小澤征爾物語シリーズ-7-成城中3年-桐朋女子高等学校音楽科‐同短期大学
山本直純から指揮のレッスンを受ける
1950年(昭和25年)15歳 成城学園中学3年
・弟の幹雄が一年生として成城中学に入学してきた。
・秋、一家は世田谷区代田へ引越した。
・指の怪我でピアノを弾けなくなった征爾だが、音楽はやりたいと思い、成城に昔からある男性合唱団「ユーロ・カステロ」に行きロシア民謡や黒人霊歌などを歌っていた。
うねるハーモニー、アクセント、リズム、指揮で音楽が変わることを経験し衝撃を受けた。
『指のケガでピアノが弾けなくても、音楽はやりたい。中学3年の時、同学年の安生慶と2級下の女の子たちで賛美歌を歌う合唱グループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも入った。僕が初めて指揮したのはこのグループで、今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。』
授業が終わると中学の音楽堂に集まって練習をはじめた。
征爾が指揮をしたのはこのときが初めてであった。
・12月23日兄に連れられ日比谷公会堂の日響コンサートで、ピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの《ピアノ協奏曲》「皇帝」を弾きながら指揮しているのを聴いた。
『ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ! と思った。
でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。そんな様子を見ておやじはこっそり、担任の今井信雄先生に相談したらしい。
先生は3年間ずっと受け持ちだった。学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。
「彼はピアノより指揮者の方が向いています」。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。』
・作曲家か指揮者になることを決意した征爾。
母に相談したしたところ “うちの親戚に指揮者がいるよ” と教えてくれた。おふくろの伯母のおとらさんの息子がチェロ弾きで、指揮もやるという。名前を斎藤秀雄といった。
親戚の指揮者とは(はとこ)にあたる斉藤秀雄である。
・斉藤秀雄の祖母の前島久と母さくらの祖父大津義一郎が実の兄妹。斉藤秀雄の父斉藤秀三郎は、正則英語学校創設者で一高の教授、「サイトウ英和大辞典」などを編纂した
・征爾は母の紹介状を持ち弟子入りしようと、ひとり斎藤秀雄家を訪れた。
・斉藤秀雄は今手いっぱいは教えられないから ” 1年後に創設する普通高校の桐朋に音楽科を設けるから待ってそこに入りなさい ” と征爾に言った。
1951年(昭和26年)16歳 成城高校1年
・家賃が払えなくなって一家は世田谷区経堂の東京農大の校舎に住み着いた。父開作の知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれた。
・成城中学卒業後、成城学園高校に進学し、一年間待つことにした。
・当時、山本直純は東京藝術大学の入試に失敗(藝大はコールユンブンゲンは60点以下はだめなのだ。山本は自分が失敗するなんて思いもしなかったと言っている。絶対に入ると受験生の間で知れ渡っていた山本の失敗は大ニュースになった。山本は自分は音痴ではないかと考えるようになってしまったという)した山本直純(18歳)は、斉藤に言われ、征爾の家に週一回行き一年間、指揮を教えることになる。
山本は以前斉藤に桐朋に指揮科が出来るから入らないかと言われていた。山本は一浪しておりこれ以上大学を遅らすことは出来ないと思い藝大を選ぶことになる。
・「小澤征爾と山本直純との出会い」
その間、征爾は柴田南雄に作曲、小林福子に聴音を、斉藤秀雄の弟子の山本直純に指揮の基本を教わり、月二回斉藤秀雄に見てもらった。
✳『この年から一年間ナオズミは小澤征爾の家に週一度出かけて、成城学園高校一年生の小澤征爾に斉藤秀雄の指揮法の基本を教え始める。
小澤はインタビュアーに語る『弟子入りを志願した時に、斉藤は”今手いっぱいで教えられないから、しばらく山本直純という人に教えてもらいなさい”と言われた。これが直純との出会いです。当時、直純さんはすでに斉藤先生に師事していて、いわば僕の兄弟子でした。週に一度家に来て、一年間指揮を教えてくれました。』。
斉藤指揮教室は、Aクラスの生徒がBCクラス生徒の下練習を受け持っていたからそうなったようである。ナオズミは小澤に教えるに、「今日はこの曲をやろう」と言ってまず、二人でピアノを弾いて、互いに指揮をする。するとナオズミが「お前の問題点はここだな」とすぐに見抜いて、そこを重点的に練習する。大事なことしか教えないから、レッスン時間が短い。』世界の小澤に指揮を最初に教えたのは斉藤秀雄ではなく山本だった。
↓山本直純については以下のアドレスから
https://history-of-music.com/naozumi-yamamoto
〈斎藤秀雄について〉
・斎藤秀雄は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「せんにゅう」「はねあげ」などにわけ、どの動きもいつも力を抜き、どこで力を入れるか厳密にきまっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなければならない。”歩くときに坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?”と斉藤秀雄は言う。
・征爾は動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。周りの視線にも気づかないぐらい集中していた。
