カラヤンがベルリン・オペラ座でモーツァルト歌劇《魔笛》を指揮。
1939年31歳
1月28日カラヤン、ベルリン国立歌劇場でワーグナー《カレーの市民》(演出:ネーハー)の世界初演を指揮。
ベルリン国立歌劇場附属オーケストラとモーツァルト《魔笛》初レコーディング。
2月ベルリン国立歌劇場は彼をプロイセン国立管弦楽団楽長兼コンサート指揮者に任命した。その後、ベルリン国立歌劇場管弦楽団の音楽監督に就任し、ローマ公演で大成功を収めた。
3月4日、カラヤンはベルリンでヒトラー主催の芸術家歓迎会に招待された。
4月20日、ヒトラーはカラヤンに「シュターツカペルマイスター(国家指揮者)Staatskapellmeister」の称号を授与した。
開戦当初から、カラヤンは職務上の活動により「UK」(オーケストラの正式な団員として指定)とされ、兵役義務を負わなかった。
ベルリン国立歌劇場の楽長、プロイッシュ国立歌劇場の交響楽団の指揮者(1939‐1942)。
6月ナチス政権は海外での文化活動を監視し、アテネで開催されたコンサートの指揮者にカラヤンを任命した。
6月2日、ベルリン国立歌劇場で行われたワグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の公演で暗譜で指揮した際に、カラヤンが間違った指示を出したとされ、幕が下りた際に演奏が中断されたことで、カラヤンの寵愛は薄れた。カラヤン自身も「酒癖の悪い」バリトン歌手 ルドルフ・ベッケルマンRudolf Bockelmannが第2節を省略したため、即興で演奏せざるを得なくなり、状況を考えると巧みにその場を切り抜けたと語っている。いずれにせよ、ヴィニフレート・ワーグナーWinifred Wagnersの回想録によると、ヒトラーはその後、カラヤンがバイロイト音楽祭で指揮することを決して許可しないと決定した。しかし、ヘルマン・ゲーリングHermann Göringの寵愛を受けていたため、カラヤンはベルリン国立管弦楽団の指揮を続け、1944年まで国立歌劇場で約150公演を行った。
1940年32歳
4月、カラヤンはライン州大統領から「国家音楽顧問」に任命された。代理人ルドルフ・ヴェダーを通じて、カラヤンはナチス国家の有力者と有益な人脈を築いていた。ヴェダーは、ハインリヒ・ヒムラーの第一副官ルドルフ=ヘルマン・フォン・アルフェンスレーベンを含む親衛隊(SS)の最高幹部と親交を深めていた。
5月9日カラヤン、ミラノ・スカラ座で初のコンサートを指揮してデビュー。
マドリードとローマで演奏した。このプロパガンダコンサートは、外務省ドイツ研究所が主催した。
カラヤンが作曲家の前でR・シュトラウス《エレクトラ》を指揮する。
12月16‐19日ドイツ国防軍占領地域のパリでアーヘン劇場オーケストラを指揮した。
12月17日パリのシャイヨ宮で、ゲッベルス内閣が集めた3,000人のドイツ兵の前で、カラヤンはアーヘン管弦楽団と合唱団を指揮してバッハの《大ミサ曲》を演奏した。
1941年33歳
2月15日エルミー・ホルガーフォーフとカラヤンの離婚が成立した。
カラヤンは1941年までアーヘンに在籍し、その間ベルリン国立歌劇場でも時折指揮を執った。
シュターツカペレ・ベルリンはカラヤンとともにローマをツアー。
カラヤンがフィオレンティーノ音楽院でコンサートを指揮。
5月24日カラヤンはベルリン国立歌劇場に客演し、パリでも演奏した。
5月22,25日ワグナー《トリスタンとイゾルデ》を指揮してベルリン国立歌劇場の客演した。しかし1942年になるとベルリン国立歌劇場との契約は更新されなかった。ティーチェンはカラヤンが過度な要求をしたことがその理由だと述べた。
1942年34歳
エルミー・ホルゲルレーフと離婚した。
4月アーヘンでバッハ《マタイ受難曲》を指揮。
トリノ交響楽団とレコーディング。
4月22日カラヤンはアーヘンで最後のコンサート(バッハの「マタイ受難曲」)を指揮し、ケンペンが代役を務めた。
6月、カラヤンはベルリン国立歌劇場との契約を更新されなかった。これは、カラヤンが「過度の要求」をしたとされたためである。
7月30日カラヤンのキャリアにさらに大きな影響を与えたのは、彼のコンサート・エージェントであるルドルフ・ヴェダーが信頼できないという理由で帝国音楽院から追放されたことである。これにより、ヴェダーはカラヤンのためにいかなる公演も手配することができなくなった。さらに、ヴェダーはナチ党と親衛隊からも一時的に追放された。これにより、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは特権的な地位に復帰した。
9月帝国首相官邸の ハンス・ハインリヒ・ランマースはカラヤンに、戦争が終わるまでは結婚はできないと書面で伝えた。その後、アニタ・ギューテルマンはヴェネツィアでゲッベルスと連絡を取り、10月22日に結婚の約束を取り付けた。
10月22日ユダヤ人の血を4分の1だけひくユダヤ系女性、2度目の妻アンナ・アニータ・ギューテルマンと再婚した。第二次世界大戦のさなか、カラヤンはベルリンで、ニュルンベルク法に基づき「4分の1ユダヤ人」、ギューテルマン(ドイツ語名:Gütermann)生まれで、ミシン用糸の有名メーカーの娘であった。ユダヤ人の祖父を持つ彼女、二人は1958年に離婚した。
この再婚はナチス首脳部からにらまれた。その頃からカラヤンは政治参加を嫌うようになっていった。
ベルリンの帝国宣伝局の依頼を受け、冬季救済基金のためのコンサートを含む一連のコンサートを指揮した。
後年、プリーベルクの本が出版されると記事が世界中の新聞に載った。その後、カラヤンとベルリン・フィルはイスラエルでは歓迎されなくなった。
代理人ルドルフ・ヴェダーの訴追も、彼のキャリアを一時的に衰退させる一因となり、シュターツカペレとの限られたシーズンのコンサート以外、ほとんど出演機会がなかった。しかし、戦時中にシュターツカペレと指揮した定期演奏会は批評家から高く評価され、メディアの大きな関心を集めた。
10月カラヤンはトリノでRAI管弦楽団と録音を行うモーツァルトの交響曲。
1943年35歳
コンセルトヘボウ管弦楽団とレコーディング。
4月9日、帝国保安本部(RSHA)はカラヤンに関する帝国音楽院のカードに「政治的な発言は一切していない」と記したスタンプを押した。
6月6日には結婚が記録され、数週間後には「1943年6月26日の閣議決定に基づき、この件に関しては何も行われない」と記された。プリーベルグによれば、ヒトラーはカラヤンが結婚していたにもかかわらずナチ党員であり続けることを許可した恩赦を与えた可能性が高い。
帝国音楽院のカード索引には、国家保安本部によるとカラヤンの政治的見解に関する「不利な政治的記録」は存在しないことが記録されていた。「四分の一ユダヤ人」のアニタ・グーターマンとの結婚でさえ、ナチス政権のこの評価を変えることはなかった。
6月23日、ゲッベルスはNSDAPの熱狂的な支持者たちに、カラヤンの妻アニタ・グーターマンのユダヤ人としての起源を隠すよう命じた。
1942年、ザルツブルク市はカラヤンを称えるために、少なくとも短期間の努力を行った。1943年のザルツブルク市文化賞の受賞候補者に彼の名前が挙がったが、選ばれなかった。一方、ライヒスガウは、指揮者にふさわしい田舎の邸宅を提供するため、より精力的に活動した。1936年からヴェラ・シューベルトが所有していたトゥマースバッハのヴィラ・シューベルトは、1941年4月17日、ゲシュタポ(通称「アーリア化」)の命令により、ライヒスガウ・ザルツブルクに接収された。敷地の一部である「ヴィーゼンレーエン」は夫婦に賃貸され、借家人がヴィラに入居した。