・斎藤秀雄は戦後、吉田秀和、柴田南雄、井口基成、伊藤武雄、井口秋子、井口愛子、畑中良輔、石桁真禮生、別宮貞雄、遠山一行らと市ヶ谷九段の東京家政学院が提供してくれた窓ガラスが割れた戦後のボロ校舎で「子供のための音楽教室」を土曜の午後だけソルフェージュ、音感教育、合唱練習を教室で集団授業として基礎から音楽を教えていた。あとのピアノや弦楽器の個人レッスンは都内各所に散らばった先生たちの家に通ってもらう。弦では鷲見三郎や小野アンナらも加わった。その成長を待ち兼ねるように斉藤は合奏訓練を始めた。後の桐朋学園オーケストラに発展してゆく。同時に指揮者の卵たちのまたとない実践訓練の場となった。その前から斉藤は目白の自由学園にも「斎藤秀雄指揮教室」をやっており両方の教室で多くの門下生を輩出させた。
山本直純、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、井上道義、飯森泰次郎、岩城宏之、紙屋一衛、久山恵子等々、弦では岩崎洸(チェロ)、菅野博文(チェロ)、倉田澄子(チェロ)、塚原みどり(チェロ)、堤剛(チェロ)、徳永兼一郎(チェロ)、林峰男(チェロ)、原田禎夫(チェロ)、平井丈一朗(チェロ)、藤原真理(チェロ)、堀了介(チェロ)、松波恵子(チェロ)、安田謙一郎(チェロ)、山崎伸子(チェロ)ほかにヴァイオリンも教えた。
・吉田秀和は語る『それはまだガダルカナルやラバウルの攻防(1942年頃)が激しいころで、ある夜、斎藤秀雄さんに呼ばれていってみると、"戦争がここまで来ると、東京はきっと空襲され、ひどいことになる。いまから日本にある楽譜だとか特別高価な楽器だとか、大切なものはどこか安全なところに移しておかないと、戦後当分何もできなくなる。よく考えて、実行してちょうだい。" といわれてびっくりした。それがどういう事態を意味するのか、考えも及ばないことだった。
戦後終わって、彼が私の家を訪ねて来た"子供のための音楽教育を始めるから、手伝ってほしい。今はろくに食べるものもないけど、そういうことは何とかなるよ。人間は食べないでいられないのだから。大事なのは、次代の教育だ。今度こそ、日本で音楽をやるんだ。それには、今が最適の時"と彼は言った。何日がかりで、しつこく口説かれ私は落城した。彼の基本理念は音楽早教育。"音楽は言葉と同じで、小さい時から始めれば始めるほど、無理なく、そうして、上までのぼってゆかれる。教育は五歳から始めてよいそうだから、われわれの学校は五歳から、おそくとも小学生までとする。"というもの。私は気に入った』。
1952年(昭和27年)17歳
渋谷区笹塚に引っ越す
4月桐朋女子高等学校音楽科1年に入学
『1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は4人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。』
4月8日成城高校を1年で中退した征爾は、新設された桐朋女子高等学校音楽科指揮科に入学した。
第一期生女子生徒42名、男子生徒4名(村上綜/声楽科、林秀光/ピアノ科、堀伝/ヴァイオリン科と征爾/指揮科が入学した。先生一人に生徒一人という教育がはじまる。
・征爾は道を歩きながらでもメロディを口ずさみ両手
を振って指揮の練習をしたという。
征爾は忙しかった。斉藤秀雄に桐朋の学生オーケストラの雑用を一切任され譜面台や楽譜の手配、椅子並べ、パート譜の印刷校正と次から次にやることがあった。指揮の勉強もあり休む暇がなかった。
『楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ』
『土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。
先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。』
『高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。』
・成城中学ではじめた合唱の練習は、桐朋音楽科に入ってからも続いた。征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた。
『斎藤先生の自宅ではめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ~」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。あまりの剣幕(けんまく)に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き
分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。』
・土曜日の午後は「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習があった。夏休みになれば北軽井沢で合宿した。地元の小学校を借りて一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いてねた。
https://www.tohomusic.ac.jp/about/history.html
桐朋学園音楽部門の歴史、第一期新入生の中に若き小澤征爾が写っている(最後列)
1953年(昭和28年) 18歳
桐朋女子高等学校音楽科2年進級
征爾は語る『斉藤指揮教室で斉藤先生が直純のレッスンの時に、彼の楽譜を見ながら指導していました。レッスン後、"この楽譜の書き込み、僕も勉強になった。ありがとう”と真剣に直純に礼を言っていたのです。そのくらい、斉藤先生が山本直純をすごく認めているということは、みんなよくわかっていた。一番音楽的な信用があり、そして先生から音楽の才能に対する尊敬を受けていました。』。
この年、山本直純は藝大作曲科に入学した。斉藤秀雄と山本直純のレッスンは山本直純が藝大を卒業するまで続いた。
1954年(昭和29年) 19歳
桐朋女子高等学校音楽科3年進級