1943年以降、ザルツブルク市当局はカラヤンのニーズに合った住居を提供しようと尽力した。
8月7日の会合で、管区官グスタフ・アドルフ・シェールはカラヤンとアニタ夫妻に、このヴィラ内のアパートを提案した。夫妻は翌日、ヴィラを視察するためにトゥメルスバッハを訪れ、宣伝局長ハインツ・ヴォルフ博士にいくつかの要望を提示した。ヴォルフ博士はこれらの要望を管区官に伝えた。「フォン・カラヤン氏は、もし可能であれば、この家を完全に空けてほしいと丁重に要請しています。そうでなければ、仕事に就く機会がなくなるからです。(中略)フォン・カラヤン氏は、1943年9月15日、遅くとも10月1日にはこの家に入居できるかどうか問い合わせています。概して、フォン・カラヤン氏は管区官の快い受け入れ姿勢に繰り返し満足の意を表し、私に謹んで心からの感謝の意を伝えてほしいと依頼しました。」
まず、既存の借家人である二人の建築家の家族を移転させる必要があった。一人は、ガウ氏が移転費用とツェル・アム・ゼーの事務所の準備費用を負担することを条件に、移転に同意した。もう一人の借家人は病気と代わりの住居がなかったため、そのまま残ることにした。そのため、当初カラヤン一家が利用できたのは、ヴィラの上階と1階の数部屋、合計119.37平方メートルのスペース「のみ」であった。カラヤン夫人は引っ越し直前に落胆し、ガウライター・シェールに直接こう言った。「ガウライター様、ツェルの小さな家の件でまたお手数をおかけして申し訳ございません。シュミット夫人が11月1日にようやくアパートを出て行ったようで、夫がヴォルフ博士と相手の退去について正式に話し合った後、驚いたことに、今日になって、彼らはその件について何も聞いていなかったことが分かりました。この件を非常に友好的に処理してくださっている地区行政官のアレルベルガー博士も、この件について何も知りませんでした。ところが、その間に引っ越し用のトラックが到着してしまい、私たちはようやく静かな場所に戻りたいと切望していたのです。どうか、この家を空けるよう再度ご指示くださいますようお願いいたします。
9月カラヤン、アムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して録音。
12月10日カラヤン一家はこの別荘に引っ越し、1階のキッチンとワードローブ、パントリーを使用し、2階には5つの部屋、書斎、浴室があった。
1階のアパートが空になったのは1944年の春になってからであった。夫妻は、この追加のスペース(ひいてはヴィラ全体)を手に入れようと尽力した。
カラヤン夫人はガウライター(総督)からの約束を引用したが、ガウライターは戦時非常事態の間、爆撃で被害を受けた家族を住まわせたいと考えていた。
カラヤンはこれに満足しなかった。それは、帝国総督府のアムトマン・ウルリッヒからカラヤンに宛てた手紙に記されている。「賃貸契約に基づいて提供された部屋数は、皆様の住宅ニーズを最大限に考慮したものです。これらの部屋数は、住宅管理令で認められた最大数を大幅に上回っています。当時の住宅不足を考えると、追加の賃貸はもはや正当化されませんでした。ご承知のとおり、他の家族のスペースニーズにも対応しなければならないからです。」。
翌年4月12日、「フォン・カラヤン氏の要請により」、ツェル・アム・ゼーの区長と管区長官は居住環境を視察した。「カラヤン氏は職務遂行のために緊急に居住スペースが必要だと述べていたため」である。区長は住宅需要に納得できなかった。カラヤン夫人の母親も同居していたものの、居住スペースと作業スペースは十分だった。区長は1階に5人家族を入居させることを提案し、管区長官に承認を求めた。しかしカラヤンは「子供連れの家族に反対し、子供を音楽活動から排除しなければならないと宣言した。彼自身は、部屋を一つ減らして狭くなったアパートを高齢の夫婦に貸し、静かに暮らすだけでなく、介護もしてもらいたいと考えている。
帝国総督は当初、カラヤンに追加の部屋を割り当てることを拒否したが、翌年5月にカラヤンが「再び1階の別の部屋を割り当ててほしいと要請」した後も、子供のいない夫婦の要望には応じた。しかし、その後地区長官が提案した子供のいない夫婦も却下され、ガウライター(管区長)はその後の手続きを自ら決定した。「旧シューベルト邸はカラヤン夫妻の自由に利用される」と。1階には、キッチン兼リビングルームと別の部屋が「家の維持管理にも貢献できる子供のいない夫婦」のために用意されており、音楽総監督が提案権を持つ。暖房に必要な薪は、ヴィーゼンレーエンの借家人から指揮者に提供されることになっていた。ガウライターはまた、賃貸契約書の草案を自身に提示するよう強く求め、1ヶ月前の通知期間は考えられないと主張した。最終的に、3ヶ月の予告期間と月額230リンギットの賃料、そして月額80リンギットの損耗補償で合意に至った。カラヤンは以前使用していた建物の賃貸契約書に署名しておらず、依然として840リンギットの賃料を滞納していた。別荘の引き渡しに際し、借地人は夫妻に野菜を供給し、「指揮者の特に重要な責務」を考慮するよう求められました。カラヤンは、独身女性を転借人として想定していた。以前はイタリア人夫婦を管理人として雇っていたようであったが、帝国総督府はドイツ人労働者を強く求めた。
指揮者の行動と爆撃被害を受けた家族への優遇措置は、住民とツェル・アム・ゼーの行政官から理解を得られなかった。行政官は1944年9月に総督に報告した。「カラヤン家の影響によるものと思われる」と、指揮官が提案した家族割り当ては「却下」された。当初の計画では「子供のいない夫婦に台所兼居間と階下の部屋を提供し、家の維持管理も担当させ、いわば管理人のような役割を担わせる」ことになっていたが、問題の部屋は「州保健局の独身職員であるドロテア・ジーバースに貸し出す」ことになった。地区行政官にとって、「フォン・カラヤン夫妻のアプローチは、当初の計画、すなわち1階の既に十分な2人用居住スペースに部屋を増築して拡張することのみを目的としていたことは明らかだった。多くの市民の極めて限られた居住スペース、特に爆撃被害を受けた人々や避難民の住居が常に非常に窮屈であることを考えると、このような態度は理解できない。フォン・カラヤン一家は、他者、特に一般市民の懸念に心を砕き、地域社会への必要な理解を欠いていることが、あまりにも明白に表れている。(中略)フォン・カラヤン住宅問題は既に住民の間で大きな反感を買っている。健全な民意に基づいて判断され、裕福な家庭が依然として優遇されていると説明されている。」住民は、カラヤンへの優遇措置を理由に、住宅問題への協力をますます失っている。彼が自分の思い通りに事が運んだことは「理解できない」のである。
1945年1月、管区長官は管区長官にカラヤン夫人に、これらの部屋を他の家族に提供できるかどうか問い合わせるよう指示した。シェール自身は、音楽総監督の意向に従い、大家族への割り当てを依然として拒否した。管区長官のオスカー・グラツァー博士はカラヤン夫人に対し、「爆撃で被害を受けた住民の住居喪失が増加している」ため、「登録手続きが十分に行われていない、あるいは余剰居住スペースが避けられない」場所でも対策が必要になったと理解を求めた。「これまであなた専用だったヴィーゼンレーエン邸のあなたのアパートの一部を、爆撃被害を受けた人々の宿泊にも使用する」必要が生じた。管区長官は「彼らをより裕福な家族に割り当てる」ことを検討するとしていた。ガウハウプトマンは彼女に「時宜を得た事情を理解してほしい」と「できるだけ早く、譲ってもいい住居スペースを明記して、受け入れの意思を知らせてほしい」と懇願した。返答は記録されていない。この別荘は侵攻後、米軍に占拠された。カラヤンの母はこの事情を理由に、1945年4月1日からの家賃の免除を求めた。当時、この物件はまだ空いていたため、政府は4月と5月分の家賃の未払いを要求した。
1944年36歳
1月、カラヤンはルーマニアで演奏しました。帝国宣伝省の翻訳によると、ルーマニアの新聞は、この交響楽コンサートのラジオ放送について「ベルリン国立歌劇場でのキャリアが急上昇し、羨望の的となるような名声を獲得した」と報じた。
1944年までにカラヤンはナチス指導部からの支持を失いつつあったが、1945年2月18日までベルリンでコンサートを指揮していた。
その後間もなく、戦争末期に、彼と妻はヴィクトル・デ・サバタの助けを借りてドイツからミラノへ逃亡し、イタリアに亡命した。
彼は様々なオーケストラを指揮することを許可された。
4月19日と20日、カラヤンはヒトラーの誕生日を祝うため、シャンゼリゼ劇場でパリ放送管弦楽団を指揮した。ヘンデル《協奏曲グロッソ》をカラヤンはピアノも演奏、ドビュッシー《海》を、ベートーヴェン《交響曲第五番》などがあった。
4月、帝国文化院長はこの件について帝国指導部に接触し、妻が「四分の一ユダヤ人」であったことから、カラヤンのナチ党員資格に関する情報を求めた。その結果、党員資格の詳細が提示された。
6月24日から25日にオーストリアのリンツでアルベルト・シュペーアが開催した会議で、300人のナチス軍需当局者の前で指揮を披露した。
6月、カラヤンの最初のステレオ録音がベルリンのラジオで行われた。
カラヤンはリンツのライヒス・ブルックナー管弦楽団に就任した。
7月23日ブルックナー《交響曲第8番》を指揮した。
8月には「神に祝福された者Gottbegnadeten-Liste 」のリストに掲載されカラヤンはヒトラーが承認した最も重要な指揮者のリストに含まれ、そのおかげで国内でさえも戦争に駆り出されることを免れた。
9月29日、彼はベルリン放送協会のハウス・デ・ラジオでAEGレコーダーを使用し、ブルックナー《交響曲第8番》第4楽章を磁気テープにステレオ録音した最初の録音の一つを行なった。
12月ライヒス・ブルックナー管弦楽団は「総統に敬意を表して」ドイツ帝国で最高のオーケストラに選ばれる予定だったが、戦争の終結によりこの計画は頓挫した。
以降、カラヤンは主にリンツ・ライヒ・ブルックナー管弦楽団に尽力した。ゲッベルス内閣の国務長官レオポルド・グッターラーの支援を受け、この管弦楽団は帝国を代表するオーケストラへと成長することが期待されていた。その理由の一つは、リンツでは空襲の影響を比較的受けずに録音が可能だったことである。
1945年37歳
2月18日、カラヤンはベルリンでシュターツカペレと最後の演奏会を行った。
3月末、敗戦6週間前にミラノ公演契約し出演のためミラノへ出発。ドイツ脱出に成功。彼と妻は飛行機でミラノへ脱出した。終戦まで妻アニタと共にミラノとコモ湖畔で過ごしたカラヤンは、イタリア全権大使ハンス・レイヤーの助けを借りてヴィラ・デステに隠れ、「戦闘宣伝部隊『ズュートシュテルン』への徴兵を逃れるため」に身を隠した。彼は1944年11月からこの計画を練っていた。
<1945年戦後の連合国非ナチ化問題とカラヤンについて>
イタリアで終戦を迎えるがナチス党員疑惑で連合軍によりドイツ・オーストリアでの指揮活動を禁止される。
8月8日にザルツブルク州が発布した法令によると、カラヤン自身が記入し、手書きの添付書類を複数添付した元国家社会主義者向けの質問票において、彼は「1935年か36年にNSDAPに入党し、度重なる緊急の要請の後、最終的にアーヘン地区長の明確な要請を受け、契約延長は入党を条件とされた」と述べている。しかし、地区長はこの任命に何ら影響力を持っておらず、当時は入党が禁止されていた。彼は「特に必要な場合」のみ党バッジを着用していた。前述の通り、彼の海外公演も外務省によって手配されていたものの、彼は自身の公演は「ドイツ宣伝省や外務省によって関係国に事実上押し付けられた他の多くの指揮者とは異なり、私と関係するコンサート機関との間で、純粋に商業的かつ芸術的な観点から手配されたものだった」と主張した。「このことが外務省と私の間に多くの摩擦を引き起こし、最終的に1944年には、芸術家が外務省を介さずに外国と交渉することを禁じる法令が発布された。これが私の海外活動の終焉となった」。しかし、彼の免罪戦略は、主に党からの離党を捏造することに基づいていた。「1942年にアニタ・グーターマン夫人と結婚した後、私はベルリンの党裁判所に召喚された。
そこで私は、非アーリア系(原文ママ)の25%の女性と結婚したことを非難された。そこで私は党からの離党を宣言した。その時から、私の活動は音楽ファン全体に明白に見て取れる制限を受けた。」カラヤンは、とりわけ「ドレスデンへの任命禁止、ウィーンとザルツブルク音楽祭での指揮禁止、スイスとスウェーデンでの演奏許可の拒否、そして最後に、1944年に、単独指揮者である私だけに影響する以前の報酬の完全に不当な50パーセント削減」を主張した。
カラヤンは、カラヤン家とギュターマン家の友人、彼が率いたオーケストラのメンバー、そして1934年から1937年にかけてカラヤンがトスカニーニのリハーサルに参加するよう手配し、彼を非政治的な人物として認識していた音楽祭総裁ハインリヒ・プトンなどから、数多くの支持の手紙を受け取った。プトンはカラヤンについて、「ナチス寄りの発言は一切せず、党のバッジを付けることもなく、ヒトラー式敬礼もしたことはなかった」と述べた。「彼の急速な名声の上昇は、彼の芸術と能力によるものだと私は確信している」と述べ、さらに「党の指導的同志たちから強い反対を受けていた」と付け加えた。
カラヤンの非ナチ化手続きは書面による証拠もないまま終了した。
12月アメリカ軍によりカラヤンのユダヤ系夫人の擁護したことで償いを果たしたとして指揮活動の許可が出る。
戦後、カラヤンは厳しい監視を受け、非ナチ化の手続きを経ました。1945年には指揮活動を禁止されましたが、1947年に解除され、指揮者としてのキャリアを再開しました。カラヤンは、ナチ党との関わりは主に職業上の理由によるものであり、いかなる政治的所属からも距離を置いていたと主張しました。
しかし、ナチス時代におけるカラヤンの真の信念と動機の程度については、依然として憶測と論争の的となっている。批評家の中には、彼が認めているよりも政権への関与が深かったと主張する者もいれば、キャリアアップにばかり気を取られ、当時の政治情勢を利用していたと主張する者もいる。