・桐朋音楽科学生オーケストラもできたばかりで人手がなく、征爾はひとりでみんなの譜面台や椅子の手配からパート譜の印刷まで一切やっていた。
・毎年夏休みになると、北軽井沢にある斉藤の別荘の近くにある小学校を借りて、オーケストラが合宿練習をやっていた。合宿にはオーケストラのメンバーの母親たちが大勢参加し、征爾の母さくらも行った。練習も寝泊りも村の小学校の教室を使った。合宿の最期にその小学校の生徒たちにお礼の演奏会を開き征爾は指揮をした。
・桐朋オーケストラの練習曲はバッハ《シャコンヌ》、チャイコフスキー《弦楽セレナーデ》、Jシュトラウス《こうもり》序曲が多かった
・征爾は仙川の桐朋音楽科の放課後、神代書店の前から都立神代高校の前を通り、坂を下り入間を通って三十分ほど歩いて成城に通って合唱練習を続けた
高校三年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハ《シャコンヌ》を振ることになり、斎藤秀雄はオーケストラ用に編曲した十数分の曲を半年かけて征爾に教えこんだ。
征爾は語る『バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも”一番音域が広いここが音楽の頂点”というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでヴァイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いたとき、《シャコンヌ》が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。』
『先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。』
・卒業公演の《シャコンヌ》は山本直純、岩城宏之も聴きに来て、終演後に”感動した”と言ってくれたのが征爾には嬉しかった。
桐朋学園女子高校付属音楽科指揮科卒業
1955年(昭和30年)20歳
桐朋学園短期大学音楽科1年入学
出来たばかりの桐朋学園短期大学音楽科の男子生徒は四人だけで指揮科は征爾一人だった。
5月中旬頃、小澤の指揮する桐朋学園オーケストラの練習風景を、来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアのメンバーと指揮者ワルター・ヘンドル等数人が見学しに来た。
5月来日中のシンフォニー・オブ・ジ・エアの公開練習を斎藤秀雄に言われて聴きに行き響きの違いに衝撃を受ける。曲目はブラームス《交響曲第一番》とほかのリハーサルであった。
・音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかないと征爾は心に決めた。
同期の江戸京子や桐朋の仲間たちは次々と留学して行き、征爾はいつも羽田空港で見送った。相変わらず斉藤秀雄のカバン持ちとして雑用に追い立てられる毎日を過ごしていた。征爾はその間、斉藤先生宅の個人レッスンや桐朋の学生オーケストラの指揮練習に明け暮れた。
・川崎市幸区戸手町に引越す
1956年(昭和31年) 21歳 短大二年
・桐朋学園短期大学音楽科二年の頃、斎藤秀雄の厳しいレッスンと学生オーケストラの激務のため、神経性の十二指腸潰瘍に悩まされ、固いものが何も食べられないことがあった。
・この年日本青年館で征爾は、桐朋学園オーケストラを指揮してチャイコフスキー《弦楽セレナーデ》を振った
・毎年秋の「毎日音楽コンクール」が開かれ、征爾は応募した生徒からコンクール予選でのピアノ伴奏を頼まれていた。その練習は家でも行われた。
・暮れ、中学時代の仲間で作った成城の合唱団「城の音」のクリスマス音楽会のあと、恒例のキャロルに出発した征爾は手にローソクを持って讃美歌を歌いながら歩いた。数日前から風邪気味だった征爾は翌日から高熱を出し肺炎に罹ってしまった。年も明けた1957年になっても起きられず卒業目前に長期間欠席してしまった。そのため卒業試験の幾つかを受けることができなかった。
1957年(昭和32年)22歳 卒業見合わせ
・桐朋学園で指揮と作曲の両方で一等賞を受賞し、NHKと雑誌「音楽の友」の邦楽の「傑出した才能」に選ばれた。
3月迎えた卒業式でなぜか征爾の名前は呼ばれなかった。あるはずの卒業証書もない。留年していたのだ。しかも誰も教えてくれなかった。
・暮の肺炎ダウンで単位不足となり一人だけ卒業できなかった。そうとは知らず母さくらも着物で晴れやかに卒業式に出席した。
母さくらは泣きながら帰って行った。母は卒業式前日に行われた謝恩会の役員を引き受けていたのだった。
・声楽の伊藤武雄先生が『いいんだ、卒業なんかしなくたって』と慰めてくれた。また学費を払うのにアルバイトをしなければいけなくなった。
しばらく伊藤武雄先生の紹介で日本橋の三友会合唱団指揮者となった。征爾はこの合唱団の常任指揮者を数年勤め、全国合唱コンクールにも出場した。
また斎藤秀雄先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオーケストラを指揮した。北海道演奏旅行では指揮者を担当した。卒業してからも桐朋の助手として残り、斉藤秀雄のカバン持ちのようにして、いつも先生と行動を共にしていた。
7月28日 「1000人の大合唱」
小澤征爾 群馬フィルハーモニーオーケストラ(現:群馬交響楽団)を指揮
赤城山頂大沼湖畔
・夏まで桐朋学園音楽短期大学で斎藤秀雄に指揮法を師事し中学三年から始めた指揮の勉強でオ-ケストラを仕込む技術を身につけた。
7月卒業を許可された。
12月設立間もない日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル《子供と魔法》で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務めた。
「斎藤秀雄歴史年譜」
「Hideo Saito historical chronology」