12月15日、米国情報サービス局(ISB)演劇音楽部はカラヤンの演奏許可を承認したが、この許可は1946年1月になってようやく「ザルツブルク・ナハリヒテン」紙に掲載された。この決定はカラヤンの虚偽の陳述に基づいており、その理由付けの文面からも明らかである。カラヤンは1935年にナチ党に入党し、「非アーリア人女性と結婚した後、1942年にベルリンの党裁判所に召喚され」、「そこで党からの離党を宣言した」。その結果、彼の演奏活動は厳しく制限された。「委員会は、これは政治的譴責事案であり、したがってカラヤンの再演奏を許可する正式な正当性があると判断した」。カラヤンは「人種差別によって迫害された女性を擁護することで償いをした」。指揮者はISBを欺くことができた。ISBはファイルにアクセスできない状態で決定を下さなければならなかったからだ。その結果、カラヤンは生涯にわたって「この虚偽のバージョンに固執」した。
1946年38歳
1月ウィーン・フィルを指揮。
<1946年戦後の連合国非ナチ化問題とカラヤンについて>
ウィーン市政府とソ連文化担当官の抵抗にもかかわらず、カラヤンは1月には早くもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮することができた。
しかし、カラヤンの事件は再調査された。連合国非ナチ化委員会の英国代表は、カラヤンが1943年のリストにアーヘン保安局の工作員として記載されていたと報告したが、この疑惑は裏付けられていなかった。ISBのオットー・パセッティは1946年1月、カラヤンに対する告発に疑問を呈し、確固たる証拠が得られる前に指揮者の逮捕に強く反対した。「証拠不足のために後に釈放されれば、カラヤンの逮捕はオーストリア国民に大きな混乱と不安をもたらすだろう」と。カラヤンに関する著書でこの疑惑に触れた作家クラウス・リーレは、密告者や密告者としての利用について推測するにとどまり、カラヤンがSDのために活動していたという証拠を提示することはできなかった。
3月のコンサートはオーストリア委員会の決定に任せるとアメリカ軍が声明したため予定は禁止になる。
「ノイエス・オーストリア」紙の報道によると、1946年3月にカラヤンが予定していた公演は「突然キャンセルされた」。
指揮者がナチ党内で違法に活動していたことが明らかになったためだ。芸術委員会が「カラヤンが依然として指揮者として受け入れられるかどうか」を判断することになっていた。オーストリア審査委員会は、カラヤンを指揮者として雇用することは可能だが、主役としてではないと決定した。しかし、連合国非ナチ化局のフランス、アメリカ、ソ連の代表団は、公演禁止の維持を支持した。
1947年10月、カラヤンはついに1948年の音楽祭を含む帰国を許可された。しかし、この承認はドイツには適用されなかった。彼は1948年にミュンヘンで予定されていた公演に出席することができなかった。オーストリア駐在のアメリカ当局は、カラヤン自身で申請を提出する必要があると警告していたが、カラヤンはそれに従わなかった。
その結果、1949年、ハンブルクの免許顧問は、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としての彼の雇用にも反対を勧告した。彼は、彼が優れた指揮者であるにもかかわらず、「熱烈なナチス」として知られていると述べた。
9月ウォルター・レッグとイギリス・コロンビアとの録音開始
1946年、カラヤンはウィーンでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と戦後初のコンサートを行ったが、ナチ党員であったため、ソ連占領当局によって指揮活動を禁じられた。その夏、彼はザルツブルク音楽祭に匿名で参加した。
1947年10月28日、カラヤンは指揮禁止が解除された後、初の公開コンサートを行った。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびウィーン楽友協会と共に、ウィーンでの蓄音機制作のためにヨハネス・ブラームス《ドイツ・レクイエム》を演奏した。
1946年3月15日にウィーンで開かれたカラヤンの非ナチ化裁判で、彼はナチス時代の違法行為について無罪となった。オーストリアの非ナチ化審査委員会は1946年3月18日にカラヤンを解雇し、彼はその後まもなく指揮活動を再開した。数年後、元西ドイツ首相ヘルムート・シュミットはカラヤンのナチ党員証について、「カラヤンは明らかにナチスではなかった。彼はミットロイファーだった」と述べた。
1946年:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との戦後初のコンサート。
1946年、カラヤンはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、戦後初のウィーン公演を行ったが、ナチ党員であったため、ソ連占領当局から指揮活動を禁じられた。同年夏、彼はザルツブルク音楽祭に匿名で参加した。
1947年39歳
5月フルトヴェングラーの復帰に伴いザルツブルク音楽祭でのオペラ指揮はできなくなる。
10月指揮活動禁止解除。 EMIとレコーディング契約。
10月ブラームス《ドイツ・レクイエム》録音時にウィーン楽友協会から指揮者就任の要請を受ける。
1947年10月28日、カラヤンは指揮禁止解除後、ウィーン楽友協会でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して初の公開コンサートとであった。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン楽友協会と共に、ウィーンで蓄音機による演奏会を行い、ヨハネス・ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を演奏した。
1948年
ウィーン音楽友の会のコンサート・シリーズを指揮し、同協会の指揮者(1964年まで)および協会のジングフェライン終身指揮者に任命された。
カラヤンはウィーン楽友協会の理事および名誉会員となり、1949年には終身会員となった
ミラノ・スカラ座の常任客員指揮者(1948-1968年)、ミラノ・スカラ座で定期的に客演指揮者および理事を務めた
ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮し、ルツェルン国際音楽祭に参加、同音楽祭には1988年まで関わり続けた。
ウィーン交響楽団首席指揮者就任(1948‐1953)しウィーン交響楽団を初指揮した。
イギリス、ロイヤル・アルバートホールでデビュー。
ザルツブルグ音楽祭復帰。
グルックの歌劇《オルフェオとエウリディーチェ》ザルツブルクのフェルゼンライトシューレでの初のオペラ公演を指揮。
1949年
カラヤンはウィーン楽友協会の芸術監督に就任。ミラノ・スカラ座でも指揮を行った。この時期の彼の最も顕著な活動は、新設されたロンドンのフィルハーモニア管弦楽団との録音であり、同管弦楽団を世界有数の管弦楽団に成長させるのに貢献した
1949年、カラヤンはウィーン楽友協会の芸術監督に就任しました。ミラノ・スカラ座でも指揮を務めました。この時期の彼の最も顕著な活動は、ロンドンで新設されたフィルハーモニア管弦楽団との録音であり、同管弦楽団を世界最高峰の楽団の一つに成長させることに貢献しました。この年から、カラヤンは生涯にわたってルツェルン音楽祭に通い始めました
1950年
フルトヴェングラーと対立が表面化しウィーン・フィル演奏会とザルツブルグ音楽祭から締め出される。
フィルハーモニア管弦楽団首席指揮者就任
1951年
バイロイト音楽祭初出演しワーグナーの楽劇《マイスタージンガー》指揮。
1951年と1952年にカラヤンはバイロイト祝祭劇場で指揮をした。
ヴィーラント・ワーグナーの指揮スタイルが自身の考えと相容れないと考え、1952年以降バイロイト音楽祭では復帰しなかった。
1952年
フィルハーモニア管弦楽団を率いてヨーロッパツアー。
バイロイト音楽祭で「トリスタン」の指揮を最後にヴィーラント・ヴァーグナーと対立しバイロイトを離れる
1952年にカラヤンはバイロイト祝祭劇場で指揮をしました。
1953年
カール・オルフの歌劇《アフロディーテの勝利》のスカラ座で初演を指揮。
1954年
様々な国際オーケストラと世界各地を客員演奏旅行した。
4月2日単身来日し4月7日~5月9日日比谷公会堂、宝塚大劇場でN響を指揮して15回の公演を行う。
ベルリンフィル演奏会に再登場
1955年。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとセルジュ・チェリビダッケの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任した。(1956年からは終身指揮者)
2‐4月ベルリン・フィルアメリカ公演旅行に指揮者として同行中の3月3日、ペンシルヴェニア州ピッツバーグに滞在中、演奏家たちにより芸術監督に選ばれ、4月5日のベルリン・フィル評議員会により承認される。
フルトヴェングラーの死後間もない1954年12月、ベルリンの文化担当上院議員ヨアヒム・ティブルティウスはカラヤンに、1955年3月に予定されていたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のアメリカツアーを引き継ぐことができるかと尋ねた。カラヤンは「喜んで引き継ぎますが、後継者兼芸術監督としてのみ引き継ぎます」と答えた。
アメリカ公演中、カラヤンが過去にナチ党員であったため、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のデトロイト公演は禁止され、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督ユージン・オーマンディはカラヤンとの握手を拒否した。ニューヨークのカーネギー・ホールでの公演のため到着したカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、抗議活動やピケ活動に遭遇し、彼とドイツに対する劇的な抗議活動が起きた。
ニューヨークでベルリン・ハーモニックを指揮した際には、音楽評論家たちは彼を、抑制された上品で洗練された、そして解釈において完全に客観的な指揮者と評しました。これは多くの人々を驚かせた。
↓ ベルリンのフィルハーモニーの外にあるヘルベルト・フォン・カラヤン通りの道路標識

1956年
3月ザルツブルク音楽祭芸術総監督首席指揮者に就任し4年間の契約した。
6月ウィーン国立歌劇場でマリア・カラス出演のドニゼッティのオペラ《ランメルモールのルチア》を演出と客演指揮した。
7月ウィーン国立歌劇場の芸術監督就任(1956‐1964)。 これにより肩書は、ロンドン・フィル首席指揮者・ベルリン・フィル芸術監督・ウィーン楽友協会芸術監督・ザルツブルク音楽祭芸術監督・スカラ座ドイツ・オペラ監督となる
ウィーン国立歌劇場の芸術監督を務め、同歌劇場の世界的名声に決定的な貢献を果たし、多くの著名な歌手を初めて同歌劇場に招聘した。連邦劇場管理局が労働争議で歌劇場監督の職を解任すると、1962年2月7日に最初の辞表を提出した。カラヤンの共同監督エゴン・ヒルベルト、文部省、連邦劇場管理局、労働組合委員長、連邦首相、そして最終的には行政裁判所を巻き込んだ二度目の争議の後、カラヤンは1964年5月11日についに辞任した。
1956年~1960年:ザルツブルク音楽祭の芸術監督。
カラヤンは1956年に締結した終身契約を、ベルリン市からの財政支援と権限がもはや十分ではなかったため、1989年4月に辞任した。
1957年
1月1日ウィーン国立歌劇場芸術監督就任。
1月16日にトスカニーニが亡くなり直後のウィーン・フィル演奏会で急遽モーツァルトの「フリーメーソンのための葬送の音楽」演奏。
テオドール・ベルガー《シンフォニア・パラボリカ》ザルツブルクで初演を指揮。
ベルリンフィルを率いて来日し11月3日~22日日比谷公会堂などで公演、N饗との合同演奏を実施。11月3日の特別演奏会はDVDで発売されている
1957年~1964年:ウィーン国立歌劇場の芸術監督。ミラノ・スカラ座と緊密に連携し、ステージオーケストラシステムを運営して、オペラを原語で上演。
1957年から1964年まで、ウィーン国立歌劇場の芸術監督を務めました。彼はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やザルツブルク音楽祭にも深く関わり、復活祭音楽祭を創設しました。この音楽祭は、彼の退任後もベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督としての役割を担い続けました。
1958年
アンナ・マリア「アニタ」ザウエストと1958年に離婚した。
1958年10月6日、カラヤンは3番目の妻となるフランス人のエリエッテ・ムレーと再婚しました。彼女はモラン=シュル=ウヴェーズ生まれのフランス人モデルでした。彼女はプロヴァンスで気ままな幼少期を過ごした後、18歳でクリスチャン・ディオールに見出され、国際的なモデルとしてのキャリアを築きました。カラヤンは1957年にムレと初めて出会い、彼女に深く魅了されました。長女イザベルは1960年6月25日に誕生し、次女アラベルは1964年に誕生しました。
カラヤンの死後、エリエッテはウィーンにヘルベルト・フォン・カラヤン・センター(現在はザルツブルクに設立され、エリエッテ・ヘルベルト・フォン・カラヤン研究所として知られている)を設立することで、カラヤンの音楽的遺産を継承しました。彼女は数多くのプロジェクトに携わり、特に青少年の育成に重点を置いています。また、ザルツブルク復活祭音楽祭のパトロンでもあります
1959年
ドイツ・グラモフォンと独占契約を結んだ後、カラヤンはイエロー・レーベルの首席指揮者となり、その後ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演を中心に300曲以上の録音を行った。
ウィーンフィルを率いて来日し10月27日~11月7日日比谷公会堂、フェスティバルホール等で公演
1960年
ザルツブルク音楽祭で新しい祝祭大劇場の杮落としR・シュトラウス《ばらの騎士》初演を指揮。
カラヤンは、ザルツブルク音楽祭の芸術監督としての契約(1956年-1960年)が終了した後も、指揮者として、また後には1964年から1988年まで務めた理事会のメンバーとして、プログラミングにおいて重要な役割を果たし続けた。
イルデブランド・ピッツェッティの歌劇《大聖堂の殺人》ウィーン国立歌劇場で初のドイツ語上演を指揮。
1963年
モンテヴェルディの歌劇《ポッペーアの戴冠》ウィーン国立歌劇場で初演を指揮。編曲エーリヒ・クラーク
1964年
ドイツグラモフォンと専属契約。
4月2日ヨーゼフ・クラウスがドイツ首相に就任後に首相に会いウィーン国立歌劇場から手を引くつもりと報告する。
5月8日健康上の理由でウィーン国立歌劇場の監督を辞任すると発表。
6月ウィーン国立歌劇場音楽監督辞任。
ザルツブルク音楽祭音楽祭の役員に任命。
1965年
音楽映画会社「コスモテル」設立
1965年: ユニテルを指揮者兼監督として迎え、オペラやコンサート映画の制作を始める。
1966年
4月ベルリンフィルを率いて来日し12日~5月3日東京文化会館等で公演。この公園の一部がNHK‐FMで関東・甲信越、静岡にステレオ放送される
1967年
3月ザルツブルク・イースター音楽祭を創設し芸術監督就任。
カラヤンはザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、亡くなるまで指揮を務めた。毎年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共に新しいオペラを制作し、この目的のためにベルリン市議会から休暇を与えられた。この流れの中で、彼はザルツブルク聖霊降臨祭コンサートを設立した。
ベルリン・フィルを指揮してワーグナーの楽劇《ワルキューレ》上演
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初めて指揮を行なった。
1968年
ザルツブルク市名誉市民。
ザルツブルク大学名誉理事任命される。
カラヤンはベルリンにヘルベルト・フォン・カラヤン財団を設立。
1969年
2月パリ管弦楽団芸術監督就任(1969‐1971)
1969年若くて有能な指揮者の育成保護を目的とするカラヤン・コンクールがカラヤンによって創設された。モスクワではこのコンクールに派遣される二人の候補者を選ぶための、特別コンクールがわざわざ催された。コンクールの入賞者によるベルリン・フィルのコンサートであり、カラヤン・メダルと賞状を授与し、若きスター指揮者を将来とも助言者の役を務めることを約束した。入賞者はベルリン・フィルとの演奏に自分の曲を一回だけ通して指揮することが許された。がオーケストラをもっと知ろうとしたり、演奏に自分の持味を加えることは不可能だったし実際不必要だった。しかし、他の都市でも客演指揮をしたり、指揮者の空席が生じたときは優先して招かれた。オーケストラや歌劇場の支配人や演奏会の企画者はこの審査委員会の判定を目安に用いてきた。自分の町の批評家が異なった結論を出した時には、彼らはこのコンクールを引き合いにすることができた。審査員としては各国の支配人や、レコード、テレビ、ラジオ、報道機関の責任ある人物がおよそ12人並ぶ。その他にベルリン・フィルの団員が一人か二人、オーケストラの立場を代弁した。第1回が開催された。3回の予選があり3人の最優秀の指揮者が選び出された。彼らは翌年カラヤンの主宰するワークショップに招かれる。1週間ベルリンに滞在して、オーケストラが1日に2回練習用に提供され、カラヤンが注意深い教師役としてオーケストラの真中に腰をかけた。マリス・ヤンソンスやワレリー・ゲルギエフといった若手指揮者たちにとって、国際的なキャリアへの跳躍台となった。
カラヤンはよく自分の修業時代のことを物語るが、当時のカラヤンは南ドイツのウルム市立歌劇場の乏しい予算規模で苦労しなければならなかった。だから、今日の傑出した才能はもっと早く見つけ出して、昇進の苦難の道を短くしてやらねばと彼は思ったのである。
ザルツブルク大学に実験音楽心理学の研究機関が併設された。同大学は、カラヤンを1968年に名誉上院議員に任命していた。
1970年
ベルリンフィルを率いて来日し5月8日~22日東京文化会館、日比谷公会堂、フェスティバルホールで公演
1972年
オーケストラ・アカデミーを設立しました。このアカデミーは、将来のオーケストラ演奏家がプロのオーケストラで活躍できるよう育成することを目的としています。
1973年
カラヤンはザルツブルク聖霊降臨祭コンサートを創設し、これらは彼の芸術監督の下で行われた。
ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭が開催された。
オルフ《時の終わりの劇》初演を指揮。
ベルリン市名誉市民。
ベルリン・フィルを率いて来日し10月25日‐11月4日NHKホール、フェスティバルホールで公演。
1974年
体調不良でスイスで静養
1977年
ベルリンフィルを率いて来日し11月6日~18日フェスティバルホール、普門館で公演。
カラヤンはウィーン国立歌劇場の指揮台に復帰し、ヴェルデの歌劇《イル・トロヴァトーレ》 、プッチーニの歌劇《ラ・ボエーム》、モーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》を指揮した。
1978年
ウィーン市名誉市民。
ヴェルディの歌劇《ドン・カルロ》をウィーン国立歌劇場で指揮した。
5月12日、ザルツブルク大学から名誉博士号を授与された。
6月21日にはオックスフォード大学名誉博士号授与される。
9月リハーサル中落とした指揮棒を拾おうとして指揮台から転落12月まで静養。
1979年
ベルリンフィルとウィーン楽友協会合唱団、ソリストを率いて来日し10月16日~25日普門館で公演
1981年
4月15日カラヤンは復活祭音楽祭期間中、ザルツブルクORF地方スタジオで行われた記者会見で、開発者やプロデューサーらと共に世界初のコンパクトディスク(CD)を発表した。カラヤンは特にデジタル録音・再生技術に関心を持っていた。1982年に録音されたリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲 作品64」は、クラシック音楽史上初のCDとなった。
ベルリンフィルを率いて来日し10月28日~11月8日東京文化会館、NHKホールで公演。TBSより公演の様子がテレビ中継され、ゲストに野球の野村克也が招かれ話題になる
1982年
ヴェルデの歌劇《ファルスタッフ》を指揮しての、ザルツブルク・イースター音楽祭公演は初の生放送となった。
映像プロダクション「テレモンディアル」設立。
1982年:初のクラシックCD:カラヤンがシュトラウスのアルプス交響曲を指揮する。
1983年
ウィーンフィル名誉指揮者に楽員全員の意志により推挙される。
6月6日ハノーファーでおそらく頚椎症性脊髄症と思われる手術を受ける。
8月ザルツブルク・イースター音楽祭でR・シュトラウス《ばらの騎士》指揮・演出。女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルと対立す。翌年和解に至り結局マイヤーは自ら退団する。その後は、ベルリン・フィルとの距離を置くようになり、ウィーン・フィルとの演奏が多くなる
1983年最初の妻:エルミー・ホルゲルレーフは心不全で亡くなった。
1984年
ザルツブルク・イースター音楽祭、R・シュトラウスの歌劇《ばらの騎士》初めてウィーン・フィルを出演させ指揮し生放送された。
ベルリンフィルを率いて来日し10月18日~24日東京文化会館、普門館、ザ・シンフォニーホールで公演
1985年
6月29日、聖ペテロと聖パウロの祝日に、サン・ピエトロ大聖堂で教皇ヨハネ・パウロ2世が執り行うミサで、モーツァルト《戴冠式ミサ》を指揮し、妻と娘たちとともに教皇の手から聖体拝領を受けた。生涯を終える頃にはカトリック教会と和解し、カトリックの葬儀を希望した。
1986年
ザルツブルク・イースター音楽祭、ヴェルディの歌劇《ドン・カルロ》を指揮し生放送された。
1987年
カラヤンはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートを唯一指揮した。
ザルツブルク・イースター音楽祭、モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》を指揮し生放送された。
1988年
4月29日~5月5日ベルリンフィルを率いて最後の来日になる、ザ・シンフォニーホール、東京文化会館、サントリーホールで公演。
ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』はカラヤン批判の特集記事を組む。その内容とは、コロンビア・アーティスト・マネージメントがカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求したというものだった。
カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情もあり、カラヤンへの批判が噴出。ベルリン市当局もカラヤン不在を批判し、ベルリン・フィルやドイツの野党からも退任を求める声が出る。
ザルツブルク音楽祭の理事を退任。
1989年
4月23日: カラヤンの最後のコンサート:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのブルックナー《交響曲第7番》。
ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は「ドリームチーム」と呼ばれていました。しかし、彼らの共演の晩年は、対立と疎遠によって影を潜めました。
公の場でおそらく最も目立った対立は、クラリネット奏者のザビーネ・マイヤーをめぐる事件だろう。カラヤンはオーケストラの反対を押し切って、彼女をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招聘しようとした。
4月24日ウィーン・フィルとのブルックナー交響曲第7番演奏会出演がラストコンサートになった。
4月25日健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任。
晩年、カラヤンは心臓と背中の疾患に悩まされ、背中の手術が必要となった。
7月16日、当時ソニーの社長だった大賀典雄がザルツブルグ近郊のアニフのカラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは ” 左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ ” と語る。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心停止となった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった享年81歳であった。
カラヤンは晩年、心臓疾患などの健康問題を抱えていました。健康状態が悪化していたにもかかわらず、亡くなる直前まで指揮と演奏活動を続けました。
カラヤンは輪廻転生を信じており、愛するアルプス山脈の上空を飛ぶために鷲として生まれ変わりたいと語っていたという。

2008年5月7日、オーストリア国立銀行はカラヤン生誕100周年を記念して、額面5ユーロの銀貨を25万枚発行した。
4.主な作品
1961年、カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、ドイツ・グラモフォンでベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始し、歴史に名を残した。クラシック音楽録音史上最も成功したプロジェクトの一つであるこの全集は、1963年に豪華カセットテープでリリースされた。
1977年、ベートーヴェン没後150周年を記念して、ドイツ・グラモフォンはカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による9つの交響曲の2度目の全曲録音をリリースした。
1981年、カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、マーラー《交響曲第9番》の録音で、グラモフォン賞「最優秀オーケストラ賞」を受賞。
1984年、カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、マーラー《交響曲第9番》のライヴ録音でグラモフォン誌の年間最優秀録音にも選ばれた。
5.その他
・1991年8月17日ザルツブルク市は、「ジークムント広場」を「ヘルベルト・フォン・カラヤン広場」に改名し、銘板の除幕式が行われた。エリエッテ・フォン・カラヤン未亡人、ザルツブルク市および州の高官、ザルツブルク音楽祭総裁のアルベルト・モーザー博士、そして多くの関係者が出席した。
・<ヘルベルト・フォン・カラヤン音楽賞>
2003年から2015年まで、バーデン=バーデン祝祭劇場は、音楽界における優れた業績を称え、毎年ヘルベルト・フォン・カラヤン音楽賞を授与している。
2003年1977年にカラヤンと共演してデビューしたアンネ=ゾフィー・ムターが同賞の初代受賞者となった。
2015年には、ザルツブルク復活祭音楽祭で授与されるヘルベルト・フォン・カラヤン賞に取って代わった。
2005年以降、彼の遺産はエリエッテ・アンド・ヘルベルト・フォン・カラヤン研究所によって管理されている。
<指揮スタイル>
・カラヤンの指揮者としての特徴的な技能の一つは、オーケストラから絶妙な音を引き出す能力であった。伝記作家のロジャー・ヴォーンは、カラヤンの指揮の下で30年近くを過ごした1986年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴きながらこの現象に気づき、「人の心を釘付けにするのは、その音の美しさと完璧さである。最も柔らかなピアニッシモでさえ、聞き手を魅了する。滑らかなクレッシェンドは、まさに頂点に達するべき時に頂点に達する。ブレイクは、わずかなぎこちなさもなく、きれいに切り分けられている」と記している。ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮スタイルは、精密さ、技術的な輝き、そして音質とオーケストラのバランスへの強いこだわりが特徴であった。彼は、細部への細心の注意と、自身の解釈に従ってオーケストラの音を形作る能力で知られていた。指揮台の上での彼の身振りは明快で表現力豊かであり、音楽の意図を演奏者に伝えることができた。彼は独特で統制のとれた指揮法を持ち、手と指揮棒を正確に動かすことで、望ましい強弱、フレージング、そしてアーティキュレーションを的確に表現しました。カラヤンの特徴の一つは、技術的完璧さへの追求でした。彼は指揮する演奏家に高いレベルの精度と規律を求め、徹底したリハーサルを通して、洗練された統一感のある演奏を目指しました。彼はしばしば楽節のニュアンスを洗練させ、最大限の明瞭さと正確さを目指しました。彼は特にオーケストラの音のバランスと調和に細心の注意を払っていました。個々の楽器セクションとその相互作用に細心の注意を払い、それぞれの楽器の個性を際立たせながらも、音楽全体を統一感のあるものにする、まとまりのある調和のとれた音を追求しました。
さらに、カラヤンは楽曲全体の構成と構造を巧みに形作る才能でも知られていました。彼はテンポとフレージングに鋭い感覚を持ち、音楽の構造と物語性を際立たせました。彼の解釈はしばしば壮大な感覚を特徴とし、交響曲や管弦楽曲においては、広大で壮大な解釈が見られました。優れた指揮技術に加え、カラヤンは録音技術を駆使して最高の音質を実現することを提唱しました。彼は音響工学の革新を受け入れ、録音エンジニアと緊密に協力し、技術的に完璧で、音響的にも魅力的な録音を生み出しました。
カラヤンのコンサートは、一大文化イベントとみなされるようになりました。1982年のアメリカツアーでは、ズビン・メータ、小澤征爾、フランク・シナトラなど、多くの音楽界のスターがカーネギーホールでのコンサートに足を運びました。カラヤンは、宣伝や伝説よりも、音楽という文化機関を築くことに関心を持っていました。「指揮台に立っている時は、大衆のことなどすっかり忘れてしまう」と彼は言いました。「宣伝など興味がない。私が世界に知られることで、人々が私に興味を持つことで、音楽への興味が芽生え、それが音楽へと繋がっていくという、プラスの効果が生まれることを願うばかりだ。」
・楽壇の帝王といわれている
・<私生活>
カラヤンは3度結婚しました。最初の結婚は1938年、オペレッタ歌手のエルミー・ホルゲルレーフでしたが、1942年に離婚しました。同年、2度目の結婚相手はアンナ・マリア・ザウエストでしたが、1958年に離婚しました。1958年10月6日、カラヤンは3度目の結婚相手としてフランス人モデルのエリエット・ムレと結婚しました。1960年に長女イザベル、1964年に次女アラベルが誕生しました。カラヤンの死後、エリエットはウィーンにヘルベルト・フォン・カラヤン・センター(現在はザルツブルクにエリエット・アンド・ヘルベルト・フォン・カラヤン研究所として知られています)を設立し、カラヤンの音楽的遺産を継承しました。彼女は数多くのプロジェクトを手掛け、特に青少年の育成に重点を置いており、ザルツブルク復活祭音楽祭のパトロンでもあります。
音楽以外では、カラヤンは車と運転に情熱を注いでいました。ヘリサラと名付けられたレーシングヨットで数々のレガッタで優勝しました。リアジェットを操縦し、セーリングと自動車の大ファンで、特にポルシェを好みました。彼はマルティーニ&ロッシのカラーリングを施した特別仕様のタイプ930を注文し、ポルシェ911ターボの背面には自身の名前が刻まれていました。
元妻:エルミー・フォン・カラヤン (ホーガールーフ)Elmy von Karajan (Hogerloef)(1906-1983)
元妻:アニタ・フォン・カラヤン(グーターマン)Anita von Karajan (Gütermann)(1917-2015)
<音楽の好み>
カラヤンは、バロック時代から20世紀に至るまで、クラシック音楽のレパートリーにおけるほぼあらゆる水準の作品の解釈者として名を馳せました。彼はグレン・グールドによるバッハの解釈を深く愛し、かつてグールドとニ短調の鍵盤協奏曲を共演したこともあります。著名なハイドン研究家であるH.C.ロビンズ・ランドンは、カラヤンの12のロンドン交響曲の録音を自身の知る限り最高のものの一つと評し、彼のベートーヴェンの複数のチクルスは今でも定番となっています。
しかし、カラヤンの真の関心は19世紀後半から20世紀半ばにかけての時期に向けられていたようだ。中でも特に、作曲家アントン・ブルックナーとジャン・シベリウスへの強い関心が際立っていた。1981年、グラモフォン誌のロバート・レイトンとのインタビューで、カラヤンは「シベリウスの音楽には、ブルックナーとのより深い影響、親近感、親近感――何と呼ぼうとも――を感じる。ウルヴァルト、原始の森、自然の力を感じ、何か深遠なものに向き合っているような感覚がある」と述べている。晩年、伝記作家オズボーンからこの関係について問われたカラヤンは、同様の感想を述べている。
『ブルックナーとシベリウスのどちらにも、原始的な感覚が感じられます。しかし、私はしばしばシベリウスの音楽に惹かれたのは何なのかと自問自答してきました。そして、それは彼が他の誰とも比較できない作曲家だからだと思います。…そして、彼に夢中になると、決して飽きることはありません。おそらく、それは私が僻地を愛し、都市よりも山を愛する気持ちと関係があるのでしょう。』
しかし、カラヤンのシベリウスの音楽の解釈に対する最も強力な評価はシベリウス自身からのものであり、レッジによれば、彼は「カラヤンは私が意図したものを演奏する唯一の指揮者だ」と語ったという。
カラヤンは多作なオペラ指揮者でもあり、ワーグナー、ヴェルディ、リヒャルト・シュトラウス、プッチーニの作品を積極的に指揮しました。ヴェルディの最後のオペラ『ファルスタッフ』は、カラヤンのキャリアを通して、いわば主軸となる作品でした。オズボーンとの会話の中で、カラヤンは1930年代、オーストリアとドイツでイタリアオペラがまだ珍しかった頃のことを次のように回想しています。『
ヴェルディの《ファルスタッフ》の訓練はトスカニーニから受けました。ウィーンでもザルツブルクでも、私が立ち会わなかったリハーサルは一度もありませんでした。30回くらい聞いたと思います。トスカニーニからはフレージングと歌詞を学びました。しかも、常にイタリア人歌手と歌いました。当時のドイツでは考えられないことでした。楽譜を開いたことは一度もなかったと思います。耳にすっかり馴染んでいたので、すぐに覚えてしまったのです』
・没後の1995年に発売された「アダージョ・カラヤン」はラテン系諸国を中心に大ヒットを記録、ヨーロッパ、日本でも売られアルバム年間売上第1位となる
・ベルリンフィルとのラストコンサートは、ザルツブルク復活音楽祭でのヴェルディのレクイエム
・生涯最後の録音と演奏はウィーン・フィルとのブルックナーの交響曲第7番の録音。 逝去前日に行った夏のザルツブルク祝祭大劇場でのヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」のリハーサルだったといわれている
・カラヤンがオーケストラと共に築き上げた音響文化は、努力の上に築かれたものだと、仲間のウルリッヒ・エックハルト(Ulrich Eckhardt)はドイツラジオ・クルトゥールで強調した。カラヤンは自身を指揮者とは考えていなかったが、常に「私はカペルマイスターであり、それは職人技を意味する」と語っていた。ベルリン・フェスティバルの元ディレクターによると、これはカラヤンの人生と作品におけるパラドックスをも象徴しているという。
「彼は魔術師、支配者とみなされており、本質的には音楽に仕える非常に謙虚な人で、プロの職人技であらゆることに熱心に取り組んでいました。」
実際、カラヤンは「内気で孤独な人」であり、その音楽的美の理想は19世紀に根ざしており、エックハルトによれば、その時代においてさえ「早世した」人物だったという。
「しかし、それは矛盾でもあります。一方では、彼は伝統主義者でしたが、他方では、あらゆる新しいもの、特に新時代が彼に提供したあらゆる技術的な可能性に対して非常にオープンでした。」
今でも、新たな録音が発見されると、「彼が達成した音質」に驚かされるとエックハルト氏は語った。
6.初演